36.過去の上塗り、未来への一歩
「ふぃ~」
湯舟に張られた湯を僅かに溢れさせながら、暖かい湯の中へと鍛え抜かれた大きな身を沈ませていく祐樹。少し熱すぎる、湯が噛みついてくるような温度だったが、今の祐樹にとってはその温度が堪らない快感だった。疲労が抜けるような感覚と共に口からため息が出て来る。
「あぁぁぁぁ……堪らん。やっぱ風呂は湯に浸かってこそやで!」
頭に布製の手ぬぐいを乗せて、極楽浄土のような心地に体を委ねる。湯気が立ち昇る室内の天井を、祐樹はぼんやりと見上げていた。
「……しっかし、湯に浸かれるとは思わんかったなぁ」
ポツリ、感慨深げにそう呟く。祐樹が今いる場所は、宿泊している宿に設けられた浴場内。石をレンガのように積み上げた、宿泊客が共同で使うために2、3人程入れる広さのある湯舟。底は板張りになっており、その更に下から熱が放たれているのがわかる。
シャワーや蛇口という物はなく、どうもこの風呂の仕組みとしては、汲み上げた水を浸かれる程の温度まで温めてからこの湯舟に溜めていくという物のようだ。ずっと暖かいのは冷めないように湯舟の下に埋め込まれている火の精霊石を使ったスピリツール、所謂ヒーターのような物のおかげらしい。
浴室、脱衣所の壁に設けられた町中に吊るされた物より小型のスピライトによって明かりも確保されており、祐樹の知る中世の時代と比べ、蛇口等の配管技術はまだ無くとも、この世界の生活レベルは精霊の力によって幾分か進んでいるように見受けられる。
「まぁ、中世風な世界とはいえども、やっぱワシらの世界とは技術の違いはあるっちゅーことやなぁ」
ここは異世界。精霊の力が人々の生活の支えとなっている。この点が祐樹のいる世界とは大きな違いだった。
最も、この町で浴場がある宿はここともう一つしかなく、他の宿と比べて値段の高い割に人気の秘訣となっていると、この宿の女将から談笑ついでに聞いた。スピリツールそのものも貴重品扱いということもあり、町の人々は少し高めの大衆浴場へ通うようになっているという。一般家庭に一つというのはまだ先のようだ。精霊の力が普及している反面、科学技術は全くといっていいほど発達していないという弊害がここに出ているようだった。
フォレストアーチにいた頃、風呂と言えば共同の蒸し風呂しかなく、湯に浸かるという文化はないのではないだろうか? という祐樹の不安は払拭された。旅の間はせいぜい水を浴びるくらいしかできなかった祐樹にとって、これは嬉しい誤算。ようやく浸かれた湯に旅の疲れを溶かすように、体を癒していった。
一方、ルーナスたちは『先に入っててくれ。一度に数人と一緒に風呂に入るのは苦手なんだ』と言って先を譲ってくれた。宿泊客も現在は祐樹たちだけらしく、実質の貸し切り状態だ。自宅の風呂よりも広いため、解放感もあって癒し効果も倍増だ。
(……にしてもまぁ、エリスも随分無茶をしよる)
そうして思い浮かべるのは、昨晩貴重な情報を得るために、悪人の周回場所へ単身赴いたエリスのことだった。彼女なりに役に立ちたいという思いからの行動で、ルーナスからエリスが危ないと聞いた時は内心穏やかではなかった。結果的に彼女の行動が、今回の事件解決への糸口へ繋がったからよかったものの、今後無茶だけはしないようにしっかりと戒めなければいけないだろう。
最も、祐樹が傍にいてやれば、こんな危ない目に合わせずにすんだかもしれない。エリスの行動は迂闊だったと言えばそれまでだが、祐樹自身にも非がないとも思えなかった。故に、今後どう動くべきか考えていかなければいけないと、祐樹は自省した。
「……ま、今は一段落ついたし、出発するまで体を癒さんとなぁ」
危険な旅だし、彼女の身を案じるのは大切だが、急ぐ必要はない。いつまでも肩肘張っていたら余計に疲れてしまう。
だからこそ、休める時は休む。仕事も、この旅も。世界は違えど疲れた体を癒すことは大切なことだ。祐樹は両手で湯を掬い、顔にかけた。
「……はぁ~びばのんのん……」
鼻歌混じりに、湯舟により深く沈む。自宅の狭い風呂を思い出し、望郷の念に駆られつつ、ただただ熱い湯に浸かれる幸福を全身で感じ取っていた。
