18.月明かりの下
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
大剣を振り下ろした体勢のまま、祐樹は肩で大きく息をする。視線の先は、緑色の刃の先端を赤く染める大剣。その横で、首を切断されて尚、神経が働いているのか、存在しない右手と裂けた左手を振り回してのたうつ体。そして体の主である、魔物の首。
血が溢れたままのたうち回り、周りを赤く染めていく体は、やがて静かに動きを止めていく。中枢神経がある頭を失った以上、生命活動を維持できなくなってきたせいだ。痙攣と共に血が噴き出すが、それもやがて止まるだろう。
体を失った頭部はというと、人間から見てもはっきりわかるほどの苦悶に満ちた顔で止まってしまっている。その顔はもう二度と戻ることはなく、そしてこれ以上、鼻先に付着したいまだ臭いを放つ粉末の激臭で苦しむことはないだろう。
そして……祐樹の手には、肉と骨を断った感触が、いまだ残っていた。
「……チッ」
思わず舌打ちをしたくなるほどの、胸の内に湧き上がる感情。だが今は、それに蓋をする。今はもっと大事なことがある。
もう少しで命を落とすところだったところ、寸でのところで救われた。その恩人である少女に礼を言うため、祐樹は振り向いた。
「……ぁ」
そして視界に入ったのは、杖を落とし、膝から崩れ落ちるように倒れ込むエリスの姿だった。
「っ!? エリス!!」
大剣を手放し、祐樹は駆け寄る。うつ伏せに倒れたエリスを仰向けに抱き起し、虚ろな表情を向けるエリスを揺さぶった。
「おい、しっかりせえ! おい!」
必死の形相で呼びかける。見たところ、ケガはない。疲労によって気が抜けたのか、体に力が入っていなかった。
揺さぶられ、呼びかけられている当のエリスは、耳に届く声がどこか遠くに感じられる。ぼやけた視界には、慌てふためく祐樹の姿。
必死なあまり、全神経を使った精霊術の行使による疲労。そして血の海に横たわる魔物という凄惨な光景を目にしたショック。何より、祐樹を死なせずに済んだという、安堵によって緊張が抜け出たことによって、エリスの体力はすでに底をついていた。異様なだるさが、体を襲う。
それでも、エリスは口を開こうとする。心配してくれている祐樹に向けて、「大丈夫」の一言をかけるために。
だが、その言葉を発する前に訪れた、体力の限界点。口を開くこともできず、徐々に重くなってくる瞼にも抗うことすらできなくなり、微睡の中へ意識を落としていく。
徐々に遥か遠くへと消えていく祐樹の呼び声をBGMに、エリスの意識は完全に闇へ閉ざされていった。
気が付けばエリスは、今までハンスと共に暮らしていた家の中に立っていた。
目の前には、いつも食事をしているテーブル。その上に二つ、対面に位置する場所にスープ碗を置いているのは、いつもと変わらない姿をしたハンス。腰を痛めているにも関わらず、食卓の用意をエリスだけに任せることはせず、率先して手伝おうとしているハンスが……見慣れた光景が、そこにあった。
エリスは声をかけようとした。腰に響くから座って待っていて欲しいと、毎回恒例の如く繰り返してきた言葉を。
声が、出なかった。口は動くのに、声は出ない。手は動くのに、固定されたかのように足は動かない。ハンスがいそいそと動いているのを、ただエリスは見つめ続けることしかできない。
そんなエリスに、ハンスが振り返る。いつものように、穏やかな笑みをたたえながら声をかける。
「エリスや。そんなところに立ってどうしたんだい?」
(おじいちゃん……?)
ハンスの問いに、エリスは応えようとする。掠れた声すら出てこない。
「気分が悪いのかい? 昼間に働きすぎて、疲れたのかもしれないね」
(違う、違うよ、おじいちゃん)
ハンスの気遣いに応えようとする。それでもエリスは声が出せない。
「今からでも休んでくるといい。私のことは気にせずとも大丈夫だからね」
(ダメだよ、おじいちゃん。そんなこと言っちゃ……)
自分のことを気にしなくともいいというハンスに、エリスは否定の言葉を発そうとする。やはり、声は出ない。
会話をしているはずなのに、まるでハンスはエリスとは違う別の誰かと話しているかのようで……エリスは、第三者の目線を通して話しているような感覚に陥っていた。
「そう……お前が気にすることは、悲しむことはないんだ」
(……え)
突然、ハンスが纏う雰囲気が変わった。
曲げていた腰を真っ直ぐにし、ハンスはエリスを見据える。エリスを鏡のように映すその瞳は、弱った老人にはない強い意志が、そして慈しみが宿っていた。
「もし私に何かあっても、それは神のご意思なんだ。だから、気に病むことはないんだよ」
(……何を、言ってるの?)
