第15話

「いつからだ?」鶴川さんは静かに声を出した。「いつから気づいてた?」


 死確者の大きな叫びにさえ動揺を見せないその姿は、ただ日常生活のありふれた小話でもしているのではないかと錯覚してしまうほど、自然な素振りだった。


「確信に変わったのはついさっき、この目でお前を見てからだ」


 鶴川さんは一笑し、腰に手をやった。「まんまと罠にはまったってことか」


「お前が綿貫さんを殺したのか?」死確者の反応は真逆、笑顔など一切無かった。


「……ああ」


 一瞬言葉を詰まらせながらも、鶴川さんは軽い一言を発した。


「なんでだよ……なんで殺したりなんかしたんだ」


「命令だったからだよ、あいつからの命令だ」


 命令。どこかで聞いたことのあるような気がする。


「お前……もしかして蛇香会の一員なのか?」


 そうだ。確か、中国マフィアのリーダー、王も同じような台詞を言っていた。


「一員、か」


 鶴川さんは体に染みこませるように言葉を吐いた。


「確かに、蛇香会本部の命令に従って、見張っていた。だが、それだけ。属してもいるわけでも、部下や上司がいるわけでもない。一員というよりは、ただの操り人形。いや、奴隷に近い」


「なら、綿貫さんもスパイだったってことか」


「いや、彼は違う。彼じゃない」


 死確者は眉をひそめた。反応は妥当だ。

 綿貫さんがスパイではないのならば、一体誰なのか。一連の事件の発端がうやむやになってしまう。分からず、迷う。けれど、不思議なものだ。それはたったの一瞬。まるで駅を通過する快速列車のように、一人の顔が脳裏をよぎった。そうか、登場人物を消去法で考えていけば、もうあの人しか残っていない。


「そうか」死確者は眉をひそめた。「さんか」


 やっとかと言わんばかりに、鶴川さんは鼻で嘲った。


「いわゆる産業スパイってやつだ」


 鶴川さんはポケットに両手を入れた。


「なら、桂木さんは?」


「桂木さんを殺したのも俺だ」


 二人を殺したのは同じ人物だったのか。


「ふざけんな……ふざけんじゃねぇよっ」


 感情荒ぶっているのがよく伝わる。


「犯人捕まえようと頑固に捜査してた俺は周りから呆れられた。見放されもした。けど、お前だけは俺を信じて、警察学校からのよしみだからって、忙しい合間を縫って時に手を貸してくれた。俺はお前を信じてた。信じて疑わなかったんだ」


 死確者は拳に力を込めていく。


「今、分かったよ。それは真犯人を見つけさせないためだったんだな」


 目から力が抜ける。


「20年だぞ、20年……その間ずっと、お前は俺に最大で最悪な嘘をついていた」


 死確者の声色は徐々に落ち着きだす。だが、反比例するように憤激の圧が増していく。


「俺の気持ち、分かるか。裏切られた今の気持ちが、テメェに分かんのかっ」


 死確者は拳を強く握る。指と指の間から血が滲み出ていた。


「なんで……なんで蛇香会になんかっ」


「なんでだろうな……」鶴川は視線を上げた。昔を思い出すよう、思い起こすよう。「もう分からなくなっちまった。とっくの昔に理由を捨てたからかな。考えるのをやめた」


 鶴川さんはポケットから手を抜いた。「だから、今回もやめることにする」


 真っ直ぐこちらに構えてくる。掌に握られていたのは、闇に浮かぶ黒々としたモノ。

「テメェ……」


 拳銃だ。


「聞いたことないか? 蛇香会が壊滅されないのは、バッグに某国政府が関わっているって噂を。マフィアを隠れ蓑にして、各国の情報を現地の人間を使って横流しさせる、それこそいわばスパイ活動たる行為をしてるってな」


