第7話

 死確者は自家用車に乗ろうと、駅前近くの立体駐車場へと戻る。停めていた車のそばへ立つと鍵の開く機械音が鳴り、扉がゆっくりと開く。乗車すると、センサーが反応し、扉が自然と閉まる。


 今やナビゲーションも運転も何もかも、機械任せになっている。驚きも戸惑いもなくなった。かろうじて言えば、私たちの自慢できることが、言い換えれば天使であることの証明方法が一つ減ってしまったぐらいだ。時代の流れだと言い切ろうと思えばそう言えるのだろうけれど、ごくごく当たり前に目的地をもう一人の容疑者候補がいる群馬県に設定している死確者を見ると、少し寂しい気持ちになる。運用され始めてからまだ10年も経過していないのに、新たな生物を発見したみたいに誰しもが目を輝かせていたことが遥か昔のように感じる。靴の中に雨水が染み入るみたいだ。最初は抵抗や違和感があるはずなのに、いつの間にか生活に浸透している。そうなると、もう諦めているというべきか。とにかく、特に思い入れもないはずなのに、いくぶんノスタルジックな気分になる。


 車は法定速度を一定に保ったまま、自動的に運転してくれる。私は勝手に流れていく外の景色を頬杖つきながら眺めていたのだが、東京と埼玉の境目辺りでふと、気づいた。私はこれから会う容疑者について何も知らない。運転席に顔を向けると、死確者はもう運転席で目を閉じていた。頭の重みで首は曲がり、上下の瞼をくっ付けている。もう眠りについていた。動き回り襲われかけたのだ、疲れきっていたのだろう。


 深夜だったからか、一般道も高速道路も通行量は少なかった。自家用車よりも遥かに大型トラックの方が多いのもこの時間帯ならではの特徴だろう。とは言えど、到着したのは明け方。車が止まったのは、まだ生活音の起きていない住宅地。この近くにもう一人の容疑者の家があるのだろう。隣を見ても、死確者は瞼を閉じたままだし、向こうだって起きていない可能性が高い。ならば、まだいいだろう。少し休もう。まあ、私は疲れなど感じないのだが、ぼうっとするのも悪くない。




「おぉ……あっ? 着いたか?」


 死確者は寝ぼけ眼で左右に顔を動かす。暫く経っていることは伏せ、「はい」と答える。


「ん?」背もたれについていた体を起こす死確者。目線は車内の時計に向いている。「おいおい、もう11時じゃねえか。流石に寝過ぎた」


 サンバイザーを出し、ミラーの蓋を開ける。ぐしゃりと潰れた後ろ髪を整える姿を見て、私は「すいません」と謝る。やはり起こせばよかったか。


「アラームをかけてなかった俺も悪い。いいからさっさと行くぞ」


 車をそそくさと降りた死確者が向かったのは、斜め右側にあった2階建ての寂れたアパートだった。道と隔てるためのコンクリートのレンガには汚れが目立った。死確者は足早に唯一仕切りの何も無い出入口へと踏み入る。延長線上に、金属の階段が見える。アパートの昔は白かったであろう壁は今は見る影なく、黄ばんでいた。脇目振らずにまっすぐ階段へと向かい、登り始める死確者。一段上がる毎に、かんかんという甲高い音とぎしぎしと軋むような不安な音が鳴る。手すりや踏み面には、赤みがかった茶に変色した錆びが点在しており、雨風に長く晒されていたことを思わされる。


 死確者は登り切ると、左へと曲がる。そこには、洗濯機が野晒しになって等間隔に並んでいた。部屋の扉の前にある部屋番号を指差しながら、どんどん歩いていく。止めたは、204の前。表札には、“五十嵐”と書いてある。


「ここだ」


 手を伸ばし、ドアベルを押す。ブーと低い振動音が扉の向こうから聞こえてくる。その瞬間、容疑者について何も詳しいことを聞いていなかったことを今更ながら思い出す。


「はい」


 中から出てきたのは、鼻の下と顎に無精髭を蓄えた男性だった。顔の至る所にもあるシワや皮膚のたるみから鑑みて、年齢は50代後半から60代前半だろうか。ほつれが目立つ白いシャツとねずみ色のスウェットのせいかもしれないが、疲れと年齢を感じる。


