かえりみち
えびのしっぽ
前編
「まもなく鶴山、鶴山」
車内アナウンスが鳴り響き、電車が減速しはじめたとき、俺の前の座席が一つ空いた。
俺は、空いた席に素早く腰を下ろすと、くたびれたビジネスバッグを自分の足下に置いて目を閉じた。
電車は、再び規則的な音を立てて進み始めた。仕事の疲れのせいもあってか、強烈な眠気が襲ってくる。このまま眠ってしまいたいが、次の駅で降りなければならない。
しばらく電車に揺られた後、俺は、人の気配を感じて目を開けた。
50代のサラリーマンらしき男が目の前の吊革を掴んだまま、俺の顔をじっと見ている。
男は、俺と目が合うと慌てて目をそらした。
(何だよ。席を譲れっていうのか。こっちも仕事で疲れてるんだ)
俺は、心の中で毒づいて再び目を閉じた。
すると、たちまち眠気が襲ってきた。仕事の疲れが相当溜まっているらしい。30歳を超えてから、疲れが取れにくくなってきた気がする。
(今日は久しぶりに早く帰れたから、俺が子供たちを風呂に入れてやるか)
そんなことを考えながら、駅に着くのを待った。
目を閉じていると、自然といろんな音が耳に入ってくる。
電車がレールの継ぎ目を通過する音、隣のバンドマン風の男のヘッドホンから漏れ出てくる音楽、向かいに座っている女子高生の話し声。
「ねえ、・・・じゃない?」
「え、マジ?」
「絶対そうだって」
「えー、違うでしょ」
俺は、なんとなくその会話が気になって、そっと目を開けた。
二人は、俺の顔を食い入るように見つめていたが、俺と目が合った瞬間、慌てて俯いてしまった。
(なんだよ。俺の顔に何かついているのか)
さりげなく手のひらで顔をこすってみたが、何もついていない。
俺は、周りを見回した。電車の中は、俺のような帰宅途中のサラリーマンやOL、学生らしき若者で溢れかえっている。
そのとき俺は、ハッとした。明らかに乗客のうちの何人かが俺の方を見ていた。
俺は、得体の知れない気持ち悪さを感じながら、バッグの中の文庫本を取り出して読み始めた。
内容が頭に入ってこなかったが、俺は、黙々と文字を目で追い続けた。その間も乗客の何人かの視線が自分に注がれているのを感じた。
「まもなく川名町、川名町」
車内にアナウンスが流れ、俺が文庫本をバッグに直そうとしたそのときだった。
「あの、失礼ですが、ミズナミトオルさんですよね?」
唐突に隣のバンドマンが小声で俺に聞いてきた。心なしか声が弾んでいるように聞こえる。だが俺は、ミズナミなどという男ではない。
「いえ、違います」
俺が素っ気なく答えると、バンドマンは、小さく「あ、すみません」と言って、スマートフォンをいじりはじめたが、どうも腑に落ちないらしく、チラチラと横目で俺の顔をみている。
そのやりとりを見ていた向かい側の女子高生が、
「ほら、やっぱり違うじゃん」
「でも、めちゃくちゃ似てない?まるで本人みたい」
と、話す声が聞こえてきた。
どうやら、彼女たちも俺のことをミズナミトオルだと勘違いしていたらしい。ということは、ミズナミトオルというのは、有名なタレントか何かだろうか。
俺は、電車を降りた。ホームには電車の到着を待つ人々が大勢並んでおり、俺はその間をすりぬけて改札に向かった。
すると背後から、
「ねえ、あの人ミズナミさんじゃない?」
「うん、絶対そうだよ」
という声が聞こえてきた。
(まただ……)
俺は、これまでの人生の中でミズナミトオルと間違えられたことなど一度もなかった。それが今日に限って、なぜか何度も間違えられている。
(そんなに俺と似ているんだったら、家に帰ったらネットで検索して調べてみるか)
そんなことを考えながら、俺は改札を出た。
そして、家族が待つマンションに向かって歩き出そうとした次の瞬間、俺の足はその場からぴたりと動かなくなってしまった。
後から改札を出てきた乗客たちが次々と俺を追い抜いていく。
心臓の鼓動が早くなり、背中に冷たい汗が流れた。
いつもの駅、いつもの景色。
それなのに、俺は、自分の家に帰る方法が全くわからなくなっていた。
(後編に続く)
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