第8話 魔王と女戦士と朝チュンと。

 魔王はベッドの上掛けの中で寝返りを打つ。


 いい夢を見た。後宮を卒業した妃が帰って来て、一晩の愛を求めあった。


 瞼の向こうに朝日を感じる。


 夜が明け、日が昇っている。しかしそこにある非常に抱き心地の良い抱き枕を確保し足を掛け、腕で巻きつきふわふわとむちむちのその感触をひとしきり堪能する。


 してから、思う――そろそろ起きなければ、ここは城ではない、侍女や妃達はいないのだ、自分で朝食を用意して髪を整え髭を剃らなければ。


むくりと起き上がる。あくび一つ、背伸び一つ。ベッドから足を降ろし、その縁に腰掛けた。


 魔王は寝惚け眼で確認する、そして、頭に疑問符を浮かべる。


 ――見たことのない部屋だ。


 ここはどこか。昨日は確か物件の内見で予期せず生徒の家に家庭訪問となった筈、そして生徒とその母親と家族団欒した。


 そこまでを思い出す、そうだ、生徒の家だ。


 いや、何時ベッドに来たのか分らない。確か母親と飲み明かした気がしたが――


ともあれ、ヘッドボードに置いてあった自分の眼鏡を掛け直す。


 それにしても朝の空気がやけに寒い――眼鏡だけでは肌が心許ない――


 うん? 下を見ればそこは全裸だった。寝るときは確かに裸であることが多いが、女を抱いた時限定である。一人寝の時は普通にパジャマだ――脱ぐ原因が無いからだ。


 生徒の家で全裸は不味い、服はどこかと右に左に眼で捜索し、とりあえずベッド脇の足元に落ちていたパンツを穿いた。寝ながら布団の中で脱いだのかと思い向き直ってその布団を思い切り剥いだ――




 素っ裸の女性が寝ていた。




 魔王は直ちに上掛けを掛け直した。そして五秒間を置いて、そっと捲る。


 それは非常に見覚えのある金髪をシーツの上に流していた。所々筋肉の浮いた野性味あふれる肢体が色っぽく艶汗を流している――まるで何か激しい運動をした後のようだ。


 魔王それを凝視した。


 金髪巨乳の裸である、多分生徒の母親の流石は女戦士、出産を経験して十年、尚ボディラインは崩れておらず――その全身に散らばる赤い鬱血痕と、点線の歯形に泣いた。


 意味は分かる。どうもちょっくらアブノーマルなプレイに勤しんだ様子だ。


 ――誰と? 誰が? このベッドに寝ていた人物が――つまり自分と彼女がだ。


「う……わ」


 ヤバイ。


 相手は生徒の母親――金髪巨乳女戦士――子持ちの未亡人・心は貞淑な人妻。


 そして思い出す――酔い潰れるまで飲ませた、彼女が精神的に弱っていたので健全な大人の睡眠導入剤(酒)で早々に寝かせてしまおうと思ったのだ。


 当然一緒に飲んだ、酒を勧める以上それは自然な流れだ、もてなす側の彼女にしてみれば自分が飲まないと飲めない。酒量には自信があった、酔い潰して紳士的にベッドに送ろうとしたのだ。


 だが酔い始めてから、彼女は長かった。


 ほろ酔いとへべれけの丁度間位の、一番気持ちいいラインで。延々と飲み続け、あと少し、あと少しで寝落ちする――その気配がするのに酒を水の如くのみ続ける。


 一考に酒乱にも泣き上戸にも笑い上戸にもならずに。ザル、うわばみ。女戦士のもっとも女戦士らしい部分は肝臓と脳だった。終盤は一緒に飲み続けていた魔王の方がくらくらした。状態異常耐性てんこ盛りに体力∞を誇る魔王をここまで追い詰めるなんて――もう十分人間辞めてる。ああうんわかった――他人と飲まないのは人の分まで飲みつくしてしまうからだろう。


 そこから先記憶がない。勝ったのか負けたのかは分からないが。とりあえず彼女をベッドに運んだ――多分、それは間違いない。そして現状を見れば何があったのかは分る。


 真夜中の聖戦だ――魔王と女戦士の一騎打ちだ。


 心臓が跳ね上がりそして変な汗が出て来た。軽く眉間を押さえた後、こめかみをぐいぐいと押し気付けをするがこれは言い逃れは出来ない。


 生徒の母親と不貞を働いてしまった、生徒の母親に手を出してしまった。


 魔王は勇気を振り絞って事後状態にある女戦士に手を伸ばし、その肩を掴みまずは軽く揺さぶった。


「……お、お母さーん。……シロップさんのオカーサーン?」


「……もう、だめ……ゆるして…………」


 魔王は、嬉しくも悲しくもないのに涙が出て来た。


 しつこかったのか――いやそういう問題ではない。起きない、このまま寝かせておきたいが仕方ない。事実を確認しなければいけない。


 せめて合意はあったのかどうかだ――途中からでも、最悪の場合、最初から最後まで嫌がる人妻を無理矢理――


 いや、いやいやいや。


「……グレナディーンさん……グレナディーンさん、ねえ起きて! お願い起きて!?」


「…………あなた……ごめんなさい……」


 事案確定。藁にも縋る思いで魔王は正座したまま後ろに仰け反り後退った。何故、生徒の母親と肉体関係を持ってしまったのかと。こんな貞淑な未亡人と――


 彼女の顔にはまだ生乾きの涙の痕が見える、が、同じくらい魔王も泣きたくなった。


「……? あなた……?」


 身動ぎする音がする。


 そこで女戦士はゆっくりと目を開けた。身を起こし、白い薄布が流れ落ち、豊満な肢体の全面が露わになる、非常に気怠げでしかし熱っぽく幸せそうな顔をする。


 彼女はきっと主人との逢瀬を夢見ていたのだろう。しかし、


「……せんせい……?」


 目の前に居る人物と眼を合わせ、そして徐々に、自分の主人ではないということに気付いた。


「……え……?」


 その下にある自身の体が裸身であることに気付き、茫然とし、ゆるゆると布を袂に引き寄せる。


その視線に釣られて魔王も見た。


 だが、そこに刻まれた、生々しいキスマークと歯形――性交の痕に。


「……あ、…………うそ……」


 あまりにも脆くも崩れ去った、


「――こんな、なんで……」


 女戦士は手遅れだと気付いた。貞操は穢され、夫に捧げた操を守れなかった。昨日までの幸せに、余りにも仄暗い幕が下りたのだ。


「っ、お母さん、貴女の所為じゃありません、すべて私がやりました――すべて私の所為です」


「……ち、ちがいます、私から誘って――先生、ただ優しくしようとしてくれて……でも途中から、私、主人に抱かれていると思って……」


「違いますよ!? すべて私の所為です。すべて私が欲望のままにやりました」


「嘘を仰らないでください。私から、先生に縋り付いて……主人を裏切って――……あの人にも捧げていない……初めてまで……捧げてしまったというのに……」


 言いながら、痛そうに艶やかな臀部を撫でる。


 魔王は越えてはならない一線を二本も三本も背面跳びで超えていることに気付いた。


 前門の虎、まさに後門の狼――それどころか、突如として女戦士は下腹を押さえて狼狽えた。だがそれどころか、両手で丁度子宮がある辺りにある何かを抱えながら、


「うっ――」


「――どうしたんですか?」


「……あの子を授かったときと同じ感覚がします! お腹に、もう一人家族が出来てしまったようです!」


 魔王は戦慄した。


 たった一日――否、半日も経っていないのに精子が卵子を受精させ子宮に着床させるなんてオークやゴブリンでも不可能だ、これはもう魔王しかいない、魔王がやった。


 魔王は夜の聖戦を繰り広げ、未亡人女戦士をくっ殺したのだ!


「……子供も、夫も裏切った……わたしはもう……母親じゃいられな――」


 だがその瞬間、魔王は覚悟を決めていた。


「――結婚しましょう」


 魔王は彼女を力いっぱい抱き締めた。


 女戦士は涙も残る目蓋で眼を白黒とさせ、


「……え? な、なにを言って」


「――貴女さえ良ければ結婚してください。昨日、改めて話してみて、貴女とならやって行けると思った……この気持ちに嘘偽りはありません!」


「せ、先生……」


「……貴女は、私が幸せにします……あの子も纏めて……全て!」


 大事な事なので二度言い更に三度目――責任逃れでも逃避でもない。


 魔王は無駄に力強く男らしく覚悟を見せた、本意気だった。


 やるときはやる――もちろん二重の意味で。唐突に訪れた朝チュンと、身に覚えのないくっ殺であったが、状況証拠は揃っている。


 魔王は責任を取る男であった、が、


「……いけません……そんな、あの子にも、私にも……何よりあなた自身に対して不誠実な……」


 母親はそれを忌避する。それはお互いの自己責任であるにも拘らず、魔王の心の自由を守らんとする姿だった。


 だが、


「あの子と貴女は私が幸せにする! 当然――今そこに居るお腹の中の子も――絶対に不幸にはしない! 纏めて私が幸せにする! 必ず! 必ずだ! だから私にあなたを幸せにする権利と義務を与えてくれ! この通りだ!」


 だからこそ、魔王は彼女を守る様にと抱擁をさらに強めた。


 愚直に床に正座し、更に土下座に切り替え、何も言わずに平伏した。


 そのなりふり構わない強引且つ傲慢なまでの求婚に女戦士は両手で口を押えて感動――


 ――目許がやたらと緩んで、フヒッ、と笑った。


 溢れ出そうになる怒気や、熱烈なラブコールに対する歓喜の声――ではない。


 それに魔王は気付かない。女戦士は物理的にも精神的にも上から目線を、神妙に表情を整え隠し、圧倒的優位を手にしながら、


「……私は、愛の無い結婚はしません」


 魔王は分からない男ではなかった。流れからして、要するに『愛している』と言って欲しい、と女戦士が要求しているそれを。しかし、


「……それは……まだ、言えない……今言えば、それはあまりにも絵空事過ぎる」


 顔を上げられないまま首を横に振る、悪さをした飼い犬のような姿に、彼女は頬の内側で爆笑を堪え目で道化師のよう嗤っていた。


 だが次の瞬間には、


「……今し方ご自身の仰ったことをお忘れですか? ……これから、私に愛の無い夫婦生活を強いるつもりですか?」


 厳粛な声で、敬虔で禁欲的な修道女のよう問い質すそれに、


「そんなつもりはない……ただ、今言われて、君はそれを信じられるのか?」


「……それでも、今すぐ私が愛情を感じられるようになさってください」


「それは……道理だが」


「……、口付けを、心を込めて……それで分かりますから……」


 魔王は、同じことを、自分の口から、別の女性に言った気がした。


 そう、十年ほど前に魔王城を卒業した女性に。


 戸惑う彼に、女戦士はほんの少し恥じらいに目を細めながら、しかしその時ばかりは特別な思いを込めたよう魔王の目を見つめた。


 奇妙な既視感を覚える、最後まで自分の手元でそれを与えられなかったその因果か。


 責めたてられる様な、代わりに彼女を幸せにしろと言うような、使命感の様な。


「……分った……」


 そこで魔王は顔を上げ立ち上がり、ベッドの縁に腰掛け、胸元まで上掛けを手繰り寄せた女戦士の頬に手を添える。


 そのとき、魔王はかつて別れた一人の妃のことを思い出した。


 彼女を裏切っている様な、その尻に敷かれ手綱を握られ鞭を入れられているような、複雑な感情を覚えた。


 でも悪くない虫の報せの様な、それにほんの少し違和感を覚えつつ。


 楚々と閉じられた瞼に反し、紅潮する頬に目尻を降ろしたそれを見て、その妃と初めてキスした時の事を思い出した。


 魔王は距離を詰め、一瞬だけ迷い、しかしその唇に己のそれを重ねた。


 同時に瞼を閉じるそのとき、女戦士は左手薬指の銀の指輪を外した。




 ――ピカッ! と閃光が瞬き、ポフン、と、気の抜けた音がした。




 魔王はその瞼越しに感じた強烈な光に眉を顰めながら、ぷっくりした彼女の唇を感じる。


 ……感触に覚えがあるのは気のせいか。


 ともあれ、この一回で愛情を感じさせなければならない。


 魔王は全身全霊で口付けを交わした。何度となく湿った音を立て――唇をうごめかせ情熱的に甘く吸い上げながら噛み上げる。腰に腕を回し更に抱き寄せ喉の奥まで舌を伸ばす力強さで彼女を扱き立てる。


 歯列を撫で、唾液をこそぎ、堪え切れないという女戦士の方が前のめりに圧し掛かり、深く深く唇を唇で咥えこんで舌で巻き込んだ。


 ……ちょっと、これが二人の初めてのキスでいいのかと思いつつ。


 女戦士が窒息死してるのかと思う位ビクンビクンしているので、ここらが限界かと口を離し目を開けたそこには、


「――はい。これから改めて私はあなたの妻になります、よろしくお願いしますね? あなた」


 銀髪に、清んだ青空の眼――


「……はい?」


 慈愛と慈悲に満ちた、聖女然とした女性――


 が、居る。


「……」


 誰か。にこにこ、ころころと、やたらと嬉し気に微笑んでいるが。


「うふふ?」


 知っている、魔王は目の前に居る女を知っている。銀髪青眼の嫋やかな細面に慈愛が滲み出る微笑みを浮かべた女性――


 記憶の中にあるそれは、瑞々しくも無垢な少女の様相であり清廉な面構えであった。


 目の前にあるのはそれが成長すれば麗しくもきっとこうなるであろう顔――聖母の様相を持つ、慈愛の女神のような女性だ。


 その顔をゆっくり見て、思う。


「――うん?!」


 金髪巨乳の女戦士はどこ行った。あの、精悍かつ豊満でタフな美女は、


「……シロップさんの、お母さん――」


「――は、世を忍ぶ仮の姿」


 確認すれば、そんな返し。


 じゃあその実態はと心の中で思い――


 言うまでも無く、しかし言わねばならず、その名前を出す。


「……ポムグレーナ?」


 10年以上も前、魔王城に訪れた女勇者――


 魔王と結婚し、そして離婚した女だった。






 何故、そこにいるのか。今までいた金髪巨乳人妻女戦士未亡人はどこに行った?


 魔王はゆっくりと周囲を見回す……何故、離婚した妃が目の前に居る?


 実は女戦士とグルで、目を閉じた瞬間に転移魔法で入れ替わってそこに居るのであれば、そろそろドッキリ!の看板を持ってこの部屋に突入している頃合いだ。


 つまり違う、訳が分らない、しかし大事な事なのでもう一度、


「……………ポムグレーナ?」


「はい」


「……」


 愛妻である。元が付くが。その想いは今でも変わらない。


 月明かりのよう蒼く白く煌めく銀髪が揺れている。


 光をガラス細工に溶かして糸にしたようなそれは彼女特有のものだ。神秘的なその髪もさることながら、十年前より女性として遥かに美しくなっている。確実に年輪を重ねながら衰えるどころか輝きと深みを増している。


 優美な背筋から連なる豊かなヒップは蜜も滴る林檎のよう艶を帯び婉然とした曲線美を描いている。その密度と、質量感ある丸みには女の肢体の柔らかさを否応に足に感じさせ、その肢体は女の厚みと豊かさでたわみ、乳房も母性と牝を強調するよう豊潤と実っていた。


 その大きさのあまり垂れているように見えるが、重力すら味方に付けているかのようそれすら完璧な美しさである。


 それらの姿は若さだけが女性美ではないということを確かに証明し、かつても美が咲き誇っていたが過去と比肩するまでもなく、更に女性として洗練されその頃には無かった色香に満ち溢れていた。


「……ふふふ、初めてあなたに勝った気がします……♪」


 魔王はつい、男の本能を押さえ切れずに凝視していた。


 色々とレベルアップし過ぎである。確かに、魔王の心の第一声は間違いなく――綺麗になった、であった。


 元女勇者の大勝利だ。だが、それも愛する女だからこそでもあるのだが、


「……………………………ポムグレーナさん?」


「はい」


「……」


 依然として認められない、理解できているのに理解できない。


 目の前にあるのは芳醇な蜜を蓄えつつある淑女だが、かつて勇者であり聖女でもあった彼女は、モンスターの大発生で荒れていた人界の為、各国の名代として魔界に復興支援を取り付けに政治交渉に来ていた。


 凛々しくも儚く、楚々としたまだ線の細い笑窪、磨き上げた鏡のよう静謐とした表情はまさに貞潔な聖女の見本だった、正確には、その中で魔王を暗殺し魔界を侵略する為に来させられたのだが、自らからそのことを暴露――逆に魔王と共に陰謀を挫き、その後、魔王の後宮でそこに至るまでに壊していた心と体を療養していた。


 魔王は献身的にその心身を支え、彼女は真摯にそれに応えようとした。


 その中で愛が否応なしに育まれてしまい、正式に結婚したのたが――


「女戦士の人妻の未亡人の母親は?」


「仮の姿です。――そちらの方がお好みですか?」


「いや、断然こっちで」


「うふ、でもそれじゃあ女戦士さんとの約束はどうするおつもりですか?」


「いや、いやいやいや……それどっちも同じ人でしょ?」


「でも魔王様がお約束したのは、私ではなく女戦士さんですよね?」


「……もうお願い、許して、これ浮気? 浮気じゃないよね? 妬いてるの? 揶揄ってるの? 訳が分らないんだけど!」


 魔王は混乱しながらそう叫んだ。


 結婚後、ほどなくして彼女がやるべきことを見つけたと言い妃としての身分と字名を捨て魔王城を出て行ったそれが何故ここに。


 なぜ、こんなことに!


「――コホン、説明いたしますと、貴方が手を出しちゃった未亡人人妻は――元あなたの嫁が変装した姿です」


「……大変わかりやすいご説明をどうも……」


「ダメですよ? 先代女王様を押し倒したときも、確かお酒の勢いで泣きつかれたときでしたよね?」


「……ああ、うん……」


 十年前の姿がちらつく――最後に見たのは淋しさと悲しさを隠すような笑顔だった。


 それがこんなもんよ。何このお茶目、聖女から聖母にクラスチェンジした所為か神経がやたら図太くなっているのは気のせいか。


 生徒の母親が変装した自分の元妻で、しかも、それを別人と思ったまま授かり婚・責任プロポーズまでしてしまった。そんな十年ぶりの再会ってありなんだろうか? 再婚しようと思った相手が元妻っていうのも色々とやっちまった感がある。


 聖母系・爆乳淑女に魔王の顔面は相変わらず停止したままだ。


 思考の迷路を彷徨っていた。しかしそこでふと、これまでみた女戦士の姿が嘘偽りというなら、


「……昨日の夜の話は? どこまでが嘘? どこまでが本当? それに…………」


 真面目に、


「君の、今の夫……あの子の父親は?」


 一番心配なのは片親としての彼女の苦悩なのだが、だがそれと同じくらいに――やきもちを妬いた魔王に、元妻は目をぱちくりとする。


 悶々と、憂鬱気に、そこはかとない嫉妬を滾らせたそれに、この上なく面白げに勝ち誇った顔をしてから嬉し気に――だけど誰よりも穏やかに微笑んだ。


「――私が出て行ったのは何年前ですか?」


「……10年前だが?」


「では……あの子の歳は?」


「……10歳?」


 元夫は沈黙、ふと思案し――


 気付く、完全に一致である。


 さりとて信じられず思考、熟考――念の為、


「……まさか」


「……私が貴方以外に、この身体と魂を許すとお思いですか?」


 つまり、そういうことだ。


「……うふふふふふふ……魔王さまのやきもち……」


「う、うるさい」


 魔王は妻が腰掛けているベッドに頭を乗せ擦り付け、その照れを隠した。


 その頭を、彼女が優しく撫で漉く。


 ゆるゆるとした熱が実感させる。


 昨日、散々甘やかした――生徒が、可愛い生徒だと思っていたあの子が、実の子だった、ということを。


「……あの子は……私の……」


 それに気付かず、普通に生徒として接していただなんて。


 多分今後一生ネタにされる。それを理解しつつ魔王は鼻から大きな溜息を吐き、深呼吸をした。歓喜だけでなく色々な衝撃が湧き上がってくる、眼の奥がぐらぐらする。


 それはもう魔王として親として史上最大の幸福と敗北感を味わった。どうして気付かなかったのか――感慨に耽っていいのか悲嘆と憤怒に暮れるべきかと懊悩した。悩んでいるけど口元は完全に嬉しそうだ。そんな魔王を余所に父として極自然に突然の娘を受け入れている彼に元妻は幸せそうな顔をするが、


「……あー、いや、……ところであの子はそれを――」


「いいえ? 教えていませんが――でも、昨日のはしゃぎ様は、もしかしたら気付いているかもしれませんね。……学校にお父さんみたいな先生がいるって聞いていましたけど、まさかそのものズバリあなただったなんて……昨日は私も本当に驚きましたよ?」


「ああうん……なんかごめん。しかし昨日どうして言ってくれなかったんだ?」


「あの頃、人界から魔王城に郵便なんて出来なかったでしょう? 私も旅立ってしばらくしてからお腹にあの子が居る事が分って、産んだら産んだであの子が大きくなるまで旅にも出れず――帰るに帰れなくて」


 まだ人界との国交が正常化どころか再会すらされておらず、便利な道具は悪目立ちする為持ち出せなかった。


冷静に考えてみれば、それは仕方のない事だった。


「……貴方の一助になれればと人界で孤児院をやろうとした筈が、満足に目標を叶えることも出来ず……情けない限りです」


「……いや、赤子を片手に抱きながらでそれは無理だろう……君はやるべきことをやり、耐えるべきことを耐えていた……立派だよ……」


「魔王様……」


 彼女は、魔王の仕事に誰よりも理解があった。


 それを妻として離れながらも夫を支えようとしていた。そしてそんな彼女の事を誰よりも魔王が理解していた。




 しかし、傍には居なかった。


 10年。本当に、長い時間が過ぎている。




 一つの表情の奥に、苦労話、愚痴、弱音や不安の一つもあっただろうに。喜びも、哀しみも、涙も、笑顔も、積み重なっているのが見て取れる――まだ染み一つないような美しい肌だが、そこには目に見えない年輪が刻まれていた。


 確実に過ぎ去った空白の年月を感じながら、魔王は思う、それを出来れば夫婦として共有し支え合いたかったと。しかしそれを言えば彼女の自由を許した自分にも責があり、自身の意思を貫き通した彼女にも責が及ぶ。


 だからそれ以上は何も言わないことにした。


 でもだからといって、


「……で? どうして今代の勇者一行に参加して魔王(偽)を倒しに来たの?」


 彼女は女戦士(偽)、されど10年前魔王を退治しに来た元勇者パーティー。


 元勇者(妻)が魔王(夫)の命を取りに来たともなれば、壮大な大河浪漫ともサスペンス劇場ともいえるのだが、ぶっちゃけ盛大なDVドメスティック・バイオレンス、いや、はた迷惑なお茶の間劇場であろうそれに元妻は、


「魔王が代替わりしたって噂を聞いて、まさか貴方が死んだかもって……それで、娘共々変身アイテムで名前と正体を隠して、実情を確かめに……」


「ああなるほど……うん? ……え? 娘共々?」


 またも衝撃の事実である。


「はい。あ、あの時の女魔法使い、あの子ですよ? 気付きませんでした? それも仕方ありませんか……正体を隠すのにあの子は髪と瞳の色も変えて、十七歳の姿になってましたからね」


「それ、魔法使いじゃなくて魔法少女じゃないか?」


 だとしても、自分は三年前、当時七歳の実の娘と殺り合っていたのかと。


 接待プレイで魔王・合体ロボの頭部パーツ(首・赤い鷲)をあげて帰らせたが。


 だが、魔王が人形の視界越しに見た見た魔法使いは――目の前の妻に負けるが非常にミステリアスで大人びた知的美少女だった。見た目もサイズも完璧に違う。それと今の娘とを比べてどう気づけと言うのか――


 無理である。


 仕掛けられた側がただ単純に面白くも嬉しくもないドッキリだ。


「……ていうか、そこで戦いが終わった後に、なんで声を掛けてくれなかったんだ?」


「曲がりなりにも勇者のパーティーですよ? 帰るまでが冒険です」


「そうか」


「そもそも戦いが終わった直後にどんな顔をして会いに行けと言うんですか、そんなことをしたら本物の魔王が死んでないとか諸々バレバレになるでしょう?」


「まあそうだな。……でもその後は? 来ようとすればこっちに来れたんじゃ?」


 子供と旅が出来きたのなら、魔王城にもう一度来れた筈――とのそれに元妻は顔を曇らせ目を逸らし、甘える様に元夫の胸板にダイブし「の」の字を書いた。


 お茶目な元妻と眼が合い、どちらからともなく笑い、思わず見つめ合い、自然にキスをした。


 幸せの味がした。


 そこで口を割った。


「……すっかりおばさんになってしまいましたし……」


「あの頃以上にセクシーになっただけだろう? ――ほら本当のことを言うんだ! さもないと――」


「アン?! ちょっ、もうっ……だって、やりたいことがあるって……ちょっ、言います言います。どうしてもって我儘を言って、貴方の元を出て来たのに……子供を産んだからと言って都合よく戻るなんて」


「――それだけ?」


「……だって……絶対……もう二度と離れられなくなるから……」


 魔王は元妻の多大な愛を感じた!


ガバッ!


「グレーナ!」


「あんッ! ちょっ! ――……いやぁ~、~~~っあンッ!」


 おおよその疑問は収まったところで彼女をベッドに押し倒し、期待に甘く身動ぎする元妻の首筋に顔を埋め、熱烈にキスをする。「さみしかったよ~」という代わりのそれに元妻も「私もです」を兼ねて魔王の同じ場所に口付けをする。


 朝日の中でその肢体を覗き込もうとするそれに抵抗し、しかし甘い微笑みを浮かべる。隙だらけになった顎を揚げられまた唇で唇を塞いだ、塞ぎ続けたこの流れは不味いと思い、元妻が建前の様な抵抗をする中、更に魔王は唇で覆い被さり舌を混ぜ込み彼女を存分に味わって行く。一晩抱き合い発散したはずにも拘らず、全く身体の中で愛情が尽きない。


 本当に困った悲鳴が喉の奥で響き、しかし熱情に侵されつい舌を絡めてしまう元妻が、半ば泣き従順に唇を差し出すようになったそこで本格的に押し倒し覆い被さった。


 問答無用で燃えさせるつもりだった。両者それでもさして問題ない関係である為、そこに危機的なものは感じない。


 が、彼女は腕を張って、


「こ、子供がもう起きてくる時間です!」


「そうじゃなければ許してくれたのかい?」


「それは……」


「じゃあとりあえず今は抱き締めるだけ――」


 母親はふしだらな欲望に目を逸らし、弱った女の顔をのぞかせた。父親はそれだけで十分満足しさっとその手を取り、再び腕の中に彼女を拘束した。


 そして、かつてのように髪ごと頭を優しく撫で始める。


「……いい子だ……」


「んんっ…………ずるい。……これ弱いの知ってるのに……」


 欲望ではなく、愛を感じ、彼女は降参した。


 一回ぐらいならすぐ終わるだろうかとその身を明け渡そうと目を閉じ、身体の力を抜いた。


 10年ぶりに否応なしに潤んだ瞳と、それに気付いた魔王がまた音も無く口付けを、何も言わずにお互いの鼓動と存在を感じ合うだけの時間を求めようとした。




 ――だが。




「――先生ー? もう朝だよーっ?」








 その瞬間、魔王と元勇者は夢から覚めた。


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