15.シロタカ草



「マーカス君!!」


 灰色の体毛の狼三頭に囲まれ、頭を抱えて震えて座り込むマーカスを目にしたエリスが叫び、走り出そうとする。そんな彼女の横を、疾風の如く駆け出し、誰よりも先にマーカスの下へ向かう影があった。


「だらぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 大剣を大上段から振り下ろしたのは、祐樹。肉厚な刃が、狼のうちの一匹に……正確には、狼の横の地面に向けて叩きつけられた。


 刃の切っ先が地面に埋まり、爆砕したかのように土が舞う。突然の襲撃に驚き、狼達は飛び退いた。


 その瞬間に、祐樹はマーカスのすぐ前で立ち塞がることができるようになり、マーカスを背に、祐樹は三匹の狼と対峙した。


 大きさは子供以上。野犬と違い、逞しい筋肉と獰猛な顔立ち。血走った目と唸る口の端から流れ落ちる唾液は空腹であることを暗に示し、今すぐにでも柔らかい肉を欲しているのがわかる。


 そんな狼と対峙し、大剣を片手に切っ先を向けながら構える。突然の乱入者に、三匹とも最初こそ戸惑っていた様子だったが、すぐに祐樹を新たな獲物として認識し、唸りながら一歩、また一歩と距離を詰める。


「おうおう、そうや。こっち見ぃやこの犬っころども。ちっこいガキよりも、こっちの方がでかくて食い応えがあるでぇ?」


 ニヤリと、不敵に笑う。物怖じする事もなく、狼の注目を自身に集めるため、殺気を漲らせながら大剣を握る手に力を込める。


 ジリジリと祐樹に迫っていた狼のうち一匹が、足を曲げて力を入れる。そしていざ、祐樹の喉元目掛けて飛び掛かろうとした。


「ふん!!」


 直前、地面に大剣の刃が半ばまで突き刺さる。渾身の力を込めて突き立てられ、土と石が飛び散る。驚き、飛び掛かろうとしていた狼は、前へ向けていた力を変換して、その場から離れた。


「つっても、ただで食われるつもりもないがなぁっ!!」


 大剣を地面に突き刺した祐樹が、犬歯を見せつけるかのように叫び、狼を威圧する。その顔はまさに憤怒に狂った鬼が如く、鋭い眼光はさながら矢の如く狼たちを射抜く。


 人のような知性がないはずの狼たちは、野生的本能から先ほどまで侮っていた獲物を“敵”と認識した。


 牙を見せつけて唸り、威嚇するだけで、大抵の人間は恐れるか、警戒するかして、後ろへ下がる物だ。


 だが、目の前に立つこの人間は……下がらない。すぐ背後にいる小さく震える弱小な人間を守るように、自身の体を盾にして対峙するこの人間は、まさしく狼たちにとって敵であり、壁だった。


 このままでは、食われるのは自分達だ……本能がそう叫ぶ。


 ならば、どうするか。答えは……。


「あ、逃げた……」


 その場で反転し、逃走。マーカスの下へどうやって向かおうか右往左往していたエリスは、狼が森の暗闇の中へと姿を消していくのを見て、ポツリと呟いた。


「……ワシ、狼にまでビビられる程の顔なんか……?」


 狼たちが逃げる姿を見て、悲し気に言う祐樹。


 子供達がいる手前、狼達を殺すよりも追い払うつもりで地面を抉るように切りつけたが、最悪子供たちに危害が及んだ場合は、互いに流血覚悟で挑む覚悟ではいた。自身の独善よりも、子供の命の方が遥かに大事だ。


 のだが……まさか大声で吼えて睨んだだけで、背中を向けて逃げるとは。しかも肉食獣の中でも代表格でもある野生の狼が。


 そう思うと、何だか……状況としては喜ばしいはずなのに、凹(へこ)んだ。


「……ま、まぁ、ええわそんなこと。うん、どうでもええわ……」


 自身に何度も言い聞かせ、祐樹はどうにか立ち直る。顔が怖いのは今更だし、それより大事なことがある。


 大剣を地面に突き刺したまま、祐樹は後ろで震えていたマーカスに振り返る。座り込みながら祐樹の背中を呆然と見ていたマーカスは、祐樹に見られてビクリと震えた。


「マーカス君!」


 そんなマーカスに、エリスは駆け寄る。エリスの姿を見て、恐怖に慄いていたマーカスは驚愕した。


「エリス……姉ちゃん?」

「怪我はない!? 大丈夫!?」


 屈み込んで優しくマーカスの両肩に手を置き、涙混じりに怪我の有無を確認するエリス。マーカスもまた、エリスが目の前にいる事実に戸惑っていたものの、強張っていた表情が和らいでいくのが見て取れた。


