24.頑張りの証明
この世界には猿という名称を持つ生き物はいないようだが、猿と同類の存在はいる。そしてその特徴も、祐樹の世界にいる猿と同様のようである。長い腕を利用して枝に掴まりつつ木から木へと俊敏に飛び移り、駆けるその姿は、森の中を把握しなければ成し得ない、まさに野生の獣にしかできない芸当。その身のこなしは風の如く、腕の立つ狩人といえども補足することは容易ではない。
つまり、何が言いたいかと言うと。
「そっちや! そっち行ったでエリス!!」
「え、こっち!? いやあっちですか!?」
「ちゃうちゃう右や右! そっちから見て右上の方!」
「あ、いました! って、今度はユウキさんの方に!?」
「ちょ、おま、こっち飛んでぶべぇっ!?」
「ユウキさぁぁぁぁぁん!?」
「ウキキキキキキッ!」
森の動物を追う狩人ではなく、犯人を追う警察官という畑違いの者が、そう簡単に森の住人を捕えられる筈もなく。激闘というのもおこがましい程に、二人揃っていいようにあしらわれてしまっていた。祐樹に関してはまさかの顔面ヒップアタックによって衝撃と痛みに伴い、屈辱をも与えるという肉体的にも精神的にもダメージをくらっていた。
すぐさま逃げなかったのは、ここら一帯は自身のテリトリーであるために逃げ場も把握しているし、何より祐樹とエリスを敵と認識していない、寧ろ遊び相手としか見ていないからであった。
その証拠として、祐樹とエリスが追い付けずにバテてしまった時に、枝の上に止まって振り返り、思い切り尻尾と尻を振って歯茎を剥き出しにして見下ろしてきた。どう見ても小ばかにしている。
結局、ひとしきりおちょくった後に木々の向こう側へ消えたシーファーを見送る形になってしまい、祐樹の「一昔前のおちょくり方で腹立つぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」という叫びが、森の中で空しく木霊した。
「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」
「はぁ……はぁ……」
木の幹に手を着いて肩で息をする祐樹と、両膝に手を着いて呼吸を整えようとするエリス。木と木の間を自由自在に飛び回り、障害物など存在していないかのように宙を舞うシーファー。それに対し、こちらは木々の間を縫うようにしか走れず、しかも視界も木の陰が死角となっていて補足するのも一苦労。こんな状態では、袋を取り戻すことはおろか、捕獲することすら不可能だ。
「さすがに、木の上渡っていく奴相手に、すんのは、厳しいのぉ」
呼吸と同時に喋るため、途切れ途切れになる祐樹。ハンカチを使い、額の汗を拭った。
「はぁ……っはぁ……」
応えようにも、そんな余裕がないエリス。服の袖で汗を拭い取り、しばらくすると大分呼吸も落ち着いてきた。
「ユ……ユウキさん」
「んー?」
ハンカチを懐に戻し、バックパックの中を漁る祐樹に、エリスは声をかける。
「その……やっぱり、私なんかが一緒にいてたら……」
エリスは、先ほどまでのシーファーとの追走劇を思い返す。
シーファーが逃げ回る間、エリスも祐樹に追従する形で一緒に追いかけていたが、いかんせん、エリスの足が祐樹と比べると遥かに遅く、祐樹もまた、シーファーを追う最中でもエリスが置いてけぼりを食らわないように、木々が邪魔ということもあるにはあったが、全力疾走をするわけにはいかなかった。
やはり、祐樹の足手まといになってしまっている。それを改めて突きつけられた。
情けないし、悔しい。けれども、今すぐどうすることもできない。役に立ちたいのに、貧弱な体がそれをさせてくれない。
だから、祐樹の邪魔になるならば、自分に構わずシーファーを追いかけて欲しい……そう言おうとした。
「あー、エリス?」
バックパックから取り出した、輪状に丸められた一本のロープ。太すぎず細すぎない、ビンッと引っ張ってもビクともしない頑丈な物。強度を何度か確かめつつ、祐樹はエリスの次の言葉を遮る形で言った。
「落ち込んどるところ悪いんやけども……」
「は……はい?」
そして、ロープを手に振り返った。