目の前に立つハンスは、エリスの知っているハンスだ。そのはずだ。
なのに、何故だろうか。こうして面と向かい合っているというのに、とても遠い場所で会話をしているかのような感じがする。
……そう言えば、何かを忘れている気がする。何だったのだろうか。
エリスは思い出そうとする。だが思い出そうとすると、胸の内が痛み、暗い絶望が湧き上がろうとする。
(な、なんで……?)
忘れてはいけない事のはず。なのに、忘れていたいという、矛盾しているエリスの心。戸惑いながらも、徐々に記憶が蘇ってくる。
「けれど、エリス」
そんなエリスに、ハンスが声をかけ、
「私のことで、お前が胸を痛めているというのならば……」
そして、
「……すまない」
ハンスの胸から、口から、血が噴き出した。
(……あ)
エリスの顔に、顔に、血がかかる。べっとり付いた血に、エリスは拭うのを忘れて一瞬呆然とする。
仰向けに倒れるハンス。そして、その光景を他人事のように眺めていたエリスの記憶は、蘇った。
(あ……あ……)
忘れたかった。忘れていたかった。なのに記憶は、残酷にも現実をエリスに叩きつけてきた。
四肢を投げ出して倒れた体。胸から止めどなく溢れる血。色を失い、蝋人形のように白くなり、温もりが失われていく肌。
虚空を見上げる瞳からは、光が消え、エリスすらも映さなくなる。
(あああ……あああああ……!)
ハンスは……エリスの唯一の家族だったハンスは、もう。
「うあああああああああああああああ!!」
死んで―――――
「エリス! エリス!」
自身の名を呼ぶ声により、エリスの意識は暗い闇の底から引き揚げられた。そして、目の前に広がる光景が先ほどと打って変わっていることに気付く。
温かみを感じる板張りの壁。そこに立てかけられた花の絵以外、装飾品が置かれていない、箪笥やテーブル以外置かれていない部屋。質素と言えば質素かもしれないが、寧ろ必要最低限の物しか置かれていないために、落ち着いた空間となっている。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
荒い息を吐き、エリスは胸に手をやり、動悸を抑えようとする。汗がひどく、視界もぼやける。少し落ち着いてきた頃に、自分はベッドの上にいることに気付いた。服装もいつもの服と違い、白の薄いワンピースだけを着ている。
顔に、手をやる。汗で湿った柔らかい頬の感触があった。そこに飛び散った血によるぬめりは感じられない。
「ゆ……め……?」
ハンスが吐血し、胸から真一文字の形で血が噴き出した、恐ろしい光景。今でも目に焼き付いている“あれ”は、現実ではない、ただの夢。
……否、正確に言えば、実際に起こった出来事がエリスの悪夢という形になって現れただけ。つまり、現実でもあった。それを改めて突きつけられる。
再び、胸が絶望によって苦しくなっていく。締め付けられるような、痛みすらも感じられる程に、エリスの胸の内を蝕んでいった。
そんなエリスを救ったのは、横からかかってきた声だった。
「大丈夫かい?」
声がする方へ向けば、心配そうにエリスの顔を伺う褐色肌の女性が立っていた。村の村長であるメイスだった。
「メイス、さん……」
「心配したよ。ずっとハンスを呼びながら魘されてたから……ほら、飲めるかい?」
メイスは脇に置かれたテーブルから、木で作られたコップをそっと差し出す。それをエリスは受け取り、口に付けてゆっくりと流し込む。何てことはない、ただの水。それでも、井戸からくみ上げられた冷たい水は、絶望に慄くエリスの心を、燃え盛る火を鎮火させるかの如く癒していく。
体全体に行き渡るように、ゆっくりと飲み干す頃になると、大分気持ちが落ち着きを取り戻してきたのを、エリスは感じた。
「落ち着いた?」
「ありがとう、ございます……」
メイスに礼を言い、コップを返す。それを見て、メイスはホッとしたかのように、ベッドの横に置かれた丸椅子に座った。
「……昨日の出来事だからね。無理もないよ。下手すりゃ塞ぎ込んでもおかしくない」
「……」
メイスの言葉に、エリスは俯く。まだハンスが死んで、一日しか経っていない事実。今日だけで色々ありすぎて、まるで数日経ったかのような錯覚だった。
マーカスが行方不明になったことから始まり、突然の魔物の襲来、そして祐樹と魔物の死闘……。
「……あ、マーカス君は……!?」
逃がしたはずのマーカスの姿がないことに気付いたエリスは、顔を上げてメイスに問う。対し、メイスは柔らかい笑みで応えた。