「うん……大丈夫、だよ」

「よかった……よかったぁ……!」


 安堵から声が震え、思わずマーカスを抱きしめるエリス。マーカスはと言うと、エリスに突然抱きしめられて顔を真っ赤にしつつ、あまりに強く抱きしめるものだから、「苦しいよ姉ちゃん……」とか細い声で抗議をしていた。


 傍から見ると、とても微笑ましい光景だ。だが、場所が場所。いつまた獰猛な肉食動物が襲い掛かってくるかもわからないこの状況の中、のんびりとしているわけにもいかない。


「あー……マーカス君? やな?」


 エリスの抱擁から解放されたのを見計らって、マーカスに話しかける祐樹。出来るだけ警戒させないようにするために膝を着いて目線をマーカスに合わせた。


優しい声色で話したつもりだが、マーカスはエリスの背後に隠れ、怯えた視線を祐樹に送る。初対面だし、このような反応が返って来るのはわかっていた祐樹は、気にせず続ける。


「大丈夫。おっちゃんはお前さんのご両親に頼まれて姉ちゃんと一緒にお前さんを探しに来た者で、大久間祐樹っちゅーもんや」


そう話す祐樹をすぐには信じようとせずに、警戒心を剥き出しにするマーカス。そんな彼の頭を、エリスはそっと撫でた。


「大丈夫。この人は本当に味方だから……」


 エリスが優しく語り掛けたのが功を制したのか、いまだ怪訝な顔で祐樹を見るマーカスだったが、おずおずとエリスの背後から出てくることができた。


 やはり、自身が心許している人間の太鼓判があると無いとでは違う。そういう意味では、彼女と共にここに来たのは正解だったかもしれない。無論、危険な場所に連れてきてしまったという負い目はあるにはあるが。


「……ホントに、父ちゃんと母ちゃんが?」

「ああ、証明する物は持っとらんけど、姉ちゃんが証人になってくれる。だから信じて欲しい」

「…………」


 マーカスは、エリスと祐樹を交互に見てから、小さく頷いた。


 かろうじてだが、どうにか信用はしてもらえたようだった。それに安堵し、祐樹は続ける。


「ともかく、ここは危ない。今すぐ帰るで? ご両親が心配しとる」


 目的の人物であるマーカスを見つけ出すことができたし、日も大分傾いてきている。運よく今まで魔物に遭遇することもなく、このまま行けば暗くなる前に村へ戻ることが可能なはず。それに、いつまた狼に遭遇するかもわからない以上、ここにいつまでも留まっているのは危険すぎた。


 どうにかこのまま、言うことを聞いて欲しい……祐樹はそう願う。


「…………嫌だ」


 ……が、祐樹の願いを裏切るかのように、マーカスは首を振って拒否した。


「ちょ、おい……!?」

「嫌だ、帰らない」


 驚く祐樹に、再び声を大にして言い返すマーカス。その口調はハッキリしており、意地でもこの場から離れないことを暗に示していた。


「……なぁ、坊や。お前さんは知らんと思うけど、今この森には魔物っちゅー奴がうろついとんねん。せやから早(はよ)ぅにここから出ないと危険なんや。わかるか?」


 予想外の拒否に一瞬慌てるも、ここにいる危険性を出来るだけ優しく説く。祐樹自身は、魔物に出会ったことがないゆえにその危険性を完全に把握しているわけではない。しかし、村人と村長であるメイスの慌てぶりから、魔物という存在は非常に危険であり、先ほどの狼とは格が違うということはハッキリとわかる。そんな所に子供が一人など、恰好の的でしかない。


