第142話 復活、そして覚醒
目の前にはビジネススーツ姿の
彼は俺に告げた。
君と
「これから、って……」
俺の顔には戸惑いが浮かぶ。
「何言ってんだよ、誠司さん。別に何も変わりはしないだろ。これまでも、これからも……」
誠司さんはほのかに笑い、着ていたコートを脱ぎ始める。
「だといいけれど、もうそういうわけにはいかないんじゃないかな?
「……」
撫子さんが抱いた危惧。
それは俺が唯花に腑抜けにされ始めているということ。
もしくは朝ちゃんの言い方だと、去勢されかけている、ということになるらしい。
危うく撫子さんにダメ人間にされそうになった直後だ。もう胸を張って否定することも出来ないが……それでもおいそれと認められるようなことじゃない。
「……撫子さんと朝ちゃんが大げさなだけだ。俺は何も変わってない」
「そうかな? じゃあ、試してみようか」
「試す……ってどうやって?」
「腕相撲をしよう」
パサァ……とコートが床に落とされた。
「うで、ずもう……?」
「そう、腕相撲だ。
ジャケットも脱ぎ、ワイシャツのカフスボタンを外すと、腕まくりしていく。
へろへろになっていた撫子さんが立ち上がり、床のコートを拾って、「あなた、ジャケットもらうわ。シワになっちゃうから」と手を出しだした。
誠司さんは「ありがとう」と言って、ジャケットを差し出し、準備万端という顔でこちらを向く。
「さあ、こっちはいつでもいいよ。それとも負けるのが怖いかい?」
「……あまり舐めないでくれよ、誠司さん」
こっちは現役の高校生だ。
それに俺は唯花と違って、毎日の筋トレを欠かしていない。
いくら如月家最強の誠司さんが相手でもそこまで後れを取るとは思えない。
こっちも制服のブレザーを脱ぎ、ワイシャツを腕まくりする。
「……分かった。やるよ、やってやる」
撫子さんに「奏ちゃんも」と言われてブレザーを預ける。
そしてテーブルにドンッと肘をついた。
「この勝負で証明する。俺は変わらず唯花の前に立てるってことを」
「いい気迫だ。若者はそうでなくっちゃね」
誠司さんもテーブルの前で身を乗り出す。
ソファーで使うテーブルなので、背は低い。
俺と誠司さんは互いに床に膝を付き、腕を構える格好になった。
二人の間に撫子さんがきて、スマホをカメラ通話に切り替える。
画面には修学旅行の引率帰りらしい、ジャージ姿の朝ちゃんが映った。
「朝ちゃん、私がこの勝負の見届け人になるわ。朝ちゃんはレフリーをお願い」
「『いやその前になんで唐突に腕相撲対決なんですか? あと誠司先輩、私の元・教え子の前でどういう助け方してるんですか、もっと他にやりようがあったでしょうとさっきのことを説教したいんですが』」
「私の記憶が確かならば……誠司さんと奏ちゃんが最後に腕相撲をしたのは6年前。まだ奏ちゃんが小学生の頃よ。もちろんあの時は誠司さんが圧勝だった。でも奏ちゃんだってあれから成長してる。この勝負、私にもどうなるかは分からない……」
「『あー、はいはい。ツッコミは届かないんですね。まったく……』」
諦めた調子でぼやき、朝ちゃんはテーブルを見据える。
「
俺と誠司さんは互いの手をグッと握り合う。
「
深く息を吸って、
「――
刹那、二つの膂力が真っ向からぶつかり合った。
空気が破裂するような衝撃。
生み出されるのは両者一歩も譲らぬ拮抗。
だが俺は愕然と目を見開いた。
「なっ!? 動かない……っ!?」
まるで岩のように誠司さんの腕は微動だにしなかった。
俺は最初から一撃で決めるつもりだった。すでにフルスロットルで全力を振り絞っている。だというのに握った腕はピクリとも動かない。
肌感覚で分かる。
誠司さんはまだまったく本気を出していない。涼しげな顔には汗一つかいていなかった。
嘘だろ!? ここまでの差があるっていうのか……!?
俺だって今日まで努力してきたつもりだ。
唯花を一生守れるように、そんな男になれるように、たゆまず歩んできたつもりだった。
なのにまだこれほどの差があるっていうのかよ……!?
