「ちっさ」

「ただいま~」


 返事は無いのは当たり前。母は用事で出かけているので、今、家には僕だけだ。いや、少し違った。もう一体、うざったいフィギュアがいた。

 自室に戻って、机の脇に鞄を下ろす。すると、ホラー映画のワンシーンのように、鞄からサナが這い出てきた。


「ぬばぁ~」


「……不気味だからやめろそれ」


 僕が無表情でつぶやくと、サナは一転、明るい笑顔でつぶやいた。


「いや~ひどい雨でしたね。マスター、風邪をひかない内に、さっさと着替えてしまうことを進めます」


「言われなくてもそうするよ」


 さっと部屋着のスウェットに着替えて、居間でココアを一口。雨で冷えていた体に、温かいココアが流れ込む。体がじんわり温かくなっていくのが分かる。


 僕がココアを飲み終えたのを見計い、サナが真面目な顔をしてつぶやいた。


「ところでマスター。私、今日一日マスターと学校へ行ってみて思ったのですが……マスターはどうして勉強ばかりしているんですか? 勉強は確かに大切です。しかし、せっかくのクラス行事を不意にしてまで勉強しなければならない理由が私には分かりません。いつもあんな風に断っていては、いつかクラスの皆からのけ者にされちゃいますよ?」


 急に真剣な顔をして、何を言い出すかと思えば、なんだそんなことか。別に……関係ないじゃないか。今だってもう十分僕はクラスの厄介者扱いだし。今更、皆と仲良くなりたいなんて思わない。


 僕はテーブルの上のサナに睨むような眼差しを向け言った。

「……勉強するのは当たり前だろ。第一、僕はトーダイを目指してるんだ。皆みたいに遊びにかまけている時間は無いんだ」


 さて、サナの話に付き合っていてもしょうがないし、夕食の時間まで勉強するかな……。

 そう思って僕が席を立とうとすると、サナがおもむろに立ち上がり、僕が飲み終えたカップの持ち手の先につかまった。彼女は器用にカップのへりに立つと、僕をしかと見定めてつぶやく。


「いいえ。私はそうは思いません。マスターは嘘をついています」


 僕が嘘を? なんでこいつ相手に僕が嘘をつかなきゃならない?

 しかし、僕を見つめるサナの瞳があまりに真剣なものだったから、上手い返答の言葉が出てこない。僕はしどろもどろになって答えた。


「う、嘘じゃない! 信じないのはお前の勝手だろ!」


 すると、サナはニタリと口角をあげて小さく微笑んだ。


「いいでしょう……マスターが認めないのであれば、私もいくつかの証拠を示しましょう。

 マスターは休み時間中、一人で勉強していましたが、耳がぴくぴく動いていました。これは周囲の物音に聴覚を集中させていたことによります。さらに言うと、ペンを握っている手が動く速さは授業中の半分以下でした。

 この二つが意味するところは、マスターは勉強に集中できておらず、むしろ、周囲のクラスメイトの話に聞き耳を立てていたということです」


 突然捲し立てるように喋り始めたサナの饒舌に、僕は唖然とする。

 こいつ……ふざけてるように見えて、学校にいる間中そんなことを考えていたっていうのか!?


「そ、そんなの知るかよ! お前が勝手にそう決めつけただけだろ!」


「マスターは逃げているのではありませんか?」


「は、はぁ? 意味が分からないね。どうして勉強が逃げに繋がるのか、僕には理解できないよ」


 苦し紛れの言い訳だった。サナもそれを分かっているのだろう。彼女は細くなった目で僕と視線を合わせつぶやいた。


「マスターも強情ですね……。はぁ……。

 先ほど私が嘘をついていると言った時、マスターの目が左右に揺れました。これは嘘をついていたり、何かを誤魔化そうとする人に多くみられる現象です。

 さらに言えば、マスターの声。私が発言する前後で、声のトーンが少し変わっています。私くらいしか見抜けぬ小さな誤差ではありますがね」


 ぐ……。胸を鷲掴みにされているような感覚。人間、胸の内をここまで看破されてしまうと、こうも胸が苦しくなるものなのかと実感する。サナは僕のちょっとした動作やしぐさから、胸の内を探り当てる術を心得ているらしい。

