第10話
更けの近い夜空でも、月は姿を残していた。時折灰色の暗い雲が邪魔をする。できる陰を気にすることなく、艶やかな光を放ち続けている。太陽とは違い、まるで粉のようである。
私たちは人通りのあまりない、そもそも道幅もひとりとすれ違える程しかない路地の奥へと歩んでいる。多くの観光客がガイドブック片手に笑みを浮かべながら歩いている大通りとは異なり、危険な空気が漂っていた。近寄り難い危険で怪しげな雰囲気はどこからも存分に醸し出されている。大通りからたった一本入っただけなのに様相が一変してしまうのは、本質的な部分はいつもは隠されているからなのだろう。
「大丈夫ですかね?」
私は死確者の背に向かって声をかける。
「大丈夫だろ」死確者は付け替えたサングラスを押し上げた。「誰も見たことないって言うんだから」
店の灯りが辺りを煌々と照らしている。赤みがかったものからオレンジ色、一般的なクリーム色のものまで多種多様。その灯りに照らされた死確者にどこか神々しささえ感じた。
私はこんなにも慄き不安に駆られているというのに、何故こんな余裕の振る舞いができるのだろう。長い経験からだろうか、修羅を抜けてきたが故のものなのだろうか。それとも、私の問題か。久々の変身で緊張しているのか。
いや、違う。分かったぞ。バレていないと不安に思っているからだろうか。ミスター・アライなどという、性別が男だということ以外素性の分からない凄腕暗殺者に変身しているからだ。そうだ、これだ。間違いない。
「変身しようがありませんよ」——最初聞いた時そう伝えたのだが、「その辺にいる奴に適当に変わって名乗てりゃ問題ねえよ」とはぐらかされた上に「頼むよ」と懇願されてしまい、私は渋々折れた。近くの公園で横になって寝ていたホームレスの男性の顔を覚え、近くの公衆トイレで変身した。伸びきった髪や自由な生えた髭を少し整え、服装は夜の街をさすらう人間のように上から下まで黒でコーディネートした。皮のロングコートやジーンズ、私には意味ないが伸縮性のあるTシャツ等々、身につける。
無論、心配だ。不安は拭えない。いや、私は大丈夫なのだが、死確者はタダでは済まない。最悪、命はない。これから会う相手は、蛇香会。襲おうとしてきた奴らの本部へ向かっている。あまりにも危険過ぎる行為だけれども、死確者は聞く耳を持たない。その上、「なんかあったら人差し指でどうにかしてくれ。ほら、どうにかできるだろ?」と言ってくる始末だ。私は魔法使いではないのだから、なんでもできるわけではない。勘弁して欲しいものだ。
死確者は不意に立ち止まる。あとをついていた私も勿論止まる。右に構えている店を見る。そこは、店先には丸く赤い提灯のようなものがぶら下げられ、ボロボロのテーブルと錆びれたパイプ椅子が並べられた飲食店。印刷した地図と何度か交互に見合い、「ここだ」と小さく発すると、店の扉をスライドした。
「チョットオマチクダサイ」
厨房からの女性の呼びかけに、私たちは足を止めた。
店では、観光客らしき中国人カップル一組とサングラスをかけた怪しげな男性3人組が食事をしていた。皆、麺類を食べているということは、この店の名物なのだろうか。
「オマタセシマシター」
女性が駆け足で出てくる。白い給食着のような調理服に身をまとった50代程で、恰幅のいい体型をしている。
「フタリ?」片言だ。
「客ではありません」そう言うと、死確者に肘で突かれる。ああ、そっか。威厳ある風に見せるために、言葉は乱暴にしろと言われたんだった。
「客ジャネ。中、イイカ?」
慣れない乱暴な言葉遣いに私までも片言みたくなってしまう。けれど女性は、特に違和感に思うことなかったようで、「ドゾー」と通路を開けてくれた。
私たちは、厨房へ足を踏み入れる。すぐ右には、女性と同じ白い服を着た、年配の痩せた男性が立っていた。何か言われるかと思ったが、ちらりと一瞥しただけ。すぐに顔を正面に落とすと包丁を動かす。白髪ねぎを作っている。特に訝しく思っている様子はなかった。こういうことに慣れている、ということか。
