20.旅立ちは風と共に
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。それほどまでに、メイスの言っている意味がわからなかった。何故ここで、ハンスの名が出てくるのか。
「元々、あの老人はこの村に住んでいたんだ。その時は村人とも何ら険悪になっていない、ごくごく普通の男だった。今はもう亡くなっているけれど、前の村長とも仲がよかったんだよ」
言って、自分で淹れた茶を飲むメイス。小休止を挟んでから、続ける。
「今からちょうど18年前か。ある日、何の前触れもなく森の中の古い小屋で暮らすと言い始めたんだ。当然、周りの人間は止めたさ。もし万が一のことがあったら、助けに行けない。それに、彼はその時からすでに薬剤師として村では重宝されていたんだ。当時の村には、治癒術士がいなかったからね。彼が怪我人の治療をする役割を担っていたんだ」
そして、結局彼は、周りが制止するのを聞かないまま、森の中で暮らし始めたという。その理由も語らぬまま。
「それから……そう、ハンスはどこから連れてきたのか知らないけれど、一人の女の子を連れてきた。まだ2歳だったその子を抱きかかえて、村長の所に訪れてきたんだ」
「……その子が、エリスか?」
「そう……と言っても、その時どんな会話がされたのか、私は知らないんだ。今話していることは、全部アルドルからの又聞きでしかないし、アルドルも詳しい話を聞かされなかったんだ。ハンスが訪れた後に、私は傭兵稼業の時にしくじって大けがをしちゃってね。村長とアルドルの家に転がりこんだんだよ」
まぁ、私のことはどうでもいい、と言って、話しを続ける。
「私もエリスのことを2歳の頃から知ってる。私の怪我を治すための薬を、ハンスと一緒に届けてきてくれたからね。ハンス曰く、あの子は赤ん坊の頃に家の前に捨てられていたのを拾ったってことだからね。村から離れていても、彼は薬剤師として村に薬を届けてくれたんだ。村人も、村から出て行った上に、どこから連れてきたのかわからない女の子を連れてきた彼を白い目で見つめる者はいたにはいたけれど、そのおかげで徐々にだけど村人も受け入れてくれてたんだ……あの日までは」
“あの日”……メイスにとって、忌まわしい日。アルドルの足が無くなり、そしてエリスが今の状況に置かれた切っ掛けでもある日だった。
「……ハンスが村から出て行ってから3年後。この村を、災害が襲ったんだ」
「災害?」
「地震さ。村の家はほとんどが倒壊し、大勢の村人が犠牲になった。今の村人の人口は少ないけれど、今の倍の人がここに住んでたんだ……それが、地震のせいで今のような規模になっちまったんだよ」
地震……自然災害の中でも、日本では馴染みのある、そして最も恐れる物。村の人口が大幅に減った上、家々が倒壊するくらいだ。その規模は計り知れない。
「無論、私たちも無事じゃなかった。私は軽傷だったけど、村長は死に、息子のアルドルは足を切断しないといけなくなった……今でも、忘れらないよ。世話になっていた村長が、助けることもできずに目の前で死んだんだ。傭兵してる間は、こんな気持ちになんてなったことなかったってのにね……情けない話だよ」
テーブルの上に組んだ手を、力強く握りしめるメイス。倒壊した建物の下敷きになった村長を救おうと、必死になって瓦礫をどかそうと躍起になった……そして、その命を救うことはできなかった。
アルドルは一命はとりとめたものの、代わりに足が瓦礫の間に挟まり、動けなくなってしまった。やむを得ず、その足を切断するしかなかったメイスは、傭兵時代には味わったことのない悲痛と、それしかできない己の不甲斐なさを味わった。
その光景が、メイスの脳裏に蘇る。己の無力さを痛感させたあの地震は、メイスたちからあらゆる物を奪い去っていった。
そんなメイスに、祐樹は声を掛けることができず、ただ黙って見つめることしかできない。下手な慰めこそ、逆に人を傷つけてしまいかねないことを、祐樹は知っていた。