 魔物というワードを聞いて驚き、一瞬恐れの顔が見えた。だが、


「……それでも……帰らない」


 それでも、頑なに首を振った。


「坊や……」


 さすがの祐樹も、頭を掻いて苛立つ。が、何故ここまで帰るのを拒むのか、冷静な部分が疑問を問う。


 魔物と聞いた時、一瞬見えた恐怖の顔。魔物なんて怖くないという強がりから来る拒否ではないことを、祐樹は確信する。


 ならば、彼が危険を冒してまで訪れ、そして危険性を説いてもここに留まる確固たる理由がある……そういうことになる。


「……マーカス君? どうしてそんなにまで……」


 それはエリスも思ったのだろう。エリスからすれば、マーカスは大人に内緒でこの森に訪れるという好奇心の強い部分もあるが、基本的には大人しく、そして物事を冷静に見ることができる聡明さを持った少年だ。この森に入る時だって、危険な目に合わないよう入念に準備を行い、リスクを極力減らす事を第一に動く用心深さもある。それに、彼なりにこの危険な森に入る理由を持ち、意味もない冒険は決してしない。少なくとも、付き合いの長いエリスはそう思っていた。


 その彼を、何がここに縫い留めるのか。それを知るべく、エリスはマーカスと視線を合わせて問いただす。


 エリスに問われ、マーカスは帽子を深く被って顔を隠す。エリスには、彼が照れるか、或いはばつが悪い顔を隠す際、この仕草をするということを知っていた。


「……花」

「え?」


 ポツリ、小さく呟く。聞き逃し、エリスはもう一度聞く。


「花を……シロタカ草の花を、採りに来たんだ」


 シロタカ草……祐樹には聞きなれない名前を呟いたマーカスに、エリスはギョっとする。


「し、シロタカ草って……そんな物が、この森に生えてるの?」


 俄かには信じられないと、エリスは言う。だがマーカスは、確信を持っているかのように、力強く頷いた。


「……なぁ、シロタカ草って何なんや?」


 一人、理解できずに置いてけぼりをくらう祐樹。そんな祐樹に、エリスは膝を着いたまま、説明をする。


「シロタカ草というのは、一種の薬草なんです。万能薬の材料にもなるんですけど、あれは特殊な環境下でしか生えない物なんです」

「特殊な環境ってのは?」

「えぇっと……確か精霊の力が強い地域、だったかと。でも、この辺りにそんな場所はないから、自生することはないはずなんですけど……」


 精霊の力……詳細はわからないが、ようは水や空気が綺麗な場所にしか生えない植物と同じような物かと、祐樹は憶測する。


「……なるほど、珍しい花ちゅーのはようわかった。で、それを坊やは探しに来たっちゅーわけやな?」


 エリスの説明を聞き、祐樹はマーカスがここに来た理由がそれだということがわかった。同時に、説明を聞く限り、その草が芽吹く時期は今ではないということも。


「う、うん……」

「でも、今の時期にそんな草が生えているなんて……」


 薬剤師であるハンスから、過去に様々な薬草について教えられてきたエリスならばわかる。シロタカ草は、太陽の光を浴び、そして精霊の力が満ちた場所にだけ生える。その精霊の力が満ちた場所というのは、世界各地を探しても簡単には見つからない、いわゆる秘境といった場所にある物であると、エリスは教わった。


 そんな場所が……シロタカ草が生えるような場所がこの森にあるとは、到底思えなかったが……。


「……実は……知ってるんだ。シロタカ草が生えている、場所」


 ハッキリと、マーカスは確信を持って言った。


「場所って……」

「僕だけが知ってる、秘密の場所。そこに生えてるんだ……シロタカ草」

「……あぁ、なるほど」


 マーカスの話を聞いていた祐樹は、彼がここに留まろうとしている原因が理解できた。


「お前さん、母ちゃんのためにここに来たんちゃうんか?」

「……っ」


 図星。何故わかったのかと、祐樹を見るマーカスの目が語る。


「お前さんの母ちゃん、出ていく前に少しフラついとったんや。父ちゃんの方は杖は着いてはおったけど、病気にかかっている風には見えんかったしな。その草が万能薬の材料になるって聞いた時、もしやとは思ったが」