「杉上さん」途端に目の辺りの皮膚が垂れる。


 死確者はすぐさま会釈した。「お久しぶりです、五十嵐さん」


 そう呼ばれると、すぐさま外に顔を出して左右を確認した。誰もいないことを確かめると、「見られるとなんなので」と体を引っ込め、壁に寄せた。


「失礼します」


 ここではなく見られるなのか、ということには触れることなく、再び会釈をして部屋へと入る死確者。私も続こうとするも、五十嵐さんに行く手を阻まれた上、扉を閉められてしまう。


 仕方ない。私は軽く跳ねて扉をくぐる。その時だった。五十嵐さんがまだ扉の前にいたのだ。


 やばいっ


 そう思った時には既に遅かった。私は五十嵐さんの体を通り抜けた。恐る恐る後ろを向く。五十嵐さんは顔を上げて、辺りを見回していた。


「どうしました?」


 居間から顔を出した死確者が声をかけると、心ここに在らずのような掠れた声で「いえ」と応える。小さく首を傾げながら、冷蔵庫に向かい、お茶を出した。


 我々天使が人間を通り抜けると、風のような軽く触れられたような違和感を感じられてしまう。基本的にしてはいけないこであり、気をつけなければならないことだ。まあ始末書レベルのしてはいけないことではなく、後で厳重注意を受ける程度のものである。


 私は忍者のように、見ようによっては泥棒のようにつま先だけを地面につけていそいそと。そうして、死確者の元へ向かう。手を前で重ね、台所で洗ったばかりのコップに注いでいる五十嵐さんを見ていた。


「警察はまだ調べてるんですね」


「いや、もう私は警察官ではないんですよ」


 動きが止まる。キャップを閉じきっていない。


「……なら、今日は何をしに来たんです」


「もちろん、20年前の事件です」


「もしかして、個人的に調べてる?」


「まあ、そんな感じです」


 五十嵐さんは軽く口元を緩ませると、「まるで探偵ですね」と話した。


「いや、そういうわけではないんですが」


「なら、そこまでして解決したい理由はなんですか」


 返答に困ったのか、死確者は口籠る。


「ずっと心残りだったんです」


 五十嵐さんは振り返る。五十嵐さんは両手にコップを持ち、ギシギシとなるフローリングの床からミシミシとなる畳へとやってくる。

 どうぞ、と体勢を落としながら、両手をテーブルに置く。向かい合う場所に腰掛ける死確者。五十嵐さんは、よいしょ、という小さな掛け声と共に、あぐらをかいた。


「崩してもらっていいですよ」正座の死確者に手を差し出して促す。

「では」あぐらの体勢になった。


 五十嵐さんはお茶を一口含み、静かに置く。水の輪の一部が見える。「心残り、なんですよね?」


「えっ?」不意に声をかけられ、死確者は眉を上げた。


「今日来たの、心残りだからなんですよね?」


「あぁまあ」


「なら、僕はまだ疑われてるんですね」


 付いた水滴が落ち、お茶に消えていく。


「どうしてそう思われるんです?」


「どうしてって」五十嵐さんは口角だけを微かに崩した。「働きもせずに家でゴロゴロしてただけですから、アリバイ無いですし。あの時だって、自分のことを相当疑ってましたし」


 視線を落とし、口籠る死確者。目ならぬ、顔は口ほどにものを言う、というやつだ。


「陰鬱な顔にならないで下さい。それが警察の仕事なんですから」


 口元を緩ませるが、それは一瞬だった。


「改めてですけど、僕は殺してません」


 五十嵐さんの目はまっすぐに死確者に向けられていた。


「あいつとは幼稚園からずっと一緒でした。高校大学は違いましたけど、時間が合えばしょっちゅう遊びに行ってました。大人になってからも頻度は減りましたけど飲みに行ったり」


 五十嵐さんは昔の思い出を振り返るように、軽く俯いて視線を辺りに配っていた。


「最後に桂木さんと会ったのは、殺される日の前夜、でしたよね?」


「ええ」五十嵐さんはコップの半分までお茶を一度に飲んだ。


「突然だったんですよ、昼頃にいきなり電話かけてきて、『これから飲み行かないか』って誘われたの。日本にいないだろって言ったら帰ってきたなんていうもんですから、かなり驚きました」


