第17話

「これが真相だ」


 少し鼻を腫らした死確者は美春みはるさんに、桂木さんの奥さんに全てのことを告げた。茶色いフローリングの床へ目線を落としたまま、何も答えない。長く垂れ下がった黒髪は、座っているクリーム色のソファに弾かれた陽の光に反射し、女性特有の艶やかな光沢を放っていた。

 死確者はテーブルの上から静かにコップを手に取り、ふちに口をつける。長い喋りで乾いた唇を麦茶で潤すと、大きく息を吐いた。


「やっぱりあの人は、罪を犯していたんだ」


 美春さんは俯き加減に妙な反応を示した。


「節はあったのか」


 やはり、私もそう見えた。


「節というか、女の直感でなんとなく」


 美春さんは指を交互に絡ませる。


「でも信じたかった。世間がなんと言おうとも、私の勘が何を言っても、無実であることをあの人の妻として信じていようって……祈ってたんだ、ずっと」


 左右の手に力を込めた。交差した指は強く結びつく。それは、20年経った今、無残にも打ち砕かれてしまったことを如実に表していた。死確者はただ腕を膝に乗せた前傾姿勢のまま、何も言わずに沈黙を貫いている。


「けど、よかった。何年何十年経っても、心にかかったもやは払うべきだもん。嫌でも辛くても、なんであの人が殺されなきゃいけなかったのか。本当のことはやっぱり、知っておくべきだから」


 美春さんは顔を上げて、微笑んだ。向いているのは、死確者の顔。精一杯気丈に振る舞っているのだろうけど、だとしても彼女は強い。信じていた者に長い年月をかけた結果、裏切られていたことが確実となってしてしまったのに……


「これでこれからをちゃんと生きていける。ありがとう、キョウ君」


「……ああ」


 視線をそらした。歯切れも悪かった。蛇香会や真犯人と対峙するときは饒舌だったのに、まるで人が変わってしまったかのよう。お礼を言われたことが照れ臭かったのと始めは思ったが、「キョウ君」「美春」と呼び合う二人の距離感や会話の応酬具合を見ると、それだけではない気がする。


 美春さんの顔からすっと笑みが消えた。唇を内側に丸め、視線を落とした。


「立ち直れるか?」


「すぐには無理かも。でも、血の繋がった優里ゆりの方が精神的にショック受けるだろうから、私がいつまでも打ちひしがれてられないもの。それに」


 美春さんは視線をそらす。移った目の先には、写真立てで飾られた写真があった。結婚写真だ。


「今は支えてくれる人がいるから、必ず立ち直る。立ち直れる」


 美春さんに腕を回しているのは、桂木さんとは別の男性。バイト先で知り合った人らしい。傷心している美春さんを慰め、そばで付き添い、事件後暫くして再婚に至ったそうだ。その隣には、二人が赤ん坊を抱いている家族写真だ。満面の笑みでなんとも幸せそうであった。


 同じく写真を見つめたまま、死確者は「カイト君はいくつになった?」と口にした。


「来月で7歳。もう小2よ」


「早いもんだな」


「優里の時もだったけど、子供の成長はあっという間。またすぐに自立してっちゃうわ」


 互いに軽く笑みをこぼすと、再び沈黙が流れる。雑談になると、会話が急激に止まってしまう。運転初心者が不安なあまり、過度にブレーキを踏み込むかのように、都度都度ストップがかかる。


