第4話

「ふりだしに戻ったな」


 そう口にする死確者の足取りはなんとも重かった。疑っていた人間が犯人から除外されつつあるのだから、無理もない。確か、事件が起きたのは20年前であったはず。私たち天使であっても、多少ではあるが、年月の経過を感じる長さだ。人間であれば尚更、死期の近い死確者であればひとしお。それだけの月日が経った今、これまでの言動全てを否定されたかのような感覚に陥っていることだろう。もしかすると、自分の性格など根本的な内面の部分さえも否定されたと思っているのかもしれない。


「ったく、あの世から被害者呼べたら楽なのによ」


「できますよ」


 至極普通のことを話してただけなのに、死確者は足を止めて私を凝視してきた。輝いてはいないものの、その見開いた目は一縷の望みを託すかのような期待の眼差しだった。

 私はこの言葉を先に言えば良かったと後悔する。


「しかし、間に合うかどうかが分からないのですよ」


「やっぱり探すのに手間取るか」


「いえ、探すのはとても簡単です。ものの10分あればすぐに見つかります。問題は、審査の方です」


「審査?」


「ええ。現世に死者を連れてくる申請の審査です」


 軽い口調になる。代わりに、目から蚊に吸い取られたみたいに血の気が消え去った。


「んだよ、お役所はあの世までも遅いってかよ」


 必ずしも遅いわけではないだろうと思いながらも、また役所に対してなんの恨みがあるのか分からないものの、私は一応「すいません」代わりに謝っておいた。


「申請をして通ってからではないと、後々大変困ったことになるので」


 というか、私に始末書という最大限の避けたい不幸が降り……いや、襲いかかってくる。まるで、死神がかつて好きだったゾンビ映画のように、だ。


「なら、その申請とやらだけでもやっておいてくれ。万が一間に合うってこと、も……」


 突然言葉を止めた。見ると、死確者は顔に近づけ、強く握った左手の甲をじっと眺めている。


「どうしました?」


 私が尋ねると「いや」と隠すようにポケットに入れ、歩みを再開した。


「とりあえず調べ続けよう。幸い、新たな手がかりを得られたからな」


「行方知れずの不正の証拠資料ですか?」


「ああ」


 私は腕を組む。「そもそも誰がそんな資料を送って、そして盗んだんでしょうか」


 対して死確者は、「いや、単独犯とは断定できない」と返してきた。


「何人かによる複数犯、下手したら大規模な組織ぐるみでの犯行なんて可能性も否定できない。とはいえ、まあ普通はそう考えるよな」


「そもそも用意して綿貫さんに見せたのは、桂木さんの会社の誰か、もしくは誰かたちですかね……」


「そう簡単に手には入れられないからな可能性は高い。だが、まだなんとも言えないな。なにせ、範囲は前より広くなっちまってる。第一、用意した人間と持ち去った人間は同一か違うのか。仮に同一なら、何故そんな手間のかかることをしたのか。もし違うなら、どんな理由で用意して、どんな理由で持ち去ったのか。組織的な犯行なら、どんな背景を持つ人間たちが関わっているのか。ざっと考えられる範囲で述べたが、こんなもんだろう」


「大変ですね」こんなものとはいえ、調べることがだいぶ、というかかなり多い。膨大だ。


「だから言ったろ?」死確者は歩き始める。「ふりだしに戻った、って」


 そうでした。


 死確者は鼓舞するように頬を叩くと、「行くぞ」と足を早める。


「どこへ?」


「他の容疑者のとこだ」


 えっ?


「綿貫は、あくまで第一容疑者だ。最も疑わしかったってだけで、綿貫だけじゃない」


 そうだったのか。


「そもそも、綿貫が容疑者から除外されたわけじゃねえからな?」死確者は何故か私を見てきた。


「……いや、私は何も言ってないですよ」


 動作から察して、私は否定をする。しかし、死確者には届いていなかったよう。少し目を離した隙に、だいぶ距離を離されていた。




 太陽の代わりとなったネオンが、煌々と光り輝いている。昼には分からない、夜になった今だから見える景色だ。豪華絢爛で色彩豊かな光は、ふらりと立ち寄った人間のみならず、やって来る人々全員を日常とは違う幻想的世界へと誘い、そして惑わせてくる。

 だが、死確者はその中をただひたすらに歩いていた。一歩一歩は何者にも何事にも惑わされない強い意志を感じさせる歩みだ。おそらく目的地が決まっていたからだろう。道すがら若い男たちから「可愛いお姉ちゃんいますよ、いかがです」と声をかけられても、無言かつ手の平を相手に見せて断りをしている。


