After10 爆誕の葵にゃん!(伊織視点)

 僕は全速力で走っている。

 正門を抜け、すでに彩峰高校の敷地内。


 嫌な予感が止まらなかった。

 虫の知らせという言葉があるけれど、頭のなかで鳴り響いている知らせは今やオーケストラか交響楽団ぐらいになっている。


 今日は忙しくて、生徒会の書類をあおいちゃんに届けてもらった。


 でもそれがいけなかった。

 生徒会室に別の生徒さんたちがいればいい。


 だけど、もし奏太そうた兄ちゃんとお姉ちゃんが二人きりだったら?


 二人がイチャイチャしているところに葵ちゃんが遭遇しちゃったら?


 良からぬことが起こるに決まってる……!


「待ってて、葵ちゃん! 僕が今すぐ助けにいくから……!」


 中学校とはちょっと作りの違う、高校の廊下を全力でひた走る。


 校則なんて知ったこっちゃない。

 こっちは緊急事態のエマージェンシーがSOSなんだから。


「ああ、なんか僕、こういうところ奏太兄ちゃんに似てきちゃってる……っ」


 足は止めずに自己嫌悪。

 普段の僕なら廊下を走ったりはしないのに。


 なんてことを思いながら生徒会室を目指していると、生徒の皆さんがちょこちょこ僕に気づいてこっちを見る。


「あれ? スタリヴァちゃんの彼氏じゃん」

「あ、本当だ。やだ、可愛い。こんにちはー」

「こんにちは! いつもお世話になってます!」


「あー、三上みかみ会長の弟くんだ」

「え? 唯花さまの弟君じゃなかった?」

「ってことは、どっちにしろ三上会長の弟でいいんじゃね?」

「兄と姉がいつもお世話になってます!」


「お、三上ジュニアだ。今日はどうしたん?」

「ジュニアはやめてぇ!」

「へ!?」


 急停止。

 鋭利な角度で振り返り、男子の先輩に血走った目でお願いする。


「ジュニアはやめて下さい。ジュニアは違う意味になりますから。僕もおじさんになることはそろそろ諦めてますけど、それでも三上ジュニアって単語は生々しいですから!」


「お、おお……よく分からないけど、なんかごめん」

「いえこちらこそ、失礼しました!」


 一礼してダッシュを再開。

 と、ほぼ同時にスマホの着信音が鳴り響いた。


 ビクッと体が震える。

 頭のなかのオーケストラが言っていた。

 これは黙示録のラッパだと。


 タイミング的に掛けてきてるのは間違いなく奏太兄ちゃんかお姉ちゃんだ。


 でもどっちなのかが問題だった。


 もし奏太兄ちゃんだったら、きっとこれから始まるのは僕への試練。


 何がどうしてそうなるのかは意味不明だけど、おそらく奏太兄ちゃんは葵ちゃんを盾にして僕を成長させようとしてくる。


 だけど、それならこっちも望むところだ。

 僕だって今は中学校の生徒会長。

 いつかその背中を超えるため、奏太兄ちゃんに挑む覚悟はできている。


 でも。

 だけど。


 もしも掛けてきているのが、お姉ちゃんだったら。


 その時はもうどうなるか見当もつかない。

 子供の頃からそうなんだ。


 お姉ちゃんの突拍子もない行動は奏太兄ちゃんと僕はてんやわんやにさせる。


 いつもは奏太兄ちゃんが解決してくれるんだけど、もしも掛けてきてるのがお姉ちゃんだとしたら、今回はその牙が僕に向けられているということになる。


 しかも葵ちゃんを巻き込んで。


「お願い、どうか奏太兄ちゃんでありますように……っ」


 祈るような気持ちでスマホを取り出した。

 画面に表示された名前に意味はない。


 お姉ちゃんが奏太兄ちゃんのスマホを使って連絡してくることはよくあるし、その逆もまた然り。


 僕はごくりと唾を飲み、通話ボタンを押す。


「も、もしもし……?」

「『…………』」


 数秒の間。

 そして、


「『くくく、調子はどうかね、マイブラザー?』」


 お姉ちゃんだった――っ!

