第106話 このキスはとびっきりのハートブレイクショット(葵視点)
エレベーターホールに大きな音が響いた。
それは柱時計と、わたしと、とっさに覆いかぶさってきてくれた誰かが倒れた音。
いつの間にか瞼を閉じていた。
でも覚悟していたような痛みはどこにもない。
感じるのは背中の床の感触だけ。
割れたガラスに刺されてしまうことはなく、大きな柱時計にも潰されていない。
「大丈夫だった?
聞こえてきたのは、大切な人の声。
それも息も掛かるくらいの近くから。
わたしは驚いて瞼を開く。
そして思わず声を上げた。
「
彼がわたしに覆いかぶさっていた。
その背には身の丈以上の柱時計が圧し掛かっている。
伊織くんが身を挺して庇ってくれていた。
目の前のことが信じられなくて、混乱してしまう。
「な、なんで!? どうしてわたしなんかのために……っ。か、体は平気なの!?」
「……僕は大丈夫。この柱時計、見た目より重くなかったみたい。ただすぐには動けそうにないけど……」
わたしの視界に映るのは柱時計に覆われた真っ黒な天井と、伊織くんだけ。
まるで世界に二人だけのようだった。
さっきまでの騒ぎが嘘のような静寂。
そのなかでわたしは掠れた声をだす。
「どうして……どうしてわたしなんか庇ってくれるの!? わたし、伊織くんのことフッちゃったんだよ!?」
「あは、とっさに駆けつけた時にそんなこと気にしたりしないよ。それに」
伊織くんはふわっと笑った。
「なんで葵ちゃんがお別れしようとしたのか、僕、分かってるもん」
「え……」
体が強張った。
柱時計が倒れてきた時よりもずっと身が竦んだ。
そんなわたしとは対照的に目の前の伊織くんは自然体な口調だった。
「僕のためでしょ?」
「……っ」
「僕が
「ち、違う!」
必死になって言い返す。
「違うよ! 全部わたしのため! 伊織くんたちみたいな特別な人たちと一緒にいると脇役みたいな自分が惨めになるから……っ。だからわたしは別れたいって言ったの! 一から十まで全部わたしのためだよ!」
「嘘だよ」
「嘘じゃない!」
「ううん、嘘だよ」
伊織くんはまるで諭すように言う。
「葵ちゃんはとても優しい人だから、自分のために誰かを傷つけたりなんかしない。そんな葵ちゃんが拳を振り上げるとすれば、誰かのため。君は僕のために別れようって言ったんだ。泣きながら、それでもいつか僕が奏太兄ちゃんっていう理想に辿り着けるように」
口を挟めない空気だった。
伊織くんのなかですでに答えは出ている。
いつの間にか、わたしの本心は恥ずかしいくらい丸裸にされてしまっていた。
でも分からない。
わたし、伊織くんにはそんなこと一言も言ってないのに……っ。
信じられない、という思いで尋ねる。
「どうしてそう思うの……?」
「僕、鋭いから」
伊織くんはにこっと微笑む。
無邪気過ぎて、ちょっと意地悪なくらいに。
「身近な人のことはとくにね。手に取るように分かるんだ。葵ちゃんの本当の気持ちも最初からぜんぶ分かってたよ?」
「さ、最初から……!?」
恥ずかしさで眩暈を起こしそうになった。
だってわたし、すごくすごく悩んで別れを切り出したのに、何もかも筒抜けだったとしたら、そんなの恥ずかし過ぎる。
伊織くんは静かに目じりを下げる。
笑顔の印象が少し変わった。
「でもね、もういいんだ」
それはどこか淋しげな笑みだった。
「僕は奏太兄ちゃんにはなれない。それが分かったから」
「え……」
「今でも尊敬してるし、教えてもらうことだってたくさんある。でも……僕はあんな常識外れな『みんなのヒーロー』にはなれない。でもいいんだ。それでいいんだよ」
「だ、だめだよ!」
それはあまりにも淋しい言葉だった。
わたしは泣きそうになって叫ぶ。
