第19話
「はぁーあぁあ」
ベンチに腰掛けると死確者は大声を出した。固まっていた体を解放するように空へと高く腕を上げる。組んだ指先は切れそうなほどだった。
限界をむかえたゴムのように勢いよく解くと、右手をベンチの後ろに回して体の全てを背もたれにかけた。腕時計を手元に寄せると、重い溜息を漏らした。
「もうすぐだな」
「ええ」
死確者は腕をそのまま頭へ運び、無造作に掻いた。
「最後の晩餐してみたが、失敗だ。まだ実感沸かねえや」
「あれ、最後の晩餐だったんですか」
「妙に濃かったり薄かったりする酎ハイに熱々の揚げ物。焼鳥、揚げナス、冷奴。山盛りのポテトに焼きそば……チープ飯、最高だ」
「そうであれば、良かったです」
「というと?」
「個室を求めていたから居酒屋を選んだのかと思っていました」
成る程、の意味を込めた頷きを死確者はした。
「確かに俺の推論を話そうと個室にはしたが、メインは飯だ。何を差し置いても、食うことが何よりもの優先事項だった。ここ数日、ろくに食ってなかったからな」
そうか……記憶を辿ってみると、死確者はそういえば食事をとっていなかった。私は食べなくていいのでつい忘れていた。食事の時間も全て犯人探しに費やしていたようき思っていたのは比喩表現ではなかったというわけだ。
「大学生みたいなこと言うが、一度でいいから居酒屋で好きなだけ死ぬほど食べてみたいと思ってたからな。ちょうど良かったよ」
満足そうな表情で腹を叩く。年齢の割には細身だが、腹部だけは不自然に膨らんでいた。
どこからかラッパのような音が聞こえる。顔を向ける。遠くの方に、温かみのあるオレンジが光った屋台を見つける。珍しい。人が引いている。人力で動かしている。
「なんて書いてある?」死確者は必死に目を凝らす。
「ええっと……」私はほんの少しばかり目を細める。「ラーメンですね」
赤い暖簾に書いてあった白文字を読み上げると、死確者は「おっ」と嬉しそうに背を起こした。
「今の時代に、屋台のラーメンをお目にかかれるとは」
「食べに行きますか?」
まだ少し時間はある。
「ロンのモチだ」
麻雀用語なのか、正月にこぞって日本人が食べるものなのか、よく分からない言葉を発すると、死確者は勢いよく立ち上がった。
舗装された道はまっすぐ伸びていた。一定間隔に置かれたベンチを歩いて抜ける。上には街頭があり、煌々と照らされている。
辺りでダンボールを敷布掛け布団として使っているホームレスが点々としているのもその要因を形成する一つなのかもしれないのだが、こう暗闇の一員になるとなんとも不気味である。なかなかな恐怖感を醸し出している。昼に子供達が駆け回っている場所だとは思えない恐怖を醸し出している。
普通は見渡す限り暗いのだろうけれど、今は違う。オレンジ色の電球がぼんやり遠くで光り、屋台の輪郭を薄く作っている。まるで神光であるかのような、希望の光であるかのような、不思議な魅力がある。すがりたいのか、それともどこかでかねてから求めていたのか分からない。いずれにしろ死確者はその方向に歩みを進めており、私はその後をついて行っているということは確かである。
屋台まで50メートルと少しのところで坂道に差し掛かった。電球がところどころ切れ、両脇に草木が生えている。死確者が登り始めると、傾斜が少しあるからか、速度が落ちた。
すると、木の陰から人が出てきた。暗かったからか、突然だったからか、死確者とぶつかる。互いに謝ることはなかった。それどころか、譲ることさえしない。ぶつかったまま、体をつけているのだ。どうしたのだろうか。
数秒経つと、死確者は後退し始める。というよりかは、相手に押し退けられている。
そのままどんどん後ろに下がり、地面を白く照らす街灯の支柱に激しく、抵抗することなくぶつかる。死確者を見て、異常事態が彼の身に起きていると気づいた。