「安心しな、あの子は無事だよ……まぁ、今頃はアルドルに頭を冷やしてもらってるだろうね」
頭を冷やす……メイスの言う言葉は比喩ではなく、恐らく物理的な話だろう。あれだけ心配をかけさせたのだから、男勝りなメイスの事だ。説教という名の鉄拳制裁を食らったのだろう。その光景が容易に想像できて、少し余裕を取り戻したエリスは乾いた笑みを浮かべた。
そして、そんなエリスの手を、メイスは両手で包み込んだ。
「……あの子から話は聞いたよ。アンタたちのおかげで、あの子が無事に帰ってこれた。その上、魔物も討ち取って、村の安全も守ってくれた……本当に、ありがとう」
「メイスさん……」
そう言うメイスは、目の横幅を僅かに濡らす。荒い気性を持っているメイスであるが、彼女も一人の親である。息子の命の危機を救ってくれたエリスと祐樹は、いわば命の恩人だった。
感極まるメイスに、エリスは何とも言えない気持ちになる。エリスは何もしていない。マーカスが狼に襲われていたのを救ったのも、魔物からエリス共々逃がしてくれたのも、そして魔物と戦って勝利したのも、全て祐樹だ。祐樹がいなければ、エリスもここにはいない。いや、遺跡の時から、エリスもハンスと共に、精霊の世界に誘われていたのは想像に難くない。
ゆえに、エリスは一人だけお礼を言われる今の状況を、あまりよしとしなかった。
「あの……それで、あの人は……」
エリスの言うあの人、という言葉で、メイスは誰のことかすぐに察した。
「ああ、ユウキかい? あいつなら診療所で治療を受けているよ。幸い、切り傷だけだから大事じゃないらしい。だから心配しなくてもいいさ。見た目だけじゃなくって、中身も頑丈なようだからね」
打って変わって、いつものように快活に笑うメイス。それを聞いて、エリスはホッと安堵する。
ふと、部屋にある窓を見る。外は暗闇が広がっており、今はもう夜だということに気付く。どうも長い間眠っていたらしい。
「……」
エリスは、考える。簡単に気絶してしまう程、弱い自分。精霊術を一回使った程度でへばるような体力を持った、ダメな自分。それを改めて突きつけられてしまう。
どうしてこんなに弱いのだろう。どうしてこんなに何もできないのだろう。そればかりを考える。
けど、それでも……今朝、手紙を読んでから、一つの覚悟を決めたエリスは、これからやろうとしていることを、諦めたくはなかった。
「……あの、メイスさん」
「ん?」
だから、話す。恐らく、否、確実にメイスには止められるだろう。何をバカなことをと、ハッキリ言われることだろう。
それでも、エリスは聞いて欲しかった。エリスの身を案じてくれる人たちに、自身が決めた覚悟を。
「お話が、あるんです」
風が吹く。さして強くもないが弱くもなく、そして春先ということもあって微かに冷たさを感じさせるも、震えるほどでもない、心地よい風が祐樹の頬を撫でた。
場所は、村の外れにある草原。村の入り口からはそう離れていない、だだっ広い草原に鎮座するように転がっている、少し大きめの岩の上に、祐樹は座っていた。風に吹かれ、小波のように揺れる草の柔らかな音色が耳に入る。
「…………フゥ」
口に咥えたタバコを、右手に持ったライターで火を点ける。その際、風で消えないように左手で遮る。タバコに点火させると、息と共に煙を吸う。肺に少し煙を入れてから、宙へ向けて煙を吐き出した。
風に吹かれ、吐き出した煙が消えゆく寸前、祐樹は煙の向こうで輝く育宣の星々と、不揃いの二つの月を見上げた。
この世界に訪れた昨晩、あまりにも非現実的な光景に思わず叫んでしまったが、改めてこうして眺めていると、煌々と輝き、星々と共に淡い光で広い草原を照らすその風景の、何と美しい事か。恐らく、元の世界へ戻っても見ることは叶わないだろうと思える程だった。
今の祐樹の出で立ちは、カッターシャツとズボンだけという姿だった。コートと上着は、大剣と共に診療所に預けてある。魔物との死闘を演じた結果、全身に切り傷ができた程度で、そこまで大した怪我ではなかったのは幸いだった。今は診療所の医師(医師ではなく治癒術士という役職らしく、精霊術である治癒の力で傷を癒した)の手により、傷は完治されている。
まぁ、魔物に吹き飛ばされた際、腰を強打したのに平然としている自分の体の頑丈さには驚きを通り越して若干不安を覚えてはいたが、この際それはもう気にしないことにした。