「……そうなの? マーカス君」

「…………」


 確認するために問うエリス。しばらく黙っていたマーカスだったが、やがて静かに頷いた。


「母ちゃん……最近、体調よくないみたいなんだ。けど、母ちゃんは村にある診療所に行く気がないみたいだし、母ちゃんも『大丈夫』って言ってばっかりで……」

「……それで草を?」

「うん……どんな病気かは僕もよくわからないんだ。でも、もう放っておけなくって……」


 なるほどと、祐樹は思う。体調が思わしくない母親のために、幼い少年が自分にできることを探した結果が、今彼がここにいる理由ということだった。


 聞くだけなら美談になる。だが、幼い子供がこんな危険地帯に、何度も訪れているとはいえども、たった一人で訪れていいという理由には到底なりえない。


「あんなぁ坊や……お前さんが母ちゃんを心配する気持ちはわかるし、そのために薬草を探そうとしたのは立派やと思う」


 だからこそ、伝える。彼がしようとしている事が、いかに危険で、愚かなのか。相手が子供だからこそ、言わなければいけなかった。


「……けどな。それでお前さんが危険な目に合っとったら意味ないやろが。ご両親、お前さんのこと心配して顔面蒼白んなっとったぞ? お前の友達でもあるエリス姉ちゃんも気が気でなかったんやぞ?」

「で、でも……」


 言い返そうとするマーカスだったが、祐樹は言わせずと続ける。


「でも、やない。現にさっきどうなっとった? ワシらが後少しでも遅れとったら、お前さん、今頃は狼の腹ん中やったんやぞ?」

「っ……!」


 祐樹たちが間に合ったから、マーカスは助かった。逆に言えば、間に合わなかったら、マーカスは取り囲んでいた狼に食われ、幼い命を散らしていただろう。


 そんな“もしも”を想像してしまい、マーカスは震える。後一歩遅ければ死んでいたことに、言われてようやく気付いた。


「好奇心が強いのが悪いなんてことは言わん。けどな、自分の行動で誰かが悲しむことになるっちゅーことを覚えとかなあかんぞ……ええな?」

「……はい」


 横で静かに、祐樹の話を聞いていたエリスにも心配かけていたことに気付いたマーカスは、項垂れつつも返事をする。


「よし、ええ子じゃ。帰ったら父ちゃん母ちゃんに謝るんやで」


 真剣な面持ちから一転して破顔し、帽子の上からマーカスの頭を少し乱暴気味に撫でた。


 元々優しい性格をしているマーカスにとって、誰かが自分のせいで悲しむということが耐えられない。今回、危ない目に合って初めてそれを実感して、祐樹の言う事を素直に聞くことができた。


 帽子越しから感じる、父親とは違う力強い感触に戸惑いつつも、先ほどまで叱られて胸の奥に感じていたモヤモヤが霧散するのを感じるマーカス。しばらくし、撫でるのをやめた祐樹は、頭上を見上げた。


「ふむ……まだ時間はありそうやな」


 密集された木々の枝葉の隙間から、かろうじて見える太陽。完全に日が落ちるまでは、位置的に見てまだ時間がある。


「坊や、その草が生えてるとこまでは後どんくらいや?」

「え……えっと、ここから少し歩いたところ」


 突然問われて一瞬慌てるも、マーカスは答えた。


「……しゃーない。案内してくれんか? とっとと取りに行くで」


 帰るのではなく、先に進む発言の祐樹に、マーカスだけでなくエリスも驚く。


「え……帰らないんですか!?」

「まぁ、確かに帰った方が安全なんやが……それで坊やは納得するか?」


 問われ、すぐにマーカスは首を横へ振った。その反応は早く、祐樹に言われても尚、意思は固かった。


 呆れつつ、祐樹はため息を吐いた。祐樹の言う事に理解は示してはくれたようだが、やはり事は簡単にはいかないようだった。


「あの通りや。今後は大丈夫やとは信じたいんやけど、憂いは断っといた方がええやろ。それに、仮に坊やに代わってワシが草を取りに行ってる間にお前さんと坊やを先に帰らせたとして、や。途中で魔物が出てこんとも限らん。魔物のことはワシもようわからんが、この中でそいつに対処できるとしたらワシや。そんなら、ワシらが一緒におった方がまだ安全やろ」