「逮捕の連絡はもう来てた?」


 一瞬沈黙し、美春さんは「うん。せっかく来てもらったのにって思ったら言い出せなくて。ごめんね」と弁解した。


「いや、別に謝らなくていいって。俺はただ詳しいことはまだ教えてくれないと思ったから、来ただけだし。それにほら、なんていうの、その……」


 急に口下手になった死確者を見て、美春さんは笑い出す。


「やっぱり変わらないね、キョウ君はいつもそう人を気遣って動いてくれる。優しくしてくれる」


「そうだっけ」


 まったく……とぼけたフリをして。私でも分かるぞ。


「そうだよ。その慌てる感じだってあの頃と一緒……」


「ママーっ」


 反響の仕方からして家の中だろうけれど便宜上、どこからか声が聞こえる。

 美春さんは振り返った。向こうには、廊下と階段があるはずだ。


「今行くわ、カイト」


 そう言い終えると、再び死確者の方へと顔を戻した。


「ごめん、ちょっと待っててくれる」


「いや」死確者は両膝に手をつき、立ち上がった。「そろそろおいとまするよ」


「ごめんね……」


 リビングを出てすぐ右に曲がり、玄関へ。いそいそと革靴を履く。踵を潰しながら足を入れることも、お構いなしだった。

 履き終え、靴先を地面に立てると、美春さんは「キョウ君」と呼び止める。つま先を叩く音がやむと、リビングの扉から死確者のそばまで距離を詰めた。


「あのさ、もし嫌じゃなければなんだけど、今度お礼に優里と一緒にどこかでご飯でも……」


「幸せか?」死確者は遮った。


「えっ?」

 意表を突いた質問に、美春さんは瞬きを一時的に増やす。死確者は顎を引く。


「今の生活は美春に……お前にとって幸せか?」


「……うん」


 縦に振る動作と一緒に出した美春さんの声は、二つの言葉を乗せた声はとても優しくあたたかく、何より幸福であることを強く感じさせた。


 死確者は振り返り、微笑んだ。歯が浮かぶ。


「それで十分だ」


 踵を返し、死確者は玄関を出る。


「またね」


 美春さんの言葉に、死確者は手をあげた。何も口にせず、もう振り返ることもなく、ただ静かに肘を軽く曲げながら、手をあげた。




「だからでしたか」


「何だよ」


 死確者は煙草を1本口に運んだ。周りは閑静な住宅街。昼間だが、人は歩いていない。私は気にすることなく、堂々と会話を続けた。


「知り合いだったから、この事件を解決しようとした」


 死確者は手で覆ったライターの火に顔を近づける。深く吸い込み、空に高く煙を吐いて一言。「厳密に言えば少し違う」


「どこがでしょう?」


「知り合いってとこだ」指に挟んだ煙草を下に向ける。「あいつは俺のなんだ」


「元カノというのは、昔付き合ってた彼女ということですか?」


「ご丁寧に訳すな、恥ずかしいだろうが」


 死確者は眉間にしわを寄せながら、煙草を吸った。


「なんで別れたんです?」


「根掘り葉掘りと……遠慮なくズバズバ切り込むよな。淡々と言うのがそんな感じ出さないからなんともズルい」


 死確者は指で煙草を下に弾く。勢いで、灰が落ちていく。


「まあ、性格とか趣味とか合ってたし、居心地は良かったんだよ。好きな気持ちに嘘も偽りもなかった。けどさ、なんというか、ある時から思い始めたんだ。俺じゃダメだなって」


 なんやかんや話してくれた。


「はぁ」


「分からねえかもしれねえけどよ、人間にはそういう瞬間がふとした時に来んだよ。俺なんかがこれから先ずっと幸せにできるのだろうかって、俺よりももっとずっと幸せにしてくれる相手が現れるんじゃねえかって、大学の時の俺は思ったんだ。だから、別れた」


「好きなのに別れた……」


「まあそんなんだったからさ、喧嘩別れとか険悪な別れ方じゃなかったんだ。良い別れ方って表現が適してるか分からないが、でも、美春がこれからも幸せに生きてって欲しいって願って別れることができたから、天使さんには難しいかもしれないけど、そんな感じだと思ってくれ」


 死確者は呼吸をするように煙草を吸った。先が赤く染まる。


「だからさ、変な話だけどよ」口から煙と一緒に言葉が出てきた。「彼女が結婚したってのを風の噂で聞いて、嬉しかったんだ。あぁ、幸せになってくれたんだなって嬉しくなった。逆に旦那が死んだってのを聞いた時、彼女から幸せを奪った犯人を見つけようと心に決めた」


「もしかして、本当の未練って……」


 死確者は鼻で短く息を吐いた。はぐらかすように一笑された。察しろよ、でも口にすんなよ——そう言っているように感じた。


「すいませーん」


 後ろから声が聞こえる。振り返ると、小さな男の子がこちらへ走ってきていた。死確者は煙草を携帯灰皿に放り込み、辺りの煙を払うと、膝に手をついた。目の前で少年が立ち止まる。目線はほぼ同じだ。


「どうした?」


 口を広く開き、上がった息を整える。少年は「ぼく」と言葉を出した。


「ぼく、カイトっていいます」


 死確者の眉が上がった。


「カイトって……神部かんべカイト君?」


 美春さんの今の苗字を付けて確認すると、カイト君は縦に首を振った。2階にいたと聞いていたが、ここまで走ってきたのか。


「どうした? 何かあったか?」


「これ」


 そう言って差し出したのは、カード。ロボットが描かれている。どの角度から見てもラメで光り輝いており、右隅に“スーパーレア”という表記されている。


「これは?」


 死確者は何故手渡されたのか分からず、キョトンとしていた。


「ぼくのいちばんすきなカードです」


「これを……どうしておじさんに?」


「えがおにしてくれたから」


「笑顔?」


「うん」縦に大きく頷く。「ママをえがおにしてくれたから」


 死確者は目を開く。


「そうか……」


 顔を伏せる。震える声を殺しながら、鼻をすすりながら、死確者は小さく肩を震わせた。込み上げてくるものを振り払うように大きく息を吸い込むと、顔を上げ、カイト君の頭に手を置いた。


「ありがとな」


 優しい笑みを浮かべると、カイト君も緊張していた顔を崩した。


「お母さんは?」


「おうちにいます」


「一人で来たのかい?」


 怒られるとでも思ったのだろうか、カイト君は合わせていた目を外し、顔を俯かせた。死確者はゆっくり膝を曲げ、目線をさらに落とした。


「じゃあ、一つ約束してくれるかい」


 これまでとはまるで別人のような優しい口調の死確者であったが、その言葉に隠された意味の強さと深さにカイト君は一瞬で感じ取ったらしい。少し間が空いてから、「うん」と答えた。


「おじさんはちょっと用があって、もうお母さんのところへは来れないんだ。だから、今度はカイト君がお母さんを笑顔にしていかなきゃいけない。お礼をすることは大切なことだ。でも、お母さんを心配させるのは良くない。分かったかい?」


 カイト君は少し視線を上げると、唇を内側に巻きながら頷いた。


「よし」死確者は笑みを戻す。「一人でも帰れるかい?」


 カイト君は縦に頷くも、先ほどより力がない。目も泳いでいた。このまま帰すのは危険だと判断したのだろう、死確者は「一緒に帰ろうか」と声をかけ、手を出した。


 安心したのか、カイト君は小さな手を重ねた。死確者は強く握りしめ、来た道を引き返す。


「ほらな」


 そう小声で発した死確者を見ると、既に私の方へ顔を向けていた。


「他人のために人生使うってのも、案外悪くないだろ」


 死確者は口元と頬を緩めた。会った時から一番の、心からの笑顔だ。


「おじさん」


 カイト君が声をかける。見ると、目線はこちらの方に向いていた。


「おじさんはだれとはなしてるの?」


 子供は耳がいい。さっきの小声が聞こえていたようだ。


「そうだな……」


 死確者は虚空を見ながら少し考え、カイト君に目を向けた。


「相棒、かな」

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