 鶴川さんは「何が言いたいか分かるだろ?」と、右手親指を弾き、安全装置を外した。雨の降る中でも、カチという音が辺りに響き渡る。


「俺はトカゲの尻尾だ。蛇香会も某国政府もスパイ活動をやめることはない。俺を捕まえても、世の中はあいつらは何も……何も変わらないんだ」


 鶴川さんは唇を震わせる。


「変わるよ」


 死確者は鶴川さんとの距離を詰めていく。


「桂木さんと綿貫さんの遺族は報われる。残っていたトゲをようやく取り除けるんだ。やっと未来に進むことはできる。それだけは、そのことだけは間違いなく、必ず変わる」


 隙を見て私は人差し指を手前へ引く。ゆっくりと慎重に。


「さっきお前は欺かれていた気持ちが分かるか、そう聞いたよな。正直に言う。気持ちは分からない。だがお前はどうだ? お前は、欺かなきゃならねえ気持ちが分かるか。一つ嘘をつくたび、一つ何かを偽るたび、嫌で苦しくて吐きそうで、心も体も何もかもぐじゃぐじゃに潰されそうになる恐怖と絶望を、分かってくれるってのか」


「そんなん決まってるだろ」


 死確者は強い語気でそう言った。


「分からねえよ。そんなクソみたいな気持ち、分かりたくもねえ」


 鶴川さんは頬に笑みを浮かべた。弱々しいのに、目はどこか希望のようなものを感じ取れた。なんだろうか、嫌な予感が体を走り抜ける。


「やっぱり、お前は変わらないよ、杉上」


 鶴川さんは銃口をにつけた。目を見開き、前のめりになる死確者。


「もう、帰る場所も帰れる場所も、何一つないんだ」


「鶴川っ」


 鶴川さんは頬に一筋の涙を伝わせ、引き金にかかる指に力をこめた。


 だが、銃弾は出ない。何度も引くが、発射されない。


「……あれ?」


 ふぅ……


 よかった。安全装置は戻せていたみたいだ。だが、あくまでほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。


 私は駆け出した。ついさっき思いついた作戦を実行するため、懸命に足を動かした。


 鶴川さんが安全装置を再び外した時、私は正面で跳ねた。背中に向かって体を通り抜けた。案の定、鶴川さんは目を素早く動かした。よし、動揺している。隙間なく、素早く通り抜けていく。背中から正面へ、右から左へ、左から右へ。鶴川さんは目から顔、次第に手で払う仕草へと変化させていく。動揺が広がっていくのがよく分かる。


 背中から正面へ跳ねた時、死確者は目を点にしていた。私に対してなのか、それとも鶴川さんに対してなのか分からないが、「何をしてるんだ?」と言い気な戸惑いの表情をしている。


 どうする。死確者に瞬時に察してもらうには……そうだっ!


「チョベリグッ!」


 死確者は鶴川さんの元へ走り、拳銃に手をかけた。小刻みに揺れる拳銃。銃口がゆっくりと上へ向く。頭から逸れた途端、弾が飛び出した。激しい発射音とともに一発、そして二発。

 だが、銃口はゆっくりと下に傾いていく。私は鶴川さんの注意を逸らす邪魔をする。再び上へ。少し置いて三発目が出た時、銃弾は髪をかすめた。死確者は鶴川さんの足の甲を踏む。怯んだ時、銃口は斜め下へ。そして、トリガーが引かれる。飛び出した四発目の銃弾は、鶴川さんの太ももへ鋭くめり込んだ。


「がはぁ」


 鶴川さんは口から固まった唾を出すと、膝を崩し、後退り。手から力が抜け、拳銃がするりと地面に落ちる。甲高い音が響き渡ると、死確者は足の側面で蹴り飛ばした。


 鶴川さんは死確者の顔に頭突きを入れる。鼻と歯茎から血を流す死確者。続けざまに、腹へ一撃浴びせた。みぞおちを押さえながら、死確者はひどく咳き込み、地面へ沈むように倒れこんだ。鶴川さんは口元を微かに動かし、逃げ出した。目元に作ったしわは不思議と哀しみと申し訳なさを感じさせた。


