第3話
扉の開閉音と幾人かの話し声が聞こえ、死確者は再び会社の方へ向いた。
会社とここまでは駐車場と片側一車線道路と生い茂った植え込みを挟んでいる。そこそこ離れているし、雑音や生活音も邪魔をしている。人間であればあの音を聞き取るのはなかなか難しいはずだ。今回の死確者は、天使並みに聴覚が優れているのだろうか。
「行くぞ」
死確者は長く止めていた足を動かした。私には目もくれず歩いていく。距離を詰め、「綿貫さん」と後ろから声をかけた。淡い灰色の作業服を着た1人の男性が足を止めて振り返った。
「お久しぶりです」
会釈する死確者。綿貫さんはため息をつき、他の人たちに「先に行ってて下さい」と声をかけた。皆が去るのを見てから、顔を死確者に戻した。
「すいません、昼休みにお邪魔して。実は……」
「20年前の事件」綿貫さんは遮る。表情から不機嫌さを抱いていることを感じた。「今も調べてるんですか」
「ええ。犯人はまだ捕まってませんので」
死確者は目以外に笑みを浮かべた。
「少々、お時間よろしいですか」
続けて「すぐに終わりますので」と付け加えると、振り返った。一緒に歩いていた男性数名が不安そうにこちらを見てきていた。綿貫さんは「すいません、先行ってて下さい」と告げた。
あぁ、という返事を受けると、顔をこちらに戻した。少し緩んでいた顔は元の苦い嫌悪感のこもったものに戻る。
「立ち話もなんですから」
綿貫さんは手を会社の入口へ指した。
オフィスと書かれたガラス戸の奥は、事務机が綺麗に並べられていた。持ってきた愛妻弁当らしきものやコンビニ弁当を食らう人々の中を抜け、部屋の奥へと向かう。そこには、いくつか部屋があった。順に第一第二の順に会議室が置かれていた。とは言っても、部屋の壁と天井はくっついていないため、仕切られた空間というべきだろうか。
我々は、まあ私は見えていないので正確には死確者は、第二会議室に通された。10畳程の小さな空間には、あい向かいの黒いソファと黄土色のウッドテーブル、部屋の端には植木鉢に入った小さな木が置かれていた。なんとも質素だ。
「どうぞ」
スーツの上を整えながら、死確者は促されたソファへ腰掛ける。
「お茶、要りますか」
立ったまま尋ねた綿貫さんに、死確者は「いや、お構いなく」と軽い笑みを浮かべた。
普通このような場合、つまり客人など外部の人間が来たら礼儀としてお茶などを用意するものだ。確認など取らずに。だが、わざわざ確認を取った。その上、綿貫さんの声色からして、一応聞きましたけど要らないですよね、の意が言葉の中に込められていた。しかもそれを死確者は分かっている。笑みの前にあった一瞬の真顔がその証拠だ。
……なんとも険悪である。居辛さと空気の重さが同時に体に乗りかかってくる。
「疑っていらっしゃるようなので、繰り返しますけど」綿貫さんは腰を下ろした。張っていた背から力を抜けていく。「私は犯人じゃありません」
無実を訴えている顔の割には眉間にシワがより、機嫌が悪そうに見えた。まるで、何度言ったら分かるんだ、という思いが込められているようだった。
「確かに桂木さんと言い争いを、いや文句を言いに行きました。ご存知の通り、仕事において色々といざこざがありましたから」
「でも」綿貫さんは半身を乗り出した。「口だけです。手は出してません。ましてや、ナイフで刺し殺すなんてことは決して」
「成る程」
死確者は縦に頷いた。小さかったが、数回。重ねることに少しばかり大きくなる。動作を見て、というより理解してくれたことで冷静になったのか、綿貫さんはバツが悪そうに顔を歪めた。
「今日はこちらに参ったのは1つ確認がしたかったからです」死確者は人差し指の先を上に向けた。
「桂木さんとは、時間の少し前にお話したんですよね?」
「ええ。2、3時間前だったと思います」
「なんで、後になって話をしたんですか」
「は?」
「言い方を変えます」
死確者は前傾姿勢になる。両膝に両腕が乗っている。
「何故数日経ってから話をしに行ったんですか。普通、言うとしたら、発覚してすぐではないですか」
どうやら話が続きからのように進んでいるようだ。かと言って、割り込める空気ではないことは私にも分かる。とりあえず、聞いてみるとしよう。
