第9話
身の回りから国の防衛まであらゆるものがコンピュータで管理されている今の時代、車もその例外ではない。人を乗せて運ぶため、どの車も差なく安全を第一に設定されている。
しかしそれには、犯罪者が車で逃げた場合というのは考慮されていない。言い換えれば、機械はある一定以上の危険とされるスピードを出すことができない、ということ。ともなれば理論上、追いかける者と追いかけられる者、警察と犯罪者の距離は永遠に縮めることはできない。逮捕は不可能である。
それだけでなく、迅速な処置が必要となる救護人を助けることができなくなる。
それら全て泣き寝入りしなければならないのか。当然、それは違う。
警察車両や消防・救急車両など緊急を要する車両は緊急時、ハンドルとアクセルとブレーキを用いて、自らの意思で操作することが可能となっている。つまり、手動で運転ができるのである。
警察車両の指し示すのは、別に白と黒で彩られたものだけではない。いつ何時でも犯罪者を追跡・逮捕ができるよう、警察関係者に限り、自身が普段使用している私用車にも、同じ整備を施すことができるのである。
では何故この手動切替できるボタンを警察官でなくなってからも付けているのか。規則を破っているわけではない。むしろ準拠している。ボタンを取り除くのは辞めてから3日以内であればいいことになっているのだ。裏を返せば、3日以内であれば付けたままにしてもいいことになっている。死確者が辞めてからまだ2日も経過していない。付いているのは問題ではないのである。
「でも、使ってはいけないんですよねっ」
一連の解説が終わり、私は声を張り上げて尋ねる。正面からの重力と、車と車の間をすり抜ける時の緊張感のせいで、無意識のうちに音量を大にしていたのだ。
「当然だ。重大な道路交通法違反で、免停確実だ」
やはりこちらは、速度超過と信号無視は問題だったらしい。
「にしても、運転しながらよく喋れますねっ」
解説している時もそうだったのだが、死確者の音量は歩いている時と然程変わりなかった。
「慣れだ、よっ!」
ハンドルを荒く強く何度も右に回し、大通りの交差点を右に曲がる。車体は後ろがはみ出るように斜めになる。同時に、遠心力で体に重力がかかる。
速度計を盗み見る。時速75キロ。一般道でこんなに早く走行するのは久々、いや初めてかもしれない。自動化される前でもここまではなかった。
「何台だ?」
サイドミラーで確認する。
「5台です」
「変わらずかよ」
アクセルを強く踏み込む死確者。タイヤの回転は増え、荒い音をかき鳴らす。
車と車の間をぬう。僅かな隙間も見逃さず、次から次に。死確者が少し間違えれば、相手の反応がわずかに遅れれば、はたまた予想外の動きをされてしまえば、一瞬にして大事故。ともなれば、事前に得ていた死確者の推定死亡時刻など前倒しになって、最悪未練解消が出来ない、なんてことにも繋がりかねない。状況が状況なだけに仕方ないとはいえ、危険だ。頼むから事故は起きないでくれ、と心より願うしかない。
交差点に差し掛かる。ビルが視界を遮り、左右の見通しを悪くしている。信号が赤になる。交差点の真ん中では、信号の方向指示機により、反対車線で待機していたトラックが曲がろうとしていた。死確者は速度は落とさない。それどころか、アクセルを踏み込んだ。
まさかっ。
不安は的中。トラックは急ブレーキをかける。ハンドルがけたたましい音を鳴らして止まろうとするも、微かに余力で動く。
こういう時、映画や小説ならば、まさに髪一本分の距離でトラックを避けることができた、のような展開なのだろう。けれど、現実は違う。そう上手くはいかないものだ。トラックは我々の乗った車にぶつかった。不幸中の幸いは、車の前方や側面ではなく、トランクであったことだ。
凄まじい衝撃が車内の私たちを襲う。体がしなる鞭のよう。波状に体は揺れ、車は激しくスピン。速度分の余力が残った車は、遊園地にある遊具のカップのごとく、人差し指の上で回されるバスケットボールのごとく、回転する。何度も何度も。とどまることを知らない。
遠心力で体がドアへ寄る。扉の上に付いた取っ手を掴んで歯を食いしばるも、なかなか離れられない。死確者は、乱れた態勢を立て直すべく、同じくドアに寄りながら素早くハンドルを回した。回転とは反対に動かす。どうにかバランスを整え、再び正面を進行方向に向け、走り出した。
後ろから甲高いアラームが響いてくる。何があったのか。確認するために振り返ると、ところどころへこみ傷がつき、テールランプの割れたトランクが見えた。開いたり閉じたりを繰り返しているのは、ぶつかったことで鍵が壊れたからだろう。もし後ろではなかったら、そう思うと死なない私でもゾッとする。
クラクションの音が聞こえる。いかんいかん、当初の目的とは異なる。私は意識を更に後方へずらす。車のトラックがついてきたパトカーたちを塞ぐ形になって、立ち往生している。後ろにも後続車が隙間なく並び、ブロックで区切られている反対車線にも先頭で車が止まっている。
死確者は左に曲がり、すぐの細い道をまた左折。そして、3階建てビルの影になっている時間貸駐車場へ停車させた。