「……悪い、また話が飛んじゃってね」
「いえ……気にせんでください」
謝るメイスに、祐樹は頭を振る。過去を思い出してしまったメイスは、気を取り直して話を元に戻した。
「それで、その地震のせいで死者だけじゃなく、負傷者も大勢出たんだ。さっきも言ったけど、治癒術士なんてこの村には当時いなかった。だから、必然的に頼られるのはハンスだったんだ……けど、ハンスは村には来なかった」
あの地震の後ならば、薬を大量に持って来るはずだったものを、ハンスは一切、姿を見せようとしなかったそうだ。
「アルドルも、足からの出血がひどくって、失血死しかねなかった。だから私は村人数名を連れて、ハンスの家に直接赴いたんだ……その時まで、誰も彼もが、ハンスも地震の影響で動けなくなってしまったんだと思ってたんだけど」
メイスがハンスの家に訪れた時……ハンスの家は、全く被害を被っていなかったのだそうだ。
地震は、この森全体で起こっていたのは間違いない。なのに、ハンスの家だけが無傷であり、変わらずそこに佇んでいた。作りは村の家の物と違わないにも関わらず、だ。
「私たちは驚いたよ。家の中も何も壊れず、ハンスもまたぴんぴんしてたんだから……そして、私たちはハンスに薬を分けてもらうよう交渉した上で、村で怪我人の治療に当たって欲しいと懇願した。けど、返ってきたのは拒絶だった。薬だけはもらえたけれど、ハンスは家から絶対に離れようとしなかったんだ」
結局、説得は諦めざるをえなかった。一刻も早く薬を怪我人に届けなければ、アルドルを含めた重傷者の命が危うかったからだ。
そして、ハンスの薬と領主から派遣された兵士たちの尽力のおかげで、一部を除いた人々以外、救われた。救われた負傷者の中にはアルドルも含まれてはいたが、その代わりにアルドルは足を失い、しばらくは不自由な生活を余儀なくされることとなった。
「当時、ハンスの家に私と一緒に赴いた村人たちからすれば、ハンスのはっきりとした拒絶は怒りを買うに十分過ぎたんだ。ハンスが村まで来てくれれば、負傷者は死なずにすんだかもしれなかった……それからさ。連帯責任として、ハンスと一緒に暮らしているエリスにまで飛び火して、昔のことを知る村人から嫌われるようになったのは。挙句の果てには、あの地震はハンスが引き起こしたんだという戯れ言抜かすような輩も出てきたし……まぁ、家が倒壊していないのを見た以上、そういうことを考えるのも無理はないかもしれないけどね」
語り終えたメイスは、茶を飲み干す。対し、祐樹は表情には出さずとも、話の内容に愕然とした。
聞いただけだと、何ともあんまりな話である。エリスには責任は一切ないにも関わらず、村人は自分たちを助けなかったハンスの身内という理由だけで邪険にするという。怒りの矛先を向ける相手が違うだろう。祐樹は声を大にして叫びたかった。
だが同時に、家族を失った者たちからすれば、怒りの矛先を向けてしまうのも無理はないとも思ってしまう。そうしなければ、深い悲しみに捉われ続けてしまう。人というのはえてして、怒りの捌け口を探し、そこにぶつけてしまう弱い生き物だ。それが対象がどんなに幼い子供であっても、だ。
そして、ハンスの思惑がさっぱりわからない。何故、住んでいた村を見捨てるような真似をしたのか。それが理由で、エリスにもつらい思いをさせてしまうことを考えなかったのか。祐樹の中に、いまだ家族であるエリスを思って死んだハンスの姿が浮かび上がる。どう考えても、彼が悪意を持って村を見捨てるような人物だとは、到底思えなかった。
「……アンタは、ハンスを怨んでなかったんか?」
落ち着きを取り戻し、祐樹は問う。もしハンスが村へ行っていれば、助かった命があった。そして、アルドルも足を失わずに済んだかもしれない。
だが、メイスは笑いながら小さく首を振った。
「怨んじゃいないさ。そりゃ、最初こそ思うところはあったよ。けど、あの薬のおかげで、アルドルは死なずに済んだ。足はもう、切断した時点で諦めてたんだよ。私も、アルドルも……」