 過信かもしれないが、この中で戦えるとしたら祐樹しかいない。子供たちだけを先に帰らせて、万が一襲われでもしたら、もうどうしようもなくなってしまう。


 無論、一番ベストなのは三人揃ってこのまま帰ることだが、思った以上にマーカスは頑固らしい。尚も先に進もうとする意思に、祐樹は半ば根負けしていた。


「坊やもそれでええな?」

「……うん。僕のせいで、ごめんなさい……」

「全くやで。帰ったら飯でも食わしてくれな割に合わんわ」


 言葉とは裏腹に、少年のような笑顔を見せる祐樹。それにつられ、緊張が解れたのか、マーカスも少しだけ笑う。


 対し、エリスはまだ不安だった。このまま先に進んで、また狼に出くわしでもしたら……そう思うと、足が震える。


 だが、エリス一人で村まで帰る度胸もない。それに、祐樹とマーカス二人を森に残して、一人だけ逃げ帰るなど、エリスの良心が許さない。


「……あの」

「うん?」


 だから、せめて。


「……危なくなったら、帰りましょうね?」


 三人とも、ケガのないようにと願うしかない。


「おう、もちろんや」


 笑顔で返す祐樹に、エリスの中にある恐怖心は幾分か和らいだのだった。







 マーカスを加え、三人となった一行は、案内役のマーカスのすぐ横を祐樹、そして後ろをエリスと続き、森の道なき道を歩いて行く。


 一見すると、道がないようにしか見えない木々の間を縫うように歩いているが、マーカス曰く、木の生え方には規則性があるらしく、マーカスは死者の森へ続く道のりの途中に生えていた木と同様に、特徴的な木に紐を結んだりして目印にしていた。


もっとも、祐樹からすれば特徴的な木と言われても、どれも同じにしか見えなかったが。規則性があると言われてもピンとこないし。


「しっかしまぁ、その年でホンマ博識やなぁ坊や」


 素人ならばすぐに迷ってしまいかねない森の中を、庭のように歩くマーカス。エリスよりも幼いはずの少年の大人顔負けの知識に、祐樹は脱帽する。祐樹の賞賛にマーカスは深く被った帽子を掴んでより深く被って表情を隠すも、赤くなった耳は隠せず、照れ隠しであることがはっきりとわかる。


「別に……大したことじゃないよ。僕よりも、ハンスじいちゃんの方がすごいんだ」

「え、ハンス?」

「っ……」


 予想外の人物の名前が挙がり、祐樹は驚く。その後ろで、エリスは肩を震わせた。


「うん。僕に文字を教えてくれたのは母ちゃんだけど、木とか植物とか、いろいろ教えてくれたのはハンスじいちゃんなんだ。植物学の本とかも、僕に譲ってくれたりして……毎日暇な時とかに読んだりしてたんだ」

「ほぉん……」


 先ほどまで奥手でたど語るマーカスの瞳は輝いていて、心の底からハンスのことを尊敬しているのがわかる。祐樹はハンスの人となりはほとんど知らないが、エリス含めて幼い子供には本当に優しかったのだろう。


「……おじいちゃん……」


 ……だからこそ、余計につらいということが、後ろを歩くエリスの悲壮に満ちた呟きから感じ取れる。今まで気にしないよう振る舞ってきたのに、マーカスの話で再びこみ上げてきたようだった。


「と……ところでやな! 坊やはこんな危ない森に丸腰で来てるんか? さっきの狼の件もあるし、何も対策とかそんな準備はせんといっつも森に入ったりしとるん?」


 少々強引であっても、祐樹は話題を別の物へと切り替えた。


 エリスの精神的なこともある。だが、マーカスの口ぶりからして、彼はハンスの死を知らないようだった。知ってしまえば呆然自失となってしまう可能性があり、今この状況で動けなくなってしまうのは危険すぎる。マーカスの死を悟られないためにも、今はこの話題はやめておいた方がいいだろうと祐樹は判断した。


「う、ううん……いつもは、ちゃんと対策はしてるんだけど……」


 打って変わり、沈んだ声となったマーカスは懐からある物を取り出した。


「……何や? これ」


 それは、掌サイズの灰色の丸い物体だった。祐樹がそれを手に取ってみると、表面の粗い布のようで、中に砂のような物が詰め込まれているかのような感触がする。


 少し、顔を近づけて臭いを嗅いでみる。汗とも違う、かといって食物のような物とも違う、形容しがたい刺激臭が鼻をついた。


「うぉ、臭っ!」

「これ、シゲの実の粉末とクサミの花粉を混ぜ合わせた、狼避けの袋。これ一つあれば、狼とかの猛獣は寄ってこないんだ」

「あ、おじいちゃんもそれ、作ったことあります……ただ、私は臭いが苦手で、それを持ったことはなかったです」


 シゲの実やらクサミやらは聞き覚えはないが、どうも天然物だけで作った獣避けの道具らしい。確かに、この臭いは獣どころか、人も近寄り難い物がある。


「いつもは新しく作った物を持ってここに来るんだけど……間違えて古い方を持って来ちゃって。新しい物だと、僕の周辺まで臭いが漂うから、狼は近づけないはずなんだ」

「なるほど。今持ってるこれは、鼻を近づけないと臭いがせぇへん程度の効果しか発揮できへんっちゅうことか」


 臭いの弱まった袋では、鼻の利く狼といえど効果は薄かったらしい。そこを狙われ、マーカスは襲われたということらしい。今回は使い物にならなかったとはいえど、この小さな袋一つで身を守ってきたのかと思うと、無謀と呆れればいいのか、それとも袋の効果のすごさに驚けばいいのか、祐樹にはわからなかった。