「そんなのだめだよ! わたしは知ってるよ!? 伊織くんがどれだけ奏太兄ちゃんさんに憧れてきたのか! どんなに慕って、どんなに想いを馳せてきたのか、小学校の頃からずっと聞いてきたもん! ウチのお店にくる度、すごく楽しそうに話してくれたじゃない!? 『奏太兄ちゃんは僕たちのヒーローなんだ。だから僕もいつかあんなふうになりたいんだ』って! なのに……っ」
「うん、だから――」
笑みから淋しげな色が消えた。
代わりに浮かぶのは、強い決意。
「僕は奏太兄ちゃんを超える」
「え……っ」
こつん、と額と額が合わさった。
心臓が跳ね上がる。わたしを間近で見つめて、彼は言った。
「――僕は葵ちゃんのヒーローになりたいんだ」
迷いのない瞳。
自分の道を見つけた、男の子の目だった。
鼓動がどんどん早くなってくる。
胸から飛び出してしまいそうなくらいに。
「わたしの……ヒーロー?」
「うん」
言葉が降ってくる。
まるで星のように。
「君が泣いてたら涙をぬぐいにいくよ。君が倒れそうになったら横から支えにいくよ。どんな時だって、僕は絶対に駆けつける」
とても静かなのに、これ以上ないくらい熱のこもった言葉だった
心が火傷してしまいそう。
だって、こんなに説得力のある言葉はない。
今、こうして彼は守ってくれているんだから。わたしのピンチに駆けつけて、身を挺して庇ってくれているんだから。
「ずるいよ、伊織くん……」
喉が震え、やっとの思いで声を絞り出す。
「こんな状況でそんなこと言うなんて……」
胸が痛かった。
伊織くんに焦がれれば焦がれるほど、胸の痛みは増していく。
だって。
「それでもわたしは伊織くんとは一緒にはいられない! だってわたしみたいな普通の子じゃ、伊織くんと不釣り合い過ぎて、みんなの前に立てないもん……っ!」
それはもう一つの本音。
伊織くんのために別れなきゃと思ったのも本当。
でも神社にいく途中でクラスの人たちに会った時、可愛くてきれいな伊織くんの隣にいて、あまりにもう申し訳くなってしまったのも……本当。
まわりの目が怖い。
あの如月伊織くんの彼女として、ちゃんとまわりに認めてもらえる自信がない。
わたしは奏太兄ちゃんさんのような突き抜けた変態じゃないし。
お姉さんのような幻の美少女じゃないし。
伊織くんのような人気者じゃない。
どこにでもいるただの凡人だから。
伊織くんの隣にいられる自信がない。
「ごめんなさい……っ。わたし、弱い人間なの。すごくすごく弱くて臆病な人間なの! だから……っ」
「知ってるよ」
指先で唇を止められた。驚いて思わず呼吸が止まりそうになる。
「それも知ってる。ちゃんと分かってるから」
伊織くんはどこか照れるように目元を緩めた。
「大丈夫。僕も弱い人間なんだ」
「伊織くんが……?」
「あのね……実は僕、一度家に帰っちゃったんだ」
「え?」
「夕方、ホテルに戻った後、僕は家に帰って……葵ちゃんとの電話も自分の部屋からしたんだよ」
「冗談……だよね? だって京都からわたしたちの街まですごく遠いし、それに……」
「本当だよ。引きこもっちゃおうと思ったんだ。――お姉ちゃんみたいに」
わたしは息をのむ。
とっさに言葉が出なかった。
お姉さんの名前を出して、伊織くんがこんな冗談を言うはずがない。
だから今の言葉は……真実だ。
伊織くんは内緒話をするように囁く。
「でも僕はこうして帰ってきた。お姉ちゃんが教えてくれたから」
「お姉さんが……? 部屋にこもってるはずのお姉さんが?」
「うん、出てきてくれたんだ。僕のために」
それはわたしにとっても驚くべきことだった。
お姉さんが部屋から出てこなくなってからのことは、伊織くんからずっと聞いていたから。
「なにを……お姉さんはなにを教えてくれたの?」
そう訊いた瞬間、伊織くんはニッと口の端を上げた。
雰囲気で分かった。たぶんこれはお姉さんの真似。
「――みんながみんな、強い人にならなくていいんだよ。それに弱っちい奴が勇気を振り絞った一撃は、意外にズドンと来るのだぜ?」
唇に触れていた指先が滑るように移動し、わたしの頬に触れる。
直後、わたしの全身は驚きで強張った。
「――っ!?」