「それも話したはずですよ。3年近く費やして、取引直前まで進んでいたプロジェクトをたった1週間弱で無かったことにされて、奪われて、辛いとか苦しいとかを超えて、放心状態だったんです。けど、上司や幹部からかなり叱責を喰らってから、ふつふつと感じてきた。そしたら、抑えきれなくなって……だからっ」
「だとしても、数ヶ月経過してからというのに、引っかかるんです。それに、週刊誌等には、横暴だという報道がされていました。どうやら法律的にかなり危うかったようですが、違法性が認められるほどではないとのことでした。警察も検察もそれで訴えを出しませんでした。社会的な信用はあの記事で脅かされたでしょうが、それ以上はなかった。ビジネスを進めるために労力も時間もかけたことは分かりますが、それに伴う左遷などはなかったはずですし、新たな事業も進めて軌道に乗っていた。昇進の噂もあったらしいですね。なのに、胸ぐら掴んで、頬を激しく殴るという、全てを棒に振りかねないことをした」
死確者の言葉を聞くと、綿貫さんは指を交互に組み、鼻から深く息を吐いた。
ん?
綿貫さんの口元が微かに動き、かなり小さな声が漏れた。こんなセリフ、意図せずだろう。思わず気持ちが出て……
「今なんて言った?」
私は死確者を見る。声をかけられたと思ったからだ。けれど、死確者は真っ直ぐ前を、綿貫さんを凝視していた。
「なんて言ったか聞いてんだよ」
瞬きをしない死確者。低く重い声。綿貫さんの顔色が緊張で染まる。
「何も分かっちゃいない、そう言ったよな?」
「い、いや……」
死確者は素早く立ち上がり、綿貫さんの首元に腕を入れた。そのまま部屋の壁へ移動する。いや、引きずり出されたという方が表現として正しいか。綿貫さんの背が壁にぶつかり、ドンという音が部屋中に鳴り響く。
「いいか。あん時引き継いだペーペーの新人はそれで丸め込めたかもしれねえがな、俺は騙されねぇぞ。ずっと思ってた。あんた、一体何を隠してんだよ」
死確者は目を見開き、歯に力を込めて話す。鬼の形相とはこういうのをいうのかもしれない、そう悟るほどだ。
「俺にはな、時間も怖いもんもねえんだ」死確者の両手に力が込められていく。「いい加減、洗いざらい全部話せってんだよっ」
私は慌てて距離を詰める。
「やめて下さい、杉上さん」私はたまらず声をかける。「それ以上締めたら、死んでしまいます」
綿貫さんの表情には苦しみしかなかった。そして、首元にある手を解こうと必死に抵抗している。きつく締め上げられているせいで、息ができなくなっているのだとすぐに悟った。
死確者は私を一瞥すると、綿貫さんを荒く放した。綿貫さんは必死に酸素を取り込みながら、壁を伝って座り込んだ。へなへなという語がぴったりの力の無さだった。
「包み隠さずに話せ」
「……あの日、私は桂木さんに尋ねたんです。金銭受け渡しの証拠資料を見せて」
「それって……」
「ええ。取引に用いていた不正な金銭。裏金と話した方が分かりやすいですかね。だから、さっきの訂正をすれば、桂木さんは法律には触れてましたよ。いや、触れるなんてもんじゃない。手が真っ黒になるまで汚してました。罪深いですよ」
綿貫さんは首の周りを優しくさする。顔は今、疲労感でいっぱいだった。
「そのことは、誰かに話しましたか?」
「いいえ。企業の収益を大きく占めている事業への不正スキャンダルは大打撃です。一社員がやっていたとは到底思えなかった。となれば、企業が金を出してやらせていた可能性もある。もしそうであれば、倒産、ひいては社会的混乱は避けられない。それに、週刊誌の記事があったので、慎重に慎重を重ね、ある程度固まるまで、理想としては証言が取れるまでは話すのをやめておこうと」
この口ぶりだと、横取りの件を流したわけではなさそうだ。
「ですが当時、企業にそのような不正な金の動きはありませんでした」
そうだ、さっき話していた。
「だから、企業全体の、組織ぐるみの犯罪の可能性があると思ったんです」綿貫さんは語気を強めた。「あくまでその資料には金の動きだけが記載されており、名称の部分は全てXYZとアルファベット表記がされていただけで、どこかまでは分からなかった」
成る程。
「その資料は今どこに?」
死確者の問いかけに綿貫さんは目を伏せ、膝を曲げて立てると、片腕を乗せた。「……もうありません」
「まさか、捨てたんですか?」
「違います。そんなわけない」顔を上げる。表情には必死さがにじみ出ていた。「なくなってしまったんです」
何?