その顔は、エリスに対してイラついているわけでも、憤慨しているわけでもない。ただ真っ直ぐ、真剣な面持ちでエリスの目を見ていた。
「話がある」
シーファーは人間二人との追いかけっこに、とても満足していた。冬眠明けで飢えを凌ぐために商人の馬車を襲い、本能のままに商品と食料を奪い取ってから森へ逃げ込んだら、今度はおかしな二人組が自分を捕えようと森に入ってきた。だからおもしろ半分でからかい、逃げ回り、必死になって追いすがろうとする二人組を見て楽しんでいた。特に男の方のリアクションが滑稽で、シーファーとしても遊び甲斐がある相手だった。
そもそもの話、森の中を熟知している動物と、地上を駆け回るしかできない人間とでは相手にならないことくらいわかるだろうに。今回の人間はとことんバカだなと、野生動物の中では知能が比較的高いシーファーはそう思っていた。
奪った食料も食べてすっかりご機嫌になったシーファーはやがて、一本の枝の上に留まり、足の爪を利用してその場で固定する。そして爪の先にぶら下げた戦利品を見るため、臭いを嗅ぐ。仄かに香りがするが、そこまで強い物でもない。不快ではないが、特に癖になるような感じでもない。
食べ物か? とも思ったが、どうもそうは思えない。まぁ、中身を見てみればわかることだと思い、牙を使って紐をかみちぎろうとした。
その瞬間、野生の勘が危機を知らせる。すぐさまその場から飛び、別の木へと移る。同時に、先ほどまでシーファーがいた場所近くに、何か乾いた物がぶつかった。
見れば、それは折れた小枝だった。木の幹にぶつかり、地上へと落ちていく。
「クソ、コントロールは悪くなかってんけど!」
そして気付く。悔し気に呻く、人間の雄がシーファーを見上げていることを。その雄が先ほどまで自身を追いかけてきていた人間だと気付くのに、時間はかからなかった。
まだ諦めていない様子の雄に、シーファーは侮蔑の意味を込めて笑う。何度やったところで無駄だと言うのに、しかもあんな小枝程度、当たったところでどうということもない。苦し紛れか、策すら思いつかなかったのか。どちらにせよ、シーファーにとって敵ですらない。
「キッキー」
笑うような鳴き声を上げて、シーファーは再び逃走を開始する。この森は広くはない。だが、森の住人である自身が捕まるわけがない。そう高を括り、シーファーは木から木へと、先ほど同様に飛んでいく。
「待たんかコラァァァァァ!!」
言って、雄こと祐樹もまた追いかける。視線はしっかりシーファーへ。絶対逃さないという執念の下、地を蹴り、草すら押しのけてシーファーに迫る。
それを見て、さすがのシーファーも驚く。先ほどよりも遥かに早い。どうなっているのかと、シーファーは動物なりに考え、そして気付いた。
先ほどまで一緒に走っていた人間の雌の子供がいない。さっき見た限りでは、息も絶え絶えで、とてもシーファーに追い付けるような体力などなかったように見えた。
なるほど、つまりは雌を置いて雄だけが自分を狙うようになったのかと、その時シーファーは思った。雌が足枷になるならば、足枷そのものを置いていけばいい。そうすれば、勝算は出てくるだろうと、あの雄は考えたに違いない。
だが甘い。そんな程度で捕まる程、森の住人は甘くはない。尚も木の枝に飛び移り、ぶら下がり、よじ登り……それらを繰り返し、シーファーは祐樹を撒こうとした。
「ふん!」
が、祐樹もただ追いかけるだけではなかった。手には数本もの、先ほどのような小枝を持ち、そのうちの一本をシーファー目掛けて投げつけた。それを横の木へとヒラリと跳んで、あっさりと避けるシーファー。
「ウキキキキッ!」
バカな奴、と嘲り、シーファーは笑う。再び飛んでくる小枝も同様に避け、シーファーは跳んでいく。諦めず、何度も何度も、祐樹はシーファーに向けて枝を飛ばすも、それらすらもあっさりと避けられていく。足りなくなった枝はすぐさま足元に落ちている物で補充し、再び同じように投げつけた。
まさにバカの一つ覚えと言わんばかりの行動に、シーファーは嘲りを通り越して呆れる。人間の雄はこうもバカなのか? と。
やがてシーファーは、いい加減しつこい祐樹に対し、イライラが募ってきていた。ここらで一発、爪でひっかいてやろうか? そうすれば、あの雄も怯んで追いかけることはしなくなるだろう。