びっくりするほど冷たい。
伊織くんの手はまるで氷みたいに冷え切っていた。
「白状します。ひょっとしたらまた葵ちゃんにフラれちゃうかもって心配で、実は今にも倒れそうです」
「そん、な……」
呆気に取られた。信じられない。
こんなに体が冷え切ってしまうほど、伊織くんは……。
「ね? 僕も弱っちいでしょ? 葵ちゃんと一緒だよ」
「で、でも伊織くん、さっきまで思いきり走りまわって、学校の人たちにも動いてもらって、まるで奏太兄ちゃんさんの伝説みたいに……っ」
「――葵ちゃんのためなら強くなれる」
「……っ」
頬に触れる手が温かくなった気がした。
わたしを見つめる瞳に熱がこもり、その手に体温が戻っていく。
「僕は奏太兄ちゃんみたいに強い人間じゃない。でも大事な人のためなら立ち上がれる。何度だって走り出せる。だから――僕と一緒にいてほしい」
その眼差しに心が焦がれる。
どうしようもないくらいに。
「支え合っていきたいんだ。お互いの弱いところも苦手なところも。弱っちい僕らだけど、手を繋いで進めばきっとどんな困難も乗り越えていける。それでいつか一緒に越えていこう、奏太兄ちゃんとお姉ちゃんの背中を」
「背中、を……」
瞬間、胸に浮かんだのは、いつか奏太兄ちゃんさんが言ってくれた言葉。
――保証が欲しいなら、俺と唯花がお前たちの未来の保証だ。
――ばっちりハッピーエンドを見せてやるから、俺たちの背中を追ってこい。
あの時、わたしはその言葉にとても勇気をもらった。
でも伊織くんはさらに先へいこうとしている。
他の誰でもない、わたしと一緒に。
あんなにも勇気づけてくれた言葉の先へ。
こんなわたしと一緒に……っ。
それは途方もないことのように思えた。
でも同時に……どうしようもなく胸が高鳴る。
「いいの、かな……」
声が震えた。
とても大それたことのような気がして、心も体も震えてしまう。
「伊織くんと一緒に進むのが……わたしなんかで本当にいいのかな……」
「なんか、なんて言わないで」
目の前で伊織くんの前髪がさらりと揺れた。
きれいな瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
そして彼は告げる。
はっきりと。
「僕には葵ちゃんが必要なんだ。葵ちゃんじゃないと駄目なんだ。もう脇役だなんて言わせない! だって僕の物語のヒロインは――葵ちゃん以外いないんだから!」
「……っ!」
感情が嵐のように駆け巡る。
ずっと伊織くんは特別な人だと思っていた。
奏太兄ちゃんさんやお姉さんのように選ばれた人だと思っていた。
でもそうじゃないと彼は言う。
自分は弱い人間で、奏太兄ちゃんさんのようにはなれなくて、でも――わたしと一緒ならその背中を越えていける。
他の誰でもなく、わたしだから。
こんなにも弱い、わたしだから。
「わたし、は……っ」
心のなかに音が聞こえた。
凍りついた扉の開く音が。
自分を弱いという人の、その精一杯の言葉がわたしの胸を叩く。
涙がぽろぽろと流れ出した。
胸の奥から気持ちが溢れてくる。
もう止められない……っ。
「わたしも伊織くんと一緒にいたいです……っ」
そう白状した――瞬間、唇を奪われた。
頬にしっかりと手を添えて、伊織くんの唇がわたしの唇に触れる。
「――っ!?」
心臓が飛び出しそうになった。
そのまま破裂しちゃうんじゃないかと思った。つまりは――ハートブレイクショット。
「い、伊織くんっ。今の……っ」
触れ合った唇が離れ、わたしの声は動揺で上擦った。
そんなわたしの手を握って、伊織くんは見つめてくる。
「ほ、
「は、はいっ!」
伊織くんの顔は真っ赤だった。
わたしもぜったい同じくらい真っ赤だ。
見つめ合って、一瞬前までわたしに触れていた唇が言葉を紡ぐ。
真っ直ぐな言葉が響く。
他の誰でもない、わたしへ向けて。
「好きです! 葵ちゃんのことが大好きです! 僕の人生を懸けて、君を幸せにします! だから僕と――もう一度恋人になって下さい!」