「いつ?」
「桂木さんが殺害されたと聞いた日の朝です」
視線を一瞬離すものの、すぐに戻して続ける。
「そもそも、資料も私が用意したものではありません」
……は? 私は思わず眉が上がる。死確者の眉も上がっていた。
「家のポストに投函されていたんです」
「送られたということですか」
「いや、消印などはなかったので、直接入れたんだと思います」
ということはつまり、誰から渡されたのか誰に持ち去られたか分からないということか。
「一言おっしゃってくれれば、対処できることもあったはず……」
「もちろん言いたかったですよ。私なんかよりもよっぽど詳しく調べられますし、第一、事件解決の手がかりになりますからね。不正で相手を上げることができれば、私の汚点も払拭できる。良いことづくめですよ。けど、想像がつかなかった。言ったら何をされるか分からなかった。そんな資料、並大抵の人間が用意できるものじゃない。内部告発であれば、私に名乗って協力すればいい。なのに、それもない。素性が分からない相手からの確証も立証もできていない資料なんて、いくら自分にとって有利なものでも信用ができなかった。危険を孕んだものを下手に警察を話して、誤誘導してしまったらって危惧したんです。それに……あの暴力を思い出すと、足が進まなかった」
また……話の文脈としては、警察が暴力を振った、と取れる。
「……申し訳ありませんでした」
手を体の横につけて深々とこうべを垂れる死確者のことを、綿貫さんは冷ややかな目で見ていた。まるでナイフのように鋭利さがあった。そういうことか。雰囲気で察しがついた。なんとなくではあるが、お茶の件から何から。
顔に汗を浮かべながら、綿貫さんは話を続ける。
「その後、特に実害があるわけではなかった。言いふらさなければ相手は何もしないのではないかと、自分なりの結論に至りました。もし仮に違うとしても、下手に言いふらすのは危険だと考えて、言いませんでした。桂木さんには申し訳なかったけれど、死にたくないですから」
綿貫さんはしたたる汗を拭う。エアコンが入りにくいみたいだ。
「そしたらある日、突然電話がかかってきたんです。誰かは分かりません。変成器で声も加工されてたから、男か女かさえ。けれど、何と言ったかは分かりました。資料のことを話したら消す、それだけ」
「なら、会社を辞めたのはその脅迫のせい?」
死確者の問いかけに、綿貫さんは縦に大きく頷いた。
「電話をかけたのは、もしかしたら隣にいる人間かもしれない。そう思ったら、もう誰も信用できなくなって……」
綿貫さんは立ち上がる。死確者との視線は同じ高さに戻った。
「私はその後、実家へ逃げ帰りました。そのまま、しばらくは家業を手伝ってました。ただ両親が亡くなったり色々として続けるのが難しくなりました。再就職して、今はここでお世話になってます」
綿貫さんは一歩、前に出た。
「私が姿を消していたのは、犯人だからじゃない。本当の犯人から、違法を合法に変えられる力を持った人間から逃げるためなんですよ、刑事さん」
むしろ暑いくらいの部屋の中、綿貫さんの顔と手先は異様なほどに震えていた。それが心からの恐怖のせいだという答えに行き着くのに、時間は少しも要さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます