第141話 ネコの女王、陥落せり
風が吹いていた。
それはすべての苦難を覆す、強く鮮烈な正義の風。
リビングの窓からは陽光が差し、鮮やかに彼を照らしだす。
ビジネススーツに高級コートを羽織り、背丈は俺を越える長身。
整髪料で固められた髪は美しく波打ち、凛とした立ち姿はデキる男の風格をまざまざと表していた。
彼の名は
如月四天王・序列一位にして、俺の子供の頃からのヒーローだ。
「待たせてしまったね、
「せ、誠司さん……」
肩の力が抜けていく。
全身が自然に安堵していた。
「さあ、
誠司さんはコートの裾を翻し、陽光のスポットライトのなかで格好いいポーズ。
「うぅ……っ」
ソファーで四つん這いになっている撫子さんは気圧され、見る間にふくれっ面になっていく。
「ず、ずるいわ! 誠司さんと朝ちゃんの2人がかりだなんて! 反則よ、反則っ。やり直しを要求しますっ!」
スマホから朝ちゃんが呆れた声で言う。
「『なに子供みたいなこと言ってるんですか。やり直しなんてありません。とっとと観念して下さい。誠司先輩が到着した時点で撫子先輩の詰みなんですから』」
「だから言ってるのーっ。誠司さんを呼び出すなんて反則中の反則じゃない! 朝ちゃんにはフェアプレイ精神というものがないの!?」
「『無抵抗の子供を押し倒して、ダメ人間に仕立て上げるような人にフェアプレイ精神を説かれても……』」
「し、失礼な! 誰がダメ人間に仕立てあげるって言うの!? 私はただ奏ちゃんのためを思って――」
「
撫子さんの言い訳オンパレードが始まろうとしたところで、誠司さんが素早くカットインした。
口八丁な人妻ネコに流れを持っていかせない。
玄人の業だ。
「無抵抗な子供を押し倒すのは大人のすることじゃない。それとも――」
誠司さんは自分のあご先に手をやり、芝居がかった調子でまじまじと見つめる。
「撫子は奏太君を相手に浮気でもするつもりだったのかな?」
「へ――っ!?」
一瞬で撫子さんの顔が青ざめた。
現在、俺は追い詰められてソファーに沈み込み、撫子さんはその上で四つん這いになっている。
しかもセーターの下はノーブラらしい。
うん、これはだいぶ浮気の現場感ありありだな。
「ち、違うの違うの違うのーっ!」
ふくれっ面モードから一転、大慌てでソファーから下りる撫子さん。
あたふたしながら誠司さんのもとへ駆け寄っていく。
「誤解しないで、あなた! そんな勘違いしてほしくないっ。私、浮気なんてしないわ! 私の愛する男性は世界中でたったひとり、あなただけなんだから……っ!」
「へえ、本当かなぁ?」
「本当よ! お願い信じてーっ!」
誠司さんは思いきりいじわる顔。
スマホからは朝ちゃんの無言のため息が聞こえてくる。
2人とも『んなことわざわざ言わんでも分かってる』という雰囲気だった。
そのなかで撫子さんだけがひとりで大騒ぎしていた。
解説しておくと、如月家の序列二位は序列一位にベタ惚れである。
惚れた弱みってこういうことかー、と子供たちが学習してしまうほど、撫子さんは誠司さんにめっちゃ弱い。とことん弱い。
今もそうだ。疑いにもならないような冗談めいた勘繰りをされただけで、超絶大慌てになっている。
こうなるともう誠司さんのペースだった。
完全に分かってる顔で外堀を埋めていく。
「撫子のことは信じてあげたいけど、ソファーであんな体勢だったしなぁ」
「そ、それは……っ。奏ちゃんの目にゴミが入っちゃって取ってあげようとしてただけなの! それだけなの!」
「本当かい、奏太君?」
話を振られ、よっこいせとソファーに座り直す。
撫子さんがこっちを向き、誠司さんから見えないように『お願いお願い!』と拝んでいた。
口パクで『奏ちゃん! なんでもするから誠司さんには黙っててーっ!』と懇願してくる。
誠司さんからの信頼を1ミリたりとも傷つけたくないのだろう。