「ふぅ……」
祐樹とエリスが借りている宿の一室。テーブルの上に置かれたランプの淡い明かりのみが照らす部屋のベッドで、普段の服から白いキャミソールのような、日常生活でもよく着ていた寝間着に着替えているエリスは手に持っていた羽ペンをインク壺に置いた。手元には、今日起きた一日の出来事について書かれた、家から持ち出してきた手記がある。旅に出てから一日の終わりを振り返るため、習慣にしようと持ってきた物だ。
席を立ち、ベッドの上に身を投げ出す。ようやく一日が終わったことを実感するやいなや、体全体を疲労による気怠さが覆っていく。そんな中、エリスは今日一日のことを思い返した。
マーサが勤める酒場にて、マーサたちが企てた狂言誘拐を明らかにしたことで、事件はひとまずの解決へと至った。その後は全員で町に潜伏していた犯罪集団を一網打尽にすべく、衛兵の詰め所まで赴いて可能な限りの情報を提供しに行った。
情報提供者ということで長い間話し込んでいたら、すでに日は沈みかけていた。部屋へ戻ってから、宿の男女別の共有浴場で汗を流した。旅の間はずっと風呂に入れず、せいぜい布で自らの体を拭く程度に留めていたため、数日振りの汚れを洗い落とす快感も一入だった。
尚、余談ではあるが、祐樹は風呂があることに最初驚き、次には何故かわからないがやたら嬉しそうにしていた。エリスも長く入浴していたつもりだったが、部屋の中に祐樹がおらず、エリス以上に長い時間風呂に浸かっているらしい。入浴前に長風呂になるかもしれないからと鍵を渡されたこともあり、風呂が好きなのかもしれない。
エリスは、一足先に部屋へ戻り、現在自分のベッドの上に仰向けに倒れ込むようにして寝そべって今に至っている。ランプの弱々しい光に照らされ、エリスの輪郭の半分を影が覆う。ぼんやりと見上げる天井の木目を眺めつつ、今日一日をエリスは振り返った。
(生まれて初めての町……けど、いきなりこんなことに巻き込まれるとは思わなかったなぁ……)
初めて町の全貌を見た時は、それはもう高揚した気持ちを抑えきれなかった。町に入ってからも、年に一回しかない村の祭りでしか感じたことのない活気のよさに驚き、柄にもなくはしゃいでしまった。
しかし、本来ならば自分たちはここに訪れる予定にはなかった。西にある領主が住まうウォルフゲートへ向かう予定が、ひょんなことからここ、南の町リバーバンクへ来ることとなり、ここで誘拐された子供を探し出す事となった。結局、子供は誘拐されていなかったものの、誘拐以上に最悪の事態を防ぐことができたから、祐樹の言葉を借りれば結果オーライというものだろう。
(……けど、逆に迷惑かけちゃったなぁ……)
しかし、エリスの心は晴れなかった。子供が見つかったのは喜ばしいことだ。が、エリスは今回、一人で勝手に行動して、危険な目に遭って、そして祐樹たちを心配させてしまった。本来なら祐樹に怒られていたところ、エリスが身を呈して得た情報によって解決の糸口が掴めたため、注意されるにとどまった。
これではダメだ。そうエリスは自らを戒める。祐樹の為に何かをしたい。しかしそれが空回りしてはまた迷惑をかけてしまう。
(もっと……私もユウキさんみたいに強くならなきゃ)
祐樹が港で単独で情報収集している時に襲撃されたと聞いた時は、肝が冷えた。しかし、祐樹は持ち前の力を持って、そんな襲撃者を返り討ちにしたという。それを聞いて安堵したと同時に、彼の力が羨ましくもなった。
祐樹のように強くなりたい。そうすれば、きっと祐樹の力になれるはず。しかしそのためには何をすべきかがわからず、やきもきする。
「……はぁ」
非力だし、筋力を鍛えた方がいいのかな? と漠然と考えながら、ごろりと寝返りをうった。
ふと、エリスの視界にテーブルが映る。椅子の背もたれには祐樹のコートが。丸テーブルの上には、照明であるランプと、黒い掌サイズの手帳。祐樹が夫婦と道具屋から話を聞く際、詳細をメモする時に使っていた物だ。
「……」
無言で起き上がり、テーブルへと近寄るエリス。そしてコートが掛けられている椅子を引き、トスンと座った。そして、徐に手帳を手に取る。
正直、勝手に中を拝見するのはいけないことだろうし、後ろめたい気持ちもある。けれど、彼が手帳に事細かにメモを取っているのを見ていたエリスは、その手帳の中身が気になり、好奇心が勝った。
「だ、大丈夫。少しだけ……ちょっと見るだけだから……」
本当はいけないことだとわかっている。しかし、湧き上がる好奇心が抑えることを許さない。エリスは少しだけ読むだけと、そう言い聞かせながら不思議と光沢のある革のような表紙の手帳のページを開く。そこに書かれていたのは……。
「……何これ?」
所々曲線を描いていたり、または直線的な形をしていたりと、慣れ親しんだ文字とは到底かけ離れた文字列が、不規則に並んでいる。ペンにしては細く、それでいてハッキリと見える濃さのインクによって形作られたその言語は、エリスの脳内にある知識を照らし合わせてみても、該当する物が一つもなかった。
エリスは、その言語が『日本語』によるひらがな、漢字、そしてカタカナであるということを知らない。知らない物は、どう足掻いたところで読むことはできない。
急いで書いたと思われる文字が乱雑に並んだ、滑らかな手触りの材質の紙を幾つか捲ってみる。それでも、同じような文字しか見当たらない。
「……アルト語とも、精霊言語とも違う……何て読むんだろう……?」
アルト語……エリスたちが常日頃使っている言語をそう呼んでいる。フォレストアーチで祐樹と共にメイスから学んでいたのも、アルト語だ。この世界の共通言語であり、常に会話をする時に出て来る言葉も、古い言葉を除けば、全てアルト語だ。
けれど、この言語をエリスは見たことがない。アルト語とも、精霊言語とも違う、この不思議な形をした文字列……自身の知識が足りないせいとも一瞬思ったが、育ての親であるハンスから一通りの言語は習っている。ということは、これは古い言葉なのだろうか?
「……そう言えば、この紙……」
ふと、手に持っている手帳の紙に指を滑らせる。羊皮紙とも違う、この不思議な紙。薄っすらと細い線がページ全体に走っている白い紙は、一見すると高級品のようにも映る。
そして、その紙に書き綴られた幾つもの文字を書くのに使われているこのインク。日中、祐樹が何気なく使っていたのを横目で見ていたが、羽ペンでもない不思議な形をしていたペンらしき物の頭部分を押すと、そこからペン先が飛び出ていたのを覚えている。さらに、インク壺に浸らせることなくペンを走らせていたのを見て、内心驚いていた。
この紙と、ペン。高級品というよりも、エリスが知る物よりも高い技術が使われているのがはっきりとわかる。
ならば、謎の言語を使い、そしてこれらの不思議な道具を使いこなす祐樹は、一体何者なのだろうか?
(……でも)
わからない。わからないけれど……だからといって、彼が悪人であるという事にはならない。
確かに、これら道具と言語を含め、祐樹は謎が多い。けど、それなら両親のこともわからないエリス自身だって謎が多い。わからないことが多いのはお互い様だ。それに、これまでの彼の行いを見てきたエリスにとって、そのような謎は彼の人格を疑う要素にはなりえない。
祐樹が何かを隠しているのならば、それを話してくれるまで待てばいい。きっといつか話してくれる時が来る……そうエリスは考え、このことについて考えるのはもう終わりにすることにした。
手帳を閉じ、元の位置へ戻す。内容がわからないとはいえど、勝手に開いてしまった負い目を感じてこれ以上読み進めるのは躊躇われた。先ほどまで書いていた手記を勝手に読まれるのは、エリスとて気分がよくない。
自己嫌悪に陥りかけたが、先ほどの比ではない気怠さが襲う。もう疲労がピークになっていた。
「ふぁ……」
椅子に座りながら欠伸を一つ。重くなっていく瞼。それに連動するように、睡魔は徐々にエリスの思考を闇へと閉ざしていく。
(せめて……ユウキさんを待たなきゃ……いけないのに……)
部屋の鍵は開いているため、祐樹が部屋の外へ取り残されることはない。不用心だが、先の一件で衛兵の警備が強化された今、この町の治安は悪くはない。しかし、いまだ入浴中の祐樹を待とうと、舟を漕ぎつつも懸命に睡魔に抗った。
