16.魔物
「こいつが魔物……!」
想像以上の凶悪さに、祐樹は戦慄する。
これまで、凶悪犯には何度も立ち向かってきた。殺意を直に浴びて足が竦んでしまったのは、まだ駆け出し刑事だった若い頃。今ならば警戒こそすれ、足が竦むことは無くなった。
だがこれは、その若い頃の恐怖を呼び起こす程の脅威を感じる。純粋なる悪。それが目の前で涎を垂らし、こちらを獲物と認識して睨む。
第一、祐樹が相手取ってきたのは人であって、獣ではない。こういうのは祐樹のいた世界では猟友会に任せるべき案件であって、十分な装備を持たない祐樹が相手にするべき敵ではない。従って、有効な手立てとしては、相手にせずに逃げるのが一番のはず。
はず……ではあるのだが。
「ま、魔物……これが……」
「こ……怖い……」
祐樹の背中で、目の前で殺気を放つ魔物に恐れをなし、震えている二人の子供たち。マーカスは狼とは別格の威圧感を放つ存在に足が震え、そんなマーカスを自身も震えながらも庇うように抱きしめるエリス。
仮に今ここで逃げ出したとしよう。背を向けた瞬間、明らかにこちらに殺意を向けているこの獣が襲わないはずがない。祐樹だけならまだいい。だが、祐樹を仕留めた瞬間、次に狙うのは二人だ。結果的に三人とも全滅する。
ならば、残す手は一つ。
「……ええか、二人とも。今から言うことをよく聞け」
「……?」
祐樹は振り返らず、震える二人に声をかける。そして、祐樹にとって一番有効だと思える考えを告げた。
「ワシが合図出したら、すぐ逃げろ」
囮。この三人の中で戦える祐樹自身が、魔物の注意を引き付ける作戦だった。
「っ!? そ、そんなのって……!」
「ええから聞け。正直な話、お前さんら二人を後ろに庇ったまま、あのデカブツと戦える程ワシは自信家やないねん」
事実、祐樹は人間相手ならばどうにかできるものの、相手は凶悪な獣。関節技に持ち込める人間と違い、攻め方が未知数だ。そんなのを相手取るのに、非戦闘員である二人を守りながら戦うのは無謀に近い。
「せやから、頼む。ワシが時間を稼ぐさかい、その隙にここから離れるんや」
「でも、それならあなたは……!」
エリスが祐樹の身を案じ、叫ぶ。恩人でもあり、またしても自分たちを救おうと脅威に立ち向かう祐樹を置いて逃げ出すなど、エリスにはできない。それに、囮になるということは、自身の命を投げ出すに等しい行為。それをわかっていながら背を向けるなど、できるはずもない。
そんなエリスの不安を拭いさろうと、祐樹は少し振り返り、小さく笑った。
「だーい丈夫やって。ちょっと賭けになるが、ワシには秘策がある。心配すんなや」
そして再び前を向き、魔物と対立する。左手に剣の柄を持ち、気持ち姿勢を前のめりになる形で低くする。血に飢えた獣の殺意が背後の二人に向かないよう、一身に受けるために、視線は真っ直ぐ魔物へ。血のように赤い目を向けられ、恐怖を感じないと言えば嘘になる。
それでも、祐樹は二人が後ろにいる限り、逃げるつもりはない。それに、ここで逃げるか祐樹が敗れた場合、次に狙われるのはエリスとマーカスだ。ならばここで確実に仕留めるか、動けなくさせなくてはならない。
「頼むで。ワシが今って言うた瞬間に逃げるんやぞ?」
「っ……」
暗に『マーカスを頼んだ』という意味を察したエリスは、反論しようにも言葉が詰まる。事実、自分は祐樹にとって足手まといにしかならないと、エリスは痛感している。彼女自身、戦う力は無いわけではない。だが祐樹を支援しようにも、この力はあまりにも非力だった。
ならばこそ、祐樹の言う通りに、マーカスを連れて逃げるしかない。その事に歯がゆい思いはすれど、覆しようのない事実だった。
エリスが葛藤している間に、事態は進む。魔物が唸り声を上げ、じりじりと祐樹と間合いを詰めていく。祐樹は下がりもせず、その場から一歩も動かずにじっと魔物を睨みつけた。
「…………」
「グルル……」
一歩、魔物が前進する。祐樹は動かない。
さらに一歩、魔物が前進する。祐樹はまだ動かない。
もう一歩……草を魔物が踏みしめた。