「……異世界、か」
体の怪我に関しては、今はどうでもよかった。今祐樹の脳裏に浮かぶのは、遺跡で戦った男たちとの死闘、ハンスの死、異世界という事実、そして魔物との対決……いきなり放り込まれた非現実的な出来事の数々。警察官として仕事をしていると、死とは常に隣り合わせだった。故に、危険に飛び込むことなど、些細なことでしかない。
それよりも……祐樹は、自身のタバコを持つ右手を見た。
人間ではなく、魔物……それでも、そこには確かに生きている命があった。
それを、祐樹はこの手で奪った。我武者羅に、何も躊躇もなく。
命を守るはずの警察官が、命を奪う……無論、市民を守るためならば、犯罪者の命を奪わざるを得ない状況に陥ることだってありえる。それは警察官を志した時点で覚悟はしていた。
そう、覚悟はしていた……だが、今もなお、祐樹の右手には、魔物の首を切り落とした感触が残っている。
今更、殺したことで泣き喚いたりなどすることはない。しかしそれでも、銃では感じることのなかった、肉を、骨を断つ生々しい感触……人を守るはずの大きな手が、今は血に塗れてしまって見えた。
「……覚悟は、できてたと思ったんやけどなぁ……」
殺さなければ、祐樹が、エリスが、マーカスが死んでいた。相手は人間を殺すことに何の躊躇もない、害成す存在だった。あそこで仕留めなければ、さらに被害は拡大していたに違いなかった。
わかってはいるのだが、命を守るために、命を奪う……この矛盾に、祐樹はやり切れない気持ちを抑えることができなかった。
「……ワシもまだまだ青いっちゅーことかなぁ」
再びタバコに口をつけ、煙を吸って、また吐き出した。そして再び、風に流され消えていく。この世界に来てから初めて吸ったタバコ。ヘビースモーカーでもなく、月に数本しか吸わない程度でしかなかった祐樹であったが、今この時は気持ちを落ち着かせたくて吸ってはいる。それでも、タバコの味は何もわからず、ただただ肺を汚すしかなかった。
「……はぁ」
項垂れ、見上げていた月から視線を外す。この世界のことは、まだよくわかってはいない。だが、ハンスを殺した男たちと、獰猛な魔物がいるこの世界が、日本と比べて治安がいいとは到底思えない。
つまり、祐樹は元の世界へ帰るためにも、また命を奪うことになるだろう。何ともやり切れない事だ。
自身の命を守るために、命を奪わなければいけない。この葛藤に悩み続けなければいけない。警察官としての誇りも大事だが、死んでは元も子もない。
だが、命を奪い続けた結果、祐樹は再び警察官としての仕事を全うすることができるのか。それが大きな楔となって、祐樹を縛り付けるのではないか。その不安もあった。
悩めど悩めど、答えは出ない。恐らく、今ここで答えを見出すべきような問題ではないのかもしれない。
「……やめよう」
考えるのは、もうやめよう。命を奪った事実は消えない。かと言って忘れてもいけない。きっとまた、似たような事態に出くわす。それまでに、どうするか決めよう……先延ばしにしてしまうが、今はそうするしかなかった。
そして、次に思ったのはエリスだ。
怪我が治ってからエリスの様子を見に行こう思ったが、今は気絶しているだろうからまた後にした方がいい、という治癒術士による忠告を聞いて、まだ顔は見に行ってはいない。メイスがいるから大丈夫だとは思うが、あれから気絶したエリスを運んだ身としては、心配でしょうがなかった。
同時、彼女を放って、一人村から離れることに、祐樹は懸念を抱く。唯一の身内だったハンスを失い、精神状態も不安定な彼女をこの村に置いていくことが、本当に正しいのだろうか。それに、村人の多くは彼女をいい目で見てはいない。その事に大きな疑問を抱くものの、原因がわからない上、思った以上に根深いかもしれないこの問題を、祐樹一人ではどうすることもできない。
幸いとして、メイスたちの家族は、エリスを嫌っている様子はない。寧ろ、娘のような扱いをしている。その点だけを見れば、エリスもどうにか暮らしていけるかもしれない……村人同士の問題を解決しなければ、生きにくいことには変わりはないが。
しかし、祐樹はそれよりももっと大きな理由で、この村から発つのを躊躇っていた。
「……じいさんとも、約束してしもたからなぁ」
死に間際、ハンスにエリスを託された時を、祐樹は思い出す。
目も見えず、息も絶え絶えで、不謹慎かもしれないが、錯乱していた可能性すらある。しかし、残り少ない体力を振り絞り、ハッキリと自身の宝だと言ったエリスのことを頼むと言われた以上、祐樹はその想いを無駄にしたくはなかった。