 不意に立ち止まった。そして、左に体を向けて、顔を上げた。私も続く。


「何と読むのでしょう?」


 横に広がった看板には、英語が書かれていた。文字の最後が次の文字の最初に繋がり、それが連続している不思議な表記。ひとつひとつの単語さえ認識できない。


「“ナイト・バタフライ”、キャバクラだ」


「キャバクラ?」私は首を傾げる。


「後で調べとけ」


 突き放されたように言われると、「杉上」と呼ぶ声が遠くから聞こえる。見ると、私たちが歩いてきた方向とは逆の方向から、黒の割合が多い灰色のスーツを着た男が。死確者より身長が高く、ガタイが良い。ラグビーやアメリカンフットボールをやっていたのだろうか、以前同じような体格の人を見たことがある。


「すまんな、鶴川つるかわ


 死確者が体を向けながらそう呼びかけたことで、先ほど電話で話していた人か、と気づく。


「ったく、いつものごとくこき使いやがって」


 鶴川と呼ばれたその人は、片眉を上げながら、死確者の肩に手をかけ、軽く揉んだ。


「今度、飯を奢れよ」


「……分かった」


 口角を弱く上げると、死確者は続けて、視線をナイト・バタフライの方に向けた。


「ここだったよな?」


「ああ、確認は取れてる」鶴川さんの答えに、死確者は「そいじゃあ行くか」と、装飾された店の戸を引いた。


 髪を固めた中年男性がすぐ横のカウンターから駆け足で寄ってきた。胸元に、井上いのうえの名札をつけている。


「いらっしゃいませ。二名様……」と言いかけたところで、鶴川さんは「客じゃないです」と胸の内ポケットから取り出した。確か、警察官であることを知らせる、警察手帳とかいうものだったはず。


「ガ、ガサですか」途端に焦り出す。


「いやいや、今日は違います」手帳を元に戻す。「ある事件のことで佐田さださんに少しお伺いしたいことがありまして。今、いらっしゃいますか」


「しょ、少々お待ち下さいっ」


 井上さんは慌てて、暗いが騒がしい店の奥へと消えていく。




 1分経たず、井上さんは戻ってきた。隣にいる黒髪でオールバックの男性の胸元には、佐田の名札があった。

 目の前まで来て、鶴川さんは再び警察手帳を見せようとするが、「いえ。話は聞いてます。理由も察しがつきます」と続けた。加えて、「ここでは何なので」と外へ誘導した。外とは言えどそこまで離れた場所ではなく、移動したのはすぐ隣。横並びで2人歩けるほどの道幅があるが、室外機が置いてあり所々邪魔をしている路地裏。目が痛くなるほど明るい店と店の間に広がる暗く細い、闇の場所だった。


「何の用です、刑事さん」


「20年前の事件についての、話を伺いたいだけです」鶴川さんは微笑む。


「やはり、桂木さんですか」


「他に何か心当たりが?」死確者は問う。


「無いですよ」鼻で笑う佐田さん。「他に心当たりもないですし、それにあなたがいるので、そうかなと勘ぐっただけです」


 一方、死確者は眉をひそめた。怪しんでいると、一目で分かる。けれど、微かに細かく顔を振り、視線を下に向け、装い新たな表情で、佐田さんを見た。真っ直ぐ目を、見ている。


「佐田さんは、桂木さんとは大学の先輩後輩でしたよね」


「ええ」


「そして、70万ほど借金をしていた債務者債権者の関係でもあった」鶴川さんはズボンのポケットに手を入れる。


「……ええ。そのわざとらしい言い方を借りれば、自分は桂木さんの後輩であり債務者です。けど、それがなんです。そんなこと今更言われても困りますよ」


 佐田さんの瞼は素早く動いている。


「お金を借りたのは、何のためです?」


 死確者は反対に、瞬きの頻度が減り、じっと佐田さんの目の奥を凝視している。


「繰り返しになりますけど、サラ金の返済ですよ。当時の俺は返すために他のサラ金から借りるっていうのを繰り返してたんです。結果、元金返せず利息ばかりになり、どんどんと膨らんでしまったんです」


