第2章 二人の手

9.手紙


『気持ちいい』



 意味としては、快適がいい、心地いいといった、安穏とした心が表す言葉。



 溜まっていた鬱憤が晴れた時や、性的快感を得た時にも、同様の言葉が使われる。



 今感じている、この場合は……体温によって暖かくなった、柔らかい布団に包まっている時のような。



 疲れた体から疲労が抜けていくような。



 そして……どこか、フワフワと体が浮いているような。



 このフワフワに、どこまでも身を任せていたい。そう思えてしまう程の気持ちよさ。



 ゆえに、抵抗はしない。何もしない。何もできない。



 どこまでも、どこまでも……柔らかな闇に、意識を閉ざしていく……。





「大久間ぁぁぁ!! お前仕事中になぁに寝てやがんだぁぁぁぁぁぁ!!!」

「あばっぷ!!」


 突然の怒鳴り声が鼓膜から脳を揺るがし、唐突に意識が浮上する。


 変な奇声を上げて体を起こせば、見慣れた風景。年季の入った壁や天井。目の前には安っぽいスチールデスクと、その上に乗ったデスクトップパソコン。パソコンの隣には、ファイルや資料などが山積みとなっており、今にも崩れそうになっていた。


 見回せば、先輩、後輩、同僚が、皆して気まずそうに苦笑していた。


「へ……はれ? ワシは何を……」


 口から涎が垂れていることに気付き、手の甲でぬぐい取りながらぼんやりとした頭で考える。


 確か、さっきまで悪人たちと死闘を繰り広げて、ケガで老人が亡くなり、その後はでかい月と小さい月が一緒に浮かんでる夜空を見上げて……。


「ほぉぉぅ……どうやらまぁぁぁだ寝ぼけてるみてぇだなぁ……」

「……え゛」


 頭上から聞こえてくる、地獄の底から出しているかのような聞き覚えのある声。ギクリと、嫌な予感がした祐樹は、ギギギギギとぎこちなく見上げてみた。


 祐樹が働く尭宮警察署の刑事課のボスが、ものすごい笑顔で、祐樹の真横に立っていた。


 あとこめかみにめっちゃ血管浮いてた。はちきれそうな程だった。


「あ……あはは~、おはようございます、課長」

「おうおはよう。ところで、永遠に二度寝する気はないか? ん?」

「すんません目ぇ覚めました許してつかぁさい」


 暗に『ぶち殺すぞテメェ』と言われて回転椅子の上でキレイに土下座した。誰が見ても惚れ惚れする程のキレイなフォームをしていた。でかい図体の癖してバランス悪い椅子の上で土下座するという器用な真似を見て、誰も彼もが見惚れるついでに絶対真似したくねぇなと思っていた。


「ちょぉぉぉっと目ぇ離した隙に居眠りとはなぁ。いい度胸だ。給料の命が惜しくないと見える」

「ノオオオオオオオオオオン!! 惜しいです! 惜しすぎます!! 惜しすぎて涙が出そうっすわ!!」


 出そうとか言いながらちょっと出ていた。


「惜しいと思うんなら、居眠りすんじゃねぇ!! 仕事しろぉ!!」

「はいぃぃぃぃぃぃ!!」


 怒鳴り散らし、祐樹に背を向けてこの場を後にする課長。去り際もぶつくさと「ったくいい年して問題児が」という捨て台詞も忘れない。


「いやぁ先輩でもやっぱ課長相手になると弱いっすねぇ」

「……い、言い返せへんからやめてくれや……」


 心底疲れたと言わんばかりに机に上半身を乗せるように項垂れる祐樹の隣で、苦笑する北本が言った。


 課長の説教という名の怒鳴り声が骨身に沁みている一方、祐樹はどこかホッとしていた。


(あぁ、やっぱ夢やったんやなぁ)


 今いるここは、祐樹の職場、尭宮署の刑事課だ。


 交通事故による爆発含め、あの殺人鬼との死闘も、老人の死も、少女の嘆きも、そして大きい月と小さい月が夜空に浮かんでいた光景も、全て夢だったということだ。爆発の衝撃で地球とは違う別の世界に迷い込むなど、どう考えても非現実的としか思えない。世の中、何が起こるかわからないとは言えど、世界を文字通り超えるなど、到底ありえないのだ。


 しかしながら、仕事中に寝るなど、今までの自分ではありえなかったのだが。疲れがたまっているのだろうか?