だったらそんな薄っぺらいウソつかなきゃいいのにと思うのだが、撫子さんは大層慌てていて混乱している。もう涙目だ。
いつもの奔放な女王様っぷりとのギャップがあって、正直、ちょっと可愛い。
今、撫子さんの命運は俺の手に握られている。
こんな状況はなかなかない。
しかし俺も鬼ではない。
視線で『安心してくれ、撫子さん』と伝える。
人妻ネコさんの表情が『そ、奏ちゃん……っ』と希望で輝いた。
その瞬間、俺は素知らぬ顔で報告した。
「撫子さんにおっぱい触れって言われました」
「なんで言っちゃうのーっ!?」
泣きべそ顔で絶叫。
そりゃ言うわな。
むしろ言わない方がいかんじゃろ。
あと俺、誠司さん派だから。
普段、撫子さんにメッタメタにやられてる分、こういう時は10対0で誠司さん派だから。
「なーでーしーこー? これはどういうことかな?」
「ち、ちちちちちが違っ、ちちち違うのにゃっ!」
背後からゆっくりと名を呼ばれ、撫子さん、めっちゃ狼狽。
もう語尾がちゃんと言えてない。
どうするんだろうと思ったら、全速力でキッチンに逃げ始めた。
「そーだ! あなた、コーヒー飲む? バーゲンダッツのアイスがあるから、コーヒーと混ぜて食べてみたらどうかしら? ぜったい美味しいわよ~! ちょっぴりウィスキーをかけてもいいかも? あ、まだお仕事中だっけ? でもちょっとぐらいいいわよね? 確かアルコール度数96度のウォッカがあったはずだから、それをどばどばかけて――」
どうやら酒で酔わせて誤魔化す算段らしい。
追い詰められた時の無駄な抵抗具合が唯花にそっくりだった。
しかし当然、そんなものが通用するわけない。
コートの裾がふわりと舞った。
かと思うと、誠司さんが風のような速度でリビングを駆け抜けた。
そして、一瞬で追いつくと。
「往生際が悪いぞ、撫子」
ドン――ッ! と壁ドン。
「はうっ!?」
ビクッとして、直立不動になる撫子さん。
顔が一瞬で真っ赤になる。
驚くよりもトキめいてしまったようだ。
この人妻ネコ、完全に女の顔である。
誠司さんは妻を壁際に追い詰め、あごをクイッと持ち上げる。
「どうも今日はおいたが過ぎるようだね? まだ話の途中なのに悪い子だ」
クールで冷たい瞳。
極寒の北風のような威圧感で見据える。
子供なら泣いて逃げ出すような迫力だが、しかし人妻さんはトキめいていた。
もじもじしながら目を逸らす。
「だ、だってあなたに誤解されてしまって、私、もうどうしたらいいか……」
「誤解ではないだろう? こんなはしたない格好で奏太君を誘惑していたんだから」
「は、はしたない、だなんて……っ」
撫子さんは身動ぎし、恥ずかしそうにセーターの胸を両手で隠した。
俺にはまったく判別不可能だったが、誠司さんにはノーブラなことが一目で看破できたらしい。
そして撫子さんも俺の前では平気そうだったのに、夫の前では恥じらってしまうようだ。
人妻さんは胸を隠しながら、上目遣いで夫を見つめる。
「……本当に誤解なの。お願い信じて、あなた」
意を決した表情になり、潤んだ瞳で訴える。
「確かに奏ちゃんにはよく『おっぱい触ってみる?』って言ってるわ。でもそれは子犬を可愛がるような感じなの! 子犬って力いっぱい抱き締めてむぎゅってしたいじゃない? そういう感じなの!」
いやどういう感じなんだ、それ。
っていうか、撫子さん目線だと俺って子犬なのか。確かに俺も伊織のこと子犬っぽいとか思ってるけれども。
「私が本気になっちゃうのなんて、誠司さんだけだもの! 見つめられるだけでドキドキして体が火照っちゃうのなんて、世界中で誠司さんだけよ! 現に今だって――」
「こらこら、子供の前だよ。少し黙りなさい?」
そう囁き、誠司さんはいきなり撫子さんの唇を塞いだ。
手を使ってじゃない。
自分の唇を使ってだ。
つまりキスである。
…………。
…………。
…………。
いやそれは子供の前でアリなのかーっ!?
