3話
次に空を見たのは墨染の空の時間だった。正座をしてただその空を眺めていた。
もう何時間こうしているかもわからないままだった。
二人は家に帰れたのだろうか。
フェンスの向こう側にたくさんの灯りが見えた。あれはカンテラだ。村の人間かはわからないが人がぞろぞろと蟻の行進のようにして歩いている。リリィフェスティバルの準備かとも思ったがこの道沿いにそんなたくさんの人が帰路に使っているとは思わない。ならばなんだろうか。その考えもすぐに夜の闇の中へと消えていった。
金属を踏みつけるような音が聞こえたからである。
その音は今日も聞いたし、何回だって聞いたことがあるものだった。
上限の月だけが照らすこの区画内に入ってくる人物。
その人物の瞳の中にもまた二つ目の夜空が投影されている。
たかたかと走ってきた彼はすとんと女性の横に座った。もう絵本は持ってきていない、代わりに膝に絆創膏をひっつけて帰ってきたのだ。
「痛くないの?」
これは女性が聞いたのではない。
イヴリンがひどく心配そうな顔をして聞いてきたのだ。
その言葉ではっと思い出した、先ほどあの男から受けた乱暴の跡が残ったままだったのだ。爪痕でぱっくり削れた二の腕部分を見て首を横に振った。
「私はなんともない。イヴリンのほうが…」
「持ってきたんだ。」
ポケットから絆創膏が3つひっついたものを取り出す。そっとその手を包んでもう一度拒否の意思を伝える。私は怪我も痛みも覚えないから大丈夫なんだと言い聞かせる。渋々それを仕舞うとぽつぽつと灯りが歩く向こう側を見て話し出した。
「今日はルナの家でパーティなんだって。お父さんが政府の狩人になったらしくて…すごいことなんだって。よくわからないけどこの村ではあんまりないことなんだって。だからたくさん大人がくるんだって。」
「すごいね。だからあんなにたくさんの人達が。」
「うん。ルナはなんだか嫌みたいだったけど。」
大人が集まっている、つまりは単純なお祝いパーティというわけではなさそうだ。そしてその確信は次に呟かれた落胆のからんだ声によってもたらされた。
「俺もルナんち行ったんだけど、つまんないんだ。みんなルナのお父さんにおめでとうはちょっとだけで。自分のことばかり。」
「それで帰ってきたの?」
こくこくと首を縦に振る。この田舎町でようやく現れた栄転への足がけ。正直本人への祝福より自らの野望を前に押し出す人間だって少なくはない。さしずめあのカンテラの多くは村民の欲望の火ということなのだろう。ルーネイティアが哀れに思えた。父親想いの彼は誰よりも誇らしく祝福しているはずだ。それなのに大人の事情を味わされるのだから。
「お家には帰らなかったの?」
「…」
イヴリンが小さく息を吸った。
「バア、病院なの。運ばれちゃった。お家帰ったら隣町の病院のひとがきてて馬車で運んで行ったの。…寝てただけなんじゃないかな。」
「…」
家にひとりぼっちは流石に嫌だったか。
年にしては落ち着いたこの子供の年齢相応な部分を見たような気もした。もしかしたら絵本に憧れて真似して強がっているだけかもしれない。流星がしゅうっと過ぎていった。
「あ!流れ星!」
ぎゅっと手を合わせて目を閉じた姿に首をかしげる。すると必死になって身を乗り出して人形に訴えかける。
「流れ星が過ぎるまでに三回願い事を言うと叶うんだよ!絵本で前読んだんだよ!ほらこうやって手を合わせてお願い事をすればいいんだ!」
「流星の降下速度はね…」
一緒にやろうと目を輝かせて見つめてくる。それに思わず言おうとしたことを遮られた。あれは宇宙で出た塵芥やらが大気圏で燃え尽きてるんだよとか、目視の速度とか、人間が三回願う速度がどうとか言うべきではないと思ったのだ。こんな想いははじめてだった。ただ胸の前で同じように手をあわせることだけが今したいことだった。
「なにお願いしたの?」
「えっと、私にはお願いなどはないのでイヴリンの願いが叶うようにと…」
私はなにをしているのだろう、人形は自虐的に思考しつつ誤魔化すようにイヴリンに聞き返した。
「イヴリンは?」
「え、えと。助けたいなって。」
「助けるって?」
「わからないよ。でも幸せになってほしいなって。み、みんなね!みんながみんな仲良く誰も嫌わないで好きでいてほしいなって。」
