5話
それから3年後のこと。
イヴリンは少しだけ背丈がのびて、少しだけ声も枯れてきた。声変わりが近づいているために最近は喉が気持ち悪くちょっと喋りたくない時もある。
街の教会の合唱に誘われた時はとてもじゃないが地獄を見たような。
まだまだ成長を残していた頃である。
今は小さな学校に行きながら仕事を両立させる毎日だ。
本当は学校には行かなくてもいいとイヴリンは決め込んでいたのだが、祖母の強い言いつけにより学校には通うことになったのだ。
曰く『そこまで気を使われるほど婆じゃない』と。
その言葉に計り知れないほどの愛を感じて、それが彼女のためと思って学生が非常に少なく募集を積極的にかけていた学費の安い小さな学校に行っている。
授業は他の学校に比べるとかなり遅く使える器具なども限られているがそれもまた好都合のうちだった。もし学習スピードが速ければ仕事と両立することが難しく毎日苦しい思いをするところだったから。
学校の勉強はそれなりに楽しかったし学友も善良な人達だった。
仕事は荷物運びの仕事をしている。
時給はそれなりに安いほうだが四則計算さえ出来れば学は必要ない。幼いイヴリンであってもそれなりの数をこなすことはできる。
前は運び屋のギルドに所属して稼いでいたのだが今のギルド長がイヴリンのことをよく思わない人間で冷遇を受けたために一時危機にはあっていた。
そこに蜘蛛の糸を垂らしてくれたのは前ギルド長のギフェンという男だった。ギルドを辞めることを勧め、今の常連客のほとんどはギフェンのツテで回されてきた仕事が多い。そのため仕事に難儀することはない。
この日は少し珍しいギフェン当人からの依頼で荷物を運んでいる途中だった。
現職は荷物運びの仕事を仲介する荷物運びという訳ではなく彼の本業は商人であるわけだからおかしくはない。
今日は西の方で商売するときの商品の整理ということだった。
「ほらほら、頑張って運びたまえ。小柄だと言って言い訳にはさせないよ。」
からかうように前を歩く皺のより始めた中年男性。
流石に元は力仕事をしていただけはあってその足取りにのろくささは一向に感じられない。いつまでたっても衰えないのだ。
背中にのしかかる立方体のなにかを恨みながら出来るだけ速く歩く。
急に目の前の元上司がなにかまずいものでも見たかのように立ち止まった。
それも一瞬に右手をひょいとあげた。
「やあ、レインじゃないか。」
その目線の先には不思議な商人らしき男がいた。いや身長を除けば男かどうかも一瞬だと見分けがつかないかもしれないと思うほど中性的な美しさがあった。
彼は往来の真ん中に立って同じように左手をあげた。
商売仲間か、それにしてはギフェンの様子がたどたどしい。
「久しいな。ここ十年ほどは見なかったが、どうしたんだ?」
「東の国をしばらく根城にしているんだ。」
ホワイトシルバーの髪を赤いリボンで束ねた少しだけ長い髪、それに加えて上着に羽織っているものはこの国ではみないものだった。袖が広くひろがったかわったローブはきっと東の国のものだろう。本当はその珍しさに目を奪われたかったのだがそれより先に向こうがずけずけと近づいてイヴリンの瞳を見た。
「あなたも不気味だと軽蔑するのか。」
その一言にその商人も我に返ったようにその小さな頭を撫でた。
灰の柔らかな髪が細い指に絡まる。
「そんなことは思わない。綺麗だなと思って。」
すっと手を離すとはぐらかすように微笑んだ。まるでこの世の者ではないなと思えるような見た目をしているなと思った。瞳だけに限って言えばイヴリンも人のことは言えないけれど。
「ギフェン。こんな子供を強制使役かな?」
「おいおい!冗談きついぞ…俺は雇い主だけどこの子に無体を強いた事はない。」
「そうなのか?」
水面のような透き通った瞳がまたイヴリンを見る。これは自分に問うているのだと察知すると何回も頷いた。
「うん。ギフェンさんはいい人。学校のことも家のことも考えてくれる。俺は働きたいから働いてるんだ。それにこの人いなかったら僕は商売できないよ。」
事実ギフェンの気遣いはかなりのものだった。祖母との時間をできるだけ長くするようにある程度の夜の仕事はこちらに回さない。それに学校の教科書などが買えるようにこうやって特別報酬と題した当人からの依頼でちょっと高額な依頼金を出して年に一回受けさせる。口実がないとこの街では行政の取り締まりがなんとか言っていたが子供にはまだわからない話だった。
「そうか、嘘をついている様子はないね。」
「疑い深いなあレインは。俺も一介の温情あるやつじゃないか。」
「まあそうだね。同じ商人としては信用はできるかな。もしギフェンがいなくなったら俺がこの子をもらおうかな。」
「え。」
背中に背負った重そうな箱のような鞄を見て思わず難色を示した。あれは木でできているから余計に重そうだ、中身はなにが入っているのだろう。薬師とかなら軽くてよかったが、本屋だったりしたら。過去の体験を思い返して思わず顔をしかめた。