「『……なるほど、そういうことですか。突然、腕相撲だなんて言い出しすから何かと思えば、このためだったんですね』」
「え、朝ちゃん、どういうことなの? 奏ちゃんはどうしてあんなに追い詰められた顔をしてるの……!?」
「『簡単なことです』」
脂汗を流している俺の横で、スマホの朝ちゃんが冷静に語る。
「『人は皆、精神が肉体を凌駕することで驚くべき力を発揮し、成長していきます。たとえば
「た、確かに……私も奏ちゃんは誠司さんといい勝負になるかもって思ってた」
「『この劣勢がそのまま奏太の精神状態を表しているということです。奏太は弱体化している。それも撫子先輩や私の予想よりずっと』」
「――そういうことさ」
誠司さんが口を開いた。
眉一つ動かさず、その右手は微塵も揺るがない。
「奏太君、これが今の君の実力だ。弱い。そして頼りない。君がずっと唯花の面倒を見てくれていたことについては、とても感謝しているんだ。けれどね、奏太君」
刹那、ゾワッと背筋に悪寒が走った。
「――こんな弱い男にウチの娘は任せられない!」
「ぐぅぅぅぅぅぅっ!?」
まるで巨大な岩が押し寄せてくるように劇的な力で押し込まれた。
奥歯を噛み締め、押し返そうとする。だが止まらない。ジリジリと、だが確実に押し込まれていく。
「瑞希ちゃんから事情は聞いた。唯花に『もうヒーローじゃなくていい』と言われたそうだね? あんなに君にべったりだった唯花がそこまで成長するなんて僕も驚きだ。正直、親から見ても唯花は君がいなければ生きていけないような子だった」
誠司さんの表情は変わらない。
脂汗を流して踏み留まっている俺とは対照的に、冷静な眼差しでこっちを見つめている。
「そんな唯花が今、自分の足で立とうとしている。これは紛れもなく君のおかげだ。奏太君、本当にありがとう。君のおかげでウチの娘は立ち直れそうだ」
穏やかで優しい言葉。
けれどその右腕は無慈悲なほど圧倒的に俺の右腕を押し込んでくる。
「ぐぅぅぅぅぅぅっ!」
「辛いかい? だったら逃げてもいいんだよ。ヒーローじゃなくていい、というのはそういうことだ」
汗は止まらず、心臓は爆発しそうで、今にも血管が切れそうだ。
しかし同じくらい肉体を酷使してるはずの誠司さんは涼しげに笑う。
「もちろん唯花はそこまで深く考えて言ったわけではないだろう。別段、唯花が君の何か否定しているわけでもない。けれど……僕には痛いほど分かるよ。男の子にとって、好きな女の子からそんなことを言われたら、もう立ち直れないよな?」
「……っ」
思わず唇を噛み締めた。
その通りだ。だが悔しさや恥ずかしさが込み上げてきて頷けない。
重ねた腕は動かなかった。
どれだけ力を込めようが揺らぎもしない。
「この勝負は僕から君への介錯だ。このまま右手がテーブルに付けばそれで終わり。父親として、二度と娘には会わせない」
「な……!?」
「あなた、待って! そこまでする必要どこにもないわ! 唯花だってそんなこと望んでない……! どうして奏ちゃんをもう会わせないなんて話になってしまうの!?」
「『撫子先輩、黙って』」
「朝ちゃん!? どうして止めるの!? こんなのおかしいじゃない……っ」
「『これは男同士の世界の話だ。私たちには理解なんて出来ないし、する必要もない。黙って見守りましょう』」
朝ちゃんの視線の先、俺は崖っぷちに追いやられていた。
もう会わせないという宣言をした瞬間、誠司さんの力が増し、俺の手が一気にテーブルへ押されていた。
「こンのおおおおおおおおっ!」
奥歯が砕けそうなほど力を込める。しかしそれでも押し戻せない。
見る間に手の甲がテーブルに近づいていく。
「なんでだ!? なんで俺は手も足も出ないんだよッ!?」
「もう諦めなさい。つまりこういうことさ。奏太君、君は――唯花に相応しくない男だったんだ」
「な……っ」
一瞬、頭が真っ白になった。
誠司さんの一言が胸の奥深くに突き刺さった。
その傷口から……、
「んなこと分かってんだよ。14年前のあの海から俺はずっと分かってたんだッ!」
