後編

 駅前にタクシーが一台、駐まっている。


 俺は、タクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げた。


「星が丘マンションまで、行ってください」


 運転手は、戸惑った顔で、


「すみません。そのマンションは、ちょっと聞いたことがなくて。住所はどのあたりですか。」と言った。


 俺は、すぐに住所を言おうとした。が、それが出てこない。


(ああ、いったい、俺の頭はどうしちまったんだ)


「すみませんが、住所がわからなくて・・・。少し車を走らせてください。」


「わかりました。場所がわかったら教えてください」


 タクシーがゆっくりと走り始め、俺は、食い入るように窓の外の景色を眺めた。


(全然わからない・・・ここは、どこだ?)


 窓からみえる景色は、俺の記憶にまったくない景色だった。


 タクシーが5分ほど走ったころ、交番がみえた。


(そうだ、交番でマンションの場所を聞けば・・・)


「そこの交番で駐めてください」


 俺は、タクシーを待たせたまま、交番に駆け込んだ。


 交番には一人の男性警官が勤務していた。


「あの、道を教えてくれませんか」


 俺がそういうと、警官は、椅子から立ち上がった。


「あれっ、もしかして、ミズナミトオルさんじゃないですか?私、ファンなんです」


 俺は、心の中で、またか、と思いながら、「違います」と答えた。


「ええっ、そうですか。それは失礼しました。それで、どうされました?」


「お恥ずかしいんですが、自宅に帰る道がわからなくなってしまって・・・」


俺は、警官に自分のマンションの名前を伝えた。


「星が丘マンション?ウーン、このあたりにはありませんね」警官は困り顔で答えた。


「そんなはずはありませんよ。私、毎日この近くの駅から通勤しているんで

すから」


 そのとき、警官はハッとしたような顔で、俺のことをじっと見つめた。


「あの、名前を伺ってもいいですか」


「ええ、私の名前は、小野寺圭輔です」


 警官は、一瞬きょとんとした後、探るような目で静かに言った。


「『小野寺圭輔』は、あなたが主演しているドラマの役の名前ですよね」


 俺は、警官が何を言っているのか理解できなかった。俺は、生まれてからずっと小野寺圭輔だし、妻も子供もいる。


「何を言っているんですか、私は、小野寺です。何なら、免許証をみせますよ」


 そういうと俺は財布の中から運転免許証をとりだして、警官に差し出した。


 警官は免許証を見ると、

「ほら、やっぱりミズナミさんじゃないですか。私、『星降る街のクズ野郎』のファンで毎週録画して観てるんですよ。なんたって地元が舞台のドラマですから。今日は、この近くで撮影ですか」と言った。


 そのとき、一台のバンが交番の前に勢いよく入ってきた。一人の若い女性が降りてきて、俺のもとへ駆け寄ってくる。


「あー、いたいた!もう、撮影の合間に電車に乗ってどこかに行っちゃって大騒ぎだったんですよ!ほら早く車に乗ってください。まだ撮影は終わってないんですから」


 そのやりとりを観ていた警官が、心配そうに「大丈夫ですか?」と尋ねた。


「ご迷惑をおかけしました。ときどきこういうことがあるんです。ミズナミさんって役に入り込みすぎて、ドラマの中の世界と現実の世界がわからなくなることがあって・・・。仕事熱心ゆえの職業病とでもいうんでしょうか」


 そこまで言うと、警官にペコリと一礼し、「ホラ、早く」と言いながら、強引に俺をバンに押し込んだ。


 車に揺られながら、思い出した。


 俺は、「水波トオル」だった。

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かえりみち えびのしっぽ @shrimptail

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