 今のって……あ、いや、今はそれどころじゃない。私は死確者に近づき、膝を折る。


「大丈夫ですか」


 死確者の背中へ手を伸ばすと、ドンッという音が遠くから聞こえた。音のした方へ顔を向けると、鶴川さんが体で扉を押し開けて出て行ったのが見えた。闇の中に差し込んだ光のように、外の明かりが中に入ってきた。少し遅れて思わず身構えるほどの強い風が吹き込んできた。雨の激しさを物語っている。


 死確者は顔を上げていた。口元を血が縦断していた。荒い息を整えながら、地面に手をついた。立ち上がるために歯をくいしばる姿は、かなりの損傷を受けたと分かる。扉へ向かい、死確者は外へ飛び出す。雨はまるで神様がシャワーでも散らしているかのではと勘くぐってしまうほど激しく降り注ぎ、暗雲は気味が悪いほどに黒みがかった鉛色をしていた。台風でも直撃しているかのような惨状である。人間の何倍も視力の良いはずの私でさえ、前が見えづらいという視界不良だ。人間ならばその苦労はさらに増しているだろう。死確者もあまりの激しさに思わず少し怯むものの、すぐさま眉の辺りに腕を付けて一歩ずつ歩み始めた。


「鶴川っ」


 コンクリートの地面に叩きつけられる雨音に負けじと叫び声を上げる。

 鶴川さんは細めた目をこちらに向けた動作が見えて、ようやくどこにいるのか判明した。急いで向かう。近づいているのに気づいた鶴川さんも、傷ついた太ももを引きずりながら距離を離そうと必死になる。足を止めることなく、後ろ歩きのまま距離を置く。

 突然、鶴川さんの体が揺れる。ガクンと膝を後ろから曲げられたかのように、体勢が崩れる。そしてそのまま、視界から消えた。姿を消してしまったのである。


 慌てて駆け寄り見てみると、そこはもう海。そうだ、鶴川さんは海に落ちてしまったのだ。


 私は帽子を脱ぎ捨て、すぐさま海へ飛び込む。海は深くなればなるほどブラックホールのような闇が広がっていた。肝心の鶴川さんの姿が見えない。


 どうすれば……ん?


 下から何かがのぼってくる。赤黒く濁っている。ふと思い出す。死確者は怪我をしている。血を流しているのだ。


 見当はついた。後は深く潜るだけ。私は煙のような血の元を辿っていく。無抵抗だったからか、鶴川さんはかなり沈んでいた。両手を挙げたまま、体を落としていく。私は脇から囲むように抱え、急いで浮上する。


 海面に出ると、死確者が手を伸ばしていた。鶴川さんを渡すと、ゆっくりコンクリートの上にのせた。自力で上がると、死確者は鶴川さんの手首に手を付けていた。


「意識は?」


「ない」


 そう答えながら、死確者は人工呼吸を始める。顎を少し上げ、鼻をつまみ、口から息を吹き入れる。体を起こし、今度は心臓の辺りに組んだ手を置く。腕を伸ばしたまま、強く押す。1、2、3、4、と回数を数えている。


「お前は死んじゃいけねぇ。お前はまだ罪償ってないだろうが」


 再び息を吹き込む。


「戻ってこい、鶴川っ」


 心臓マッサージに変える。


「死んでいいことなんかこの世にねぇんだよっ」


 死確者は一瞬だけ目元や頬を手のひらで荒く触れ、人工呼吸を再開した。拭ったように見えた。


 正直なところ、生死に関しては我々はどうにもできない。生命力、生きたいと思う心持ち……結局のところ死ぬか生きるかは鶴川さん次第だ。


 あとは神に祈るしかない。贖罪の機会を与えるため、私も祈っておく。

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