「はぁぁぁ、さっぱりしたぁ」
白い半そでのシャツにスーツのズボンという出で立ちのまま首にタオル代わりの布をかけながら、噴き出る汗を拭いつつ部屋へと戻る廊下を歩く祐樹。汗と垢を洗い流し、疲労も取れたおかげで、今の祐樹はすこぶる快調だ。何だか気持ち若返ったようだった。
「しっかし長風呂し過ぎてもうたなぁ。エリス待ちくたびれてるやろか?」
久方振りの風呂のため、長風呂になるかもしれないと予想した祐樹は、部屋の外で待たせるわけにもいかないと、エリスに部屋の鍵を渡しておいた。女将からエリスが先に部屋へ戻ったのを見たという確認も取っているため、部屋で祐樹が戻ってくるのを待っているのだろう。
女将から冷たい井戸水で冷やされたドリンクを二つ、一つは風呂上りに自分用に、もう一つは待たせてしまった詫びにとエリスの分を購入した。木製のコップから冷たさを感じながら、部屋へ続く階段を上がる。そして部屋の前に立ち、コップの中身をこぼさないように慎重に扉をノックした。
「おーいエリス。戻ったでー」
木の扉を叩く硬質な音をたてると共に、戻ってきたことを部屋の中にいる相棒に伝える。しばらく待ち、反応を待つ。
しかし、待てども暮らせど反応はない。動く気配もない。
「……おーい?」
もう一度ノックをする。それでも結果は同じだった。
「……出かけてるんか?」
そう思ったが、部屋の中から気配はある。けど返事がないし動く気配もない。何かあったのかと考えたが、それよりももう一つの可能性の方が高かった。
「……開けるで?」
と、何となしにドアに手をかけて押してみる。すると、あっさりと扉が開いた。
鍵が開いているということは、エリスは戻っているということ。ならば何故、反応がないのか。
「エリスー?」
名を呼びながら部屋へ入る。テーブルの上に置かれたランプの明かりが照らしているだけの部屋の中、目的の人物はすぐに見つかった。照明の明かりの前、ぼんやりとした明かりを受けながら椅子に座り、俯いているエリスの姿があった。
「おーい、エリス?」
が、反応がない。どうかしたのだろうかと、祐樹は怪訝に思いながら歩み寄る。近づいてもピクリとも動かず、身じろぎもしない。
「どないしたんや……あ」
肩に手を置こうとした祐樹は、ふと気付く。微かに聞こえる、規則正しい息遣い。そっと顔を覗き込めば、瞼を閉じ、静かに呼吸をしているのがわかる。
「……寝とるなこりゃ」
確信し、呆れてため息をつきつつも笑う。
大方、長風呂していた祐樹を待っていたのだろうが、疲れ切っていた上に風呂に入ったことによって、抗えない程強力な睡魔に襲われた……そんなところだろう。
「やれやれ、しゃーない子やなぁ……まぁ待たせてしもうたワシも悪かったな」
小さく笑い、コップをテーブルに置いてから、静かに寝息をたてるエリスの足の下と背中に手を回し、所謂お姫様抱っこの要領で椅子の上から優しく抱き上げた。思った以上の軽さに一瞬驚くも、エリスが就寝する時に使うベッドに、起きないように静かに下ろした。仰向けに眠るエリスは、祐樹に抱き上げられたとは露知らず、ただただ寝息をたてる。
改めて、エリスの華奢な体を見やる。下手すれば中学生よりも下にしか見えない身長だが、決してスタイルは悪いというわけではなく、出ているところはきちんと出ている。成長期の少女らしい体格である。
「成長期の子供が、椅子の上で寝て体冷やしたらあかんやろうに」
もっとも、祐樹は邪な目で見ることはしない。ただ純粋に、ちゃんと栄養を取っているのかどうかの確認をする保護者のような目だ。もし彼女のような子供を変な風な目で見る者がいたとすれば、それは警察官として見過ごせない輩だ。
ともあれ、祐樹はエリスをベッドに寝かしつけてから、優しい手つきでシーツを掛ける。その際、「んん……」という声と共に身じろぎするも、それで覚醒するということはなく、再び寝息をたて始めた。
(やっぱ疲れてたんやろうな)
彼女から始めたとはいえ、やはりこの旅はハードなのだろう。野営ではなく、こうしてベッドの上で落ち着いて眠れる場所だと、心底リラックスして寝息をたてられる。それからようやく、次にまた歩く活力が得られるというものだ。彼女のような年端もいかない少女だと、尚更だ。
