10.初めての朝餉


 エリスが離れでハンスの隠された手紙を見つけ、読んでいる頃。祐樹はというと、


「ぐぬぬぬぬぬぬ」


 唸っていた。


 というより目の前の食物を見て耐えていた。


 何に耐えているかというと、食欲に耐えていた。


 己の本能に耐えていた。


 でもぶっちゃけ限界だった。


「ぐおおおおおおおお……!」


 板張りの床の上で正座して、極力テーブルの上に置かれているパンやら野菜やらを視界に入れないように目を逸らしつつ、ついでに一瞬でも負けそうになると太腿をつねって痛みで誤魔化していた。これをかれこれ数十分繰り返している。


 祐樹は、見た目相応に大喰らいだ。さすがに学生時代、学生向けの激安食堂でどんぶり飯三杯おかわりしていたような胃袋ではなくなってはいるが、『体の資本は食事から』をモットーにしているため、体を動かした分、消費したカロリーの分を食べるのが毎日の基本だった。


 それが、この世界に迷い込んできてからまともに物を食べていない。食べた物といえば、コンビニのおにぎりと飴玉くらい。到底、満足できるような量ではないのは明らか。


 正直に言うと、昨晩のあの死闘の際も空腹で限界に近かったが、黒装束の男たちに対する怒りと自身の中にある正義感が、飢餓による苦しみを遥かに上回ったため、その時は何も感じなかった。さらに言うと、身内を亡くした少女に対し、食料を要求するという無神経さは併せ持っていなかったため、結局飴玉一個を舐めて就寝した。


 そして今。目の前にはこれ見よがしに色とりどりの食べ物がドンと置かれている。脳がそれを認識した途端、胃袋から再び悲鳴が轟きはじめ、口の中で唾液が分泌されて口の端から流れ落ちんばかりに溢れ出ようとしている。


 再び襲い掛かってきた空腹との戦い。


 本能は叫ぶ。『喰らえ! 全てを!!』と。


 理性は叫ぶ。『抗え! 最後まで!!』と。


 荒れ果てた大地。轟く雷鳴。そんな中で設置されたリング内において血で血を洗う壮絶な死闘を繰り広げる己と己。


 本能が、理性が、今、祐樹の中でぶつかり合う。どちらかが倒れるまで!!


 単に食べたい欲求と食べたらいけないという我慢の境界を行ったり来たりしているだけなのだが、祐樹の脳内ではバトル漫画さながらの展開が繰り広げられていた。無駄に想像力が高い。


(せやけど、正直もう限界やねんなぁ……)


 ちょうど理性が本能に投げっぱなしジャーマンスープレックスをかけてレフェリー(どっから出てきた)がカウントを取ろうとしたところ、祐樹はぼんやりと思う。やはり、空腹には抗えないのが人の性というもの。飴玉で誤魔化してきたが、それももう限界だ。


 そしてとうとう、祐樹の中にある悪魔(本能)が甘い言葉を囁いた。


「……一個だけ……一個だけなら……」


 一個だけ。嗚呼、なんたる甘い響き。


 一個だけという、微々たる差。一個だけならバレないだろうという、つまみ食い常習犯の子供が思いつくような、甘い、それでいて恐ろしい言葉だ。


 そこを、祐樹の中にある天使(理性)が止める。


「……いやいや、あかんあかん。警察官としてそれはあかん……!」


 よりにもよって人様の物を、一個だけとはいえど盗み食いをするなどあり得ない。警察官として、窃盗と同様とも言えるその甘言を弾き飛ばす。警察官なら課長にどやされるようなことをするなよという冷静な祐樹がいたが、その祐樹は火炎放射器で消毒した。


 いや、しかし、でも、だが、それでも。


 頭の中をぐるぐる回る、肯定、否定、肯定、否定。


 その間……完全に無意識のうち、飢餓がコントロールする祐樹の体が、立ち上がり、ゆっくりと、テーブルに近づく。そして、これまたゆっくり、本当にゆっくりと、祐樹の右手がテーブルの上に置かれたパンに伸びていく。