「今やっ!!」
瞬間、叫ぶ。同時に祐樹が魔物へ、尚も判断に迷っていたエリスは、その声で決断してマーカスの手を引いて後ろへ駆けだした。森へと走るエリスとマーカスを見やることなく、祐樹は雄叫びを上げる。
「おおおおおおおおっ!!」
「ガアアアアアアアッ!!」
剣を手にして突撃する祐樹と、口を開いて牙を剥き出しにして吼える魔物。各々が真正面からぶつかり合うため、駆ける。
魔物の牙が、祐樹の首元に牙を突き立てんと迫る。が、それを防ぐ形で、祐樹は大剣を横にして刃を構えた。
ガギンッ! という、金属同士がぶつかり合ったような音をたてて、牙が大剣の刃に突き立てられた。至近距離で見る限り、金属である剣に噛みついたにも関わらず、魔物の牙は欠けた様子がない。この時点で、魔物の牙の頑強さが伺い知れる。
口の端に刃が触れていないために、魔物にダメージはない。大剣に噛みつく形となった魔物は、刃を噛み砕かんと強靭な顎にさらに力を込め出す。恐らく、木製どころか、鉄製の武器であればあっさりと粉々になりかねない程の恐ろしい力ではあるが、魔物の牙に負けず劣らず頑丈な剣の刃には罅一つ入らない。
そのまま抑え込もうと、魔物は祐樹に向けて両前足に生え揃った、牙同様に鋭い爪をを大剣に乗せ、全体重をかける。祐樹も負けじと、自身の体にかかる負荷に抗うために、全身の筋肉を、とりわけ足と腕の筋肉に力をかけた。
魔物の牙と祐樹の剣の頑丈さ比べともとれるような展開。祐樹は、剣の頑丈さを調べるためにこんな状態になったわけではない。が、この状態は祐樹にとって狙った通りとも言えた。
「そのまま……動くなや……!」
至近距離にいるがゆえに鼻につく、獣臭と血が入り混じった不快な臭いと、押し寄せてきた岩を抑え込むが如く腕と足にかかる尋常ならざる負荷に顔を顰めながら耐えつつ、右手を柄から離して右腰に回す。左手一本に負担がかかり、今にも倒れ込みそうになる。馬乗りにされたら、後はもう喉に牙を突き立てられて一巻の終わりだ。
そうなる寸前、祐樹は素早く懐から“ある物”を抜き放ち、そして、
「くたばれぇぇぇ!!」
叫び、“それ”……すなわち、拳銃の銃口を、魔物の側頭部に突き刺すかのような勢いで押し当て、迷わず引き金を引く!
ガァンッ!!
耳を劈くかのような銃声が森に木霊し、祐樹の右手に衝撃が走る。同時、魔物も頭から横へぶん殴られたかのような衝撃を受け、剣から口を離し、地面に倒れ込んだ。
銃弾はうまい具合に、魔物の脳みそにめり込んだのだろう。小さな銃創から噴き出た血で、側頭部の毛が元々の毛色と相まってどす黒く変色している。倒れ込んだ魔物は泡を吹いてしばらく痙攣を続けているが、しばらくすれば息絶えるのは確実だった。
「ふぅ……ギリギリやったな」
銃口からいまだ紫煙が立ち昇る拳銃を再び懐のホルスターに収める。
取り回し重視の短い銃身から飛び出す弾丸は、人間にとっては致命傷になりうる威力ではあるが、このような強靭な肉体を持つ獣に対しては、祐樹も通用するかどうかは賭けだった。こういう相手ならば、猟師が持つような猟銃といった、威力の高い物が効果的なのはわかってはいるが、警察官である祐樹はそんな物を所持してはいない。今持っている大剣は、魔物に対抗しえる唯一の武器ではあったものの、それは振るえればの話だ。祐樹はいまだこの武器を扱えきれていないため、盾にするか、追い払うために無造作に振るうしかできない。
ならば、対人向けのこの拳銃でも確実に仕留めれるよう、至近距離から急所である頭に弾丸を撃ち込むしか方法がない。そして考え付いたのが、大剣を盾にし、膠着状態からの至近距離射撃だった。
結果は……祐樹の目の前に広がる光景が証明している。あれほど脅威と恐れていた存在は、銃弾一発で呆気なく排除することができた。とはいえ、撃つ瞬間に一瞬、躊躇いが無かったと言えば嘘となる。が、人に仇なす存在を放置すれば被害が拡大するのは目に見えていたがゆえ、祐樹は迷いを捨てて引き金を引いた。
それでも、頭部から流れ出る血によって形成されていく池の中に沈みゆくその姿を見るのは、見ていて気分がいいものではない。
「……許せ、とは言わん。あの世からワシを怨んどけ」
そのような知性があればだが、この手で奪った命に変わりはない。そもそも、殺した相手に謝罪など意味はない。
ならばせめて、怨みでこの世に留まるよりも、この世で生きる人々に害を為さぬよう、あの世から殺した張本人である己を怨めと、祐樹はその思いを込めて両手を合わせ、静かに目を閉じた。
気休めにしかならないし、自己満足でしかないが、手を合わせて安らかにあの世へ行くよう願うのは、日本人の性とも言えた。
「……さて、とにもかくにもっと」
当初の目的は、シロタカ草の採取だ。振り返り、木の根元に生えている白い花を見る。マーカスはエリスに連れられ、村へと帰った。ならば変わりに採取してやれば、マーカスもこの森に入る目的は達成したことになる。
「あー……でもこれ、普通に持って帰ってもええんかな?」
シロタカ草の下に歩み寄り、屈み込んで花を見る。咲き誇る白い花は、見ていて惚れ惚れする程に気高い。ゆえに、これを根っこから引き抜いて、そのまま握りしめて持って帰るとなると、花そのものが萎れてしまうのではないか。結構デリケートな花っぽいし、土ごと植木鉢か何かに入れて持って帰った方がいいのではないだろうか?
そんな感じで、祐樹は持ち帰り方を悩んでいると。
―――っ
「……ん?」
一瞬、妙な感覚を覚えた。
腹の底から響くような威圧感。体に纏わりつくような、得体の知れない不快感。
どこかで、感じたことのある感覚。あれは、どこだったか。確か、エリスと初めて出会った遺跡で……。
「……まさか」
この感覚。遺跡で叩きのめしたカーターたちを連れ去った時に発生した、あの黒い風の時と同じだった。嫌な予感がした祐樹は、すぐさま立ち上がって振り返った。
振り返った先にあるのは、もはや痙攣もしていない、血溜まりの中で躯(むくろ)と成り果てて横たわる魔物の姿。
変化は、ない。触れればまだ温もりは感じられるだろうが、じきに冷たくなっていくであろう死骸があるだけだ。
―――っ
「……っ!」
まただ。魂を鷲掴みにされるような苦しさすら感じさせる、あの威圧感。どこからするのか、誰からするのかすら、定かではない。
はっきりわかることは、今から恐ろしいことが起こる……そう確信させる事態が起ころうとしている事だ。
―――っ
三度目。ともすれば脈動の如く、音にすればズグンっという感じの、重々しい感覚。
そして、変化が起こる。
「んな……っ」
祐樹は驚愕に、目を瞠(みは)る。遺跡で感じた、あのはっきりと視認できる、どす黒い、不快感を催す風。その風が、一本一本帯の如く、森の木々の隙間を縫って四方八方から飛び出してくる。
一本二本どころの話ではない。何十本もの帯状の風が、一か所に向けて集まっていく。
そこにあるのは、魔物……死骸となり、生命の脈動を、一発の銃弾によって止められた者。
無数の風は集まり、渦となり、魔物の死骸を包んでいく。すでに風によって、死骸は目視できない。
何が起こっているのか、祐樹には理解できない。否、これまで超常現象を目の当たりにしたことがない祐樹ですら、これははっきりとわかる。
これは、理解してはいけない。理解しようともしてはいけない……そんな代物だということを。
そんな正気を疑うような光景を目の当たりにして、数秒経った頃か。やがて風は、掃除機のコードが巻き取られていくかのように、死骸に吸い込まれていくかのように消えていく。風が消え、再びその場に静寂が訪れた。
1秒、2秒……祐樹は固唾を飲み、右手に大剣を、左手に拳銃を手にする。この異常とも取れる現象を目の当たりにして、平然とするほど祐樹は楽観的ではなかった。
ドグン。
音が、鳴った。大きく、心臓が脈動を開始したかのような音によって、静寂が破られる。
ドグン。
再び鳴る、脈動の音。それと共に、心なしか死骸が跳ねたような気がした。
ドグン。
……見間違いではなかった。明らかに音と同時に、大きく体が跳ねた。
そして、
ドグンッッ!
一際大きな音が鳴ると、さらなる変化が始まった。
死骸が、膨れていく。風船のように、ではなく、比喩ではなくて四肢の筋肉の容量が明らかに大きく変化していっている。
前足の指が、人間のような五本に。そして前足自体の形状が、人間の腕と同様の、それも筋骨隆々の男の物へと、骨と繊維が変異していく奇妙な音と共に変化していく。
後ろ足もまた同様。こちらは足に変わりはないが、これもまた筋肉質の人間の物へ。
筋肉の変化だけでなく、骨格そのものが変わっていく。肩が、背中が、上半身、下半身が……人間の成長を早送りにして見ているかのような、そんな出鱈目な光景が目の前で起こっていた。
やがて変化は止まった。そこにあるのは、四本足で歩く獣ではない。
丸太の如く太い腕を支えにし、強靭な足で草を踏みしめて立ち上がった狼……で、あった魔物。
祐樹よりも頭一つ分高い巨躯。太い筋肉の手足の先の鋭い爪。黒い体毛に覆われた、鎧と言っても差し支えない胸板。
唯一変わらないのは尻尾と、いまだ銃創のある血まみれの頭部、そして、
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン」
殺意のみならず、怒気をも含ませた鮮血の如く赤い目と、ナイフのような牙。
大きく変化を……この場合、進化と言ってもいい程の姿へと変貌を遂げた魔物は、再び祐樹の前に二本足で立ち、天へ向けて遠吠えをする。
「……差し詰め、狼男ってところか? ……洒落んならんわ、こんなん」
冷静に、というよりも、現実逃避気味に零す祐樹。額からは冷や汗が流れ落ち、どことなく顔色も悪い。
これは、やばい。今まで相手取ってきた相手とは、明らかに違う。
人間でもなく、ましてや動物とも言えない存在……姿形、どれを取っても正真正銘の化け物が、祐樹の前に立ち塞がる。
唖然とする祐樹。だが、今ここは戦場でもある。ここで棒立ちになるのは、明らか命取りだった。
地を蹴り、魔物が駆け出す。距離があるはずの祐樹の位置まで、ほぼ一足飛びに近い速度で迫る。
「っ!?」
棒立ちになっていた祐樹は、体に染みついた自己防衛機能が働いたおかげで正気を取り戻し、咄嗟に大剣を盾に構えた。祐樹の身体能力の高さが活かされ、迫り来る魔物の攻撃を受け止めることに成功する。
「がぁっ!?」
成功はした……が、大剣から伝わる衝撃は想像以上のものだった。
例えるなら、乗用車がアクセルを思い切り踏み込んで突っ込んできたのを受け止めた時のような、下手をすれば即死物の攻撃。それが魔物の、右からの爪によるものだと判断した時、祐樹は吹き飛ばされていた。
地面を転がり、木の幹に背中を打ち付けてどうにか止まる。その際、左手に握っていた拳銃は遠くへ転がっていってしまった。これで武器が一つ、減ってしまうことになる。
「ぐ……ガハッ!」
胃液が上り、口から吐き出す。不快な酸味が口内に広がるも、それを気にしている猶予はないと、ふらつきながらも立ち上がる。
魔物は獲物を、祐樹を甚振ると決めたのか、すぐに追おうともせず、爪と牙をギラつかせながら歩み寄ってくる。その歩み方はまさに人間と同様だった。
突然変異による驚愕と、並の人間ならば死んでもおかしくない衝撃を受けて尚、祐樹は大剣を手に立ち上がる。尋常ならざるタフネスと、鍛え抜かれた体は、こんなことではそう簡単にくたばりはしない。体中を走る痛みはあるが、動けないことはない。
状況は不利。だが、逃げるわけにはいかない。
「上等じゃ……このバケモンが……」
余裕を見せつけるように、口内に残っていた胃液をペッと吐き捨ててから挑発して笑う。といっても、正直余裕はない上、相手に挑発が伝わるかどうかもわからない。
「第2ラウンドの開始じゃ!! いてこましたるわオンドリャァァァァァァァ!!」
「グォォォォォォォォォッ!!」
負けるわけにはいかないと、猛然と駆け出す祐樹。魔物はそれを、両腕の爪をもって迎え撃った。
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