 死確者の眉が軽く上げた。「知らなかったんですか?」


「ろくに連絡も取ってなかったんでね。本社勤務になったことさえ、会うまで知りませんでしたよ」


「なんで連絡を避けてたんです?」


「殆ど日本にいないってのは知ってましたので、忙しいかなって思ったんですよ。それに……」


「それに?」


「歳下の奥さんのいる所帯持ちが、こんな独り身のプー太郎に会いたくはないでしょ、普通」


 死確者の唇がほんの僅かに離れる。目は引けている。何かを言いかけるが、すぐ辞めた。五十嵐さんは視線をテーブルに乗せた右手に向けていた。指は擦るように動いている。


「だからこそ、普通じゃないって思って、金がかつかつでしたけど会うことにしました。陽が落ちる前に落ち合って、近くの居酒屋で駄弁っていました。もう十年近く会ってなかったんでね、それはもう無駄話から何から、長々と延々に」


 五十嵐さんはお茶を飲み干すと、左手を右手に重ねる。


「酒もかなり入った頃、ふとこう口にしたんです。『家族のために腹をくくらなけりゃいけない。今のままじゃダメなんだ』って」


「腹を、くくる……」


 死確者の声色が変わる。顔を向けると、死確者の瞳孔は今まで見たことがないくらいに開ききっていた。


「そのことは、警察には」


「もちろん話しましたよ。誰にかは、すいません、忘れましたけど、お話ししたのは確かです」


 死確者は目線を落とし、泳がせ始めた。どうやら初耳だったようだ。


「杉上さん?」


「ああ……すいません。何をくくるのかは話していましたか?」


「いや、それは何も。頑なに拒否されました。僕も酔っていたのでしつこく聞いたんです。そしたらあいつ、突然帰ると言い出したんです。すぐに謝ったんですが、『違う、家族のことが心配だからだよ』と、2人分払っても釣りが来るぐらい金置いて帰っちゃったんです。引き止めようとして、ちょっと言い合いになったりして」


「それが、あの証言の?」


「ええ。僕としては喧嘩してるつもりなかったんですが、店員さんはそうは見えなかったようです」


 五十嵐さんは左手を包むように右手を丸めた。


「それで、翌朝目が覚めてから、やっぱりタイミング的に怒ったからだよなって思って、ちゃんと謝ろうと電話したら、出たのが奥さんで……それで……」


 包んだまま力を込めて、強く握る。おそらく、その時に亡くなったことを知らされたのだろう。


「ということは、何に対して腹をくくるのかは」


 五十嵐さんは首を横に振った。


「けど、幼馴染だからなんですかね。長くいたから何となく気持ちとか考えてることは分かるんです」


「五十嵐さんとしては、どう感じました?」


「決意です」五十嵐さんはすぐに返した。「僕には計り知れない程に深く、途轍もない決意に感じました」


「決意……」


 死確者が繰り返しながら視線を落とすと、部屋じゅうに音が鳴り響いた。唐突で五十嵐さんも死確者も、そして私も思わず肩を上げた。打ち合わせでもしていたかのように、完璧に同時だった。その音が自身のスマホの着信音だと気づいた死確者は慌ててポケットから取る。一緒にタバコの箱が飛び出した。仕方なしに空いていた左手で片付けながら、画面に表示された相手を見る。急にタバコを片付ける手が止まった。


「ちょっとすいません」


 受話器ボタンを押し、顔を傾けて耳につけた。私は指を耳に入れる。


「もしもし」


『俺だ』


 相手は鶴川さんだ。


「なんか分かったか?」


『解決の糸口間違いなしの、とんでもないことがな』


 おっと、かなりの急展開。


「そんなにか」死確者の目が大きく開く。


『今から会えるか?』


「電話じゃダメか?」


『直接会って話したいんだ。頼む』


「じゃあ」スーツをずらし、下に隠れていた腕時計を見つめる死確者。「15時にいつもの公園の」


『噴水前か』


「ああ」


 どうやら、噴水のある公園に行くみたいだ。


『分かった。なるべく早く来てくれな』


 電話を切った死確者の左手には、握り潰された箱から、数本のタバコが顔を出していた。まだ仕舞われていなかった。

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