 10センチ、8センチと、近づく手。その間にも、祐樹の頭の中では悪魔の翼を生やした本能と天使の翼を生やした理性が互いにルール完全無視のデスマッチを繰り広げ、本能が倒れ込んだ理性にパイプ椅子を叩きつけようとしているところをレフェリー(だからどっから出てきた)が慌てて止めようとしていた。


 そして今、その指先がパンに触れようとした。


「おはよう……ございます」


 シュバッ。


 扉が開く音、少女ことエリスの朝の挨拶が聞こえ、祐樹は音速もかくやと言わんばかりの速度で素早くテーブルから離れた。誰もが見惚れる目にもとまらぬ動き。課長に対して培われた、刑事課の面々が誰もが感嘆する動きだった。尚、この動きは誰も真似できないっていうか真似したくないことで有名である。


「お、おはようさ、ございます」


 ピシッと直立不動の祐樹を見て、エリスは首を傾げた。


「……あの、どうしてそんな姿勢正しく立っているんですか?」

「いや、何もないで? ただ真っ直ぐ立ちたいという衝動に駆られただけやねん」


 意味のわからない衝動である。


「は、はぁ……」


 対し、祐樹の言っている意味がよくわからないためあまり考えないことにしたエリスは、とりあえず納得することにして、後ろ手で扉を閉めた。


「……」

「……」

「……」

「……」

「……えぇっと」


 無言。互いにその場から動かず、視線を合わせようにも少し合ったら目を逸らす。


 祐樹は、エリスに何という言葉をかければわからずに。エリスは、祐樹という人間性を測りかねているため、僅かながらに警戒心を抱いていた。


「……」

「……」

「……あ、あの」

「は、はい」


 重苦しい空気を破ったのは、エリス。おずおずと口を開くエリスに、祐樹は思わず敬語で返した。


「お腹……すいてませんか?」

「あ」


 エリスの問いに、祐樹は思い出す。先ほどまで、理性と本能のデスマッチを繰り広げていたが、エリスが家に入ってきて一時中断していたのを。


「その……よかったら朝食、召し上がりませんか?」

「……」


 正直、文字通り背中と腹の皮がくっつきかねない程に飢えている。しかし、祐樹の中の日本人としての遠慮がちな性(さが)というものが、即答するのを躊躇わせた。


 故に、「どうぞお構いなく」と返そうとした。


 グゥゥゥ。


 ……音がした。発生源は祐樹の腹だった。


「……」

「……は、はは」


 再び気まずい空気に。違うことと言えば、年下の少女に腹の虫の声を聞かれて、誤魔化すように祐樹が頭を掻きながら笑っているという点か。心なしか気恥ずかしさから頬が赤いようにも見える。


「……すんません、お願いします」

「は……はい」


 何と言えばいいのかわからず、エリスは頭を下げてお願いする祐樹にそう応えるしかなかった。同時に、祐樹は自身の我儘な胃袋に悪態をつきたい気持ちになった。


 尚、余談ではあるが、祐樹の中の理性と本能はレフェリーの仲介によって互いに手を取り合い、和解した。


 結局このレフェリーはどっから出てきたのか、祐樹本人にもわからない。








「はい、どうぞ」

「お、おおき……ありがとう」


 テーブルに着き、目の前に置かれた朝食が置かれ、いつもの関西弁で礼を言おうとしたが、馴染みのない人からすればどういう意味かわからないかもしれないと思い、言い直した。


 日本の物とは形が違う石のかまどの上に置かれていた鍋から木の器に注がれた野菜スープと、先ほど祐樹がつまみ食いしかけた丸いパン。それが朝食の献立だった。立ち昇る湯気と共に漂う、ブイヨンと野菜の芳しい香り。否が応にも期待が高まり、祐樹の胃袋も早く寄越せと催促をしているかのようだった。