相手は、辺りで寝ているようなホームレス。髭を生やした男性。手には手袋をはめている。
死確者は頬を痙攣させながら、相手の肩を掴み、顔を見た。
「お前……」
瞳孔を開く死確者。ホームレスは体を少し離してから、また強く押した。二度三度。いやそれ以上。複数回押され離されを繰り返される。
次第に死確者は目を強く見開いていく。ホームレスが退いた直後、小さく波打った死確者はずるずると体を落として、尻餅をついた。脇腹辺りから血が出ていた。服に滲んで、赤く染め上げている。ホームレスの手の先を見ると、指先に同じく血がべったりと付いているのと同時に、光輝く何かを握っているのを捉えた。
あっ。
ナイフだ。果物ナイフだろうか、かなり小さなもの。そこで全て気づいた。死確者は刺されたのだ、と。
ホームレスはポケットから出した紺色のハンカチで刃の血を拭うと、死確者の前でしゃがんだ。
「元はと言えば、私のフリして偽った君らが悪いんだ。恨まないでくれよ」
フリして偽る……そんなまさか……だが、心当たりはひとつだけだ。
「体が思うように動かないだろ。俺にしかできない特殊な技だ。臓器と神経を抉る。まず踏ん張らせなくする。それから、何度か刺して頭の上から足の先まで、それぞれの器官に繋がる神経を断ち切っていく。次第に体の機能が奪われていくのが分かっただろ? けど、安心していい。もうお前は長くない。どうせ黙ってたって動けぬまま、ただ衰弱して、死ぬだけだ」
さらに距離を詰め、ナイフを光にかざす。
「だが、口だけはちゃんと動くようにしておいた。だから、君の冥土の土産に教えて欲しい。どこから私をミスター・アライだという情報を得た?」
確定。彼は死確者が成りすましていた例の、殺し屋だ。
死確者は弱りつつある目で威嚇するように見つめたまま黙っていると、ミスター・アライは顔を鼻先まで近づける。
「ちなみに嘘ついてもダメだぞ。一緒にいたってのは分かってるんだからな、刑事さ……いや、元刑事さん、という方が正しいな」
既に身元までバレているということか。
「どこから、か……」死確者は鼻で笑うと、ミスター・アライは体を退けた。「どこからでもない。ただの偶然だ」
「馬鹿言うな。まぐれで本人になりすましていました、とでも言うのか。そんなので騙されるか」
騙してない。信じられないかもしれないが、そうなのである。この男は、私が適当に選んだ人間だ。ミスター・アライの顔としてランダムに。正真正銘、完全に、本当に、偶然なのだ。嘘ではないことを言葉にして真摯に伝えたかったが、いかんせん私は天使。担当死確者以外とは会話することは残念ながらできない。何をどうしても不可能である。
「どこから情報を得た。私に扮していた仲間は今どこにいる」
突然、どこからかサイレンが聞こえてくる。この音はパトカーだ。しかも、数台。次第に大きくなることから推察するに、この辺りを巡回しているわけではなさそうだ。
ミスター・アライはしかめ面で舌打ちをする。
「余計な誰かが呼んだせいで、あまり時間がないらしい」ナイフを顔の前まで持ってきた。「ほら、早くしてくれないか? 私は手荒な真似は無駄にしたくない主義……」
「
見合っていたミスター・アライは斜め下に視線を落として顔をそらした。反対の方に刃先が向いたナイフで何重にも小さな円を書く沈黙する。数秒ほど考えると、一つため息をつき、おもむろに立ち上がった。
「君のその口の堅さには敬意を称しよう」
ミスター・アライは、握っていたハンカチの真ん中にナイフを置いた。
「だが、どんなに口が堅かろうが、脅やかすものは例え誰であろうと生かしてはおけない。必ず見つけ出して消す。仲間もタレコミした者も全員見つけて、なんなら家族も。寂しくないよう、もろとも消してあげるよ。あぁ、お礼はいいからね」
死確者はどこかを見ながら鼻で笑う。
「気が済むまでやりゃいいが」そして、顔を相手の目に向けた。「いなかったからって恨むなよ」
ミスター・アライは不敵に微笑むと、「安らかに、元刑事さん」と会釈すると、踵を返して足早に去っていった。
私は慌てて駆け寄り、膝を曲げた。死確者は肺の空気が無くなるまで潜っていた時のように、息を激しく吸い込んだ。いなくなったのを契機に、突然呼吸を早め出したのだ。
「大丈夫ですか」
死確者は顔を向けてくる。「お前にはそんな風に見えてんのか」
「いえまったく」私は縦に伸びた数多くの傷口に手をかざす。
「それを聞いて安心したよ」
「せめて痛みだけは取り除いておきましょうか」
「ついでに治しちゃくれねえのか」
「すいません、致命傷となる可能性のあるものに関しては治療してはいけない決まりになっているんです」
死確者の死期を伸ばすようなことはしてはいけない。流れ出す血を止めることはまさに該当行為だ。
「なんとも笑わせてくれる決まりだこって」
死確者は片方の口角を嫌々そうにあげた。
「では」
私は傷口に両手をかざし、力を込める。ふんっ!
「よし」これで痛みはないはずだ。
死確者は少し起き上がり、腹の辺りをさする。「多少楽になったわ、サンキュー」
不意に死確者は夜の空を見上げた。
「人生ってのは上手くできてる。幸運が一つ訪れりゃ、不幸を一つ与えてくる。公平、バランス、いや帳尻合わせか。何にしろ、一番の幸福を味わった俺にはこんな最期が用意されていたみたいだ。ったく、やれやれだぜ」
額や頭に浮いた汗がゆっくりと滴るように落ちていく。時折痛みに堪えるように眉をひそめたりもしているし、どうやら痛みはまだ取り除ききれていないらしい。ということは、致命傷と見て違わないだろう。
「にしても、神様はなんちゅうタイミングでこんな確率持ってくんだよ」
「せめてラーメン食べてからにして欲しかったですよね」
「まったくだ」薄ら笑いを浮かべている死確者。目は遠い。焦点が合わなくなっている。
「もしよければ、あとで理由聞いておきましょうか」
所定の手続きを経て上司に届出をすれば、判るはずだ。
「いや、別に知りたいわけじゃないんだ。言うなら、そう。ちょっとした、ほんのちょっとした嫌味だ」
そう言って、死確者は口角に小さなしわを寄せた。途端、激しく咳き込み、口から血を出した。流れ出た赤い液体は喉へ細い道を作る。
「不思議だな。痛みは減ったのに、辛くなってく。力が入らねえし、言うこと聞かねえ。体が自分のもんじゃねぇように思えてくる」
瞬きは遅くなり、呼吸することさえ辛くなっている様子。もうそろそろか。
死確者は視線だけ私に向けた。「ありがとな、慰めてくれて」
慰め? 心当たりがない。
「綿貫さんを殺してないってお前が言ってくれた時、俺は救われた」
私は軽く微笑んだ。「何言ってるんですか。本心ですよ。まあ、天使に心臓はないのですが」
死確者は笑みを浮かべた。目尻を下げ、白い歯を見せた。
「最後の最後まで、食えないやつだったな」
「だから、天使は食べれませんって」
死確者は顔を私に向けて、手を挙げた。
「じゃあな、相棒。先に行ってるわ」
私も手を挙げた。「すぐ向かう」
死確者の目がゆっくりと瞼に覆われた。そのまま、まるで糸か切れた操り人形のように、腕を地面に落とした。
心臓にも糸はある。見えなくとも生命という名の糸は確かに伸びている。それは腕と同時に、いや腕より少し早かったかもしれない。ただ静かで音を立てなかったから、分からなかっただけで。
心臓に伸びた糸は、たった今、切れた。
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