17.少女の覚悟
時間は遡る。
祐樹が囮となって逃がされたエリスとマーカスは、森の中を走る。腰まで生い茂る草が走るのを邪魔するものの、マーカスの指示の下、元来た獣道を走っているため、大して気にはならない。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
「ふぅ、ふぅ……」
それよりも問題は、二人の体力だった。
普段、全力で走ることがあまりない上、足元が不安定な場所を走っていたエリスの体力は、もう底を尽き始めていた。立ち止まって膝に手を着き、僅かにでも体力を回復しようと試みる。マーカスもまた、普段は外で遊んだりして体力こそエリスよりかは上だが、やはり幼いという点もあり、肩で息をして呼吸を整えようとしている。
死者の森さえ抜ければ、村までそう遠くはない。休んでなんていられない。急いで助けを呼ばないと、祐樹の身が危ない。
その一心で、エリスは再び立ち上がる。そして走り出そうとした、その時だった。
二人の耳に、遠い場所から何かが破裂したかのような大きな音が届いた。
「っ!? な、何、今の音!?」
突然、聞きなれない音に驚き、戸惑うマーカス。対し、エリスも最初は驚きはしたが、この音に心当たりがあった。
「この音って……」
少し思考し、そして思い出す。遺跡の中、部下の男たちを全滅させられ、進退窮まったグリモアと呼ばれていた小太りの男が、エリス目掛けて短剣を手に襲い掛かろうとした瞬間、男たちを叩きのめした張本人である祐樹が、見慣れない黒い物から雷にも似た耳が劈くような鋭い音が発せられた。今回は遠くはなれた場所から聞こえてきたために、音の質は違えども、あの時の音と同様だとエリスは確信する。
すなわち、祐樹が魔物に向かって、あの黒い物……恐らく、武器を使ったということだろう。
あの武器の威力は、正直エリスにはよくわからない。けれど、祐樹の掌に収まるサイズでありながら、あの大きな音を発する点を鑑みるに、威力が高いのは確かだと思う。それが、魔物に向けて放たれたのならば、さすがの魔物も無事では済まないはずだ。
そう、無事では済まない……そのはずなのだが。
(……何だろう……すごく、不安)
エリスの胸の内を蝕む不安と焦燥感。遺跡の中で男たちを負かした祐樹が、そう簡単に負けるはずがないと信じているのに……エリスは、胸の内から徐々に広がる不安により、そこから動けなくなる。
「お姉ちゃん?」
そんなエリスを怪訝に思ったのか、マーカスが顔を覗き込んでくる。そんなマーカスに、エリスは気付いて誤魔化した。
「う、ううん。何でもない。早く村まで」
急ごう、と続けようとした。
―――ォォォォォォォ
「っ……!?」
「い、今のって……!?」
次に耳に届いたのは、遠吠え。狼が発する、遠くまで届く声だ。
そしてその遠吠えが聞こえてきたのは、先ほどの破裂音がした方角……すなわち、祐樹がいる場所。
遠吠えの正体は、わかりきっていた。確実に、あの魔物の物だろう。
「っ……!」
エリスは考える。魔物の強さは未知数だ。急いで助けを呼ばないと、祐樹が危ない。エリスにできることは、マーカスを連れて祐樹の言う通りにすることだけだ。
だから、祐樹の言う通りに、マーカスを連れて村まで……
「……村、まで……」
足を一歩踏み出し、そこで止まった。
何故、止めてしまったのか。急がなければ、祐樹が危ないというのに。なのに、エリスの足は動かない。胸の内につかえた疑問が、彼女の足を止めてしまう。
「私……は……」
視線は、下へ。草を踏みしめ、村の方角へつま先が向いた足。このまま走れば、村まで行ける。
村まで行って、助けを呼んで……それから、どうするのか?
(……逃げる、の?)
村へ戻ること。即ち、逃げること。祐樹はマーカスを連れて、村まで戻るよう言った。だからエリスが村まで逃げ戻っても、誰も咎めることはないはずだ。
(……本当に?)
本当に、誰も咎めないのか。エリスは自問する。
祐樹は元より、マーカスも、村人も、誰も咎めない。寧ろ、マーカスを連れて戻ったということを、母であるメイスは賞賛するだろう。そして急ぎ、魔物を討伐するために腕っぷしの人間を集めるよう、村人たちに触れ回るはずだ。
しかし、その間に果たして祐樹の力が持つのか。魔物を恐れて、村人は誰も行かないかもしれない。メイスも、そしてアルドルも戦える体ではない。
村人を説得している間にも……寧ろ、こうしている間にも、祐樹の危機が迫っている。
もしも祐樹が……見ず知らずのエリスの命を救うために体を張り、ハンスの死を悼み、ハンスを亡くしたエリスを気遣い、優しく頭を、背中を撫でてくれた人が死んでしまったら。
「……っ」
エリスは、エリス自身を許さない。周りの人間がいくら咎めなくとも、エリスは自分を咎め続けるだろう。
そして、大事な人間の死に続き、今もなお、エリスとマーカスを逃がすために己を犠牲にする彼が死ぬなんて、エリスには耐えられそうにない。
そう、ハンスがエリスを逃がそうとした時のように……誰かに逃がされ、助かった後の苦しみ。そんな苦しみなど、もう味わいたくはなかった。
何より、ここで逃げてしまえば、今朝に覚悟を決めた物が全て無駄になる。そんな気がしてならなかった。
「お姉ちゃん……?」
俯き、黙り込むエリスをマーカスは訝し気に見る。エリスは、マーカスの声に応えることなく、目を閉じ、大きく息を吸う。そして、
「……戻らなきゃ」
目を開き、そして決意した。
戻らないと。祐樹がたった一人で、自分のために囮になってまで戦おうとしている彼を、放ってなんておけない。
けれども、とエリスは考える。エリスにも戦う力、というよりも、自衛するための力はあるにはある。だがそれは、野犬一匹を追い返す程度の貧弱な力しかない。援護するにも、これではあまりにも頼りなかった。せいぜい、気を引き付けるくらいしか思いつかない。
それでも、少しでも祐樹の役に立てるのならば……あの殺気を直接受けると考えると、足が竦みそうになる。が、それを堪えてでも、エリスは立ち向かうつもりでいた。
エリスは屈み、マーカスと同じ目線の高さに合わせた。
「ごめん、マーカス君。私、やっぱり……」
ここからならば、狼と遭遇する確率も低いはずだと踏んだエリスは、祐樹のところへ戻ることをマーカスに伝え、一人先に戻るようにと言おうとした。
そして……ふと、思い出す。
(……狼?)
マーカスがこれまで、狼がいる恐れのある森へ単身踏み込んでこれたのは何故なのか? その理由を思い出す。
そして、エリスは気付いた。
(……あの魔物……もしかして)
見た目は、狼そのものだった。ならば、ひょっとするならば……今しがた思いついた、この方法を試す価値はあるかもしれない。
「マーカス君、お願いがあるの」
エリスは、マーカスと伝える。“それ”があれば、祐樹を助けられるかもしれないことを。
場所は変わり、森の奥部。そこでは、祐樹と魔物による死闘が繰り広げられていた。
「ウグオオオオオオオオオッ!!」
「ふんっ!!」
右から迫る爪による攻撃を、祐樹は大剣を立て、受け流した。直接受け止めてガードするのは、先ほど吹き飛ばされたことで危険と判断した祐樹は、剣の刃の上で爪を滑らせるような形で、衝撃を可能な限り殺していく方法を取っていた。多少たたらを踏みはするものの、判断そのものは間違っていない。
だが、未だ攻勢に打って出ることはできていない。何度目かの攻撃を受け流すも、すでに祐樹の体には掠り傷がいくつもでき、頭部からも血が流れ落ちてきている。
防戦一方。体力もいつまで続くかもわからない。このままではいずれ攻撃をモロに喰らってしまうのは明白だった。
(クソッ! いつまでもこんなことしとったら負けてまう……!)