やはり、設備の整った宿泊施設というものは、ゆっくり休めるものだ。今後もこういった宿を見つけたら、極力泊まっていこうと祐樹は誓う。
ベッドの横に跪くと、祐樹はそっとエリスの頭を撫でる。元から穏やかな寝顔だったが、撫でた途端に形の整った細い眉が下がり、心なしか微笑んでいるかのような柔らかな表情を見せた。野営時には見られなかった寝顔だ。
子供を見守る親の如く、エリスに聞こえるか聞こえないかの声で、祐樹は呟く。
「お前さんはどう思ってるんかは、何となく察しとるつもりやけどな?」
ここに来る前のシーファー捕獲の時、そして今回の一人でマットを尾行するという危険な行動から、彼女も必死に己の役割を見出そうとしているのだろう。軽はずみと言えばそれまでだが、彼女の頑張り、意思を蔑ろにはしたくない。
しかしそれでも、無茶をしすぎて危険な目には合って欲しくない。だからこそ、
「焦らんでええ。ワシはずっと、お前さんの味方やさかい」
彼女が自分ができることを見出せるように、祐樹は見守っていく。エリスの安らかな寝顔を見て、改めて決意を固めた。
「おやすみ、エリス。今はゆっくり休みや」
立ち上がり、祐樹は二つとも己の胃に流し込む。そしてランプの明かりを消すと、祐樹も最近の野宿生活に疲労の色が見えていたせいか、ベッドに座り込んだ瞬間に一気に体から力が抜けるような虚脱感に襲われた。横たわり、シーツを自身の体に掛けた。
(……これから、あの親子はどないするんやろうな)
もうすぐ意識が落ちるというところ、祐樹は思い返す。今回の騒動の中心であり、誘拐を偽装してでも我が子を守ろうとしたマーサ。マットは捕まり、今後彼女たちの前に現れることは二度とないだろう。
しかし、安寧を求めてこの町までやってきたのに、そこですら安らぎはなく、夫の暴力に苛まれ、もう少しで最愛の娘すら失うところであったマーサの境遇は悲惨であると言えるだろう。その心情は計り知れない。
今後、彼女は娘とどう生きていくのか。それは、祐樹にはわからない。夫の呪縛から解き放たれたこれからの人生は、彼女たちの物だ。これ以上首を突っ込むのは野暮と言える。
が……祐樹はあまり心配はしていない。というのも、
(まぁ……彼女のことを思っとる人たちがいる限り、大丈夫やろうな)
娘の偽装誘拐に手を貸してまで、彼女たちの身を案じていた人たちがいる。そのこと自体、決して褒められることではない。しかし、それは彼女が決して一人ではないということを示していることに他ならない。
だから大丈夫だろう。祐樹ができることは、今度こそ安寧の日々を送れるよう、周りの人たちの助けを得ながら生きて行って欲しい……そう願うことだけだった。
「ふぁ……さ、もう寝よ寝よ。明日も早いし、な……」
欠伸を一つ。これ以上考えることをやめ、体をベッドの温もりに預けていく。徐々に体が重くなっていく錯覚を感じていると、祐樹の意識は瞼と共に閉ざされていく。
一分後、月明かりのみが照らす部屋に二人の寝息が響くこととなる。夢を見ることもない程の深い眠りの中に、二人は落ちていった。
日も落ちたというのに、ランプの明かり一つだけの薄暗い家の中。マーサはベッドの端に座り、そこで眠る自身の宝を愛おしそうに撫でる。
あどけない寝顔を見せながら、静かに寝息をたてる幼い少女。誘拐され、行方を眩ませていたマーサの娘、エリー。しかし真実は、今回の事件の協力者であるケインに身柄を預け、夫の目を誤魔化すための偽装だった。夫が怪しい人間たちに娘を売ろうとしていたことを知って身を隠すため以外に、身代金を要求する体(てい)で夫に奪われた金を取り返し、それを元手に娘と共にこっそりと町から逃げようと画策していた……が、元から穴のある計画だったということもあり、この町を訪れた旅人たちによって真実を明らかにされたことで、全て水泡に帰した。
最も、その旅人たちが夫と怪しい男たちをこらしめてくれたおかげで、以前の苦しみと悲しみに満ちた生活に戻らずにすんだ。最初こそ旅人たちを疎ましく思っていたが、今となっては感謝しかない。