だから、感謝こそすれど、怨むことなど何もない。彼があの場所から離れられなかった事情は、結局聞けずに終わってしまった。だが、いくら彼を怨んだところで、死んだ村人は帰ってこない。無論、そんな簡単に飲み込める事ではないことは百も承知だ。生き残った者たちが、ハンスを怨む理由だってわかっている。
だからといって、何の事情も知らない少女の心を傷つけていいという訳ではない。
「私はね、村に薬を届けに来たり、買い物しにきたハンスやエリスのことを邪険に扱う奴らから守ったりしてきたんだ。時には石すら投げてきた奴らもいたよ。今と比べたら、そういう奴らの方が多かったね。無論、誤解を解くのにも奔走した……まぁ、結果は想像通り。そんな二人を庇う私らも同罪ってことで。しかも、私は余所者な上に女。怪我をして不自由なアルドルに代わって村長になったもんだから、そりゃぁ受け入れてくれる人はほとんどいなかったよ」
苦笑し、何てことないように言うメイス。だが、村長という村の中心的立場という重荷を抱えながら、責任転換も甚だしいとはいえども、村中から責められる二人を守り、そしてそれを快く思わない人々にも悪と見なされ続けて……苦しくないはずがないのに、それをおくびにも出さない彼女の強さに、祐樹は内心で感服した。
「今はね、村の復興活動だけじゃなく、村の発展にも力を入れて何とか生活水準を上げることができたから、私たちとエリスのことを悪く思う人は少なくなってきたと思う。それでもいるにはいるんだけど、昔と比べたら大分マシさ……まぁ、ハンスの死を悲しんでくれる人らは少ないだろうけど、ね」
「…………」
昔と比べ、受け入れられてきてはいる。だがそれでも、やはり村を見捨てたと見なされているハンスの扱いは大きく変わってはいないという事実に、祐樹は自分の事ではないというのに、居た堪れない気持ちになる。彼の真意がわからない以上、いや、仮にわかったとしても、祐樹にはどうすることもできないだろう。
祐樹の眉間に皺が寄っているのを見て、何を考えているのか察したのだろう。メイスは笑って見せる。
「確かに、ハンスは死んじまったさ。けど、だからって村人に対する誤解を解くのをやめるつもりはないよ。成果は出ているんだ。あの子がここに帰ってきた時にすごしやすいようにするのが、私たちの役目さ」
エリスが帰ってきやすいような環境を、諦めずに作り続ける。それこそが、アルドルを救ってくれたメイスなりの恩返しでもあり、ハンスとは違う立場で娘のように見守ってきた少女に対する親心だった。
その笑顔はいつもの活発な笑みとは違う、真にエリスのことを思いやっていることがはっきりとわかる、慈愛に満ちた物だった。
「メイスさん……」
そんなメイスが、祐樹にはとても眩しく見える。口調も性格も男勝りな部分が目立つ彼女であるが、夫のアルドル、息子のマーカスを大切に思い、そしてエリスですら娘と思える大らからさを持つ、一人の母親として、女性としても立派な人物だった。
「……けど、一つだけ気になることがある」
と、打って変わって、どこか不安気な表情になる。そんなメイスの様子に、祐樹は疑問符を浮かべた。
「気になること?」
「……ハンスが死ぬ三日前のことさ」
少し声のトーンを落とし、窓をチラリと見やる。祐樹もつられて窓を見るが、そこには夕日によって赤く染まった外の風景が見えるだけで、特に何ら異常はない。
「あの時、村に訪れた行商人から妙な話を聞いてね……近くの村で、変な男たちが目撃されたらしいんだ」
「変な男たち?」
祐樹が聞き返すと、メイスは頷いた。
「何でも、黒ずくめの妙な服装をした男たちだったらしんだけど……行商人に質問したそうだよ」
一泊置き、質問の内容を言った。
「『フォレストアーチはどこか?』ってね」
「…………」
フォレストアーチ……この村のことだ。そして、その質問をしたのは、黒い服をした男たち。祐樹の脳裏に、ある男たちの姿が浮かんだ。