祐樹とて、このままではいけないことぐらいわかっている。わかってはいるが、反撃の隙がない。両腕から繰り出される、鋭い爪による攻撃。懐に潜り込もうにも、下手をすれば頭目掛けて噛みついてくる。でかい図体の割に、狼としての特性か、動きも素早いと来る。
対し、こちらの武器は扱い慣れない大剣一振り。これでは懐に潜り込んで切りつけるのも困難であるし、そして重いために素早く動けない。かといってこれを放り捨てて素手で挑むのも無謀とも言える。
隙のない敵に、不利な自分。ゆえに祐樹は攻めあぐねていた。
「こうなりゃ……!」
破れかぶれ。易々と死ぬ気はないが、何らかのアクションを起こさねば、待つのは死だ。
左腕からの攻撃、そして続けざまに右腕から、太くて長い腕による爪が、祐樹に迫る。
これを祐樹は受け流す……ことはせずに、
「ぐぬぉぉっ……!」
直接、受け止める。
爪と刃がぶつかり、火花が散る。刃から柄へ、柄から手へ……そして全身へ、すさまじい衝撃が走り抜ける。筋肉が軋み、悲鳴を上げる。車がぶつかる威力の衝撃を、体全体で受け止めたようなものだ。常人ならば吹き飛ばされるか、全身の骨が砕かれるかの程だ。
それでも、祐樹は耐えた。体が痺れるような痛みだが、それを振り払うように祐樹は動く。
「おらぁっ!!」
右足の蹴り上げが、魔物の腹部を捉える。鍛え抜かれた足による蹴りは、毛で覆われた体にダメージを与える。吹き飛びはせずとも、呻き、僅かによろめく。
それを見逃さず、祐樹は反撃を開始する。
大剣を右手に持ち、祐樹は姿勢を低くした状態で懐へ飛び込む。そして、元の姿勢に戻す勢いを利用し、
「っらぁっ!!」
力強く握りしめた左拳を天へ向けて、正確には魔物の無防備な顎へ向け突き上げる。拳は寸分違わず、鈍い音を立てて下顎に叩きつけられた。
「グゥゥ……!?」
予想外の反撃を食らい、脳を揺らされた魔物は跳ね上がった顎を右手で抑え、後退った。
生まれた隙は、すぐに消える。その前に決定打を叩き込むべく、左足を前に、そして祐樹は大剣を両手で持ち、下段に構えて握りしめ、そして、
「もいっちょぉぉぉっ!!」
両手で持った大剣を、体を捻るようにして逆袈裟に振り上げた。
使い慣れていない武器とはいえど、長物を振るうコツは大体把握している。竹刀のように振るうのが難しいのならば、他の方法を……今の場合、長物を扱うスポーツを脳裏に思い浮かべて振るえば、どうとでもなる。
そうして振るわれた刃は、言うなればゴルフクラブをイメージした軌跡を描いた斬撃となり、魔物を襲う!
「ゴァァァッ!!」
顎に喰らった衝撃からギリギリ復帰した魔物は、咄嗟に右腕を突き出す。剣の切っ先は魔物の体を切り裂くはずだったが、突き出された右腕によって防がれ、致命傷を与えることはできなかった。
が、それと引き換えにして、魔物は右腕の肘から先を失うこととなる。祐樹の体と手首の捻りを駆使したことによる高速の斬撃は、魔物の頑丈な筋肉と骨を切断するに事足りる鋭さを伴っていた。
「ガァァァッ!!」
右手が草の上に落ち、激痛に叫ぶ魔物。血が噴き出す右腕を左手で抑えるようにして、祐樹から距離を離した。
「チッ! もうちょいやったんやが……」
祐樹もまた、フルスイングを繰り出した勢いを利用し、体を横回転させつつ後ろへ下がる。右腕は切り落としはしたが、まだ相手の気勢は削がれていない。舌打ちしつつも、深追いはしなかった。
だがそれでも、相手の戦力は削ぐことはできた。少なくとも、右腕からの爪による攻撃は無い。慢心はしないにしても、勝機は見えてきている。
(……さすがに同じ手は食わんかもしれんな……)
ふと、祐樹は大剣を肩に担ぎ上げるようにする構えを取り、未だ右腕から血を流しつつも、より殺気を滾らせた目で祐樹を睨む魔物を見据えながら考える。
狼というのは、意外と賢い。その上、先ほど見せた右腕を犠牲にして致命傷を防ぐというやり方は、見た目だけでなく、人間とほぼ変わらない動作だ。知能も上がっているのならば、先ほどの祐樹の不意を突いた攻撃は、もう効かないと見ていい。
「ウガァァァァァッ!!」
僅かな膠着状態を脱し、先に動いたのは魔物。血が吹き出る右腕に構わず、尚も牙を剥き出し、残された左腕を振るって襲い掛かってくる。その速さは衰えることなく、まっすぐ祐樹へ迫る。
「フッ!」
接近してくる魔物。それを迎え撃つため、祐樹は大剣の切っ先を真っ直ぐ魔物へ向ける。このまま来れば、魔物の腹部を刃が貫通し、串刺しにすることができる。
が、事はそう簡単には運ばない。
後少しで切っ先が魔物に突き刺さる……寸前、魔物は急ブレーキをかけ、祐樹から見て右へと飛んだ。
「何やとっ!?」
思った以上に知能が高い。そう確信せざるを得ないフェイントをかけられ、祐樹は思わず驚愕の声を上げる。
魔物が草を踏み潰し、さらに土ごと撒き散らす勢いで地を蹴り、爆発的な速度を持って再び祐樹へ肉薄する。突きの体勢を取っていた祐樹は、咄嗟に移動して回避することができない。そんな祐樹に、魔物が速度を乗せた爪を振るう!