ハンスの願い、そして元の世界に帰るという自身の目標……相反する二つがせめぎ合い、祐樹を悩ませる。
前者を取ると村から出ることはできず、かといって後者を取ると少女を残して行かないといけなくなる……難しい問題だ。しかもどの道、元の世界へ帰らなければならないため、いつまでも村にはいることはできない。
「……どないしたらええんやろなぁ」
祐樹は、悪を許さない熱血漢であると同時に、真面目すぎるという面もある。他者の願いを無碍にすることもできず、どうにかして自分の目標と両立させる方法はないものかと、頭を抱えながら悩み続けた。
その間に夜も更けていき、手に持っていたタバコも半分以上が灰となり、根元近くにまで縮んでしまっていた。
そして背後から、草を踏みしめる音が近づいてくる事にも気づかなかった。
「あ、あの……」
「ん……?」
一人悩んでいた祐樹は、突然聞こえた声に僅かに驚き、振り返る。
そこに立っていたのは、不安気な表情を見せるエリス。目覚めてから着替え直し、昼間と変わらない服装を身に纏っていた。
その姿を見て、祐樹は安堵を交えた笑顔を浮かべた。
「おお、目覚めたんか」
「はい……ご心配おかけしました」
頭を下げてから、祐樹の傍へと歩み寄る。風に吹かれた銀色の髪が、月明かりに照らされ、夜空で輝く星々のように煌めく。顔にかかる髪を手で払い、軽く後ろへ流すその仕草は、煌めく髪もあって、神秘的な光景に映った。
現実離れしたような美しさに、少し見惚れそうにもなったが、大の大人がそんな少女の仕草一つで魅了されてどうすると思い直し、小さく咳払いした。
「んん……まぁ、お互い怪我がなくて何よりや」
「はい……そう、ですね」
石に座り直し、タバコをもみ消してから携帯灰皿へ捨てた。二本目も吸おうかと思ったが、エリスが横にいる手前、やめた。森の中のような切羽詰まった状況でもない限り、子供の前で吸うわけにもいかない。
「……横、座るか?」
祐樹はそっと、座っていた場所から横へずれ、僅かなスペースを作った。
「あ……ありがとうございます」
その好意を受け取り、エリスも祐樹の隣に座り、月を見上げた。
大小の月は、変わらず淡い光を放ち、地上を優しく照らし続けている。太陽と違って優しい光は、風の心地よい冷たさもあり、休めていたはずの体の内に残っていた僅かな疲れも拭い去っていくかのようだった。
「……こうやって夜空を見上げたこと、今までなかったなぁ……」
「奇遇やなぁ、ワシもや。つって、月が二つ揃っとる光景なんて、初めて見たわ」
「え……月が二つなんて、当たり前なことだと思うんですけど……」
「あー……まぁ、ワシが住んどったところは月が一つに見えるっちゅー、結構変わった場所やったんや。おかしいやろ?」
「……そんなところが、あるんですか?」
「せやでー。世の中にはお前さんが知らんことが仰山あるんやでー? ……って、ワシもここら辺のことなーんも知らんかったわ。お相子やお相子」
「……フフ、なんですか、それ」
「あ、笑ったな。ワシは真面目に言うとんねんぞコラー」
「ごめんなさい……フフ」
「まぁだ笑うか」
隣同士で座って、互いに何てことのない話で盛り上がる。口の端を釣り上げ、イタズラっぽく笑う祐樹に、目を細め、小さく笑うエリス。初めて対面した時とは違う穏やかな空気が、二人の間を流れる。
「……」
「……」
やがて、どちらともなく沈黙する。それは気まずいような物ではなく、落ち着いていて、心地の良い沈黙だった。
「……」
「……」
「……あの」
「ん?」
そんな沈黙を破ったのは、エリス。祐樹は月から視線を外し、振り向く。エリスは俯き、膝の上で手を組み、時々組み替えたりとして落ち着かない様子だった。
「……」
「……どしたん?」
いつまでも話を切り出さず、祐樹は首を傾げて問う。しばらくもじもじしていたエリスだったが、やがて深呼吸を始める。
「……っ……っ……よし」
深呼吸を何度か繰り返し、意を決したのか小さく呟いた。
「……あの!」
「おう?」
グルンと、体ごと祐樹へ振り返ったエリスに、祐樹は驚いて僅かばかりに仰け反る。エリスの目には決意が宿り、どこか物々しい雰囲気を漂わせている。
「あの……!」
そして、少し躊躇い見せつつも、今度こそ自身の気持ちを、祐樹へ告げた。
「私と、旅に出てもらえませんか!?」
……時間が止まったような気がした。
実際には止まってはいない。風が吹き、草原の草が揺れ、エリスの髪と服が靡く。止まってしまったのは、突然の申し出に状況が理解できずに硬直する祐樹と、緊張しつつも反応を伺って動かないエリス。
数秒程、その状態が続いたかと思うと、
「……は?」
ただ一言、ようやく動き始めた祐樹は、素っ頓狂な声で聞き返すしかなかった。
「ですから……私と一緒に、旅をしてもらえませんか?」
聞き返されたエリスは、再び同じ答えを返す。だがそれに納得する祐樹ではなかった。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょーっと待ちぃ! 何でいきなりそんな……」
確かに今日だけで色々あったものの、昨日会ったばかりの男に、突然旅に同行してくれと懇願され、さすがの祐樹も驚き、戸惑い、目を白黒させるしかなかった。エリスの意図がわからないでいる祐樹に、エリスは語る。
「……実は、おじいちゃんの仕事場で、これを見つけました」
言って、スカートのポケットから一枚の封筒を取り出し、それを祐樹に差し出す。いまだ混乱する祐樹であったが、封筒の中から折りたたまれた紙を取り出し、広げてみる。
中には、何行かに続いて文字が書かれていた。見る限り、手紙のようだった。
だが、
「……すまん、読めへん」
「え……」
日本語でも英語でもない文字を、さすがに読み取るのは祐樹には無理だった。見た感じは英語に似てるような気もするが、文字の形が祐樹の知っているそれとは違っていたり、綴りそのものが合っているかもわからない。
ショボンとした顔をする祐樹から手紙を返され、調子を崩されたような感じになったものの、気を取り直して手紙を広げて持つ。
「……じゃあ、読み上げますね」
「おう、頼んだ」
月明かりに照らされた文字を、エリスは一字一句、間違えることなく読み上げていった。
『親愛なる“風の守り人”ハンス殿へ
この手紙がそちらへ届く頃には、恐らくもう、事態は動き始めていると見ていいでしょう。最近、例の教団が怪しい動きを見せています。奴らの狙いは、精霊の力です。世界各地に散らばった守り人には注意を呼び掛けてはいますが、いつ最悪の事態に陥るかわからない現状、ただ指を咥えて見ているわけにもいきません。つきまして、近々世界各地から守り人を集め、精霊会議を行いたいと思います。同封した“指輪”は、我々守り人の証であると同時に、あなたにしか使えない武器でもあります。それを身に付け、テラリアへお越しください。
では、ごきげんよう。赤く染まる森の中、黄金に輝く湖に眠る妖精の導きがあなたにあらんことを
友より』
読み終え、エリスは一息入れる。聞かされた祐樹はというと、頭の上に疑問符が浮かびまくっていた。
「……えーっと、つまり……何や?」
聞かれ、エリスは封筒に手紙を入れ、ポケットにしまってから話す。
「……この手紙は、おじいちゃんに宛てた物です。送り主は、友としか書かれてなかったので、誰なのかは見当もつきません。けれど、とても大事なことだっていうことは、私もわかりました」
そして、首元から銀のチェーンに通された指輪……エメラルドが嵌め込まれた小さな指輪をネックレスのようにした物を取り出し、掲げて見せた。話を聞いた限り、恐らくその指輪が、守り人とやらの証なのだろうと祐樹は気付いた。
「おじいちゃんは……私には語ってはくれませんでした。どんな時でも、何があっても、私にとってずっと味方だったおじいちゃんが、唯一話してくれなかったこと……誰にも話せないような、それほどまでに大切で、重要なこと……それを成すことができないまま、おじいちゃんは亡くなってしまいました」
掲げられた指輪は、月明かりの中で揺れ、小さな光を放つ。魅惑的な輝きを放つ指輪をエリスは見つめ、やがてそれを握りしめた。
「だからせめて……せめて、おじいちゃんが本当に安らかに眠ってくれるようにって……何も返すことができなかった私が、唯一できる恩返しが、これなんだって気付いたんです」
でも……そう言って、エリスは項垂れ、頭を振った。
「私には、戦う力なんてない。今までおじいちゃんと一緒に暮らして、村から一歩も外へ出たことがない、無力な存在なんです……やろうとしてることが無謀なことだなんて、誰よりもわかってるんです! でも……でも! やり遂げたいんです!」