「その村からここはそんなに離れてないからね。行商人はあっさり答えたらしいんだ。ただ、その風貌が本当に奇妙でね。二人を除いて髑髏の仮面を被ってたそうなんだ」
「……っ」
予想は、的中した。間違いなく、遺跡で一戦交えた男たちのことだ。
「けど、そいつらがこの村で目撃されたことはないし、念のためにと警戒していた兵士たちからも報告はなかった。だから、その時は気にもしていなかったんだ……だけど……」
「……エリスからその話を聞いて、思い出したってわけかい」
小さく、力無く頷くメイス。要は、男たちの狙いが村ではなく、ハンスたちだったということに、エリスから話を聞いて気付いたということだった
無理もないだろう。この村の場所を聞いたはずの男たちが、この村には訪れず、直接森の中を通って人目を避け、村から離れた場所に住むハンスたちの小屋を襲撃したなど、誰も予想などできようはずがなかった。
「私は後悔したよ。エリスが薬を届けに来てくれた時、警戒するよう注意を促してさえいれば、こんなことにはならなかったのかもしれないって思ったからね……もう、遅いけれど」
「…………」
メイスもまた、『もっと早くに遺跡に辿り着けたら』と考える祐樹同様に“もし”を考える。もしもっと警戒していれば、そんな怪しい男たちを捕えることができたかもしれないし、エリスたちに警告を出して防げたかもしれない。
それらも全て、終わってしまったことだ。悔いたところでどうしようもない。そんなことは、わかっているのに。
「……連中の目的はわからない。ハンスの命だったのか、エリスの命だったのか、それとも別の何かか……私がアンタたちに一週間という短い期間を設けたのは、逃げた連中がいつまた戻ってくるかもわからないからさ」
メイスが何故、一週間にこだわったのか、祐樹は今理解した。確かに、連中の狙いがわからない以上、戦う力が現段階で祐樹しかいないこの村に長居していては危険だった。一か月だと長すぎるし、かと言って三日だけだと知識を詰め込むのに短すぎる。一週間という期間が、メイスが考えに考え抜いた長さだった。
祐樹は、ふと考える。連中の目的は完全には把握していないが、祐樹があの時、何の因果か手に入れた不思議な剣。恐らく、あれも関係しているのだろうというのは何となくわかる。
奴らの狙いがこの剣だけならば、祐樹はエリスを傍に置くのを良しとは考えない。無関係な人間を、祐樹は巻き込みたくはない。だが、どうにも祐樹には、この問題がエリスにも関わっているような気がしてくるのだ。
単純にあの時、彼女は遺跡に居合わせただけというならば問題はないのだが、事はそんな単純な事ではないように思えてならない。ようは、祐樹の勘でしかない。
「用心しておきな。アンタたちの旅、ひょっとしなくとも一筋縄じゃいかないよ」
警戒を呼び掛けるメイスの口調は、確信を得ているかのようにハッキリとしている。ただでさえ危険な場所へ赴こうとしているのだ。それにプラスして、裏に潜む怪しい影があるときた。
連中の狙いはいまだわからない。だが、祐樹とエリスは共に旅をすると決めた。ならば、自身とエリスに降りかかる火の粉は、徹底的に払うのみでしかない。
「……ああ」
一言、短くメイスに返事をする。その声は強い決意の顕れからか力強く、それでいて硬く聞こえる。
少しして、玄関の扉から力仕事で疲れ果てた男性と少年の声、そして同様に頭を使う勉強をしたことによって疲弊した少女の声が聞こえてくる。祐樹は、つらい運命を背負ってしまった少女を思い、やがて開くであろう扉を見つめていた。
意識を昨日の話から戻し、祐樹は目の前を歩くエリスに置いて行かれないように、少し遅れていた足を速めた。やがて家が見えなくなる頃になると、エリスも足の歩調を元に戻し、祐樹の隣を歩くようになる。
お互い、無言。少し気まずいが、話す言葉がお互いにない。エリスは、ここから離れるということにやはり不安を感じているのか、若干緊張で表情が強張っている。祐樹もまた、この先をどう動けばいいのか考えていて、何を話すかという余裕がない。
気付けば、村の中にまで辿り着いていた。相変わらず道行く村人の視線は冷たいが、もはやそれも気にならない。
「おぅ、戻ってきたかい」
やがて、二人はメイスたちが住まう家の前まで来る。そこには、メイスとアルドル、マーカスが、玄関の前で待っていた。彼らの足元には、上に布を丸めた物を括りつけた大きいバックパックと、もう一つ、それのもう一回り小さい物が置かれている。
「メイスさん……」
エリスがメイスの声に反応し、顔を上げる。その声と表情はまだ緊張に彩られていた。
「……まったく」
そんなエリスに、メイスは少し困ったように笑いながら腕を組む。その仕草の意味がわからず、エリスは首を傾げた。
「……ほら、ちょっとおいでエリス」
「は、はい」
手招きされ、エリスはおずおずとメイスの傍に寄る。そして、メイスとの距離が腕が届く位置まで来た瞬間、
「え、うわ」
突然、エリスはメイスに抱き寄せられた。いきなり豊満な胸に顔を埋められ、戸惑うエリス。祐樹たちはその光景に少し驚くも、黙って事の成り行きを見守った。
「アンタって子は、泣き虫なくせに意外と意地っぱりなんだから」
そんなエリスに、メイスは言う。優しく、ゆっくりと。エリスの耳にしみ込ませるように。
「いいかい? アンタは確かに危険な旅に出るよ? それもアンタは女の子。力なんてない、ただの女の子さ。今だって私は、アンタがここから去るのは納得してない」
「……」
語り掛けるメイスに、エリスは押し黙る。押し付けられて喋れないのではない。ただ彼女の言う言葉に、耳を傾けるためだ。
「だけどね、この狭い村にいるよりも、広い世界を見てきた方が、きっとアンタの糧になるのは間違いない。そしてアンタは、切っ掛けはどうあれ自分で決めたんだ……そうだろ?」
「……はい」
小さく頷くエリス。メイスは破顔し、頭を優しく撫でる。
「なら、胸を張りな。誰だって最初の一歩は怖いけど、どんなことがあったって、上向いてしっかり歩きゃ、何とでもなる! そういうもんさ」
胸から離し、メイスはエリスの目を真っ直ぐ見る。エリスもまた、メイスの真剣な眼差しに、目を逸らすことはしなかった。
「アンタの家のことは、私たちに任せな。ハンスの墓も、しっかり管理してやる。だから、ちゃんと帰ってきな。アンタの帰る場所は、ここにあるんだから」
そこにあったのは、母の顔。旅立つ娘を送り出すため、自分の心に蓋をしてまで、子供の選択を尊重する女性の姿だった。
「メイス……さん……」
エリスに、母はいない。顔すら知らない。だが、確かにメイスを、見たこともない母親に重ねたエリスは、胸の奥に暖かい何かが広がり、緊張が溶けていく。それは瞳から溢れ出し、頬を伝って濡らす。
言葉は出ない。ただ彼女の言葉に頷くだけ。メイスには、それだけで十分だった。
「ユウキさん」
「ああ……アルドルさん」
その光景を、微笑まし気に眺めていた祐樹だったが、アルドルに声をかけられて意識をそちらへ向ける。左足のない彼は、杖を着いてそこに立っている。そして彼のその横には、泣き出しそうなマーカスの姿があった。
「すまない。君に全てを任せるような形になってしまったね」
「いえ、気にせんでください。ワシは元からここに留まるつもりはありませんでした。それが結果的にこうなっただけです」
謝罪するアルドルに、祐樹は首を振った。
「……僕は、見た目通り、誰かに守ってもらわざるを得ない体だ。それがとても歯痒くて、仕方がなかった……無論、不幸だなんて考えちゃいない。この家族は、僕にとっては大切な宝だ。何物にも変えられない、僕だけの、ね」
「……」
アルドルの目は、輝いていた。左足のハンデを物ともせず、力強く語るアルドルを、祐樹は静かに見つめる。
「だからこそ、僕はお荷物にならないように、家事や仕事も、メイスとマーカスの補佐があってこそだけど、出来ることをしてきた。そしてそれは、これからも続けていく……だからこそ、君に伝えておきたいんだ」
「……何でしょうか?」