「クッ!」
移動できないならば……鍛え抜かれた反射神経を駆使し、屈んで回避。前のめりに倒れ込んで爪を掻い潜る。爪は祐樹の短い髪の毛の先端を僅かに切る程度に留まり、一歩遅ければ頭が吹き飛びかねない一撃を危なげなく回避した祐樹は、前転してすぐさま立ち上がる。そして大剣を片手に、反撃に打って出る!
「せぇやぁ!!」
剣を振り上げ、袈裟懸けに切り下ろす。魔物はそれを爪で弾き飛ばし、火花を散らす。弾かれて尚、祐樹は止めない。弾かれた勢いで体を回転させ、横に薙ぎ払う!
「はっ!」
勢いと遠心力によって突風の如き風切り音を発しつつ振るわれた大剣を、魔物は一歩後ろへ跳んで回避。だが、回避しきれなかった切っ先が魔物の胸板を切り裂き、赤い線が浮かぶ。
「ガァッ!!」
痛みに怯み、一瞬硬直する魔物。今度こそと、祐樹は振るった大剣を大上段に持ち上げた。
「うおらああああああああっ!!」
気合と共に重さを乗せた一撃が、魔物の頭部へと落とされる! が、その一撃はまたも防がれる。
突き出された魔物の左手が、大剣の刃を受け止める。刃は左手を切り裂き、魔物の左腕を縦に裂く。刃は頑強な筋肉によって防がれ、完全に切断できなかったばかりか、勢いも完全に殺され、そこで食い込む形で止まってしまった。
「ぐぅっ!!」
傍から見てて、かなり痛々しい光景だ。見慣れない者が見たら、卒倒しかねない。大剣を伝って血が滴り落ち、周囲に鉄錆のような臭いが充満し始める。
だが、祐樹はそんなことに気を留める余裕はなかった。何故ならば、
「く、この、動かん……!」
刃が肉どころか、骨と隙間に食い込んだせいか、押しても引いてもビクともしない。柄を握りしめ、何とか抜け出そうと躍起になる祐樹だったが、魔物がそうはさせじと動き出す。
「グアアアアアアアッ!!」
大剣が固定された腕を、血を撒き散らしながら強引に振り回す。それに伴い、振り回される大剣の柄をずっと握っていた祐樹もまた、足が宙に浮いた。
「ぬわぁっ!?」
突然の行動に対処することすらできなかった祐樹は、体が宙に浮く感覚を感じた瞬間、投げ飛ばさんばかりの勢いによって大剣から手を離してしまう。その際、大剣も魔物の腕から離れた。
投げ飛ばされた祐樹は、得物である大剣共々、地面に叩きつけられる結果となる。受け身を取ることもできず、数回地面を転がる祐樹。その少し離れた位置に、大剣が落ちる。
「ぐぅっ! クソッタレめぇ、ここに来てワシは何回地面転がればええんや……!」
思えば、遺跡の時も爆発によって地面を転がりまくっていた祐樹。異世界に来てから、どうも地面に寝そべる事が多くなってきたように感じてきた。
ともかく、急いで起き上がろうと上体を起こす。が、
「げっ……!」
それよりも先に、魔物が大口を開けて祐樹の目の前に迫ってきていた。
上体を起こすのをやめ、寸での所で魔物の首元を右腕で、左手で人間でいう鎖骨部分を抑えて、魔物の動きを止めた。恐ろしい力が右腕と左手を襲う。
(野郎っ、これを見越して……!)