一面に水の撒かれた黒い床を更に進む。立てかけられた調理器具の間から、白い羽ばたきが見えた。けたたましい叫び声も同時に聞こえた。視線を向けると、生きた鶏が首根っこを掴まれ、まな板に押し付けられていた。掴んでいるのは、背の曲がったお婆さん。白い腰エプロンはしているが、上は毛糸のセーターのようなものを羽織っていた。鶏はお婆さんの持つ巨大な中華包丁に命の危機を感じたようで、必死に抵抗する。悲しい声も出す。けれど、お婆さんは無の表情のまま、躊躇なく中華包丁を振り下ろした。
刃が首元に落ちる寸前、私は目をそらす。そして、後頭部を向けたまま、足早に通り過ぎた。ただ普通に歩いているだけで自然と見えてしまうことに、どこか異常さを感じてしまう。
行き止まりに着く。正確には、灰色の戸が行く手を阻んでいる。私は取っ手を下に押して開く。戸の向こうには、闇が広がっていた。死確者は外に出ると、急に背が小さくなる。一段下がっているのだ。
出た途端、急激に暗くなった。黒いマントで覆われたかのようである。所々に裸電球があるだけで、周囲は真っ暗だ。左の方から、笑い声が聞こえる。
「あっちですかね」
「おそらく」
近づいていくと、逆さまにした黄色のビールケースの上に座った男が暗闇から姿を現す。片目だけ黒目を失ってしまったのかと思うほど、全体が白い。道を塞ぐように手に広げた新聞を持ったまま、こちらを凝視してくる。緊張が高まる。
「
返答は中国語。なんと言っているのか、分からない。
死確者はスマホを私の口元に近づけた。見ると、画面には翻訳アプリを開かれていた。そういうことか。私は同じことをする。相手に向けてすぐに翻訳した。
相手は口元に手を持ってきて開いたり閉じたりの動作を繰り返した。私には何だか分からなかったが、死確者はすぐにスマホを自分に向けた。そして、“何を訳しますか?”と表示された画面を出し、マイクのマークが書かれた赤いボタンをタップして、再び相手に向けた。相手は顔を近づけ、一言発した。
『お前は誰だ?』
成る程。
「23時に約束してるアライだ」
私の返答に、白い目の男は目を開く。眉も上がり、新聞を慌てて折った。
『失礼しました、こちらへどうぞ』
突然丁寧語になったかと思えば、すぐに立ち上がった。その場で振り返り、数歩前に進む。
ガタンッ
思わず肩が上がる。振り向くと、死確者が中腰になっていた。足先にあるビールケースが斜めになっている。どうやら蹴ってしまったようだ。
「ソ、ソーリー」
白い目の男は、なんだと言わんばかりに鼻から強く息を吐く。そして、踵を返して扉を両手で掴み、手前に引いた。
一枚隔てたすぐ向こうは、桃色一色だった。左右に所狭しと小部屋が並んだ狭い廊下が広がっている。中からは男女の声が聞こえる。喧嘩でもしているのか、両者とも息絶え絶えである。わざわざ金を払って狭い中で喧嘩をするのか、なんとも物騒だ。
奥には受付があり、そのすぐそばにはエレベーターがあった。近くには男性が待機している。白い目の男が一言発すると、その男性は頷き、エレベーターの扉をボタンで開けた。そして、手で押さえるようにして、開け続けた。白い目の男と死確者と私が乗り込むと、5のボタンを押した。
扉が閉まる。重々しさはない。軽く素早く閉じたため、場合によっては人が挟まってしまう。微かな揺れを感じながら、暗くて分からなかったけどあの店の奥にこんな場所があったのか、という驚きと、だから先ほどの男性はエレベーターを押さえてくれていたのか、と答えを思いついた。
扉の開いたエレベーターから降りる。乗り込んだ1階とは異なり、白色電球で辺りは不足なく照らされており、白い壁で挟まれた廊下が左右にまっすぐに伸びていた。白い目の男は、右手方向を手で示し、先に降りた死確者の前に立った。死確者はそのあとを、私はさらにその後をついていく。
突き当たりの一番奥の部屋の前で白い目の男は止まった。ノックを二回すると中から返事が聞こえる。失礼しますとでも言ったのか、一言声高に言うと、おもむろに扉を開けた。入る前に一礼をし、中に入り、扉を開けたままにしてくれた。私たちは辺りを見回しながら、足を踏み入れる。