メイスと同じように、真剣な眼差しを祐樹に向ける。それに応え、祐樹もまた、しっかりと見つめ返した。
「ユウキさん。あなたはエリスを守ると、そう決めたと聞いた……けど、今のあなたは少し気負い過ぎているように見えるんだ」
「……」
図星だった。祐樹は内心ギクリとするも、それを表に出さないよう努める。
「君は義理堅い。それはしばらく共に暮らしてきて、はっきりわかる。そして、他者を思いやり、人の不幸を嘆き、怒る人間だということも。それは、僕らにとってもとても好ましい人柄であることは間違いない……けど、さっきも言ったように、そういう人ほど色々背負いすぎて、時には周りが見えなくなってしまうこともありえる」
だから……そう付け足し、続けた。
「エリスのことを守るのは、もちろん大事だ。でも、守られる人の気持ちも、考えていっておくれ。ただ守られることしかできなかった僕からのお願いだ」
足を失い、守られるしかなかった男からの、心の底からの願い。祐樹は、警察官としての職務、そしてか弱き者を守らないといけないという己に課した枷を、知らず知らずのうちに付けていた。
正直、この枷を外すのは難しい。何せ、ずっと祐樹が胸に抱いてきた信念だからだ。
だが、アルドルの言葉により、祐樹は背中に感じていたプレッシャーから解き放たれた気分になった。
「……はい」
ただ小さく頷く。それ以外の言葉が見つからない。ただただ守らなければいけないと、無意識に自分に言い聞かせていた己の心を落ち着かせてくれたアルドルに、確かな感謝の意を、その一言に込めた。
「ユウキおじさん……」
アルドルに続き、マーカスが前に出る。その顔は、今にも泣き出しそうで、唇の下を噛んでどうにか堪えていた。
「おう、マーカス。短い間やったけど、楽しかったで」
屈み込み、祐樹はマーカスと視線を合わせる。最初の頃は君を付けて呼んでいたが、一週間という短い間に育んだ友情の前で、他人行儀な呼び方はやめようとなった。相変わらずマーカスはおじさんだが、その方がしっくり来るということで、その呼び名はそのままとなった。
「でも……僕は……」
今にも泣き出しそうになるマーカス。大人顔負けな知識を持っていながらも、やはり根は子供。懐いていた人間が村から去るのを見送るのは、マーカスのような年齢の子どもにとっては辛い物があった。
「おいおい、これくらいのことで泣いてどうすんねん」
笑いながら、祐樹はマーカスの頭を少し乱暴に撫でた。帽子を脱いだマーカスの頭がクシャクシャになる。
「お前さん、兄ちゃんになるんやろ?」
「……」
その言葉に、マーカスは俯いた。
あの日、祐樹が魔物を倒し、エリスを背負って、そしてマーカスが森の奥へ入り込んでまで取りに行こうとしていたシロタカ草を持ってきた時、マーカスはメイスから叱責を受けた後に、どうしてシロタカ草を求めたのかを説明した。祐樹も満身創痍ながら、やろうとしていたことは誉められたことではないものの、それは全てメイスのためであるということを話し、マーカスを擁護した。
そして、メイスはそれに驚き、戸惑い、そしてしばらくして苦笑しつつ、言った。
『その、ごめん……伝えてなかったんだけど……マーカス、アンタ兄ちゃんになるんだよ』
その言葉の意味を理解した時……マーカスは驚きと拍子抜けによって、その場で崩れ落ちた。
つまりは、メイスのお腹の中には、マーカスの弟か妹になる命が宿っているということだ。それで最近は疲れやすくなってしまっていたということらしい。蓋を開ければ、母の命が危ないどころか、新しい命が芽吹いていたという、めでたい話だったのだが……それを知らなかったマーカスからすれば、元気のない母を見て気が気でなかったのだから、たまったものではなかった。メイスも早くに言えばよかったと謝ったが、だからといって危険な森に入るのを許したというわけではなかった。
そうして、森に入るのは成人するまで禁止とされた。マーカスも新しい家族ができると知った以上、もう無茶はしないと約束したため、その言いつけを守ると決めた。