 

 僕はガクンッとその場に突っ伏した。

 いけない。これは本当にいけない……っ。


「『生徒会長さんのお仕事はもう終わったのかね?』」

「終わったよ! なんか嫌な予感がしたから、ほぼほぼ終わらせてそっちに向かってるよ!」


「『重畳ちょうじょう重畳ちょうじょう。じゃあご褒美に良いことを教えてあげましょー』」

「聞きたくない、できれば聞きたくないよ……っ」


「『んー? そんなこと言っていいのかなぁ? ――カワイイ葵ちゃんは預かった。返してほしくば我が生徒会室まで馳せ参じまくるのです』」


 やっぱりこんな展開になったーっ!


「ちょ、お姉ちゃん! 葵ちゃんに何をしたの!? なんか今後の人生観に関わるようなことはしてないよね!?」


「『くくく、答えが欲しくば生徒会室にくるがいい。さすれば新たな扉が開かれん!』」


 通話が切れた。

 僕は転がるようにまた走りだす。


 一体なにが起きてるんだ!?

 生徒会室で葵ちゃんはどうなっちゃってるんだ!?


 最悪の想像が脳裏をよぎる。


 お姉ちゃんたちのイチャイチャに当てられて、部屋の隅でガタガタ震えてしまっているかもしれない。


 あるいはイチャイチャの許容量を超えて、目のハイライトが消えてしまっているかもしれない。


「そんな悲劇に見舞われるのは僕一人で十分だ……っ!」


 胸が張り裂けそうになりながら、ついに生徒会室に到着。

 勢いよく扉を開け放つ。


「葵ちゃん、大丈夫!?」


 その瞬間だった。

 現実が想像を凌駕した。


「あ、伊織くん……」


 葵ちゃんは扉の前に立っていた。

 だけど僕は頭の処理が追いつかない。


 葵ちゃんがネコ耳をつけていた。

 大きな鈴付きのチョーカーをしていた。

 ネコしっぽがくるんっとしていた。

 極めつけは大きな肉球手袋をしていた。


 拝啓。

 お父さん。

 お母さん。


 僕はおかしくなってしまったのかもしれません。


 葵ちゃんが。

 僕の恋人が。




 ネコになってます。




 何を言っているのか分からないと思うけど、僕にも何が起こっているのか分かりません。


 葵ちゃんの顔はイチゴみたいに真っ赤だった。

 顔を隠そうとしているけれど、その手は大きな肉球。

 

