あまのじゃく

白湯

あまのじゃく

 情景描写と言う言葉が嫌いだった。現実では悲しいときに雨なんて降るとは限らない。世界なんて天邪鬼なモノなのだ。僕は昔からそう思っていた。


 最初に違和感を覚えたのは、小学校高学年の頃だった。教師は堂々とこの情景描写から主人公の気持ちを読み取ってみましょうと言い放った。僕は困惑した。そこでなんで主人公の気持ちとリンクして天候が変わるのかと教師に問うてみた。彼女は作者が直接描写しないようにしているのだと言った。


 次に、なぜ直接的な描写をしないのかを問うた。彼女は文が幼稚になるからと答えた。それの何がいけないのかと思ったけれど、いたちごっこになりそうなのでこれ以上は聞かなかった。そこから僕は小説は難しい表現で理解できない人を排除した、知識人のためのモノというイメージが強くなった。だから、僕は小説を読まなくなった。


 なんで本を読む人はそこに疑問を抱かないのか。僕は考えた。だって分からない表現があるたびにわざわざ辞書を引くなんて、無駄じゃないか。良い作品を書けるのなら誰でも分かるように書いた方が得だし、より多くの人に伝えられるじゃないか。


 そんな捻くれた考えを持ったまま、僕は高校生になっていた。国語の成績、特に現代文の成績は目を逸らしたいほどの出来栄えだった。教師も呆れ顔で、どうして分からないようで頭を抱えていた。


 ある日、高校にOBである小説家がやってきた。彼の名前は坂井と言う。彼は平成の大文豪とまでは言われないけれど、小説一本で飯を食べていけるほどの小説家であった。


 彼は僕の担任の生徒だったらしく、授業を見学に来た。そして彼はこの中で一番現代文の成績が悪いのは誰だと聞いた。担任もクラスメイトも黙りこくってしまったけれど、僕は堂々と右手を挙げた。


 なぜ君は現代文が苦手なんだいと彼が聞いた。僕は小説が嫌いだからですと即答した。そうか、珍しいなと彼は微笑して鼻を掻いた。そして、随筆とかが苦手の人は多いんだけどなと続けた。


 僕は随筆を難しいとは思わない。確かに難しい言葉が多く見えるけれど、僕らには到底分からないような言葉には意味が別で書いてあるし、理解ができる。でも、小説は君たちはこの意味を知っているだろう?と言わんばかりの表現を繰り返してくるのだ。


 坂井さんは面白おかしく現代文との関わり方を皆に説明していた。本は読みたいものだけ読めとか、友達に予定が出来て、宿題も終わって、ゲームもクリアしちゃったぜみたいな時に本を読めとか。最後には小説なんて習うもんじゃないと締めくくっていた。


 その後、僕は個人的に坂井さんに呼び出された。大した話ではないけどと枕詞をつけ、彼は応接間である個室の中に僕を招いた。


 彼は現代文の教科書を僕の目の前に置き、この中で一番嫌いな小説はなんだいと彼は聞いた。僕は高校生の複雑な友達関係を書いた作品を示した。どうしてだいと彼は聞く。僕は話は好きなんですがと言った。


 彼はその言葉を聞いて驚いた表情を浮かべた。そして彼は、話は好きと言うと、と聞いた。


 いつも勘違いされてしまうので言いますがと前置きを置く。そして、僕は創作物が好きです、漫画とかは面白いと思うのです。でも小説だけは好きになれないんですと続けた。


 彼はそれはなぜかを聞いた。僕は誰でも理解が出来ないからですと答えた。


 言語を習得したばかりなら読めないのも分かります、でも最低限の事は知っている人間が理解できないようなものを作る必要はあるのでしょうかと僕は聞いた。


 その言葉を聞いて、彼は大笑いした。なるほど、君は面白い作品を書けるんだったら誰にでも分かるように書けって言っているわけだと彼は言った。


 その通りだった。僕は表現をもっと簡単にしろとわがままを言っている子供に過ぎないのであった。


 でもね、君の言っていることは間違いでは無いと僕は思うんだと彼は言った。面白い作品は感受性豊かな時期に読んでもらいたいと思うんだ。実際に人生を変える一冊に出会って欲しいとも思うと彼は続ける。


 結論から言おう、小説家は自分はこんなものを書けるんだぜと自慢したいだけなんだ。


 彼は悪びれずそう言い放った。じゃあ誰にと彼は問うた。そしてすぐに周りの人たちにだと答えた。正直な話彼らのターゲットは子供じゃない、大人たちだ。大人たちが見て面白いと思えば勝ちなわけだと彼は続ける。


 じゃあなんで僕たちはそんなものを読まされているんだと聞いた。彼はそれは大人なら読めるだろ?って煽られてるだけだと即答した。


 確かに文豪と言われた人間の作品は面白いけれど、やっぱり表現が難しい。だから今時の若者は読まない。読まないから知識も付かないし、知識がないから読めないという堂々巡りが続くんだと彼はどんどん言い続ける。


 その途中で、僕が、と切り込んだ。僕が最初に違和感を覚えたのは情景描写ですと言った。そして、なんで悲しいときは雨が降るんですか。悲しんだって言ってしまえばいいじゃないですかと聞いた。


 その通りだ。


 そう彼はまたもや断言した。


 誰が始めたかは知らないが気分が晴れた日は晴れ、浮かない時は曇りで心情を表すという手法がある。これはそういう風に感じることを刷り込まれてるんだ、教育でね。君も習っただろうと彼は続ける。


 そこに君が疑問を感じたのなら君が作品を書けばいい。


 彼はそう言った。


 感情を表に表す作品を世に知らしめればいい。情景描写なんてない直球勝負の作品を一度書いてみればいい。誰かが気付き行動を起こせば何かが変わるかも知れないだろう。


 でもそんな小説が、認められるんですかと僕は聞いた。認められている舞台はあると彼は言う。


 児童文学を書けばいい。誰にでも分かる面白い本を君がそこで書けばいい。


 君が常識になればいい。


 彼の言葉は衝撃だった。


 

 あれから数十年の月日が経った。僕は彼に言われた通り、児童小説専門の小説家になった。小説界を変えるなんて大それたことは出来なかったけれど、少なからず、大人から子供まで楽しめる小説を提供し続けられたと思う。


 これは最近になって気付いた話だが、僕が嫌いだと言った作品の作者は実は坂井さんだった。彼は自分の作品を批判されても関係なしに僕の話に付き合ってくれていたのだ。彼は僕に小説の形を変えろと言ってくれたけれど、彼の小説のスタイルは最期まで変わらなかった。彼は僕が嫌いな小説を書き続けた。


 先日、坂井さんが亡くなった。大往生だった。


 その日は雲一つ無いカラっとした晴れた日だった。


 僕は微笑して、ほら言ったでしょうと呟いて、ペンを執った。


 


 


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