「ええ男っちゅーのは、時には泣くのを堪えなあかん時があるんや。立派な兄ちゃんになりたいやろ? なら、今から男磨いといた方がええで?」
言って、祐樹は笑いながら悪戯っぽくウィンクをする。大人なのに、どこか子供っぽい仕草。それを見て、マーカスも鼻を啜り、腕で目を擦った。
「……うん!」
そして、ぎこちないながらも笑顔を見せる。年相応の、活発な笑顔だった。
「おう、ええ子じゃ! じゃ、選別や。ほれ」
言って、祐樹は懐から取り出した飴玉をマーカスに渡した。以前にもマーカスとエリスに友好の証として、飴玉をあげたところ、その甘さに一瞬で虜になった。どうもこの世界では甘い物は貴重なようで、生まれて初めて甘い物に、マーカスとエリスは目を輝かせていた。
「わぁ、ありがとう! 大切に食べるよ!」
見ていてこちらまで嬉しくなりそうな笑顔で礼を言うマーカス。因みに好きな味はみかん味だった。
「…………」
「……いや、ちゃんと後であげるから。今は我慢な、我慢」
そんな二人をじーっと見つめる視線あり。泣き止み、祐樹とマーカスのやり取りを見ていたエリス。特に甘い物に魅了されていた彼女の物欲しげな視線に、祐樹は口の端をヒクつかせた。メイスとアルドルも、そんな光景を笑って見ていた。
「……さて、あんま長いこといてると、名残惜しくなっちまうね」
言って、メイスは足元に置いてあった革で作られた二つのバックパックを持ち上げた。
「これは私たちからの選別だ。寝袋と、長い旅に必要な物が一式入っている。私が昔使っていた物だ。ちゃんと普段から手入れしているし、機能は保証するよ。それから少ないけれど、旅の資金も入っている。有効に使っておくれ」
「ええんですか?」
「いいに決まってるだろう? まぁ、ある意味住み込みで働いてくれたようなものだからね。所謂賃金みたいなものさ。出発早々、野垂れ死にされても困るからね」
講義を受ける傍ら、家の手伝いをしてきた祐樹とエリス。最初は遠慮しようと思っていたが、そう言う事ならばと、受け取ることにした。旅をするにも、やはりお金は必須だ。今は変に遠慮するよりも、受け取る方が吉だろう。
祐樹は大きい方のバックパックを、エリスは小さいバックパックを背負い、肩には愛用の鞄を下げた。確かな重みを感じるが、いずれ慣れるだろう。
旅の支度は完了した。後は、ここから歩き出すだけだ。
「……ホンマ、世話になりました。雑貨屋の店主さんと診療所の先生にもよろしく伝えておいてください」
言って、祐樹は頭を下げた。今はいないが、この村の雑貨屋の店主と診療所の治癒術士である先生も、どちらも余所者の祐樹とエリスに分け隔てなく接してくれた人物だった。それぞれの場所を空けるわけにはいかないということで見送りには参加できないが、昨日のうちに挨拶は済ませておいた。
「ああ、わかってるさ……ユウキ」
メイスは、祐樹の手を両手で握る。力強く。しっかりと。祐樹を見つめながら。
「この子を……頼んだよ」
昨日と同じことを言われる。それだけに、メイスはエリスを想っている。
「……大丈夫や。任せといてください」
それでも、祐樹は頷いて応えた。決して茶化さず、真摯に受け止めて。
メイスも、それ以上は何も言うまいと、祐樹から手を離す。そしてそのまま、無言でエリスを抱きしめた。エリスも、メイスの背中に手を回す。
泣き声はしない。メイスも何も言わない。ただそれだけで、お互い何を言いたいのかが伝わってきた。
メイスから身を離し、アルドルへ振り返る。アルドルは優しい眼差しで、小さく頷いた。
マーカスが進み出て、エリスに右手を差し出す。その小さな手を、エリスはしっかりと握った。
「……気を付けてね」
「……うん。ありがとう、マーカス君」
一言二言、言葉を交わす。そして手を離し、エリスは三人に背中を向けた。
「それじゃあ……行きます」
そう言うエリスに、メイスは微笑みながら声をかけた。
「ああ……行ってきな」
後はもう、振り返らない。エリスは再び前を向き、村の外へ続く森の出口を見据え、歩き出した。祐樹も、メイスたちにもう一度頭を下げ、エリスの後に続いて歩き出す。