両手が使えなくなった以上、魔物に残された武器は口に生え揃った鋭い牙が唯一の武器。その武器をいかんなく発揮できるよう、祐樹を地面に叩きつけたのだとすると、あの左手の裂傷を利用して大剣を手放させるのも計算ずくだったということか。
自らの体の一部を犠牲にしてでも殺そうとするその姿は、魔物というよりも狂戦士(バーサーカー)と呼んでもおかしくない。そこには獣にはない、ゾッとする程の執念すら感じられる。
「ガァァァァァァァッ……!」
「ぐににににぃぃぃぃっ……!」
徐々に迫る切っ先鋭い牙が生え揃った大口。抵抗し、震える腕でどうにか抑え込むも、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げ始める。蹴りつけようにも、伸し掛かられたせいで足を動かす猶予すらない。剣を使おうにも手元には無い。
「こ、の、獣野郎がぁぁッ……!!」
力を込めて抵抗するあまり、声が上ずり、顔が苦悶に歪む。死を前にして生存本能が働いたことによる、所謂火事場の馬鹿力が働き、少しずつだが押し返し、牙を遠ざけていく。このままどうにか形勢を逆転させたいところ……だが、現実は非情だった。
「グァァァァァァァッ!!」
先ほどよりも力強く迫ってくる魔物の牙。祐樹も負けじと押し返そうとするも、
「く、そ……がぁぁぁぁっ!」
相手の力の方が一枚上手で、再び祐樹に死が突きつけられる。このまま行けば、抵抗空しくナイフのような牙に頭を、頭蓋骨ごとかみ砕かれるだろう。
(ここまで……っちゅーことか……!?)
両手の力が限界を超えて尚、退けられそうにない。足掻いても無意味だと、祐樹の理性が諦め、囁く。
(こんな訳のわからん場所で……ワシは死ぬっちゅーんか……!?)
まだ元の世界で、警察官としての職務を全うできていないというのに。死ぬときは布団の上でと決めていたのに……後輩に後世を託すことすらできていないというのに、こんな知り合いも誰もいない、次元を跨いで迷い込んだ世界で、無残に命を散らすというのか。
祐樹の脳裏に過る過去の出来事が、蘇っては消えていく。楽しかった出来事、嬉しかった出来事……悲しかった出来事。それらがまるでスライドショーのように流れていく。
その中にある、一つの出来事。守りたかった命。助けたかった命。大切にしていこうと、心に決めたはずの命。
それを、祐樹は、その手を掴むどころか、自らの手で、命を。
「ユウキさん、息止めて!!」
「っ!!」
突如、耳に届いたその声に現実に引き戻され、祐樹は息を止めた。疑問に思う余地もない。考えることすらしない。理屈ではなく、脳が、心が、『従え』と叫んだゆえに、祐樹は指示に従った。
そして、
「『ウェンディ・ブロウ』!!」
空間に反響する不思議な声が響いた瞬間。
祐樹の目の前……魔物と祐樹の間で、橙色の煙が巻き起こった。
時は僅かに遡る。
エリスが急ぎ引き返し、祐樹と魔物が戦っている広場へ戻ってくると、エリスの目の前に飛び込んできたのは、魔物が祐樹に覆いかぶさり、凶悪な牙で祐樹の頭をかみ砕こうとしている光景だった。それを祐樹は必死の形相で押し返そうとするも、魔物の力に負けそうになっている。
「こ、このままじゃ……!」
エリスにはわかる。このままだと、祐樹に牙が突き立てられ、貪り食われてしまう。魔物の姿が、エリスが最後に見た姿から変貌しているという疑問はあるが、今はそれを考えている暇はなかった。
すぐさま、エリスは行動に移す。腰に差さっていた銀色の短杖を引き抜き、そしてもう片方の手でスカートのポケットの中に入っていた物……先に村へ帰したマーカスから受け取った物を取り出した。
一度深呼吸をし、集中力を高める。もたもたしていると、祐樹が魔物に食われてしまうが、何せ杖を振るうのには……正確に言えば、精霊術を行使するには、集中力がいる。エリスのように、戦ったことのない者にとっては尚更だった。
「……『風よ集え、我が下へ』……」
短杖を頭上に掲げ、短い詠唱を唱える。そして、宙に円を描くように、ぐるぐると回し始める。エリスの頭の中で、この土地に宿る精霊の力を杖の先端に集めていくように、そしてそれを塊にしていくようなイメージをしていく。
杖の宝石が、淡く輝き始める。そして目に見えずとも、確かに杖の先端に集まっていくのを感じ取る。