「まぁ、過信のしすぎには気を付けんとな」

「……うん」


 かと言って、道具に頼りすぎて、いざという時になるととんでもないことになりかねないのは事実。実際、マーカスは道具を過信してこの森に入ってしまい、結果として命の危機に瀕してしまった。


 あのまま、祐樹が割って入るのが遅れていたら、マーカスは狼の餌食となっていただろう。そう考えるとゾッとする。間に合ってよかったと、本当に思う。


(……にしても……)


 ただ、気になることもある。


 祐樹がマーカスの悲鳴を聞いた時。そして、狼たちの前に飛び出す瞬間。前者は風に乗った音を耳が広い、後者は何も考えずにただ飛び出した。


 それだけならば特に疑問に思うことはないのだが……祐樹は疑問に思う。


(ワシ、あんな耳よかったか?)


 祐樹が音を拾った地点と、マーカスが襲われていた地点までは、それなりに距離があった。マーカスの声が大きかったのと、風下に立っていたということが合わさった結果とも言えるが、祐樹の耳にはそれほど距離が離れていないと錯覚するほど、はっきりと音を拾えた。


 祐樹自身、若くはない。年と共に聴力は衰えていく物だが、まだまだ現役の祐樹の耳は難聴とは程遠く、若い刑事に負ける気はしない。しかし、それでもやはり若い頃に比べると、幾分か衰えている。それは祐樹自身がよくわかっている。


なのに、遠くから聞こえてきた悲鳴を、祐樹の耳は拾い上げた。まるで若い頃に戻ったかのような……ひょっとすると若い頃よりもはっきりと。


(それに、何か……飛び出す瞬間、妙に体が軽くなったようにも感じたな)


 そして、狼たちの前に躍り出た時。無我夢中で飛び出した瞬間、体が一瞬だけフワっと軽くなった感覚を覚えた。元々身体能力は高い方だと自負してはいるが、それにしては奇妙な感覚だった。必死すぎて脳内でアドレナリンが分泌されたのだろうか?


 自身の身に、何かが起きている。祐樹は漠然とだが、そう考える。結果としては喜ぶべきなのだろうが、自身の身に起きた説明できない現象に、祐樹は戸惑わざるをえなかった。


「あ……ここだよ」


 思考するのに没頭していた祐樹は、マーカスの声で意識を思考から切り離す。そして藪を跨ぐマーカスの後を追うと、そこには“この森”に似つかわしくない光景が広がっていた。


「おおぅ……こいつは……」

「すごい……」


 祐樹に続き、エリスも感嘆のため息をつく。


 張り巡らされたかのように広がる、鬱蒼と生い茂った木の葉の天井。それが唯一覆っていない空間が、そこには広がっていた。


 木々が生えていない広場。子供が駆け回るのに十分な広さを持つ円形の空間の頭上からは日差しが差し込み、木の葉が反射して煌めきを放ち、さながら自然に囲まれた舞台のよう。薄暗い森の中にいるとは思えない程の別次元の空間とも言えるような光景だった。


「ここ、この森の中で唯一木が密集してない場所……シロタカ草は、精霊様の恩恵と太陽の光が十分に満ちてる場所にだけ生えるんだ」


 そう言って、マーカスは広場の奥を指さした。広場と森のちょうど境目の所に聳え立つ、一本の木。周辺の木々と大きな変化はない、何の変哲もない木。注目すべきは木そのものではなく、木の根元にあった。


 太陽光を浴びて煌めく、白い剣のような大きな花弁が特徴の花。細長い茎と、両腕を広げているかのような大きな葉が自己主張している。それが幾つも、まるで木に寄り添うかのように生え、時々吹く風に揺らめいていた。