静かに体を前に倒し、顔をハンドルの前に出す。フロントガラスからは、先ほどまで追ってきていたパトカーたちが通過していった。
「はぁぁ」
死確者は疲労混じりの声を絞ると、ハンドルに頭をつけた。肩からは力が完全に抜け、腕はダラリとしている。
とりあえず、すぐそこまできていた危機からは脱することができたようだ。
私は家に帰るかと提案した。だが、「どうせ家にはもう見張りがいる。家宅捜索ぐらいされてるかもしれん」とのことで、帰宅は拒否された。
ひとまず、最寄りの雑貨屋で現金購入したつばのある帽子と伊達メガネを身につけ、人混みに紛れた。死確者は次に公衆電話を探した。
しばらく歩いてようやく見つけた公衆電話に駆け寄った。雑貨屋で無理言って替えてもらった大量の10円玉を用意して、スマホ片手に電話をかけ始めた。微量ながらガソリンが漏れていた車を乗り捨てたため、駐車場の管理会社を検索し、「ガソリン漏れした車が停まっている」との連絡をした。続けて、スマホの電話帳を開く。操作して表示したのは、鶴川さんの電話番号だった。
『もしもし?』
「俺だ」
『お前っ……杉上なのか?』
「ああ」
辺りの様子を伺いながら、死確者は返事をした。
「なんで俺は追われてる?」
受話器からは鶴川さんの吐く息が聞こえる。『殺人の容疑者だからだよ』
「殺人? 誰の?」
『綿貫さんだ。今朝、首を絞められて殺されてるのを発見された』
死確者の目が開く。当然だろう、つい昨日存在を知った私でさえも、開いているのだから。だが、死確者は動揺の言葉も素振りも見せないよう、呼吸を整える。加えて、持ち手も変える。
「証拠は?」
『二つ』鶴川さんは淡々と言葉を出していく。『一つは、お前が昨日、綿貫さんの会社に行き怒号を浴びせていたからだ綿貫さんの務める複数の人間がそう証言している。ったく、なんで接触なんかしたんだ
喉の奥から絞り出すように訴える鶴川さん。心をきつく締める苦しさと辛さがこもっていた。
「だから、調べに行ったんだよ」対照的に、死確者は冷静だった。「一連のことを知ってるお前なら、協力してくれているお前なら、想像に難くないはずだろ」
『分かるさ。けど、お前はもう警察官じゃない。はたから見たら、ただの叫び声をあげ、締め上げる真似までする危険人物だ」
「そもそも、多少声荒げてたぐらいで、あんな数の捜査官用意して捕まえようとするのは、おかしいだろ」
『スマートファンやら財布やらが盗まれてたから、最初は本部も物取りの犯行だとして進めていたしな』
死確者は一笑した。「ならなんで、俺がやったなんて結論に……」
『ガイシャの爪から見つかったんだよ』深く一息ついて、そして続けた。『お前の皮膚片がな』
鶴川さんの放った一言は死確者は目を開かせ、そして黙らせた。
『抵抗したと思われる絞殺死体の爪に別の人間の皮膚片……警察官だったお前ならこれだけでどうなるか分かるだろ?』
静かに俯き、「……身内の汚れは血眼になっても身内で取ろうってわけか」と呟いた。
『まだ遅くない。出頭してくれ』
「お前も疑ってんのか」
『違う。お前がやったとは思っちゃいない。ただ、逃げたら逃げた分だけ、疑惑は確信の証拠へ変わる。それに、こっちは少しでもボヤの段階で処理しようと躍起になってる。元警察官の皮膚片がガイシャの爪から見つかってるなんて大ごとだからな。今の時代、本気で追いかけたら、逃げ場所なんてない。捕まるのも時間の問題だ。得なんてない。だったら、早く自分から名乗り出て、身の潔白を証明してったほうがいい』
鶴川さんの話を、死確者は相槌を打つことなく聞いていた。
『頼む杉上。出頭して……』
話を遮るように、電話を切る。決別宣言と言っても過言ではないだろう。
「これで、俺は容疑者確定だな」もう会話のフリをすることなく、私へ喋りかけてきた。「肝心の事件の容疑者は分かってないのによ」
「なんでこんなことに……」私は肩を落とした。
顎をさする死確者。「今のところはなんとも言えないが、口封じの可能性が高いな」
「しかし気になりますね。何故、綿貫さんの爪から皮膚片が見つかったのでしょうか」
「それならもう分かった」
えっ?
「これだよ」
死確者は左手の甲を私に近づける。そこには、手首から人差し指にかけて、みみずのように赤く細く膨れた痕があった。しかも、3つ。
「こんなのいつ……」凝視するあまり、顔が勝手に近づく。
「綿貫さんの胸倉掴んだ時だ。ほら、俺の手を掴んで抵抗していたの覚えてないか」
あぁ……そういえば。
「俺もしばらく気づかなかった」死確者は自身の前に戻し、まじまじと見つめた。「軽い怪我だからって放っておいたが、まさか犯人断定の証拠になるとはな……全く、ツイてないぜ」
片方の口角に弱々しくしわを寄せた。
「こうなったらしのごの言ってらんねえな」死確者はこれまでのことを振り払うように手を揉んだ。「直接、聞き行くぞ」
「警察にですか?」
「違う」死確者はポケットに両手を入れた。「もう一組いただろ?」
一組……あっ。
心当たりがあった。いや、思いついてしまった、の間違いか。
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