 エリスも自身の前にスープとパンを置き、祐樹と向き合う形で席に着く。そして一心地ついてから、手を組んで目を閉じた。祐樹もまた、両手を合わせる。


「えっと……4の」

「いただきます」

「え?」

「へ?」


 いつもならハンスが行う祈りの言葉をエリスが捧げようとしたと同時、祐樹が遮るかのように放った言葉にエリスが驚き、祐樹は戸惑う。


「え、どないしたん? 何か気に障るようなこと言うたか?」


 何か悪いことをしたのかと思い、エリスに聞く。エリスは慌てて、手を振った。


「い、いえ! その、祈りの言葉を、その……」

「祈り? ……あ」


 言われ、祐樹は気付く。食事する前に言う言葉は国や文化によって変わることを失念していた。


「あ、ああ、すまん。これはワシが住んどるところの習慣でな。紛らわしいことしてもうたな」

「あ、い、いいえ……」


 聞きなれない言葉に戸惑いはしたが、気を取り直してエリスは再び手を組んだ。


 厳かな雰囲気のエリスに、祐樹も倣って手を組んで祈ってみる。食物に対して感謝はすれど、神に感謝したことはなかったなぁと思いつつ、エリスの祈りの言葉を聞く。


「……4の精霊を生みし大いなる神よ、あなたからの恵みに感謝を……」

(……神、なぁ)


 神。そのワードが唯一の手がかり。目の前の少女にそれを聞くのが一番手っ取り早いが、今は食事に集中するのが先だった。もう空腹が限界を通り越している。


 祈りが終わり、少女が木製のスプーンを手に取るのを見て、祐樹も同じスプーンを持ってスープを掬い、口に運んだ。


 僅かな食感を残す程度に柔らかく煮込まれたニンジンや玉ねぎの甘み、それとベーコンのようなハムのような、とりあえず燻製肉であることには間違いない肉の旨みが口内に広がり、具材の味が溶け込んだスープと共に飲み込むと胃の中がじんわり暖かくなっていくのを感じる。


(美味い……見た目通りの美味さやな)


 空腹を差っ引いてもわかる美味いスープを何度も掬い、口に入れては味わい、飲み込むを繰り返す。所々でパンを浸して食べるのも忘れず、祐樹は飢えを満たすために集中する。対面に座るエリスもまた、ゆっくりとではあるが食事を進めて行く。


 静かな。本当に静かな空間。ただ木製の食器と食器が触れ合う音と、咀嚼音がするだけで、会話という物は無かった。


(……飯は美味いのはホンマにありがたいことではあるんやけども……)


 チラリと、祐樹はエリスを見る。スープを掬っては飲み、掬っては飲むを繰り返す。見た感じ、どうも味わっているようには見えない。憔悴した表情に、本来ならば綺麗なはずのサファイアブルーの瞳も虚ろで、心ここにあらず、といった印象だった。


(やっぱ、つらいんやろうな)


 本来ならば、対面に座っていたのは祐樹ではなく、同居人であるはずの老人だったはず。どういう生活をしていたのかはわからないが、互いに信頼し、毎日が楽しかったのだろう。それは目の前で打ちひしがれている少女の様子を見てわかる。


 それが昨晩、突然奪われた。前触れもなく、唐突に。悪意ある者たちの手によって家族を殺されたその絶望感は計り知れない。


 本来ならば部屋から出てきたくなくなってもおかしくないが、それでもこうやって部屋から出て来れたのは、彼女の芯が強いからか、何かしなければ余計つらくなるからか。その真意は定かではない。


 思わず、スプーンを持つ手に力が入る。再び蘇ってくる、理不尽から来る怒り、何もできなかった自分に対する情けなさ。


 彼女の絶望を理解する身として、その感情の強さは人並み以上だった。


「……その」

「……?」


 しばらく無言だった二人だったが、祐樹が口を開いて均衡が崩れた。


「おじいさんの事は……申し訳ない。ワシがもっと、早ぅに駆け付けとったら、こんなことには……」


 口から出るのは、謝罪。やはりあそこでもっと早くに駆け付けていればと、どうしても思ってしまう。


 あの遺跡で、二人が危機に陥っているなどと、当時の祐樹は思いもしなかった。故に事前に危機を察知することは不可能だった。


 しかし、それでも、“もし”というものを考えてしまう。遺跡から出て、自責の念に駆られていた時と同じ事を考える。


 そんな祐樹に、エリスはしばし黙り込んでいたが、小さく首を振った。


「……あなたは、何も悪くありません。おじいちゃんが死んだのは、あの人たちのせいです……あなたに感謝こそすれど、責めるなんて絶対にしません」


 小さく、悲壮が込められた声だった。しかし、言葉通り、祐樹を責める感情は全くエリスの中からは出ては来なかった。


 祐樹があそこで介入しなければ、エリスとハンスは無慈悲にも凶刃の餌食となっていただろう。結果としてエリスは一人残された事になるが、ハンスのことを考えると、エリスまで死ぬのはきっと望んでいないと思っている。