そう考え、シーファーはその場で反転しようとする。が、またも小枝が飛んできて、避けざるを得なくなる。当たったところで大したことはないが、やはり痛い物は痛いし、何よりあんな人間の攻撃を食らうということが癪だった。
そして、シーファーは枝の上に乗るために再び跳躍した。
「今や! エリスッ!!」
その瞬間、祐樹がそう叫ぶと、
「『ウェンディ・ブロウ』!!」
凛とした声が響き渡ると同時に、
「ギッ!?」
何かが枝にぶつかり、折れた。そしてその枝は、シーファーが今まさに飛び乗ろうとしていた枝だった。
足場が唐突に消えたことにより、必然的に重力に従って落下するシーファー。上下が逆さまの視界のまま、シーファーは見た。
杖を手に、こちらを見据える銀髪の人間の雌を。
時間は遡り、30分前。祐樹はエリスに、自分が考えた策を話した。
祐樹の策は単純明快。シーファーを追いかける際、指定の場所まで誘い込み、その場所に待機していたエリスが精霊術を使ってシーファーを地上に落とすという物だ。その際、落下地点には予め木の葉や草むらで作ったクッションを敷いておき、落花死を防ぐようにしておく。それを目印にし、エリスはシーファーが来るまで草むらの中で待ち伏せをしていた。
かなり際どい作戦だった。誘い込みがうまくいく保証もなければ、シーファーがその狙いに気付かないとも限らない。何より、この作戦の要はエリスにかかっている。それを自覚した瞬間、エリスは激しく反対した。
「む、無理です! 無理です! 私になんて、そんな、とても……!」
もし失敗してしまったら……そう思うだけで、エリスは震えが止まらない。自分のせいで台無しになってしまったら、それこそエリスは祐樹の顔をろくに見ることなんてできない。
今にも泣き出しそうなエリスに、祐樹はというと。
「エリス」
「っ……!」
エリスの頭上から呼ばれ、ビクリと肩を震わせる。そして、
「“私になんて”、なんて、悲しいこと言うなや」
そっと、優しく微笑みながらエリスの両肩に大きな手を置いた。
「え……」
言っている意図が掴めず、エリスは唖然と返す。それでも、祐樹は続ける。
「すまんな、お前さんがワシについて来ようとしてんのはわかっとるんや。それに対して気に病んでるってことも」
「……っ」
自分の考えが見透かされ、思わず俯こうとするエリス。だが、真っ直ぐにこちらを見つめる祐樹に、顔を逸らすことができなかった。
「その気持ちはありがたいし、とても大事なことではある。けどな、エリス? そんな自分を責めるのは間違ってるで」
「……でも!」
いつまでも祐樹の足を引っ張りたくない。そのことを伝えようとエリスは声を上げようとした。
「お前さんは、足手まといやない」
「……え」
それを遮り、祐樹はエリスの自責の念を否定した。思わず言おうとしている言葉が出てこず、気の抜けた返事を返さざるをえなかった。
「適材適所って言葉、知っとるか?」
「……テキ、ザイ……?」
唐突に、聞きなれない言葉が出てきて、エリスは繰り返そうとしたが、意味の分からない言葉ゆえに途中までしか言えなかった。
「まぁ語弊があるかもしれんけど、要はその人にとって、向いとることがあるっちゅー意味や。お前さんは……責めるわけやないで? お前さんは確かに体力がないし、運動も出来てない感じや」
「……」
自分でわかってはいるが、改めて他者から言われると結構キツイものがある。それでもエリスは、グッと耐えた。
「……けど、傷の治療や精霊術に関しては、ワシよりか遥かによくわかっとる」
「え?」
と、今度はエリスの長所を口にする祐樹に、エリスは疑問符を浮かべた。
「対して、ワシは確かに体力もあるし、運動もできると自負しとる。が、反面そういった知識面はからっきしや。そんな奴がいきなり傷の手当しろとか、精霊術使ってみろって言われたら、どうしようもない。わかるやろ?」
「そ……それ、は……」
そう言われたら、そうかもしれない。いきなり敵を一人で追いかけて捕まえろとか言われても、できる自信など欠片も湧かない。それに対し、精霊術を使って捕獲しろと言われたら、そちらの方がまだ可能性はある。
しかし、それでも失敗したら、ということを考えてしまう。
「失敗は気にせんでええ」
またも、エリスの考えを見透かしたように言う祐樹。肩に置いた右手を、エリスの頭の上に置いた。
「こんな穴だらけな策、成功するもわからん。失敗してもうたらそん時はそん時、次を考えたらええんや」
ワシャワシャと、エリスの銀色の髪を混ぜるようにして撫でる。一見乱暴のように見えて、痛みを感じさせない優しい手つきに、エリスは心地よさを感じた。
「失敗も後悔もないやり方なんて、この世には無いんや。ドーンと構えとけ。お膳立ては、体力の高い大人の仕事やさかい。な?」
ポンと、最後に頭を軽く叩いてから祐樹は立ち上がる。手の感触を頭に感じたまま、エリスは思った。
(……失敗も、後悔もないやり方は無い……)
もし失敗してしまったら……そればかりを考えてきたエリス。それはつまり、リスクを恐れて動かなければ、成功すらありえないということに他ならない。
それに気付いたエリスは、拳を握る。失敗してもいい……そう祐樹は言った。
だが、エリスは首を振った。
「ユウキさん」
「ん?」
失敗してもいいかもしれない。けど、ユウキの役に立ちたいというのが本当の気持ちならば、
「私、やってみます……!」
成功させる気持ちで、やってみたい……そう決意し、エリスは強い意思を持って、祐樹に言った。
「……よっしゃ! ほな、やるか!」
そんなエリスの心意気に気付いたのか、祐樹はニカッと笑い、拳を掌に打ち付けた。
そうして実行された作戦は……成功した。エリスが唯一自慢できると言っても過言ではない正確無比な風の拳は、真っ直ぐにシーファーが降りたとうとしていた枝をへし折り、シーファーはそのまま垂直に落下する。そして、木の根元に敷き詰めた自然のクッションによって、シーファーは落下の強い衝撃から守られた。
「ウギギッ」
突然の落下に驚き戸惑うシーファーは、頭を振って僅かながら感じた衝撃から回復しようとする。その隙を、“この男”は逃さない。
「ちぇぇぇぇすとぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「ギギィッ!?」
隠し持っていたロープ片手に飛び掛かってきた祐樹。シーファーは驚き、逃げる暇すら無かった。
「うおりゃあああああ逃げんな猿ぅぅぅぅぅぅ!!」
「ギィッ! ギィッ!!」
「この、ホンマ、大人しゅうせえっちゅーに!! あだ、あだだ! ひっかくなコラ!! 動物愛護団体に訴えられるのを覚悟で張った押すぞワレェ!!」
「ギギギィッ!!」
「ぐぇぇ、尻押し付けようとすんなやこのエテ公!! 武器か? この尻は武器か!? 精神的に効くけどやめぇやコラァァァァ!!」
ドッタンバッタン暴れる人間と猿の戦い。葉っぱと草が周囲に舞い散ってその全貌が明らかにならず、傍から見る者によっては、一昔前の漫画で見るような土煙の中で喧嘩をするシーンに見えなくもない。
エリスはそんな光景を目にして、ハラハラとした気持ちで見守る。祐樹に加勢しようにも、壮絶すぎて入り込む余地がない。
そんな大騒動とも言える戦いはしばらく続き、やがて収まった頃には、その勝者は明らかになっていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「ギキィ……」
尻もちをついて満身創痍な状態となり、顔と手に引っかき傷を作った祐樹。そして同じくヘロヘロになりながら、体をロープで縛られて身動き取れなくなってしまっているシーファー。
勝者は、どう見ても祐樹であった。
「……猿、捕ったどおおおおおおお!!」
大の字になりながらその場で寝転びつつ上げた勝利の雄叫びは、森に木霊して消えて行った。
シーファーを捕獲してから、小休止を取っていた祐樹は、おもむろに立ち上がってシーファーの傍に転がっていた袋を拾い上げた。
「これが盗まれた品やな」
「そうみたいですね」
エリスも傍まで寄り、袋を見て肯定する。祐樹は袋の封をしている紐を解き、中身を広げようとする。
「え、いいんですか? 中身見ちゃって……」
「まぁ、念のためにな」