それは、風。大気中に宿る精霊の力で、空気を風に変え、そして風を塊に……さらにその塊を、岩石のようにして固めていく。
風の石つぶてを飛ばす、風の精霊術の初歩。エリスが現在、唯一使える精霊術。
その岩石は、決して大きくはない。せいぜい赤ん坊の頭のような大きさでしかない。けれど、これでいい。これ以上の大きさは今のエリスには作れないし、何よりも今回の場合は大きさは小さい方がいい。
後はこれを飛ばすのみ……ふと、エリスの脳裏にある言葉が蘇る。
それは以前、まだハンスが腰を痛める前の話だった。ハンスの教えの下、エリスは精霊術を、的に見立てた木の幹目掛けて風を飛ばし、練習していた。何度目かの風を飛ばした後の、ハンスの言葉。それは叱責ではなく、寧ろ賞賛だった。
『エリスの精霊術は、正確だな』
笑顔で満足気に言うハンスに、エリスは破顔したのを覚えている。もっともっとハンスに褒めて欲しくって、疲弊するのを忘れて飛ばした結果、倒れて丸一日寝込んでしまったのも覚えている。
この魔法は、初歩でしかない。ましてや強力な魔物相手には、目逸らしにすらならない可能性すらある。
だがエリスが使うこの精霊術の神髄は、威力ではない。ハンスも認めた、その正確さ。確実に的に届くよう、確実に当てるよう、エリスは集中力をより高めていく。
そしていざ、飛ばそうとした矢先……エリスの中に不安が生まれる。
もし外してしまったら? もし失敗してしまったら? ……そうなると、もう取り返しがつかない。チャンスは一度きり、さらに言えば賭けに近い。
でも、それでも……エリスは頭(かぶり)を振る。やらなければいけない。今動けるのは、エリスだけ。そしてこの状況を打破できるのも、エリスだけだ。
覚悟を、決めた。
「ユウキさん!」
名を叫び、頭上に掲げた杖を振るう……寸前、左手に持っていた“それ”を、目の前に放り投げ、
「息止めて!!」
真っ直ぐ、魔物の鼻先へ……そして、宙を舞う“それ”が杖の先に触れるギリギリの位置まで落ちてきた瞬間、
「『ウェンディ・ブロウ』!!」
エリスの叫びが引き金となり、風の石が砲弾の如く杖先から飛び出し、“それ”諸共真っ直ぐ飛んでいく。
目に見えない風の石と、“それ”……灰色の玉が、寸分違わず、魔物の前へ……そして魔物の鼻先へ、叩きつけられた。そして、
バフンッ!
そんな音を発しながら、玉が衝撃によって破裂した。
破裂し、飛び出すのは橙色の毒々しい煙。乾燥させた木の実の粉末と花粉を混ぜ合わせた、激臭を放つ煙……マーカスが獣避けとして持ってきたものの、効力が薄れてほとんど使い物にならなかった代物が、魔物と祐樹の間で巻き起こる。
効力は薄れていたとはいえど、臭いは完全には消えていないその煙。玉の状態だと効力は無くとも、直に鼻に入ってしまえば……。
「グ、ウ、ギャアアアアアアアアアッ!?」
魔物とはいえど、見た目は狼。魔物という存在ゆえに効き目があるか疑問があったが、体を仰け反らせて叫ぶ魔物の姿を見る限り、効果は覿面(てきめん)の様子だった。
橙色に染まった鼻を拭いたくとも、両手が使えない。地面に鼻先を擦り付けて拭おうと試みるも、うまくいかない。激臭から息が思うように吸えず、のたうち回るしかできない魔物は、見様によっては哀れで、それでいて滑稽でもあった。
「っ、今!」
勝機と見た祐樹は、鼻を抑えながら立ち上がり、落ちた大剣に駆け寄って拾い上げる。その間にも、魔物は立ち上がることはおろか、苦しみからすら解放されることができていない。
「おおおおおおおおおっ!!」
大剣を手に取った祐樹は、魔物へ向かって走る。柄を握りしめ、剣を掲げ、そして、
「これでっ!!」
剣を振り上げながら、飛び上がる。着地点は、悶え苦しむ魔物。そして剣を振り下ろし先は、魔物の首!
「終わりじゃあああああああっ!!」
真っ直ぐ振り下ろされた剣は、剣の重量と落下する速度を乗せて、魔物の首へ吸い込まれていく。臭いから逃れるのに夢中だった魔物は、それに気付くことができない。
そして、
ザグンッ。
断頭台に上った罪人のように、魔物の首は胴体から離れた。
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