 あの恐ろしい集団からエリス達を救わんと、自身も傷を負いながらも必死に立ち向かい、死の淵から救い出してくれたばかりか、全く無関係であるはずのハンスの死を悼み、悲しむエリスを気遣う目の前の男性を、どうして憎めようか。ただ、ハンス以外の男性とこうやってまともに会話したことすらなかったエリスにとって、いまだどう接したらよいかわからないエリスは、自然と身構えてしまう。それは、男性に対する免疫がないエリスにとっては致し方ないことだった。


「だから、謝らないでください。おじいちゃんも、きっとそう言うに決まってます」

「……そう、か」


 小さくため息をつく祐樹。声を荒げて責めない少女が、祐樹には自分の中に暗い気持ちを押し込めているようにしか見えなかった。


(それでも、押し込めようとするだけの意思の強さを持っとるっちゅうことか)


 その感情が怒りや憎しみかはわからない。だが、その気持ちを吐き出して人に当たろうとしない、その心根の優しさが少女から感じられた。


 同時に、危うさも感じる。その押し込めた感情が、どこかで爆発しないとも限らない。その爆発が、他人だけでなく、自身をも傷つけてしまうこともありえる。


(……まぁ、それを今どうこう考えたところでどうしようもない、か)


 本当ならば、気の利いた言葉一つ投げかけてやりたいというのが本音だ。だが、下手な同情は余計な確執を生みかねないことを知っている祐樹は、この話はここで終えることにした。


「でも、寝床だけやのぉて飯まで世話んなって、ホンマ助かるで……えっと」


 お礼を言おうとして、途中で口ごもる。今更だが、祐樹は彼女の名前を知らないことに気付き、エリスもまた同じく、互いに名乗っていないことに気付いた。


「わ、私は、ピエリスティア、と申します」


 初対面ゆえに自身の愛称ではなく、本名を名乗るエリス。祐樹も倣い、自己紹介する。


「すまん。ワシも名乗ってなかったわ。大久間祐樹。よろしゅう」

「オオ、クマ?」


 聞きなれない、独特の響きをしている祐樹の名前に、エリスは復唱しつつ首を僅かに傾げた。


「あぁ、祐樹が名前で、大久間が苗字や。呼びやすい方で呼んでくれ」

「……ミョウジ?」

「あぁっと、その、せやから……」

「ご、ごめんなさい、世間知らずで……」

「いやこっちこそすまん。説明下手で……」

「……」

「……」


 再び無言。噛み合わない二人。


「……え、えっと、じゃあユウキ様、とお呼びしてもいいでしょうか?」

「いや様はやめてくれへん? かなりむず痒い」

「でも……初めて会って、それも恩人でもある方に呼び捨ては……」

「ぬぅ……」


 まぁ、初対面でいきなり呼び捨てにするというのはやはり抵抗があるのかもしれない。けれども、やはり様付けで呼ばれるのは柄じゃないというのが祐樹の正直な気持ちではある。


「……じゃあ、さん付けで勘弁してくれへん? そっちの方がこっちとしても気が楽でええし、呼び捨てにもならへんやろ?」

「……そう、ですね。わかりました」

「じゃあ、こっちはピエ、リ、スティア? さんって呼ばせてもろてもええか?」

「は、はい、ユウキ、さん」


 聞きなれない、言い慣れない名前を互いに呼び合い、どうにか名乗り終えることができた二人。その光景は、さながら義理の親子がぎこちないながらも初めて食卓を囲んでいるかのようでもあった。




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