「嘘つくのは今更やめようや」


 死確者は佐田さんとの距離を詰める。一瞬、佐田さんは顔を曇らせるが、「何を言って……」とすぐに平然を装った。


「裏カジノ」


 死確者は呟いた。だが、たった一言で佐田さんの顔がまたたくまに動揺に覆われた。


「ついこの前のことなんですがね」鶴川さんが一歩前に出た。


「摘発された暴力団の帳簿に佐田さんの名前がありましてね。まあ色々と調べていったら、佐田さん、あなた結構な額を裏カジノでスッてたみたいですね。それで、運営している暴力団から借りてもいた」


「いやそれは」


「もちろん、借金を抱えた時期と桂木さんから借りた時期が一致してるということも調べてありますし、書類もこちらが持っております。筆跡鑑定すれば一発です」


 佐田さんの目に焦りの色が出てくる。


「だからか?」死確者は眼光鋭く見つめている。凝視された佐田さんは「は?」と口を開いた。


「だから、殺したのか?」


「な、何を言って」


 佐田さんは口をつぐむ。目が恐怖で染まっている。理由は分かる。死確者が更に肉迫してきているからだ。恐れ慄いているからだ。死確者は地面で散乱しているゴミを踏む。不穏で嫌な音が鳴る。


「死んだら桂木さんに返さなくていい。そう考えてあんたは……」


「違うっ」佐田さんは叫んだ。

「何がだ」死確者は足を止める。


「遺族の方に、借りていた70万全額お返ししました」


 死確者の眉が反応する。「いつ?」


「4年半後です、桂木さんが亡くなってから」


 佐田さんは目を伏せて、続ける。


「桂木さんも俺もギャンブルが好きでした。大学時代、色んなギャンブルをしてました。パチンコに競馬、競輪にボート、一応賭け麻雀も。ただ桂木さんと違ったのは、俺が無茶な賭けばっかりしてたってことです。変なとこだけ負けず嫌いな俺のことを桂木さんはよく気にかけてくれて、ストッパーになってくれていたんです。けど、卒業してからは暴走車のようにギャンブル狂になってしまって。一種の麻薬中毒者みたいに裏カジノに入り浸って、けど行くたびに負けて、だからサラ金で借りて賭けても負け続けて。そうなると貸してくれんのはヤミ金だけになっていきました。切羽詰まっても負けるものは負ける。借金だけがはち切れる寸前の風船ぐらいに膨らんでしまって、もういよいよ首が回らなくなったって時に、偶然街で会って、相談したんです」


 佐田さんは思い出すように、振り返るように訥々と話している。


「そしたら、2日後に会おうと連絡がありました。そして茶封筒をもらいました。中には70万。驚きましたよ、相談とはいえ貸してくれとは言わなかったので。桂木さんは『返すのは落ち着いてからでいい』と」


 佐田さんは鶴川さんに目を向ける。「帳簿を手に入れたってことは、俺が既に返済したのはご存知ですよね?」


「ええ」鶴川さんは頷く。


「返済したのは、そのお金を頂いてからすぐです」


 佐田さんは死確者と鶴川さんを交互に見つめた。


「それから心を入れ替えて働き、用意しました。すぐに返そうとしたんですが、例のあの報道がなされたことで桂木さんのご遺族の方は引っ越しており、探すのにかなり時間がかかってしまいました」


 鶴川さんと見合うと、死確者は「返済したということを桂木さんの奥さんは?」と尋ねた。


「自宅のポストに、100万と経緯を書いた手紙を入れた茶封筒を直接投函したので、知ってはいるかと。ただ直接会ったりだとか話をしただとかはないです。そもそも、桂木さんが金を貸していたということをご存知だったのかどうかも……」


「何故100万を返したんです? 借りたのは70万のはずでは?」


 鶴川さんの問いに、佐田さんはすぐ「加えた30万は長く借りていたことへの感謝と謝罪の意味を込めた自分なりの利息です。それに、もうちゃんとした職についたって、あの世にいる桂木さんへ手紙の内容は嘘じゃないと伝えるためです」と応え、俯いた。


「確かに俺はダメでどうしようもない人間です。だから、疑われても仕方ありません」


 佐田さんは体の横にある拳に力を込めた。


「けど、桂木さんは私にとって命の恩人です。そんな方へ、殺すなんていう最悪な仇で返すことは絶対、決してしない。していない。それだけは神にも仏にも、命を賭けて誓います」


 死確者の顔は沈んでいた。悲壮感に満ちている。要するに、アウト、ということだ。にしても何故こういう時、天使の語が入った言葉がないのだろうか。馴染みが薄いのは分かるが、少々不服さはぬぐい切れなかった。

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