「あれが?」

「あ、あれです。本に描いてあった絵にそっくりです……まさか、こんなところに生えているなんて……」


 エリスとしても予想外だったらしい。まさか危険地帯とは言えど、身近な森にこんな貴重な花が咲いているとは夢にも思っていなかったようだった。


 太陽の光と、精霊様の恩恵とやらのおかげだろうか。何にせよ、目当ての物はすぐに見つけれたようで、祐樹はホッとする。


「とりあえず、さっさと回収して戻るとするか」


 祐樹が先頭を歩き、その後をマーカスが、この光景に見惚れていたエリスが気付いて慌てて後に続く。


「……しっかしまぁ、気味の悪い森の中にこんな場所があるとはなぁ」


 陽光に照らされ、草を踏みしめつつ歩く祐樹は、この異質な空間を見回しながら呟く。


 不自然な程に木々が密集していない空間。中央に進むごとに、暗い森の中で若干鬱屈した気持ちになりかけていた胸の内が洗われていくかのような感覚。なんとも不思議な場所だった。


「シロタカ草が生えているってことは、やっぱり精霊様の恩恵がこの辺りにだけ充満してるんだよ。だからここだけ明るいんだ」

「……ちょっと聞きたいねんけど、何なんや? その、精霊? 様の恩恵って奴は?」


 この世界に来て、どうも聞きなれないワードをいくつか聞いてきた。精霊術やら魔物やら、そして今では精霊様の恩恵。せめて一つくらいは把握してスッキリしておきたかった。


 聞かれたマーカスは、少しだけ唸って考える。そして、首を振った。


「ごめんなさい、僕も精霊様の恩恵については……多分、母ちゃんでもわかんないと思う。ハンスじいちゃんから教わったから、じいちゃんなら色々知ってると思うけど……」

「……そうかい」


 そのハンスじいちゃんはもう、この世にはいない。別にマーカスを悪く思うつもりは毛頭ないが、何も知れずに少し落胆する。


 まぁ、また追々知っていけばいい。今はとりあえず、目的の物を手に入れて村まで帰るのが先決だ。祐樹は頭の中でそう言い聞かせ、後少しでシロタカ草の生えてる箇所にまで着くという地点まで来た。


 ふと、その足が止まった。


「あの……何か?」

「どうしたの?」

「…………」


 突然立ち止まった祐樹に、怪訝な顔を向けるエリスとマーカス。二人の声に応えず、祐樹は沈黙する。


 一瞬……一瞬、違和感を覚えた。それは目ではなく、耳。何故か研ぎ澄まされている聴覚が、不自然な音を捉えた。


 祐樹は視覚を遮断し、全神経を耳に集中させる。より鮮明に聞こえてくるのは、周囲からの鳥の囀り、風に吹かれて木の葉が擦れ合う音。


 その中に混じり、草を踏みしめ、あるいは搔き分けていくかのような音。


 祐樹とエリス、マーカスは立ち止まっている。ゆえに、音をたてているのは三人のうち誰でもない。では、何の音か?


 音が、近づく。それも、徐々にという速度ではない。


 真っ直ぐ、こちらへ。祐樹の直感が、警鐘を鳴らす。


「っ! 下がれぇ!!」


 目をクワッと開き、叫ぶ。驚く二人を両腕で庇うようにし、祐樹は背後へ飛び退いた。


 そして……音の正体が、草むらを掻き分けるかのように飛び出し、現れた。


「グルルルルルゥ……!」


 祐樹たちの目の前……ちょうどシロタカ草との間に入るかのようにして現れたのは、一匹の狼。


 だが、その狼は先ほどマーカスを襲っていた三匹とは大きく……もとい、比べるのもおこがましい程に違っていた。


 全長が2m近くある大きな体格。夜をそのまま浮き出したかのような漆黒と呼べる程の黒い体毛に覆われていてもわかる、鍛えられた肉体。目の前に立つ三人の人間を映している血の如く真っ赤な目は殺意を湛え、獰猛に唸る口元からはナイフの如く鋭利な牙。その隙間からは、熱く、粘性のある唾液がぼとぼと流れ落ちていく。


 まるで、おあずけを食らった犬のように。


「あ……あ……」


 いきなり現れた、凶暴を形にしたかのような存在に恐れ慄くエリスとマーカス。祐樹に守られる形でそれを目の当たりにしたエリスは、青ざめた顔で呟いた。


「ま……魔物……!」


 魔物……祐樹が恐れていた事態が今、目の前で起こっていた。



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