村八分のような目に遭いながらも少年はただ純粋にそんな優しくて暖かい願をかけたのだった。女性はどうしたらいいかわからなかった。でもそんな姿を見て誰かを思い出したのだった。ああそれは。
「まるで絵本の『勇者』みたいだ。」
「えっ僕?」
「そうだよ。そんなに強い君は…そういえばそろそろか。」
リリィフェスティバルの近くだったはずだ、『勇者』の選考日は。
“勇者”
それは3年に一人ずつ選考されて着任する御役目。
ざっくり言ってしまえば絵本にもあるありきたりな役目である。
世界を救うためにその腕を奮う由緒と有望の任務。
このブリティシュア大陸は国難の憂き目に遭っている。
というのもここ数年で様々な障害が起きており、それは強力な魔力によるものらしい。この周辺でもいくつかの異常な事象は観測されている。空に七色の雷が走ったり、空に輝く一等星が激しく点滅したり。更には数年前に比べると年々気温が下がり続けていたりして。このままでは人間は絶滅するとさえ言われている。
そしてそれに一枚噛んでいると噂されるのが『魔物』。
その言葉の通りドラゴンやフェアリー、角が生えていたり翼をつけていたり人間とは遠くかけはなれた見た目と能力を持つ者達を総じてそう呼ぶ。そして現在『魔物』と『人間』はお互いを嫌い合い遠ざけ合う関係となっている。
その始まりはリリィフェスティバルの絵本の通り。遠い昔、“勇者”と“マモノの王になった邪神”が対立したことが起点。お互いに敵意を向け始めたその時にこのふたつの種族は対立することとなったのだ。『魔物』は人を食らうおぞましい者であると時の勇者も宣言を行ったほどらしい。
数年前までは両者の対立も冷戦状態の睨み合いのみとなっていたのだが、事態は急激に動き出した。大陸環境に影響を及ぼした『魔力』を学者が研究したところおおよそ超自然的なものであると結論を出したのだ。その力を使えるのは『魔物』のみ。“あおいゆうしゃ”によってその力と加虐を抑えられていたというのに遂に彼らの攻撃が始まってしまったということだった。
数百年に続けて鳴りを潜めていた『魔物』を奮激させたその要因として大きく掲げられたものは“邪神”の復活だった。“あおいゆうしゃ”によって封印されていた悪しき者がその封印を打ち破り再び『魔物』の王として君臨した。
再び訪れた“邪神”に対して政府は最終的にもう一度歴史通り“勇者”を生み出し封印を繰り返そうという魂胆で、今までに2人の勇者が送られてきた。個性こそはあれど強い意志を持った者達だったが2人はまだ帰還を確認されていない。それほどまでに危険な役目だが市民からの期待は厚い聖なる御役目とされている。
「ぼ、僕勇者になるよ!」
「え?」
勢いよく立ち上がったイヴリンは夜空を見つめてそう吠えた。絵本に夢を見たのか数年にわたって読み親しんできた“あおいゆうしゃ”に感銘でも受けて真似をしたがったのか。
少しして思わず女性はおかしそうに笑った。
それは彼女がイヴリンの前で初めて見せた笑顔だったのだ。
「無理だよ。」
「なんで。」
「“勇者”の特徴を知らないんだね。『亭々たる植物のような背、海を渡る鯨のように豪然たる力、天の聖なる神々に見初められる倦むことない精神』。あなたにあるとは思えないな。」
イヴリンの全身をじいっと見ながらそう教えてやる。
彼の身長は親友のルーネイティアどころか同い年頃の男子や女子よりもふたまわりほどは小さいしその腕と脚は白く細い。今日にあったように走る速度も遅くすぐに転んでしまうほどの貧弱さ。白百合のように明日をも知れないような端正な顔つきは“勇者”と呼べばたちまち笑われそうなものだ。
ぶーっと唇を尖らせて少年は地団駄を踏んで抗議した。
「むずかしいよ、そんな言葉。」
そのまま前に歩いて草原を突っ切って行く。今日はもう帰るらしい。人形はただその寂しげな背中を見送った。
「嫌い!」
その一言と一緒にフェンスを鼠のようにのぼっていく少年が少し心配になった。落ちないだろうか、その針金で足を怪我しはしないだろうか。その全ては杞憂に終わった。人形はひとり膝を抱えてまた夜空を見上げる。
この狭い庭であともう少し生きて行くとしてもそれは幸運なことだ。
あと何日こういう風に生きながらえるのだろうか。
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