話し終え、エリスは再び祐樹を見る。その目には、絶対に譲れないというような強い意志が、そして有無を言わさぬ雰囲気を体から漂わせていた。
初めて会い、今の今までは頼りない雰囲気しか放ってこなかった少女が、ここまで見違える物なのだろうか……そう思ったが、違うと祐樹は思った。
(これが、この子の元々の本質なんやな)
誰よりも臆病で、卑屈で弱気な性格の裏は、誰にも曲げることができないような一本の芯がある。自分にとって大切だと思うことは、何があっても捨てないという信念を、小さな体を持つ少女の内から感じ取れた。
それはとても人間的に見ても魅力的で……そして、危うさもあった。
どれだけ強い芯があっても、それは何かが切っ掛けで折れてしまう程に脆いという事でもある。自分自身の道を突き進もうとした結果、視野を狭めてしまい、道を踏み外してしまう可能性もある。ましてや、目の前にいる少女は幼い。多感な時期でもあり、何かが原因で彼女の心が壊れてしまうかもしれない。
それを、祐樹は放っておくことができるかと聞かれれば、当然の如く『無理だ』と答えるだろう。
「……それ、メイスさんには言うたんか?」
頭を掻きながら問うと、エリスは少し目線を泳がせた。
「えっと……猛反対されました」
「せやろな」
子供のことを第一に考えるような人だ。エリスがそんな旅に出ることを良しとするはずがない。
だが、エリスは続けた。
「それでも……説得して、どうにか認めてもらえました。条件として、一人旅は絶対にしないっていうことがありますけど」
「なるほど、それでワシにってことか」
納得がいったように祐樹は頷く。これから旅をしようと思っていることは、エリスは知っている。そんな祐樹に、白羽の矢を立てたのだろう。
「……確かに、あなたが旅に出ようとしていることを知っていたからっていうのもあります」
そんな祐樹の内心を見透かしたように、エリスは言う。
「でも……私だって、苦手な人と一緒に旅をしたいだなんて、思ってません」
「……」
石から立ち上がり、エリスは祐樹の前に立った。
月を背に立つ少女は、髪とスカートを不規則な動きに靡かせながら、真っ直ぐに祐樹を見つめる。月明かりの逆光を受け、暗い影を作る少女には不相応の、大人びた姿。ともすれば月の女神とも間違えてしまいかねないエリスの姿は、一枚の絵画が現実となって現れたかのような錯覚を覚え、祐樹は自身がこの場にいることすら場違いなのではないかとすら思い始めた。
「私は……誰かの為に戦って、誰かの為に悲しんで、誰かの為に笑ってくれて……一緒に歩いてくれるあなただから、お願いしているんです」
そう語るエリスに、祐樹はしばし呆然としていたが、現実へ引き戻される。
彼女は、本気だった。祐樹が断れば、それこそこっそり一人で旅をする程の気迫を感じる。
何が彼女をそうさせるのか。亡き育ての親の遺志を継ぐことに、そこまで執念を燃やせる物なのか。
疑問は尽きない。だが、誰かが何に必死になるかなど、それこそ愚問というものだった。
「だから、お願いです……私と一緒に、旅をしてください」
お願いします……そう言って、エリスは頭を下げる。
必死の懇願だった。自分の意思を祐樹に伝えたが、それでも断れるかもしれないという恐れも、エリスにはある。
そんなエリスに返ってきた返答は、
「……ぁ」
下げた頭から感じる、僅かな重みと、温もり。村へ向かう途中でも感じた物と、同じ感触だった。
「そう簡単に頭下げんなや。ちゃんと前向きぃ」
言われ、頭に重みを感じながらも、ゆっくりと上げる。
エリスの目の前で、石から立ち上がり、小さく笑いながら立つ祐樹の姿。エリスの艶のある銀色の髪を、大きな右手で優しく撫でる。
「人にお願いするのに、一々頭下げる必要はないで? まぁ、下げるのも大事なことではあるけどもな。そういうのは、ホンマに大事なことに取っとき」
ポンと、軽く叩くようにしてから頭から手を離す。くすぐったそうにしていたエリスは、少し名残惜しそうにしながらも、祐樹を改めて真っ直ぐ見つめた。
「……ま、色々と言いたいことはあれど、な」
言って、後頭部を掻く。
一人の大人としては、彼女が旅に出るのを止めたかった。命の危機すらあるこの世界を歩くことは、並大抵の事ではない。旅を楽しむ旅行とは全く違う、本当の命がけの旅となる。それを勧めることは、できればしたくはないというのが本音だ。
だが……先ほども思った通り、放っておけば彼女は一人で旅立つだろう。それならば、大人一人が同行すれば、少しは危険も回避できるはずだ。