「――っ!?」
撫子さんも目を見開いて固まっていた。
唯花がキスされた時みたいに、両手がネコの形になり、ぷるぷる震えている。
しかもただのキスじゃない。
よくよく耳を澄ませてみたら、何やら……ちゅぱっている。
舌がインしていた。
撫子さんはネコの手で誠司さんの胸を叩き、必死にタップしている。
しかしやめてはもらえない。
俺という子供が見ている前で、めっちゃ蹂躙されていた。
身をよじり、逃げようとする撫子さん。しかし逃げられない。
「んーっ、んーっ! ~~っ! ……っ!? ~~っ‼」
メチャクチャちゅぱられている。
ネコの手は誠司さんの胸をぺちぺちして必死に抵抗していた。しかし。
ぺちぺち! ぺちぺち!
ぺち! ぺちぺち……っ。
ぺち……ぺちぺち……ぺち……。
……ぺち……………。
……………………………………ぎゅっ。
最後にはすべて諦めたようだった。
その両手は身を委ねるようにワイシャツの胸元をぎゅっと掴んでいる。
撫子さんの敗北した瞬間だった。
あとは誠司さんのウイニングロード。
負けた人妻ネコさんは朱に染まった手をぷるぷる震わせながら耐え忍ぶ。
「……っ! ……、~~っ!」
やがて、長い長いキスが終わり、ようやくお仕置きのキスから解放された。
「は、はう……っ」
腰砕けになって、撫子さんはふらふらとよろめく。
外野で見ている俺もようやく理解した。
この無慈悲かつ情熱的なキスは誠司さんから撫子さんへのお仕置きだったのだ。
その証拠にとろんとした表情の妻へ、勝者が告げる。
「反省したかい?」
「しま、したぁ……」
「何について反省したの?」
「……分かんない、けど、反省しましたぁ……」
誠司さんは「しょうがないなぁ」と苦笑を浮かべる。
ご機嫌だった。妻を腰砕けにしてご機嫌になっていた。
なかなかやべえな、誠司さん……っ。
「もちろん撫子が浮気するなんて僕は1ミリも思ってないよ。君はそんな器用な女の子じゃないからね。それに奏太君はとっくの昔に我が家の一員だ。そんな彼とのじゃれ合いで目くじらなんて立てないよ」
優しい手つきで妻の髪を撫でる。
「僕が君を叱るとすれば、それは瑞希ちゃんの忠告をちゃんと聞かなかったことだ。君はまわりの人を大切に想い過ぎて暴走する癖があるからね。信頼できる人、とくに瑞希ちゃんの冷静な意見には耳を貸すようにいつも言ってるだろう?」
「だってぇ……」
「だって、じゃない」
妻の髪を梳き、額をツンッと小突く。
撫子さんは嬉しそうにそのおでこを押さえる。
そして上目遣いで甘えるように謝った。
「……ごめんなさいでした」
「分かれば宜しい」
誠司さんは大人の顔で微笑み、「じゃあ、仲直りだ」と言って――またキス。
しかもさっきより激しい!
撫子さんも不意打ちにびっくりして、手足がピクンピクンッと反応。白い肌が見る間に朱に染まっていく。
う、うわぁ、すげえ……。
なんかとんでもないもの見せられてる……っ。
俺はただただ茫然と見守るしかない。
やがて唇を離すと、誠司さんは子供を諭すように言った。
「今後は思い詰めてひとりで抱え込まないこと。いいね?」
「ふぁ、ふぁい……」
壁にもたれ、撫子さんはずるずると崩れていく。
もうひとりで立つことさえ出来ないようだ。
尻もちをつき、頬を染めて「ふにゃあ……」と吐息をもらす撫子さん。
ここに女王は陥落した。
……恐るべし、序列一位。
俺は改めて戦慄する。
あの撫子さんが借りてきたネコのように易々と倒されてしまった。
これが如月家の大黒柱。
これが如月誠司……っ。
俺にはまだ手の届かない、遥か高みの存在だ。
その生ける最強がこちらを振り向く。
「これで悪は滅びた。迷惑を掛けちゃったね、奏太君」
俺は身動ぎし、軽く頭を下げる。
「……いやおかげで助かったよ、誠司さん」
「状況は瑞希ちゃんから聞いてるよ。ちょっと話をしようか?」
遥か高みにいるその人は、優しい微笑みを浮かべた。
そして穏やかに告げる。
「君と唯花の――これからの話を」
次回更新:2/29(土)予定
書籍1巻:3/1(日)発売
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