「おっと!こいつはしばらく俺の息子みたいなもんだぞ!」
「わかってるよ。随分となついてるみたいだしね。じゃあ行くよ。」
首元にかけていた首巻きを持ち上げて鼻の頭くらいまで被せるとまた左手をあげて歩いていく。その後ろ姿を目で追いかけていたのだが不思議なことに人混みに紛れた途端に見失った。あの男はなんだったのだろうと思っているとギフェンが大きなため息をついた。
まるで緊張の糸が切れたかのように苦笑いすると一言提案した。
「休憩するか、イヴ。」
街はずれの教会の石段に座り水を飲む。流石に肉体労働なのでこういうときの冷水は身体に染み渡る。
「あのひとは何の商売をしているひとなの。」
「え?レインか?…うーん俺もよくわかってはないんだけど『行商人』としか聞いてないからな。いつもどこにいるのかわかんない奴だよ。」
「へえ。」
会話の種を見失った。
その時教会の壁に貼ってあったポスターが目に入った。それは今年もまたリリィフェスティバルが近づいてきたということ、そして『勇者』の選考が始まったというのを知らせるものだった。それに気づいたギフェンが乾いた笑いをこぼした。
「『勇者』、気になるのか。」
「気になる。」
「毎年いっちゃあ行方不明の連続だよな。行ってる意味あるのかね。」
「ギフェンは詳しいこと知ってるの。」
「まあ知らないことはないよ。」
立ち上がったギフェンがポスターの一枚を剥ぎ取って睨んだ。
まるでなにか思い出があるかのように。
普通こういうところでは後を聞かないのが正しいのだろうが、幼いイヴリンは知的欲求をおさえることはできない。前にのめりこんで話を続けたがる。
仕方なくギフェンもまた座って静かに息を吸った。
「…俺は昔、ブリティシュア帝国騎士隊の少佐だったからなあ。」
「えっ。すごい。なんで今商人を始めたのっていうくらい。」
ブリティシュア帝国騎士隊というのは名前の通りこの国お仕えの騎士達のこと。地方からでも技能さえ優れていれば厳しい入隊試験を受け入ることができる。要するに叩き上げの集団で実力第一の実戦部隊。給金も商人の比なんかじゃない恵まれたものだと有名である。
「別に嫌いになったわけじゃないよ、剣術が。確かに金も十二分だしな。だけどやっぱし俺もやりたいことがあったのよな。」
「やりたいこと?」
「剣より商売で誰かと喋りたかったのさ。誰かとちゃんと話して。きっとそっちのほうが鍛錬場で大剣振り回してる時より世の中のタメになるんじゃないかって。俺頭悪いから一回そう思うと突っ走って気がついたら隊を辞めてた。」
無謀で考えの浅い、正直なままの行動。お金より誰かの幸せを考える。それが商人になったとき掲げた心情だって言っていただろうか。ありふれた言葉だけどそれはとても心に響いたことを覚えている。そしてそんな綺麗事を言えてしまった彼だからこそたくさんの客がついてその客もまた彼を信頼している。こんな不気味な瞳を持った少年に対してなにも軽蔑せずに仕事を任せる人間ばかりだ。
「お前、金がいるなら大人になったら騎士隊に入れよ。金だけは稼げるんだ。俺が言うんだから間違いねえよ。」
地面に置いたポスターをイヴリンが拾い直した。そして一点の字だけを見つめている。やっぱりいつまでたっても憧れてしまうのだ。
絵本の中で戦い誰かの幸せを祈ったあの『ゆうしゃ』のことを。
ひらりひらりと身をひるがして敵を捌いていく『ゆうしゃ』のことを。
絵本だとはわかっていてもいつまでたっても頭の中でイヴリンを静かに勇気付けるいくつもの絵本のあの『ゆうしゃ』達のことを。
「騎士団には入らない。」
「はは。まあ俺の話聞いて入りたいってのも言いづらいか。」
「僕…」
強くその張り紙を握りしめて立ち上がり、空を見上げた。ぶわあっと祝福するように風が吹き荒れて柔らかな髪の毛を荒らした。瞳に夕陽の光が反射して三日月と夕陽が共に生きるようなその光景にギフェンは見惚れた。
「『勇者』になりたいよ。」
瞳に涙が溜まって揺れた。
そしてその強い一言でギフェンもはっと気付かされた。この少年は細く周りの同い年の少年よりいくらも小さい。見た目だって勇ましいというより可憐だとか儚いとか美しいといったほうが似合うくらいだ。どれだけ盛ったって歴代の勇者の半分くらいの体格でしかない。だけど心は…その想いは。誰にも負けないくらいの者にちがいない。そしてこうも思ってしまったのだ。この想いを持った人間が勇者になればどれほど誇らしいかと。
「大剣しか使えないけど…それでもいい?」
何年も捨てていた剣を彼のために取るのなら。お金より誰かの幸せを、彼の幸せを。結果がどうなるかなんてまだわからないけれど彼の一番のフォロワーになりたいと願ったギフェンの口からはぽつりと志願の声が出た。
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