正直、祐樹自身もこの世界のことは、常識すらも知らない、いわば先の見えない砂漠を歩くようなものに近い。そんな世界を少女と共に歩くことということに、祐樹は不安を覚える。
それでも尚、旅をするという少女の強い意志を尊重するのであれば。
「……お前さんのことは、ワシが何があっても守る。絶対に、な」
大人として、刑事として……一人の少女の決意を後押しした人間として、その責任を負うまでだった。
例え旅の際、手が血で塗れようとも。
苦悩は尽きない。けれども、少女に手を汚させるのならば、せめて自分が代わりとなることを、祐樹は決意する。
「っ……! はい!」
祐樹の了承の言葉に、エリスは喜色をたたえ、力強く返事をした。
エリスの胸に、目覚めた時の絶望感とは違う、暖かい何かが広がるのを感じる。それは決して不快ではなく、高揚する気分同様、心地よい物だった。
「……あ、そうや」
「……?」
ふと、思い出したかのように掌を叩いた祐樹に、エリスは首を傾げた。
「言うてなかったな……魔物ん時は助けてくれてありがとうな」
言って、祐樹は右手を差し出す。意図がわからず、エリスはきょとんと立ち尽くした。
「……えっと」
「ああ、握手や握手。あの時、お前さんがいてくれんかったら、今頃ワシは胃袋ん中やったからな」
ガハハと笑う祐樹に、エリスは会心したが、慌てて手を振った。
「そ、そんな! 私はあの時は、当たるか不安だったし、その…………」
最後まで言い終えず、いまだ笑いながら手を差し出す祐樹の手を、しばらく見つめていたエリス。やがて、おずおずと自身も右手を伸ばし、その手を掴んだ。
「……ど、どういたし、まして……」
「そやそや。ちゃんとお礼は素直に受け取っとき」
照れて赤く頬を染めるエリスに、祐樹は満足気に言った。
「……それから、な?」
「は、はい?」
そして祐樹は、前から気にしていた事を伝えた。
「改めて、ワシは祐樹。大久間祐樹。これから長い付き合いになるんやし、ちゃんとした自己紹介はせんとな」
朝の時は、互いに距離の詰め方がわからず、名乗り合いはしたものの、正直きちんと名乗れたかと言えばそうでもなかった。今ならば、互いのことを話せる。そう踏んだ祐樹は、自らの名を改めて名乗ることにした。
それはエリスも同じ気持ちだったようで、ハッとしたエリスは、小さく頷いた。
「わ……私は、ピエリスティア、です……そ、それで……」
「うん?」
より一層顔を赤く染め、もじもじと照れ臭そうにエリスは言った。
「……おじいちゃんとか、メイスさんたちは、私のことをエリスと呼んでいたので……その……」
その姿がおかしくて、くすりと祐樹は笑うと同時に、思い出す。
エリスが森で気絶する直前、思わずエリスの名前を叫んでいた。あの時は必死のあまり意識はしていなかったが、思えば祐樹は少女の名を呼ぶのに、まだ心の距離が離れているのに愛称で呼べるわけもなかった。本名も長く、言いにくいというのもあって、名前を呼んではいなかった。
エリスもまた、祐樹との距離を測りあぐねていたのもあり、そして大きな男性ということで軽い恐怖心もあったため、名前を呼ぶのを躊躇っていた。独特な響きの名前だというのも、それに拍車をかけていた。しかし、祐樹の命を救うことで必死になって、エリスもまた、無意識のうちに彼の名前を叫んでいた。
だから、今ならば。互いの背中を守り、そして互いに手を差し伸べられる。何より、これから一緒に旅をするのだ。ならば、互いに名を呼ばないのは失礼にあたるし、不便だ。
そして、
「ああ……よろしゅうな、エリス」
祐樹は呼ぶ。力を込めれば簡単に折れてしまいそうな程華奢で、しかし確かな強さを感じさせる小さな手の少女の名を。
「はい……よろしくお願いします、ユウキさん」
エリスは呼ぶ。力強くて、見た目だけだと怖く映ってしまうけれども、触れてみると優しい温もりが感じられる大きな手の男の名を。
年齢も、身長も、性別も、果ては世界すらも違う二人の手は、優しい月の光の下で確かに重なり、繋がった。
二人がこれから歩む、未知の世界。そこに待っているのは、胸躍る冒険か。それとも、胸を引き裂かれるような惨劇か。この時の二人には、何が待ち受けているかなど、知る由もない。
今はただ、風吹く草原の中、月が見守る空の下で、名前を呼び合う二人に……幸あれ。
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