またしても派手な部屋である。30畳程の広々とした部屋の壁一面が赤に染められている。目の焦点が合わず、チカチカするぐらいだ。そんな赤いキャンパスには窓のある背中の方以外、猛々しい巨大な龍や虎が大きく描かれていた前に、男たちが一定間隔をあけて立っていた。スーツもいれば、紫や黄色で色付けられた模様の服を着ている男もいる。だが、誰しもが前で手を組み、吊るされたかのように背を伸ばしている。一方で、家具は殆ど無かった。我々が来るから片付けたのか、それとも事務所であるためにそもそも購入などはしていないのか。
入口から斜め右方向に誘導され、部屋の中央に案内される。白い目の男は深く礼をすると、来た道を引き返していった。礼した相手は、目の前の高そうな皮のソファに座ったスキンヘッドの男だろう。歳は五十後半。この部屋で一段高いところで座り、さらには踏ん反り返っている。隣にはネズミ色のスーツを着た男が、手を前で交差して立っていた。スキンヘッドの男との距離からして、側近だろうか。
「はじめまして、ミスター・アライ」
スキンヘッドの男は背を直した。「君の姿を見たのは私が初めて、ということでいいのかな?」
元から日本人であったかと錯覚するほどに、流暢な日本語を話す。
「死んだ奴以外ではな」
私は事前に死確者と決めておいた台詞で返す。陳腐さであるからなのか、相手は突如高笑いをした。目元を緩め、顔を少し上げる。
「これは失敬」手を前に突き出し、咳払いをした。「申し遅れた。私が王だ。よろしく」
やはり。入ってきた時から玉座に踏ん反り返って腰掛けていたから、大方予想できていた。そうか、この人が蛇香会トップなのか。言われてみれば、威厳と貫禄があるように見える。
「そちらの方は?」
視線の先は死確者に向いている。
「部下だ」紹介すると、死確者は軽く一礼した。「常に同行してもらっている、私の右腕だ」
要らない一言かとは思ったが、一応念のため。
「なら、この部屋から追い出すことはできないな。ヘタを打てば殺されかねない」
おっと。言っておいてよかった。本来の目的が達成できない。
「しかし」王は足を組み替える。「まさか凄腕の殺し屋から連絡をくるなんて思いもしなかった。一体全体、どういう風の吹き回しかね?」
「風の噂で殺したい人がいると聞いたもんでな」私は覚えたセリフを口から出す。「もしよければ、手を貸す」
「代わりに何が欲しい?」
「ん?」
「ただ手を貸すってのはないだろ。この世界、タダより怖いものはない」
「別にいらない。裏の世界で生きてる者同士、お知り合いになれたら、それで」
「成る程」頬を緩める王。「案外話の分かる者のようだな」
どうやら機嫌取りは成功したようだ。
「なら、ちょうどいい」王は頬杖をつく。「私は用心深いタチでね、君が本当にミスターアライなのか証明して欲しい」
「どうやって?」
「なに、君には簡単なことだ。暗殺だよ」
「ターゲットは?」
「最近、私たちの周りをうろちょろしている日本人でな」
そう言いながら、王は左手を横に出し、私らの方へと振った。リハーサルでもしていたかのように、隣の男が胸ポケットから写真を取り出した。一段降りて、私たちの方へ来る。
手渡された写真を早速見て……って、おっとっと。
「この警官を殺して欲しい」
眉を軽くひそめた死確者は顔をゆっくりと動かしながら写真を見た。瞳孔がこれでもかと開いた。
「どこにいるか分からないのでな、探すのも含めて頼みたい」
「その必要はない」
私ではない、死確者だ。サングラスを指で押し上げた。
「何故だね」王たち相手方の視線が一点に集まる。
「天使はここにいるからだよ」
そう放つやいなや、死確者はまっすぐ駆け出した。あまりにも前触れのない、あまりにも唐突な合言葉であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます