第7話 魔王と女戦士とその娘と(家族団欒)。

 女戦士は普通の母親だった。


 勇猛な女戦士は何処へ行ったのか――お家の中では休業中の転職中なのだろう、子育ての苦労と苦悩に、理性と羞恥心を悩ませるその姿は、完全に一人の母親であり、それを恥じらう姿も男心を誘う魅力的な淑女だった。


 まさか自分の生徒の母親だとは思わなかったが。


 魔王は教師として、着替えを済ませた母娘が揃った席で、先日の休日に起こった出来事を説明していた。


「両種族の交流におけるマナー教本ですか……」


「ええ。そして異種族間で恋愛が発生しているかどうか…交流の進行具合の調査も兼ねて出来るだけ多くの人と魔族に声をかけていたところ、シロップさんに会いまして――で今度学園に来る勇者が下宿する丁度いい物件が無いので、それを見繕っていたんですよ」


 それから、今日ここに来た理由を娘も加えて改めて伝えた。その事情を知らない娘の為だ。そしてその情報に女戦士は、


「あら、じゃああの子がこの街に来るのね」


 かつての仲間と再会するかもしれないそれに、主婦の顔でおもてなしの準備を講じている。そんな母親に対し、娘はその事には興味なさげに、


「えー、じゃあ再婚しないの?」


「シロップ、私は私の旦那さま一筋よ?」


「えー、……でも先生、お父さんみたいなのに」


「そこにいる先生とは違います」


 母親は腰を浮かせ、代わりという様に抱き締めた。


 娘の隣から、膝に乗せるには幾分大きなその体を両腕で抱えて、母親らしく愛情を注ごうとしている姿が、魔王はなんとも眩しく思う。


「……じゃあ先生、先生は? お母さんと再婚したい?」


「……まあ、これだけ綺麗なお母さんなら、ちょっとは考えちゃうかな?」


 おそらく、父親の分もであろうそれに気付いているのか、先程よりも気勢を弱めて生徒がそんなことを聞いてくるので、金髪巨乳のお母さんを見ながらそう言う。


 が、この絵はこの絵で完成していると思う。ただ、父親の姿があれば、また暖かな色になるのも事実だろうとも。


「本当はもっときれいなんだよ?」


「本当は?」


 娘がにやりと笑う、何の変哲もないエプロン姿の、普段着の女戦士を見て。


 魔王は、


「――そうだね。このままでも美人さんだけど、着飾ればもっと綺麗になるだろうね」


「そういう意味じゃないんだけどな」


「うん? ――どんな姿でもお母さんは最高?」


「そうだけど違うんだなあ……」


 外見ではなく中身――心が綺麗だと言って欲しかったのだろうか。それとも『じゃあ再婚しよう』とでも言って一緒に母親をからかって欲しかったのだろうか。


 魔王は推論する。


 化粧をしてドレスで着飾れば高級クラブのママにもなれるだろうと魔王は思うが違うか。そんなニュアンスではなかったとも思うが――件の母親は、娘の発言に顔を青、赤、白、紫と百面相させ泣き笑いの様な怒りと共に恥じらいつつ、燃え尽き肩を落とさせているが、


「それにほら、今ならもれなく私が付いてくるよ?」


「――ほほう? それはそれは魅力的ですねえ……」


 娘は更に主張する。愛妻に漏れなく今ならもう一人――可愛い娘も付いてくると。


 普通、益体の無い男ならそこで二の足を踏むところだろうが生憎――子供好きの魔王にとってはただのご褒美である、その提案だけでお腹いっぱいだ(平和)。


「――じゃあ今日はこのまま泊まって行って! もう夕方だよ? 帰ってる途中で暗くなっちゃうよ?」


 子供か! 子供かと魔王は思うが、その瞬間的な可愛さについ微笑みかける。


「――ダメだよ? お母さんが大変だ」


「私も手伝うからそれくらい平気だって」


「それでも農家さんは朝が早いから、ね?」


「え~。……先生、行っちゃうの?」


 こんな突然ではその準備もままならないだろう母親に負担が掛る。


 魔王は、以前からこの生徒に妙に懐かれていることは知っていたが、しかし少々これは懐かれ過ぎではないかと思い、嬉しくも困り笑いをする。


 それにしても、珍しく聞き分けの良い生徒がわがままを言っている――


 それは母親にとっても同じだったのか、とても真剣に眉を曇らせていた。


 だが、母性が微笑む。子供の我儘をあえて叱らず、逆に背中を押すどうしようもなさ――業とも運命言うような、功徳を体現する貌で、


「……明日は出荷の予定はないですから、人一人持て成すことぐらいはできますので。先生、その代わり、この子の学び舎での様子を詳しく聞かせて貰えないでしょうか?」


 懇願される。なぜだろうか、魔王はこれを断れば、明日から彼女達の顔を見れないような気がした。


 その、どこか弱り切った眼を見たのがいけなかった。


「……分かりました。じゃあ、ご相伴に与らせて頂きます……」


「――やったーっ!」


その瞬間、勝鬨を上げ娘はぴょんぴょん跳ね小躍りしながら母親の周りを駆け巡った。


 更には力強く拳を突き出し、腰溜めにしては勝利のポーズを決め、それから彼女の腰にに抱き着く。


 その体を愛し気に母親は抱擁し返し落ち着けと言わんばかりに背中を優しく叩いた。


 それは振り返ればにこにこと、満面の笑みを浮かべ大人達を見上げている。


 えへへ、と笑うその幸せそうな笑みに、魔王と女戦士はまた仕方なさげに苦笑しながら肩を落とした。


 魔王は微笑みながらそれを見守りつつしみじみと思う。


 この母娘は、しあわせだと。




 野菜を炒める香ばしい匂い――少し甘みのある芳香と、ブイヨンの煮える暖かな匂いが漂ってくる。


 女戦士はキッチンで夕食の準備をしていた。


 その間、魔王は慣れた様子で女戦士の娘の面倒を見ていた。


 十歳という思春期間近の微妙な年ごろだが、彼女は膝の上の間でご満悦の様子である。


 すっかりお姫様気分だ。そこに落ち着くまでの間は家の中を案内をし――飼い主を引きずる犬の様に魔王の手を握り振り回していたのだが、そこまで素直に甘えられると魔王もいい気分である。


 専属の美容師になりその長い髪をチョココロネ型のお下げに調子よく編む。そのうち、彼女は不思議気に聞いてきた。


「――先生はなんでこんなこと出来るの?」


「うん? そりゃあ魔界でもたくさん子供の面倒を見ていたからね」


「そうなんだ……魔界で他には何をしてたの?」


「うーん……色々な人と話しをして、仕事の橋渡しをして……働き過ぎの人を休ませて上げたり……女の子を助けたり……色々かなあ……」


 それは魔王としての業務や行政、内政の話である。子供には話せない内容もあるので、そこは翻訳したが、


「ふーん、じゃあやっぱり私のお父さんと一緒だね」


 そんなことを言う――彼女はどうしても、今日は先生をお父さんにしたい様子である。


 振り向いたその頭を優しく撫で、また前に向かせ、解けてしまった髪を手の中でまた結い直す。


「――そうなのかな?」


「うん――あのね? 私のお父さんもたくさん子供を育ててたって。そんで色んなことが出来たって。それで世界一優しいって」


「――お母さんが?」


「うん」


「そうか……良いお父さんだったんだね?」


 その返答に、心地良さげに眼を閉じながら少女の背中が緩む。


そしてリボンで髪を留め結び上げる。その出来栄えに頭を撫で可愛がる。少女も手鏡を片手に確認し笑みを見せた。そのほどほどで手を止めようとすると、


「イイって言うまで」


「はいはい――」


 魔王は髪型が崩れないように頭全体を優しく撫で続ける。それはしばらく続き、猫の蹴伸びの様にだらりと四肢を弛緩させ、


「んー……今度はぎゅーって抱っこ」


「はいはい」


 イイとは言わない。しかし魔王はかまわず優しくする。


「えへへ……」


 何でも許した。惜しみない愛情を注いだ。血の繋がりは関係ない。


 もう一度、今度は深くその小さな体を抱え込み、密着して頭を撫でる。


 その中でもぞもぞと器用に尻で方向転換し、魔王に向き座り直すと少女は胸板に顔を推し付けぐりぐりとして来た。好きにさせ、しばらく優しく撫で続けていた。


 すると寝息の様安らかな呼吸が響き始める。


 そこに、


「――夕食の用意が出来たわよ? ……シロップ――?」


 母親が、返事が無いそれに彼女の顔を除き込むと、微睡に執着するよう娘は魔王にしがみ付く。


 目で魔王にも確認を取る母親に、彼は唇の前に一本指先を立た。


 完全に夢の世界に居る――娘の状態を確認すると、母親は困り笑いで曲げた腰を元に戻し、そしてやはり、慈愛たっぷりに目尻を下げた。


「……こんなに甘えて」


「……いつもこうなのですか?」


「最近は、ちょっと恥ずかしがりますね。元々顔では滅多に寂しげな素振りを見せなくて」


「……そうですか」


「……でも、男の人には絶対に……なんですけど……」


 多分、線引きをしているのだろう、父親に対する、なにかしらの。それはこの母親も分かっている様だった。


 そのとき――毛繕いが止まっている、と自己主張するように少女がしがみ付いて来た。


 相槌代わりに背中をぽんぽんと叩き、グルーミングを再開するとほっとしたように寝息が緩む。


 ――子供のそんな姿を見て、母親はまた嫋やかに、そしてほんの少し寂しげに微笑んだ。


 それでも幸福な家族であろうとするのだろうと、魔王はこれからこの生徒との距離感をどうしようかと考えた。


 しかし、とりえあえず今は、今だけは、


「……ベッドに運ばなくてもいいですよね?」


「――このままですか?」


「ええ、せめて今日だけは」


「……お願いします」


 夢の中なのだからと、大人たち二人はそれを守ることにした。


 まるで仲睦まじい夫婦そのものの、そのときそれを知ってか知らずか、


「……先生、結婚して……」


 動揺が走る。これまでの言動からみてその対象は教師と人妻だが――この状況では、歳の差婚もありえてしまう。


 魔王は思わず母親と眼で確認し必死に手を横に振った。母親はおかし気に笑いながら首を縦に振る、魔王なのに全く疑われないとはどういうことかと思うがほっとする。


 が、またそこで、


「……弟が一人、妹が二人……」


 その瞬間、先生は生徒の家庭での保健体育がどこまで進んでいるのか気になった。


 母親は、その瞬間彼女の顔を見てしまった魔王を睨みつけた。


 それからゆっくり魔王は目を背ける。そしてその瞬間、顔を赤くしながら母親が娘の寝顔を睨みつけると――その妙にニヤニヤとした寝顔に、即座に母親は目を尖らせ、


「……シロップ、下らないことを言っていると先生に帰って貰いますよ?」


「――はーい!」


 途端、娘は飛ぶように床に降り立ち、足早にキッチンへ駆け込んでいった。


 母親はその背中を腰に手を当て見送り、憮然と鼻でため息を吐いた。それから、若干呆気に取られていた魔王に、身を守る様に腕を組み、子供の発言から一体何を想像したのかと彼を眼で窘め、


「――いい魔王なんですよね?」


「――ぼく、わるいまおうじゃないよ?」


 女戦士×魔王、その界隈では当たり前である。


 が、目の前の若干色違いの魔王を見て、


「……信じます、ふふっ」


 その、朗らかに、そして余りにも優美に微笑む母親に魔王は見惚れてしまった。


 そこでつい、仲間に誘って欲しそうに眺めようかとも思うが、それは止めて置いた。なんとなく、負けた気分になるからだ。




 腰を上げ、娘の後を追い女戦士と向かう。


 食堂は薄暗い温かな夜の帳の中、彼女は上座の椅子を引き、魔王を本日の主役として据えようとしていた。


 接待に応じて腰を下ろす。


 そのテーブルを見れば鍋が中央にドンと一つ、その脇にパンが籠に盛られていた。と、娘は母を押し退け手品の種明かしをするよう鍋の蓋を開ける。


 ――淡い橙色が飛び込んで来る。


 ふわっと甘みと香ばしさのある匂いが席に立ち込め、魔王は思わず前のめりになりそうなほど鼻孔を動かした。シチューかポタージュか――トロミの付いた液体が優し気にランプの光オレンジを溜め込んだよう揺蕩っている。


 湯気を蓄えたそれを、小さな手でレードルを持ち、彼女は揚々と皿に掬って広げていく。


 二度、三度と、皿に満ちた一面の橙色に上から緑のパセリを散らし、


「はい先生!」


「――ありがとう」


 会心の笑みを浮かべる少女に、魔王は受け取りながら礼を言う。母親はどこか心配げに、というよりも、尊げにその光景を横で見守っていた。


 娘は気分よく全員分盛り付け席に着き、


「――いただきます」


 三者がタイミングを見計らい、作り手と料理に感謝の祈りをささげ、古い習慣を口に出す。


 それから、静かにスプーンで橙色のスープを救い、口に含む。


 ニンジンの柔らかな甘みと、焦がしたバターの香ばしさが広がった。


「――先生、おいしい?」


「ああ。おいしいよ」


 砂糖のような甘さではなく、塩気交じりの何度も口に運びたくなる優しい味だ。


 それにミルクの風味と舌触りが、まろやかに喉の奥に通り抜ける。他にも様々な野菜や穀物の味がする、奥行きを感じる風味だ。ポタージュのようだがそれには無いトロミは、シチューのように炒めた小麦粉でも付けられているのだろう。


 ポタージュでもシチューでもスープでもない、変わった料理に、魔王はほんの少し呆然と目を丸くする。


そのとろみが口に広がり喉を通る度、じわりじわりと暖かさが身体の芯に響いていく。


「……先生、どうかしたの?」


 娘は、目を丸くしていた。


 魔王は笑顔で誤魔化し、


「うん? ――ああいや、すごくおいしかったから、夢中になっちゃってね」


魔王はそう答える。


「――本当に?」


「ああ、ほんとうだよ?」


 それは……魔王にとって酷く懐かしい味だった。


 炙って焼き直したパンをちぎって浸し口に入れると、パンの淡い甘みがよりその料理の優しい味を引き立たてる。ほっと息を、もう一口、もう一口、何も言わずに食べたくなる。


 だけど一皿だけで満足できる、もうお腹いっぱい、そんな幸せな料理だ。


 徐々に体が温まる。ただおいしいというよりも、幸せを噛み締めるような――


 だがその反面、現実にはどこか寂しさを感じるような魔王を敏感に感じ、疑問を覚えたのか娘は、


「――じゃあ世界一?」


 ニコリと笑って聞いてくる。


「う、う~ん、……残念ながらそう言っていいのは、自分の奥さんの料理だけかな」


「てことはほんとは一番?」


「んー、……さて、それはどうかな。でもこの料理を今世界一好きなのは君だろう?」


「う~ん、それは確かにそうだけど……」


 余りにも強固なアピールに魔王は堪らず苦笑した。


 娘は自分のお母さんを世界一の料理人にして欲しかったのだろう。ご期待に沿えなくて申し訳ないと魔王は思うが、一瞬、


「なら、それで十分だよ」


「――ええ。今はそれだけで十分幸せね」


 ね? と母親視線を向けると、女戦士は影を潜めた目で笑顔で頷いた。


 不承不承、しかし惜しみない母の愛情を感じ、彼女は引き下がった。


 そしてやや不貞腐れながらも、嬉し気に食事を再開する。


 そんな仲睦まじい、父親の居ない母娘おやこの食卓を微笑ましく見守り、その後魔王は一度だけスープをおかわりし、パンで器を拭い丁寧に最後まで味わい切った。


 それは暖かな家族の食卓の味だった。




 魔王はそれから生徒と風呂に入った。


 正確には、入っている所に乱入された。


 あまりにも強引に引き留めたのだからと、娘さんが強固にその接待を申し出たのだ。


 だがそれは接待と言いながら風呂の中で彼女は甘える気満々だった、洗い場では髪に背中にと、洗いっこと称し魔王は彼女に至れり尽くせりの逆奉仕活動を行う二重のとんだ不祥事である。


 されど可愛い盛り、こんな年頃の娘が居たら間違いなく彼女が将来お嫁に行くことを考え複雑な胸中に陥る頃だろう――だからもう少し「お母さんに甘える様に」と言っておいた。嫌な顔をされたが「その方が二人とも、後で幸せだったと思えるから」と包み隠さず教えると彼女は静かに「うん」と頷いた。


 それから生徒の夜の勉強時間に付き合い、魔王は寝るまでベッドの脇でその手を握ることにする。ランプの灯も落し、真っ暗闇の中、カーテン越しに差し込む月明かりと星明りで、そこで再び彼女は、


「ねえ先生……本当にお母さんと再婚しないの?」


「こらこら、先生は今日お母さんと会ったばかりなんだよ?」


「じゃあこれからずっと一緒にいたら、結婚するかもしれない?」


「うーん、まあそうだね……その可能性はあるかな?」


「うそ。本当に?」


「こんなにいい子を育てられる人なんだ、十分すぎるほど女性として魅力的だよ」


「じゃあもうずっと一緒にいちゃいなよ」


「結婚しろって?」


「うん。――ダメ?」


「――ダメ。まずはちゃんとしたお付き合いからだね」


「そっか、お付き合いからならいいんだ」


 そう言うと、生徒は愉快気に目尻を撓らせる。そして、


「……先生」


「うん?」


「……今だけおとうさんて呼んでいい?」


「……じゃあ今だけな?」


「うん…………おとうさん、」


「ん?」


 魔王はベッドに身を乗り上げ横這いになる。その胸をぽんぽんと叩き、


「……おとうさん、あのね?」


「ん。なんだ?」


「これからね、お母さんと離れててもいいけど、お母さんのこと忘れないでね」


「――わかった。絶対忘れないよ」


 魔王がそれを了承し頭を撫でると、少女はすぅすぅと寝息を立て始めた。


 安心しきったその様子に、そのまま手を握りしばらく寝顔を見守り続けた後、静かにそこを抜け出た。




 ドアを閉じ、階段を下りて魔王はリビングへと戻った。


 一日限りのお父さん役、終了である。


 そこを通り抜け水を貰おうと台所に行こうとすると、そこで待っていたのか女戦士は彼を見るなり立ち上がり、恭しく彼を出迎えた。


「――お疲れ様です、娘が飛んだ粗相をしてしまって申し訳ありません」


「いや、子供はあれくらいの方がいいですから……?」


 その姿に、魔王は疑問した。


「……どうしたんですか……」


 目を見張った。そこに居るのは誰なのか、というくらいに。


 彼女は煽情な赤の口紅を塗り、煌めくアイシャドーもなんとも妖しげな夜の装いで、柔肌に張り付くような薄いドレスを纏っていた。


「母親の貌も、みっともないところも見せましたから。今度は女らしいところも見て貰おうと思って……」


 魔王は生唾を飲み込みそうになるのをどうにか堪える。


 女戦士は、あまりにも優美な立ち姿を披露していた。彼女の言葉通り、化粧を済ましたその姿は、一人の女としての顔をしている。


 改めて綺麗に纏め上げた髪も、そこからのぞく折れそうな首筋の稜線も清楚ながらに妖艶で、見る者によっては下品とみられる様な濃い化粧も、彼女の性善な内面によって荘厳な芸術のようである。


 立ち居振る舞いの静謐さも、艶然と目尻で微笑み男を惑わしながら逆にそれを寄せ付けないほどの高貴さを纏わせ、神聖な女性美と、退廃的な官能を兼ね揃えていた。


 これまで見た戦士、母親、人妻のどれでもないその色香を湛えた姿に、魔王はしどろもどろに目を逸らした。


 生徒の母親で他人妻で一児の母親という不可侵領域を、そんな風に見ていいのかと。


 その反応に、夜の女戦士は薄い三日月の様に目尻を落として笑いながら、しどけなくそんな彼を妖しげな顔で誘う。


「それで……付き合いで貰った酒があるのですが、私は一人では飲まないので、良ければお付き合いして頂けませんか?」


「……いやあ、そこまでもてなさなくとも」


「お目汚しということでしたら、大人しく引き下がりますが……」


「ああいや、そういうわけではなく……」


「では、こちらに……」


 魔王は、すっと彼女に吸い寄せられるよう、先程彼女の娘と戯れていたソファーに引き込まれた。衣装に隠された豊満な肢体も清廉なまで洗練され、むしゃぶりつきたくなる以上に、決して触れてはならないもののように感じられる。


 それをふっとした表情で微笑む姿も背徳的である。


 うなじに挿した香水と混ざった、彼女の匂いが鼻孔を包んだ。男を狂わせる匂いだ。ふわっと絡みつくような甘さと、潔癖な薔薇の香気と理性を蕩けさせる様な酒精にも似た。


 自制が一瞬途絶える、そのときには着席していた。


 母親は、艶やかで肉感的な太ももを魔王に寄せながら、グラスに氷を入れ、そこに栓を切ったボトルから琥珀色の酒精を注ぎ匙で回し、温度を馴染ませ手渡してくる。


 低い位置にあるテーブルには他にも既に酒の用意があった。


 それを受け取るついでに磨き込まれたそのしなやかな手指に眼を取られ、魔王は一口――それを確認し、静かに彼女も一口……光を落とす様な笑みを浮かべる。


 やはり、どこを取っても芸術の域に達している。


 それが、――経産婦であるという事実が余計に拍車を掛ける。


 生徒の母親だ、しかし一体どこの誰がこんな女の身も心も射落としたのか――


 彼女をなるべく見ないようと酒を転がす魔王に、女戦士は上品に口元に弧を描きながら聞いた。


「……夕食の席では娘がはしゃぎ通しで伺えませんでしたが……あの子、学園ではどうですか?」


「――いい子ですよ? 教える側として手を掛けられない所が少し寂しい位です」


「……私も、もう少し、我儘に生きて欲しいと思っていますが」


「今日ぐらいに?」


「今日は少し行きすぎです」


「子供に可能性を与えるというのは、難しいですからねえ……私はこれくらいでちょうどいいと思いますが。ただ、あの子がいい子なのは間違いありません、あなたが今まで彼女にちゃんと愛を注いでいたからでしょうね、ここまで十年……苦労も絶えなかった筈ですが、同じくらい笑顔も絶えなかった筈です……本当に御立派です」


 根っからの教師らしいその様子に、女戦士は自分のグラスを傾け笑う。


「……ふふふっ……本当に魔王という言葉が似合いませんね……先生には先生の方が似合います」


「魔王としては遺憾な事ですが、よく言われます」


 魔王もグラスを傾ける、酒精が喉を潤しその香りが鼻孔に抜けていく。


「ふふふ……あっ、ところで夕食、お味の方は如何でしたか? 男性の方には物足りなかったかもしれませんが」


「いえいえ。そんなことはありませんよ。ただ、あれはどなたから教わったものですか? ポタージュでもシチューでもない、変わったスープでしたが」


「ええ。旅の修道女の方に……倹約料理だそうです。本当はチーズを入れるところをルウでトロミと量増しをするんだそうで」


 それを聞いた瞬間、魔王の中にやはり大切な面影が過っていた。


「……そうですか……」


「もしかして、どなたかご存知ですか?」


「……もしかしたら、私の妻かも知れませんね」


 空気が揺らぐ。


「……それは、」


「別れたんですよ。お互いの生き方というか、目的の問題でね……まあ仲違いをしたわけではありませんが……それでも……寂しいものは寂しいですね……」


「……そうでしたか……」


 そして女戦士は何かに導かれる様に魔王に肩を寄せていた。


「……グレナディーンさん……」


「……すみません、少しだけ、寄り掛からせて頂けませんか……」


 目の前、すぐそこに同じ形の隙間が空いている。


 魔王も彼女も、お互いに半身とも言える相手と離別を経験していた、そのことに気付き、同じようその表情に影を落としていた。


 女戦士は、ひどく居心地が良さげに、寂しげに悲し気に眼を細めている。


 他の人間では心を隔てる溝でしかないそれも、意味は無い。


 同じ形をしたそれがピッタリ嵌るような気がしていた。魔王も彼女とならお互いの深い部分が理解し合えるような気がしていた。


 その内、彼女は何かを確かめる様に――更にその体を預けて来た。


 胸の感触を、男に分かり易い様に。


 そして、自分を慰めるため縋りつくように。


 それはあまりにもふしだらにも、貞淑な誘いだった。だが魔王は、


「……ダメですよ、貴女は、シロップちゃんのお母さんでしょ?」


「……分かっています。でも、少しだけ、お願いします……」


 どうしてか、その目は慈悲に満ちていた。


 まるで自分の為ではなく、魔王の為だというよう母親の結い上げた髪を乱さぬ様、魔王は優しく首筋に手のひらを置き、そのままそっと滑らせその背に手を回した。


 彼女を支える様、壊れ物を抱くよう優しく抱き寄せる。


 だが、魔王はそれ以上のことは拒む様に、


「……今日はとことん飲みましょうか……酔いつぶれるまで」


「先生……」


「良い夢を見られるまで飲みましょう……娘さんと同じように、眠たくなったらベッドに運んであげちゃいますから、ね?」


 弱っている女性を、放っておくつもりはないと、誠実な笑みを浮かべて告げてくる。


 そんな魔王の姿に、女戦士は柔らかく眉根を寄せる。自身の体に掛けられた手指には包み込むような温かさがある。その優しさに反しとても強い力も――そこにある男の匂いは、理性を失わせる酒精を含んでも尚優しく、頼りがいのある逞しいそれだった。


 目尻を落とすほどしならせ、


「……ふふふっ、本当に、魔王が似合いませんね……」


「貴女も、戦士より母親の方が魅力的ですよ?」


 それに応え、彼を誘った時の言葉通り、女として恥ずかしい所を見せるべきではないと彼女は女である自分を誤魔化しながら破顔し、母親はそれはまるで慈愛と慈悲を施す抱擁のように魔王に寄り添った。


 色欲や情欲に任せているわけではないのだと、理解し合って。


 それから二人は互いに酒を注ぎ合った。


 口数少なく、心往くまで酒精を味わい、時折り思い出したように世間話に花を咲かせ、何かを忘れる様にまた酒に口を付ける。


 気付けば、深く抱き合うよう心の距離を縮めていた。




 そして、夢に落ちた。


 その夢には、お互いの想い人が現れていた。


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