不安気に言うエリスに、祐樹は中身が壊れ物だった場合は悲惨だと考えながら袋の中身を見る。
「……何やこれ?」
中身は、黒いの種のような粒がぎっしりと詰まっていた。一粒摘まんで持ち上げてみると、硬さがあり、皺がある。匂いを嗅いでみると、僅かに香辛料のような香りがした。祐樹にも馴染みのある、刺激のある香りだった。
「……これ、胡椒か?」
日本全国のスーパーでもよく売られている、香辛料の代表格。その粉末になる前の物だ。
「……それ、スパスの実ですか?」
祐樹の手の中にある粒を見て、エリスは問う。
「スパスの実?」
「はい。本で読んだことがあるだけで、私も見たのは初めてなんですけど。確か、アエスターティアで栽培されている実らしいんですけど……」
「……」
南の大陸で生産されている実と聞き、なるほどと祐樹は思う。
飛行機等の空輸が無かった遥か昔、胡椒が貴重だった時代がある。輸入方法が船くらいしかないこの世界でも、名前こそ元の世界の物と違えども、こういった香辛料は黄金のような値が付くのだろう。だからこそ、あの男もこれを奪われて絶望していたというわけだ。
「……ま、何にせよ目的は達成した。後は……」
袋を縛り、懐に入れた祐樹は、腰からナイフを取り出し、シーファーへと歩み寄る。それを見たエリスは、思わず狼狽えた。
「ユ、ユウキさん!?」
最悪の光景が脳裏をよぎる。シーファーも危機を感じたのか、先ほどまで観念して大人しくしていたものの、再び暴れ出そうとするが、ロープが邪魔で身をよじるしかない。
「あぁ、すまん。勘違いさせたんなら悪い。逃がそうと思ってな」
慌てふためくエリスと暴れようとしているシーファーに対し、祐樹は手を振って否定した。別に討伐依頼など受けていないし、あの男曰く対策を怠ってしまったがゆえに起きた事件だ。祐樹とて殺生が好きな訳がなく、ここで逃がしても別に構わないだろうと判断した。
「そ、そうなんですね……よかったぁ」
「お前さん、ワシを何やと思っとんねん。そこまで血も涙もないわけやないぞ」
「あ、いえ! そんなつもりじゃ……!」
慌てるエリスを見て、祐樹はニシシと笑う。冗談だと気付き、エリスはむぅ、と膨れた。
「ハハ、すまんすまん。ほな、逃がすで」
「あ、ちょっと待ってください」
ロープを切ろうとする祐樹に、エリスは待ったをかけた。そしてシーファーに歩み寄り、その前に立つ。
シーファーからすれば、自分の生殺与奪は、先ほどまで侮っていた人間二人に握られているのだから、溜まった物ではない。先ほどの会話も理解できず、ただただ恐れおののくしかできない。
スっと、エリスが手を伸ばしてくる。シーファーは痛めつけられるのを覚悟して、咄嗟に俯いた。
ワシャリと、シーファーの毛の生えた頭部が優しく撫でられた。
「もう、イタズラしたらダメですよ?」
また人に危害をくわえないようにという願いを込めて、エリスは撫でながら優しくシーファーに言った。
シーファーが顔を上げれば、優しく微笑む人間の雌が目に入る。いや、人間の雌と侮っていたが、手から伝わる慈しみが、シーファーの中にある人間に対する認識を改めて行く。
シーファーにとって、目の前に立つ人間は、慈悲の女神のように映った。
奇しくもエリスの願いは成就されたのか、野生動物でしかなかったこのシーファーは、この日以降、盗みはするものの強盗紛いの事は行わなくなることになる。
「……もうええか?」
「はい、お願いします」
エリスの了承も受け、祐樹はロープの結び目から断ち切った。ハラリとロープが落ち、自由の身となったシーファーは、なんかやたら恭しそうな雰囲気でその場から飛び上がっていく。そして最後にチラリとエリスを見てから、森の奥へと消えて行った。
「もう悪さすんなやー」
祐樹もついでに一声かけて、シーファーが去るのを手を振って見送った。
シーファーが戻ってこないのを確認し、祐樹はエリスへと振り返った。
「ほな、行こか……って、いてて」
今更になって、顔の傷と手の傷が痛みだしたのか、祐樹はひっかき傷を抑えた。
「あ……ちょっと待ってください」
言って、エリスは肩から下げた鞄から、家から持ってきた小瓶を取り出した。
「屈んでもらっていいですか?」
「お、おお。すまんな」