 なんだか見ているだけで頭がクラクラしてくる。


「えっと、その格好は……」


 僕はどうにか口を開いて尋ねる。

 葵ちゃんは恥ずかしそうにモジモジしていた。


 動きに合わせてネコ耳がぴこぴこしている。

 僕はさらにクラクラしてくる。


「これはね……」


 う~、と肩をすぼめて言われた。


「……葵にゃん、です」

「葵にゃん!?」


「唯花お姉様さんに借りて爆誕したの……」

「爆誕しちゃったの!?」


 間違いなくお姉ちゃんの言い回しだった。

 葵ちゃんにネコグッズを装着させて、「でけたっ、葵にゃんのばくたーんっ!」とか言ってる姿が目に浮かぶ。


 クラクラどころか、あたふたしながら僕は言う。


「葵ちゃん、嫌だったら爆誕とかしなくていいんだよ。お姉ちゃんの暴走をちゃんと止めるように、奏太兄ちゃんに僕からキツく言っておくから」 


「う、ううん、嫌とかではないんだけど、でも……」


 大きな肉球手袋の指の間からチラリと葵ちゃんの瞳が覗く。

 何かを望んでるような眼差しだった。


 すると突然、生徒会室のソファーの方からお姉ちゃんの声が響いた。


「ふむ、さすがは我が弟。奏太なら一瞬でルパンダイブするとこなのに、大した鉄の意志なのです。――ならばっ。葵にゃん、今こそ必殺の一撃を!」


 見れば、ソファーの前でお姉ちゃんが仁王立ちしていた。

 その雰囲気はまるで青春アニメの熱血コーチ、もしくはロボットアニメの基地司令。


 隣では奏太兄ちゃんが『すまん、伊織。もろもろ止められなかった』という顔で手を合わせている。


 そして熱血コーチもしくは基地司令の指示を受け、葵ちゃんの肩がピクッと動いた。


「ひ、必殺の一撃……」

「葵ちゃん、なんのことかは分からないけど、無理はしなくて――」


「無理じゃないもん」

「え?」


 なぜか。

 僕の一言でムキになったように、葵ちゃんの瞳に決意が浮かんだ。


 突如、肉球の手が大きく振り被られる。


「唯花お姉様さんっ、わたしやります!」

「よく言った! その意気やよーし!」


「え? え? え?」

「すまん伊織、すまん」


 ワケが分からないまま、葵ちゃんのネコ耳がぴこぴこぴこーっと動き、しっぽはくるんっとまわり、肉球はむぎゅうっと握り締められる。


 同時にさらにノリノリになったお姉ちゃんの声が響く。


「その一撃は奏太をも沈めるラブリー・バレット! 可愛いは無慈悲で正義で愛され上手! 時はきたっ。放て、今必殺の――」


 鋭い肉球が僕に迫る。

 ぎゅっと目を瞑った葵ちゃんが恥ずかしそうに叫ぶ。




「に、肉球ぱーんち!」




 ぽすっ。

 僕の胸に肉球が着弾した。


 時が止まった。

 僕の脳はフリーズした。

 衝撃的過ぎてリアクションも返せない。


 それを見た奏太兄ちゃんが「効いていないのか!?」と声を上げ、隣のお姉ちゃんがすぐに「否……」と笑みを浮かべる。


「見事なり、葵にゃん」


 僕の前で不安そうに葵ちゃんが顔を上げる。

 ネコ耳状態の上目遣いだ。


「えっと、わたしの肉球ぱんち、効かなかったな……? あ、ううん、そうじゃなくて……」


 たぶんお姉ちゃんに語尾指導もされていたんだろう。

 葵ちゃんは――否、葵にゃんは言い直した。


「わたしの肉球ぱんち、効かなかったか……」


 それはとても恥ずかしそうに。

 でもどこか甘えるように。

 

「……にゃあ?」


 ダメ押しでした。

 ギリギリの状態で耐えていたけど、もう無理です。


 肉球と語尾のハート・ブレイク・ショット。

 ボンッと心臓が爆発した。


「~~~~っ」

「い、伊織くん!?」


 頭からシュウ~ッと煙が出て、倒れる僕。

 もう理性が働かず、心からの本音がこぼれた。


「ネコになった葵ちゃん、すっごく可愛い……」

「――っ!」


 こうして僕は意識を失いました。




              ◇ ◆ ◆ ◇




 俺は「ふむ」と頷いた。


 ほんの数分前のこと。

 葵は唯花に押し切られてネコグッズを装着し、扉の前に待機した。


 そこに伊織が血相を変えて飛び込んできたのだが、肉球ぱんちが見事に炸裂。


 伊織は倒れ込み、葵が抱き留めるような格好になっている。

 同時に俺たちは確かに聞いていた。


 気絶する寸前、伊織が独り言のように『可愛い』と口にしていたことを。

 しかも完全に葵にゃんにメロメロの表情だ。


「そういうことだったのか」

「そういうことだったのです!」


 俺の独り言に対し、隣の唯花がキラッと決め顔。


 実を言えば。

 今回の葵の悩みについて、俺たちは本来なら一瞬で解決できた。


 相談の内容は『伊織がキス以上のことをしてくれない』というものだったが、長年の兄貴分と弟分の関係によって、俺は伊織の性癖をあらかた知っている。


 同様に唯花も引きこもり時代にしょっちゅう伊織の部屋に侵入して、『ToRavる』や『ダークネス』のお気に入りページを熟知している。


 その内容を葵に教えれば、表面的な解決は至極簡単だった。

 しかしもちろん根本的な解決にはならない。


 大事なのは『伊織がキス以上のことを求めるようにさせる』ことではなく、葵の『女の子として魅力がないかも』という不安を取り除いてやることなのだ。


 そして唯花の計画は大成功だったようだ。


 今の葵の表情を見ればわかる。

 伊織を支えたまま、嬉しさと恥ずかしさで唇がもにょもにょしていて、耳もネコ耳も赤くなっている。


 ……いやネコ耳はどういう構造で赤くなってるんだ?


 ともあれ、伊織が自分にどれだけぞっこんか、葵も再認識できたことだろう。

 本日のお悩み相談は解決である。

 

「んじゃあ、伊織も連れて駅前のカフェにいくか」

「やったぁ、ダブルデートだ! 奏太のおごりね♪」

「しゃーない、今日は唯花にゃんに負けたからな」


 まだ気絶中の伊織を俺が背負い、俺たちは四人揃ってダブルデートに向かうのだった。


 ………………。

 …………。

 ……


 ちなみに。

 カフェで目を覚ました伊織が「あれ!? 夢!? 葵にゃんは……!?」と混乱し、葵が

耳まで赤くなって「……また今度ね」とつぶやいたのはまた別の話である。

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