今度こそ、わたしの心臓は撃ち抜かれた。
もう我慢なんてできない。
どんな険しい道だって、この人と一緒に歩いていきたい。心からそう思った。
だから頷く。
涙の粒を散らしながら。
「――はいっ! わたしも伊織くんが好きです! ずっとずっと大好きでした! わたしを――あなたの恋人にして下さい!」
身を乗り出す。
気持ちが抑えられなくて、今度はこっちからキスをした。
「――っ!?」
びっくりした顔で彼の両目が見開かれる。
そんな顔をされると、こっちが恥ずかしい。もう顔から火が出ちゃうくらい恥ずかしい。
「あ、葵ちゃん……」
おずおずと離れると、伊織くんの声はガチガチになっていた。
わたしは真っ赤になって目を逸らす。
「ご、ごめんさい。ダメだった……?」
「ダメじゃないよっ、ぜんぜんダメじゃない!」
「よ、よかった。やっぱりダメじゃないよね。だってわたしたち、もう……」
蚊の鳴くような声でつぶやく。
「……恋人同士なんだし」
ピクッと反応して、伊織くんが居住まいを正す。
「い、いいの……?」
わたしはコクッと頷いた。
「不束者ですが、よろしくお願いします……」
「やったぁ!」
子犬みたいな顔で伊織くんが声を上げた。
柱時計がなかったら飛び跳ねそうな勢い。
こうして、わたしたちはまた恋人に戻った。
でも明るい雰囲気になったのは一瞬だけ。
動けないから、すぐに至近距離で目が合ってしまう。
そうなると、どうしてもお互い意識してしまう。
意識……というか、期待してしまう。
伊織くんがドキマギした表情で鼻先を近づけてくる。
ちょんっ、と鼻の頭と頭がくっついた。
「葵ちゃん、えっと……もう一回いい?」
「な、なにを……?」
「……キス」
「……いいよ」
ちょんっ、と今度は唇同士がくっついた。
「い、伊織くん……」
「なあに?」
「わたしも、もう一回したい……かも」
「僕も」
ちゅっ、とさっきよりキスっぽい音が響いた。
「えっと、葵ちゃん」
「なあに?」
「好き」
「んっ」
ちゅっ、とまたキス。
ずるい、好きって言いながらのキスなんてずるいよ。
そんなことされたら心がとろけそうになっちゃう。
お返しに今度はわたしから「好きっ」って言ってキスをした。ちゅっ。
すると伊織くんから「大好きっ」って言ってキスが返ってくる。ちゅっ。
キスのし合いっこが終わらない。
そうして10回以上のキスをしたところで、ふいに――頭上から声がした。
わたしたちは床に倒れているので、つまりは柱時計のてっぺん側から。
「――おっほん。あー、若者たちよ。一応、そろそろ声掛けとくことにするが、そういうのは帰ってから伊織の部屋辺りでやるのをおススメするぞ? まー、どうしてもって言うなら、もうしばらく時計を支えててやってもいいけどな」
「「へっ!?」」
同時に見上げる。
そこにお馴染みの人がいた。
「「そ、奏太兄ちゃん(さん)!?」」
すっごく気楽に「よっ」と挨拶してくるのは、奏太兄ちゃんさん。
立て膝で床に座っていて、高く掲げた右手で柱時計を支えている。
ガラスが割れたり、潰されたりしなかったのは、こうして奏太兄ちゃんさんが支えてくれていたからみたい。
伊織くんも知らなかったようで、わたしと一緒に思いきり顔が思いきり引きつる。
「そ、奏太兄ちゃん……いつからそこに?」
「もちろん最初からだぞ」
「ぜ、ぜんぶ聞いてたんですか……?」
「おう。ばっちり聞いてたし、ばっちり見てた」
「「なんでーっ!?」」
奏太兄ちゃんさんはわたしたちの叫びを普通にスルーし、「んじゃ、そろそろ戻すからなー」と言って、柱時計を持ち上げていく。
今までの人生で一番恥ずかしい場面をばっちり見聞きされてしまったわたしたちは……もう、ただただ真っ赤になって固まるしかなかった。
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