「……エリー」
我が娘の名を呼びながら、今後の生活を思う。マットは消え、彼女たちを縛るものは無くなった。しかし、以前住んでいた町同様、ここでも苦しい思い出の方が多く残ってしまった。
今回の事件の被害者は、間違いなく娘のエリーだ。自分たちの勝手な都合で振り回され、つらい目に合わせてきた。子供らしく育って欲しいというマーサの願いと裏腹に、ここでの生活も苦難の連続だった。
「……私は、どうしたらいいんだろう」
その言葉には、彼女の悲痛な思いが込められている。娘のためにも、この忌まわしい思い出のある町から出て行くべきか、それとも留まるべきか。娘の本心はどちらなのだろうか。マーサは決断できないでいた。
けれど、今だけは。夫から逃れられた今この瞬間だけは、マーサも噛み締めたかった。
「……おやすみなさい」
エリーの額に口づけをし、ベッドから離れる。疲れ切ったこの体を休めようと、マーサは床に着こうとした。
が、それは軽く扉を数回叩く音がしたことで、中断を余儀なくされる。
「……?」
日も暮れ、スピライトの弱々しい明かりが町を照らす時刻に来客という出来事に、マーサは眉を上げる。同時に、警戒しながら扉へと近づいて行った。
「……どちら様ですか?」
ノックの主がいる扉の向こうへ、マーサは声をかける。返事が無ければ開けないでおこうと決めたところ、返答が来る。
「ぼ、僕ですマーサさん。ケインです」
ケイン。その名を知っているマーサは、疑問を感じつつ扉を開ける。そこに立っていたのは、暗い夜道を歩くための火のランタンを下げた青年、飴売りのケインだった。
「ケイン、さん?」
今日まで娘を夫から匿ってくれていた、純朴にしてお人好しな青年。義父と同様、彼女のために協力を申し出てくれた恩義ある人だった。
「……こんな時間に、どうかされましたか?」
そんな彼でも、このような時間に訪れたことに疑問を覚える。マーサは、何の用事か彼に問うた。
「こんな時間にすみません……それで、えっと、その……」
しかし、急な来訪を謝罪しつつも、訪れた理由については答えを言い淀む。ただ、答えにくそうというよりも、言葉を探しているといった風だった。
「……一先ず、上がっていって。お茶を出しますから」
ケインの来訪には驚いたが、マーサは別に迷惑だとは思ってはいない。彼を招き入れるため、一度家の中へ戻ろうとする。
「あ、ま、待ってください! すぐに帰りますんで!」
が、それをケインが引き留める。引き留められるとは思っていなかったマーサは驚き、ケインを見る。
ケインは、数回息を吸ったり吐いたりと、深呼吸をする。そして意を決したように「よし」と小さく言った。
「あ、あの、本当は明日に伝えた方がいいかとも思ったんですが、どうしても、その、早く伝えなきゃって思って……あんなことがあってから、急にこんなことを言うのも失礼かなって思ったんですけど、やっぱり気持ちが抑えられなくって……」
「はぁ……」
長い前置きをする彼が何を言おうとしているのかわからず、ただマーサは相槌を打った。
「えっと、その……」
見れば、ケインのランタンを持つ手が力強く握られて震えている。次の言葉を発そうとし、しかし緊張で出てこない様子だった。
マーサは、ただ彼が言おうとしている言葉を待つ。何を言おうとしているのか、最初はわからなかった。が、彼の様子から、漠然とだが察していく。
やがて、覚悟を決めたのか、先ほどまで右往左往していた目が真っ直ぐ、マーサへと向けられた。
「あ、明日! 三人で町の広場へ行きませんか!?」
力強くいったせいか、或いはランタンに照らされたせいなのか……はたまた別の感情からか、顔を紅潮させたケイン。そんな彼の姿に、マーサは呟いた。
「……え?」
やがて、彼女は知ることになるだろう。
この町には、辛い思い出が多い。しかし、それらを上塗りするような、素敵な思い出をこれから築くことが可能なのだと。
彼女たちの足が一歩、前へ踏み出すことができるのは、そう遠くない未来の話だ。
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