 その証拠に、彼女の言っていることはほぼ全て正しかった。サナの言う通り、僕は嘘をついていた。


 肩を落とし、椅子にもたれる。大きなため息を一つついて僕はつぶやいた。


「……降参。僕の負けだ。お前の言う通り、僕は嘘をついていた。お前の言う通り、勉強は僕にとって現実逃避にすぎない」


 サナはテーブルに項垂れた僕を見て、そっと微笑んだ。不思議と温もりを感じる優しい笑みだった。


「マスター、わけを話してもらえませんか?」


「僕は、その……人と話をするのが苦手なんだ。サナも思ったかもしれないけど、僕は結構口が悪い。本心から言ってるわけじゃないんだけど、ついつい心に思っていることと反対のことが口をついて出てきてしまう」


「なるほど……思ってしまったことと反対のことを言ってしまう。マスターは素でツンデレ属性なわけですね」


「な、なに言って……僕はツンデレなんかじゃない! 大体属性ってなんだ?」


「ふっ……やはり想定通りの返事が返ってきました。マスターがツンデレなのは確定として……それだけですか? 私にはもっと根深い理由があるように思えるのですが」


 くっ……サナは僕がまだ隠し事をしていることに気づいている。やはり、只者ではないのだこのフィギュアは。見破られているのなら隠していても仕方ない。本当は話すつもりなどなかったが……。僕はおずおずと話し始める。


「……あれは僕が中学生の時だった――」





 ――悲劇は数学の授業中に起きた。



 いつものように授業を受けていると、ふと、先生が間違いをしているのに気付いた。単純な計算ミス。前の式の符号が逆になっていたせいで、黒板に書いてある計算結果が教科書と違っていた。


 周りをちらちら窺うと、皆当たり前のような顔をして授業を受けている。どうやら間違いに気づいているのは僕だけらしい。


 指摘してあげよう。そう思って、僕は手を挙げた。


 今にして思えば、この時が運命の分かれ道だったのだ。ここで僕が挙手し、先生の間違いを正そうと思わなければ、僕はその後も平穏な学校生活を送れていたはずなのだ。


 僕は手をあげつぶやいた。




「お母さん、そこ間違ってます」




 何が起きたのか分からなかった。その瞬間、教室の空気が一変し、気まずい沈黙に包まれた。そしてその数秒後。教室に大いなる笑いの渦が巻き起こる。


「だ~っはは! 何だよ篠宮、お母さんて!」


 級友たちが口々に僕を馬鹿にする。先生も口を押えて笑っていた。


 当時、僕には好きな女の子がいた。その子が僕を見て笑っているのを見て、僕はすべてを悟った。ただ間違いを指摘しようとしただけなのに、たった一言の言い間違いが僕の中学生活を一変させてしまった。


 そして、その時誓った。


 もう人と関わるのはよそう。何かしら間違いや不正を見つけても、なるべく関わらないように生きて行こうと、そう思った。


 高校に入ってからは、ずっと勉強だけをしていた。別に興味も無いのに東大を志望校にして、ずっと勉強していた。トーダイ目指して勉強していると言えば、皆、邪魔をしては悪いと思って声を掛けてこないからだ。僕にはその方が都合がよかった。

 学校ではいつも一人ぼっちだったが、何とも思わなくなった。自分にはお似合いの生き方だと、そう思った。





「――とまあ、こういうわけだ。分かっただろ? 面倒事に首を突っ込んでも良いことなんて無いんだよ。分かったら、もう……僕のことは放っておいてくれないか」


 話を聞き終えたサナがつぶやいた。



「……ちっさ」



「『ちっさ』って……お前なぁ!」


 僕が怒ってそう言うと、サナは笑いながらつぶやいた。


「だってそうですよ! マスターは間違って先生のことをお母さんと呼んでしまっただけじゃないですか? それだけの理由で、高校生活を勉強一色にしてるなんておかしいです! 馬鹿げてます!」


「……理解してもらおうとは思ってない。あれから僕は大変だったんだ。友達は三か月くらいに渡って、僕のことをマザコン扱いしたし、好きだった女の子には笑われ続けるし。あの時のことが原因で、僕はしばらくの間、人と話すことさえ億劫になっていたんだ。軽い対人恐怖症だよ? サナには分からないと思うけどね」


「……マスターが過去のトラウマに縛られ、クラスの皆と距離を取ろうとする理由は分かりました。ですが、マスター。それは結局、逃げなのではありませんか?」

「どういう意味だよ?」


 僕はカップの上に座るサナを睨み付けてそう言う。サナの方も、目を鋭くして僕を睨み返してつぶやく。


「言った通りの意味です。結局、マスターは自分から逃げているんです。クラスの皆と距離を取るのだって、妙なことを口走って自分が傷つくのが怖いから」


 全てを見透かしたようなサナの態度に、僕は反論できないでいた。

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