「いえ、いいんです……テキザイテキショ、ですよね?」
小さく笑いながら、祐樹の傷の手当を始めるエリス。そんな軽口を叩くエリスに、祐樹は少し驚いた物の、同じく笑って返した。
「おお。適材適所、やな」
「いやぁありがとう! まさか取り返してくれるなんて、正直思ってもなかったよ! 本当にありがとう!!」
馬車まで戻り、取り戻した袋を手渡すと、男は心底嬉しそうな顔で二人に礼を言った。散らばっていた荷物も元通りになり、男も怪我をしていた箇所に包帯を巻いて十分に動けるようになっていた。
礼を言われ、祐樹は笑いながら手を振る。
「いやいや、ワシは大したことはしてへん。この子の力もあって、捕まえれたんや」
正直、うまくいくかもわからなかっただけに、祐樹は内心ホッとしていた。、放っておくことのできない性分が災いして安請け合いしてしまったかもしれないと内心思っていたが、エリスの助けもあってこそうまくいったのだ。自分一人では到底成し得なかっただろう。
「え、そんなこと……」
否定しようとしたが、照れ臭さが上回ったエリスは、赤くなって俯くだけにとどまった。
「しかし、お礼もしないでは商人の名が廃る……ということで、これを受け取っておくれ」
言って、男は祐樹の手を取って、その上に握っていた物を置いた。
それは、金色に光る4枚の金貨、4ゴルドだった。
「ちょ、こんなん受け取れませんよ」
遠慮し、咄嗟に返そうとする祐樹。だが男はそれを突っ返した。
「いいんだよ、俺は何もできずにただ待ってるしかできなかったんだからさ。それに商人は仮は作らないんだよ。どうか受け取ってくれ」
仮は作らない、と言われれば、退路を塞がれたに等しい。日本人としての性が申し訳ない気持ちを抱かせるも、返そうとすればそれは侮辱になるとも思い、祐樹は苦笑しながらも受け取ることにした。
「……わかりました、受け取ります」
「ああ。そうだ、俺はこのままグラスホールへ行くけど、おたくらは?」
目的地が一緒なら、乗せて行こうかという好意を含めて言う男。だが祐樹たちが目指す場所は、逆方向だった。
「すんません、ワシらはこのまま西へ行くんで」
「そうか、じゃあ仕方ないな。名残惜しいが、ここでお別れだ」
男は手を差し出し、祐樹はその手を取って固く握手した。
「じゃあな。アンタたち二人に、神の加護がありますように」
「ああ、アンタも気を付けて」
互いに旅の無事を祈り、男は馬車に乗り込むと、手綱を引いて馬を歩かせる。力強く進む馬に引かれ、馬車はグラスホールへ続く道へと進んでいった。
「……じゃあ、ワシらも進もうか」
「はい!」
馬車を見送り、祐樹はエリスへ振り返って言う。エリスは頷き、バックパックを背負い直した。
「おぉ、そうやエリス。ほら」
「え?」
歩き出す直前、祐樹は手に持っていた金貨4枚のうち2枚をエリスに差し出した。
「これって……」
「まぁ、受け取ってもうたんはしゃーないけどな。これは、ワシとお前さんが頑張った証やと思って。ほれ」
自分は大したことはしていない……そういう気持ちが無くはない。が、こうやって頑張った証と言われ、嬉しく思わないはずがない。
「……ありがとう、ございます」
自分には重すぎるかもしれない金貨2枚。でもこれが、何もできなかったと思っていた自分が成し遂げることができた証拠でもあった。
おずおずと受け取り、キュッと金貨を抱きしめるように持つエリス。そんな彼女を微笑みながら見守っていた祐樹は、パンと手を叩いた。
「うし、ほなちょっと脇道に逸れたが、改めて出発と行こうかい」
「はい!」
気を取り直し、二人は再び砂利の道を歩き出した。
「まだ若干坂道になっとるけど、大丈夫か?」
「大丈夫です、ほどほどに頑張ります」
「おう、その意気やその意気。なぁに、体力なんてのは旅しとったら勝手に付くってもんや。安心せい。ついでに筋肉も付くけどな!」
「えっと……それは、ちょっと」
「あ、さすがに筋肉はダメ?」
軽口を言い合い、そして笑う。
歩幅の違うはずの二人の距離が、ほんの少し縮まったように見えた。
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