メイスたちも、もはや何も言わない。ただ、歩き出した二人の無事を祈り、見つめ続けるだけだった。
村の出口にまで差し掛かり、エリスはふと立ち止まった。その横を、追い越した祐樹が通り抜ける。
「ん? どないしたんや?」
ふと、立ち止まったエリスに振り返り、少し首を傾げる祐樹。エリスは応えず、ただ祐樹の後ろに広がる、広大な世界へと意識を向けた。
広大な草原。遠くに見える青い山脈。青い空を流れる雲と、燦燦(さんさん)と輝く太陽。そして、どこまでも続く長い道。
(この先が……村の、外)
物心ついた時から、エリスの世界は小屋の周囲の森、そして村までだった。そして今、エリスはその小さな世界と広大な外の世界との境界線に立っている。
いつか、村を出る日が来るとは漠然とだが思っていた。そして村の外へ出て、世界を知ることになるだろうと考えたことがあった。
それは、何年後か、あるいは何十年後か……そんな先の未来の話だと思っていた。
だがそれは、ハンスが死に、そしてそのハンスの意志を継ごうと決めた瞬間に訪れた。覚悟は決めていた。そのはずだった。
なのに、いざ目の前に広がる世界を見ると、足が竦む。まるで、断崖絶壁の淵に立たされているかのような気分だ。
この広い世界では、何があるかわからない。あの魔物のような、恐ろしい化け物がいるかもしれない。エリスたちの平穏を壊した男たちがいたように、危険な人たちが大勢いるかもしれない。
そう思うと、足が進まない。無論、戻るつもりなんてない。だが、エリスの中にある弱虫の心が、先へ進ませまいと最後の最後にブレーキをかける。
怖い。でも、進まないといけない……その狭間で揺れ動く、エリスの心。バックパックの帯を握る手に、自然と力が入っていった。
「エリス」
そんなエリスの心を見透かしたように、重低音で、それでいて優しい声がかかる。
エリスがその声に顔を上げる。目の前には、広い世界を背にして立つ祐樹。
「大丈夫。ワシも一緒や」
未知の世界に対する恐怖心が、ないわけではない。ただ、己の中にあるまだ見ぬ世界に対する冒険心と、大人ながら幼い子供のようにワクワクする胸の高鳴りが、祐樹の心を鼓舞する。
そしてそれは、エリスがいなければいけない。祐樹一人ではできないことが、エリスにはできるかもしれない。逆に、エリスにできないことがあれば、祐樹にはできることがあるかもしれない。この旅は、二人で一つ。どちらかが欠けたら進めない。
だからこそ、祐樹は小さく笑いながら、手を差し出す。この未知の世界を、一人で歩くには広すぎる世界を、共に歩もうとエリスに伸ばす。
そうして、エリスは伸ばされた手を見つめる。恐怖心が身を縛る中、それに抗うように手がゆるゆると持ち上がる。
指先が、祐樹の指に触れるギリギリの位置……その瞬間、強い風が吹いた。
エリスの背中を、まるでそっと押し出すかのような風。揺れる草木の音と共に、エリスの手が祐樹の手と重なった。
「ぁ……」
しっかりと、エリスの小さな手を祐樹の大きな手が握る。優しく、ふんわりと。暖かな手に包まれたエリスは声を上げる。それだけで徐々に恐怖が氷が溶けるかのように消えていく。
そして、気付く。村から一歩、外へ出ていることに。
それに気付いた瞬間、エリスの中で踏ん切りがついた。もう、恐怖心はない。村から外へ出た以上、もう後戻りはできないと、心の中で言い聞かせた。
そして、見上げる。こちらを優しい眼差しで見つめる祐樹を、この世界を一緒に歩んでくれる男の顔を、しっかりと見つめた。
一人なら怖い物も、二人ならば怖くない。一人なら超えられない壁があったとしても、二人ならきっと乗り越えられる。
「……行きましょう、ユウキさん」
「応っ!」
そうして、二人は歩き出した。
まだ見ぬ世界へ。空を流れ、草原を駆け抜ける風と共に。
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