変わったよね
駅を出ると、もうすでにぽつぽつと雨が降り始めていた。
僕は傘を出そうとして鞄を開ける。そこにはやっぱり、にっこり笑ったサナがいた。
鞄から顔を出す彼女を見て、ふぅとため息をつく。
それを聞いてか、サナがにっこり笑ってつぶやく。
「マスター、お疲れのようですね」
「ああ。疲れてるよ。お前のせいで朝から疲れっぱなしだ」
「まあまあマスター、気楽に行こうではありませんか。怒っちゃやーよ、ですよ」
「はぁ……もういいよ。けど、サナ。お前よく、電車で丈に何も言わなかったな」
すると、サナはぽぅっと顔を赤らめる。いじらしくもじもじしながらつぶやいた。
「私、マスターの手に包まれて……なんだかとってもあっつくなってしまいました」
なんだ? こいつは何言ってるんだ? んとにわけ分からんことばかり言うフィギュアである。
「意味分かんねえよ。とりあえず、学校でも喋んなよ」
サナがぱぁっと目を輝かせる。彼女にしては思いもしなかった言葉だったのだ。
「マスター、それじゃ私……」
「もういいよ。お前はぶん投げても戻ってくるし、学校に連れてく他ないだろ。どうせごみ箱に捨てたって戻ってくるだろうし。僕としては、もう打つ手がない」
サナはよく分からない力を発揮して遠くへ飛ばされようとも、一瞬で僕の前に戻ってくる。そんな奴手放したくても、手放す方法がないじゃないか。もう、僕の根負けである。
また、僕をからかうようなことでも言うのだろう、と思っていたのだが、予想に反してサナは突然泣き始めてしまった。
「う、嬉しいですぅ……ぐすっ。こんなことってあるんですね。私はマスターと出会えてほんとに幸せです」
「お前、泣くこたねえだろ……」
サナは鞄の中で小さくなって、嗚咽を漏らしながらつぶやく。
「だ、だって……こんなに嬉しいこと、生まれて初めてだったから。私をマスターに認めてもらえた。こんな私を妻にしてくれるなんて……マスターが初めてだったので」
いや……結婚した覚えはないし。そもそも認めたわけでもない。サナは僕にとって、得体のしれない美少女フィギュアであることは変わりないし、今日だって仕方なく学校に連れて行ってやるだけだ。他意はない。
しかし、泣きながら嬉しそうに笑うサナを見ていると、そんなことをつぶやく気は失せてしまった。人が本当に喜んでいる表情をずいぶん久しぶりに見た気がする。この純粋で可憐な笑顔を壊したくなかった。……とりあえず今日のところは。
僕は未だうれし涙を流すサナに、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「サナ、傘くれ」
サナは顔を上げて僕を一目見る。そして、涙を拭いて、鞄の中の傘を差し出した。
「どうぞ、マスター」
受け取った折り畳み傘を開いて歩き出す。
「これも一応、あいあい傘ってことになるのか……」
「ほ? 何か言いましたか?」
「……っなんでもねえよ!」
雨はだんだんと勢いを増していたが、傘の中はすっかり晴れ間がさしていた。
◆ ◆ ◆
校門の前までやって来て、僕は鞄をそっと開けた。
「いいか、サナ。校内では絶対出てくるなよ」
「了解ですマスター。マスターのご命令とあらば、たとえ火の中水の中!」
本当に大丈夫なのか不安だが、ひとまず校門をくぐる。
下駄箱で靴を履きかえていると、
「おはよ、篠宮しのみやくん」
声を掛けてきたのは、空だ。二つに結った髪が制服によく似合う。きちんとひざ丈まで伸ばしたスカートは、彼女の純朴さを物語っている。頭に着けている小さな青いリボンは、空のお気に入りらしく、昔からつけていた。
「なんだ、九條か。おはよう」
すると、空は少しむっとして言った。
「なんだって何よ! 篠宮くんこそ、昨日せっかく誘ったのに、無視してさ!」
「ばっ……! お前、彼氏に聞かれたらどうするんだよ!?」
「あいつのことなら別に平気よ。篠宮くんみたいにみみっちい男じゃないし」
「み、みみっちいって……」
「だいたい何をそんなに気にしてるわけ? 友達と話すくらい普通でしょ?」
返す言葉が見つからず沈黙する。友達と話すのは普通。空の言ってることは間違ってない。でも……。
「蓮ちゃんは変わったよね」
「…………」
その時、始業五分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。
「あ、もう行かなきゃ。じゃあね」
空は教室へと駆けていく。
空の言葉が脳内で反芻する。
――蓮ちゃんは変わったよね。
……違う。変わったのは僕じゃない。僕を見る周りの目が変わったんだ。
と、鞄からひょっこり顔が出る。サナが小声で囁いた。
「マスターお言葉ですが、急がないと遅刻してしまいますよ」
そうだ。もう予鈴なってたんだった。僕はサナを鞄の底につっこみ、声を殺して言う。
「そうだな。あ、サナ! お前、出てくんなつったろ!」
「……ぽっ♡」
「顔を赤らめて誤魔化すなよ! まあいい。これが最後の忠告。絶対出てくんなよ!」
「合点承知でございます」
サナと喋ってると疲れる。だが、その分怒る気も失せてしまうのだった。
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