8話
レインを連れて急いで宿屋に戻ってきた。もうさきほどの追いかけっこも合わせて息も絶え絶え、限界まで力を使っているようにも思えた。それでも仕方ないくらいに焦っていた。どうやらこの宿の主人の女性は買い物へと出かけて行ったようだった。もう夜になりかけた夕空と星空の真ん中の時間帯。光差し込む廊下をずっと走った先。
そこには一面うごめくようなあの黒い模様が走っていた。
レインがさっと立ち止まってその模様を指でなぞる。この模様の正体を知ろうとしているようだった。だがイヴリンに立ち止まっている余裕などはなかった。扉を体当たりするようにして開けて中に転がり込む。勢いよく入ってしまったがために宙に浮くようにして転んだ。何回か転げた後に身を起こし部屋一面を見渡す。もう別世界かと思うほどに壁も、天井までも黒く染まっている。まるで渦巻くように全てをのみこんだその真っ黒の中はねばついたものが足をとる。底なし沼のぬかるみのようなその中を歩いてイヴリンは急いで探す。
白い棒のようなものが見えて力のかぎりそこへ駆けよって引き上げてそれを背中に背負う。イヴリンよりいくらも軽そうな見た目をしていながらも皮膚や筋肉ではないもので出来たそれはひどく重く人工的に思えた。足元をつかまれながらも部屋の外に出るとレインがめいいっぱいイヴリンをひっぱって黒い沼から追い出す。もとのやわらかなフローリングの床を頰に感じながらもう一度身を起こして運んできたものの肩を揺らす。
「おい!起きろ!」
彼女はぱちりと目を覚ました。
「はい。」
「はいじゃない!大丈夫かお前!」
アルフレッドが何度か瞬きをした後信じられないといったような表情で二人の男の姿を見ていた。そして手を確認するようにゆるゆると動かしもう一度驚いたような表情で頰をぱちぱちと叩いた。
「夢を…」
手の平を頰につけたまま、
「夢を見ていたらしいんだ。」
その一言に思わずため息をつくイヴリン。こんなに必死こいて走って帰ってきて助けたというのにぐっすり寝ていましたという宣言。本当に死んだのかと思って心配したというのに。しかしどうやらそういう気の抜けた意味ではないらしく説明するように付け加えた。
「本来私達、自動人形は夢というものを見ない。睡眠をとらないのだから当然そうなんだけれど…それでもあれは『夢』だった。錯覚の類だと思うんだけど…。」
「それは錯覚じゃなくて、本当に夢さ。」
手を黒い部分に突っ込んでそのどろどろしたものを手に溜め込んだレインがそう断言する。そのどろどろは彼の手の中で溶けるように消滅していく。しばらく考えていたその男はもはや凡庸な旅商人なんかではないことは明らかだった。この世ならざる姿通りのなにか自分達と遠く離れたなにかにすら思える。
「これは『夢魔』の残り香だね。」
夢魔。つまり夢の化け物。インキュバスやサキュバスの淫魔のことを指す場合もあるが今回の場合は本当に夢に関するマモノということだ。これでアメリアが睡眠時に黒い模様を広がらせていた理由がわかった。彼女が寝ている間だけその『夢魔』は彼女を抜け出し幅をきかせていたということ。
「私さっき黒い…なんでしょう、人間なにかわからないようなだけど生き物であることは明確なこの黒いどろどろの塊を見ました。エミリアさんの横に立って…。」
そこまで言ってはっと大事なことを思い出したと言わんばかりに顔をあげた。
「エミリアさんはどこに行ったんでしょうか。」
ばっと立ち上がって窓を開けてみると黒い足跡がぺたぺたと続いているのがわかった。小さな足跡はうら若きエミリアのものであると言っているようなものだった。これを辿れば彼女を探し出すことができるかもしれない。窓を開けて外の風を感じているとポケットからなにかが落ちた。さっき見た封筒だ。
「そうです。彼女の近くにこの訃報が落ちていて…」
逝去の字を見たときに沼に引きずりこまれてしまったために全文は読めていなかったのだった。失礼ながらも封を切り手紙をひろげようとしてみるとイヴリンが心配そうな顔で見てきた。その意味がわからずそのまま全文を読む。そしてそこに書いてあった故人の名前に思わず驚きを隠せず手紙を落とした。
『ご息女、エミリア・ローレンス様のご逝去に際してのご連絡』
覚悟していたのだろうがその一文を見たイヴリンも思わず唇を噛んで衝撃を隠せないようだった。呆然とする二人は顔を見合わせてしばらく動けなかった。ただ次の瞬間思い浮かんだのはエミリアの安否だった。ここに足跡がある以上おそらく成仏したということがないだろう。それに封が切られていなかったということは彼女はこの事実をまだ知らないということ。
「封筒、もう一枚あったんです。これを私が持っているのなら彼女はもう一枚のほうを手にしているかもしれない。その内容は…わからないけれど。」
「それならちょっとチコに強引にだけど教えてもらったよ。」
レインが真面目な顔で切り出した。雲で翳った夕陽の明かりが彼の顔半分を照らし出す。ひどく深刻そうでまずいといった表情のまま。
「もう一枚は彼女の母親が亡くなった、ある場所で人間に投与された病に伏して亡くなったという訃報さ。」
彼はずかずかと二人に近づくと二人ともの首根っこを掴んで窓から放り投げた。もちろん足跡のあるあたりにだ。窓から顔を出してひどく低い落ち着いた声で導くようにしゃべりだした。
「急いだほうがいい。この夢魔は生前なにをしたのかはわからないが只者ではない魔力を有している。それが彼女の悲しみと結託すれば母親を殺したような人間に復讐を考えてもおかしくはないんだ。」
アルフレッドとイヴリンは再び顔を見合わせて一度だけゆっくりと頷くと黒くふらふらとよろけている足跡を追って走り出した。まだ彼女を救えるというのなら、あの時おかしそうに笑ってしまった彼女を救えるというのなら。
まだ走れる。
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