溶岩のような激情が迸った。
ゴオッ!! と振り切れた勢いで腕に力を込める。
「奏ちゃん!?」
「『奏太が押し返した……!』」
撫子さんと朝ちゃんが声を上げ、俺は水平になりかけていた腕を決死の覚悟で持ち上げる。
「あの時、唯花を助けられなった俺は、どうしようもない出来損ないだ! 溺れるあいつを見てることしか出来なかった俺は絶対にヒーローなんて名乗れない大馬鹿野郎だ……ッ! ――それでも!」
もう腕が折れてもいい。
そう思いながら力を振り絞る。
「それでも誠司さんのようになりたかった……っ! 唯花を守れる男になりたかった……っ! 俺は――」
血を吐くように叫んだ。
「唯花を守れるヒーローになりたかったんだ――ッ!」
ゴオッ!! と風を切り、腕を開始位置まで押し戻した。
……そうだ、京都で伊織が『葵ちゃんのヒーローになりたい』と言った時、ひどく眩しいと思った。
その願いを、その祈りを、口にできる伊織を尊いと感じた。
俺も同じだ。
好きな女を――愛する女性をこの手で守れるヒーローになりたかった。
そう、ずっと胸に秘めて生きてきた。
「その程度かい?」
「……っ!?」
右手にさらなる圧力が掛かる。
誠司さんが抗い難い力で再び腕を押し込み始めた。
「想うだけなら誰でも出来る。想いだけでは愛する人は救えない。僕も通ってきた道だ」
「ぐぅ……っ!?」
これでも届かないのか……!?
……ま、負けるのか!?
ここで誠司さんに負けて、俺は二度と唯花には……っ。
敗北の二文字が頭を過ぎった。
心に隙が生まれ、誠司さんが一気に攻勢を掛けてくる。
やばい、もう駄目だ……っ。
そう思った瞬間だ。
声が響いた。
リビングに駆け込んできた、伊織の声。
「――負けないで! 奏太兄ちゃん!」
スマホを持って走ってきた伊織はあまりの勢いでソファーに激突した。
それでも叫ぶ。
「奏太兄ちゃんが逢いにきてくれなかったら、一体誰がお姉ちゃんを助けてくれるの!?」
「――っ!?」
「僕はずっと奏太兄ちゃんの背中を見て歩いてきたんだ! なのに、自分はヒーローじゃないなんて……そんなふうに自分を否定するの、もういい加減にして!」
「伊織……っ」
「『その通りだ、奏太』」
ふいに口を挟んだのは、朝ちゃん。
ずっと俺たちを見守ってきてくれたその人は、とても優しい目で語る。
「『何が
耳に響くのは、心強い断言。
「『もう
その瞬間、心臓が高鳴り、血液が全身を駆け回り、血潮が熱く滾った。
心に火が入る。
カッと俺の両目が見開かれた。
「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
右腕が唸りを上げた。
肘を乗せたテーブルがミシッと軋み、握り合った手が大きく弧を描く。
「そうだ、それでいい!」
誠司さんが笑みを浮かべ、グンッと押し返してくる。
だが俺の腕は止まらない。
信じてくれる奴がいる。
俺が誠司さんの背中を追ってきたように、伊織が俺の背中を目指している。
負けるわけにはいかない。
情けない姿は見せられない。
なぜならば。
「ヒーローは必ず勝つと決まってるんだ――ッ!」
ここに三上奏太は覚醒した。
右手が轟音を上げて突き進む。
気持ちのなかでは全身が黄金に輝いた。
眩い光は一点に収束し、ギアナ高地を蒸発させるほどの威力を生み出す。
伊織がスマホを握り締めて叫ぶ。
「奏太兄ちゃん、いけーっ!」
「頑張って、奏ちゃん!」
「『そこだ、奏太ーっ!』」
撫子さんと朝ちゃんも声を上げて、
「うん、見事だ」
誠司さんが柔らかく微笑む。
そして如月家のリビングは黄金の光に包まれた。
輝きのなか、闇を引き裂くように降り注ぐのは俺の右手。
「うおらあ!!!」
ドンッ!
大地にクレーターを作らんばかりの打突音がリビングに木霊した。
次回更新:3/3(火)予定
書籍1巻:絶賛発売中!
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