「……まぁ、ええか。とりあえず仕事せな」


 起き上がり、事務仕事も立派な刑事の仕事であると心機一転。ファイルを手に取り、目を通そうとした。

 ふと、横で北本が真剣な表情で祐樹と同型のパソコンの画面を見つめているのが目に入る。


(ほぉ、えらい真剣やな)


 それを見て、祐樹は感心すると同時、自身を恥じた。最近まで新人特有の青臭さが抜けていなかった彼が、熱心に仕事をしている。それに対し、キャリアのある自分が居眠りをした挙句に、署長にどやされるという体たらく。これでは情けなさ過ぎて先輩としての威厳がないなと、内心苦笑した。


(しっかし、どんな仕事しとるんや?)


 気になり、資料を読む振りをしながら、北本のパソコン画面を覗き込んだ。


 見えた単語は、『異世界迷い込み』『魔法』『美少女』等々……。


「って、仕事やないんかい!!」

「うおわぁ、びっくりした!?」


 前言撤回。北本は仕事せずにネット小説を読んでいた。感心した自分がバカだった。


「お前、居眠りしとったワシが言えるような立場やないけどなぁ……」

「い、いやいや。これあれっスよ。休憩っスよ休憩。ちょっと心の安寧を取り戻そうとですね」

「なぁにが安寧やアホゥ」


 呆れつつ、祐樹はパソコン画面を見る。細かい内容はよくわからないが、あらすじを読む限り、剣と魔法が出てくるような、いわゆるファンタジー系の物だというのがわかる。


「何やお前、こういう系の話が好きなんかいな」

「ええ、これ結構おもしろいっスよ。先輩は興味ないんスか?」

「ファンタジーなぁ……ワシゃ『腕輪物語』とか『ホリー・パッター』くらいしか読んだことないのぉ。どうもこの年になると肌に合わんっちゅーか……」


 それも読んだのは学生時代が最後。今じゃもっぱら時代物や刑事物、サスペンス物といった小説しか読まない。後者にいたっては、警察官になって間もない時期に読みはしたが、シリーズ物であるにも関わらずに、一、二巻を読んで終わってしまった。


「そうなんスか? でもこういうのも読んでみたらハマるっスよ! 剣と魔法の世界とか、憧れません? 俺、いっぺん行ってみたいんスよねぇ」


 興奮冷めやらぬ北本。だが祐樹はため息一つ、窘めるように言う。


「あのなぁ北本……ワシらは警察官やろが。異世界だの伊勢丹(いせたん)だのどーでもええけど、今いる世界で頑張れやって話や。そもそも別の世界なんて、あるかもわからんっちゅーのに」


 そもそも、着の身着のまま別の世界―――自分たちのいる世界の常識が通用しない世界に放り込まれたら、どうやって生きていけばいいというのだ。生活環境が変わるどころの話ではないというのに、憧れるという奴の気が知れない。それが祐樹の本音だ。


 というよりそれ以前に、そんな別の世界があるかなど、誰がわかるというのか。確かに、何故か夢の中では祐樹は別の世界に迷い込んではいたが、所詮夢は夢だ。実際に行ったわけではない。


(……まぁ、でも夢見るくらいやったらええかな)


 夢の中で異世界へ行った自分の事を棚上げして、北本を説教するのはお門違いだろう。それに現実逃避したいというより、単に憧れているだけらしいし。


 それに、そういう世界がある方がロマンがあるというのは、祐樹もよくわかる。古代人が作った遺跡やら、巨大ロボットやら。少年が好きそうな物や、冒険心をくすぐられる物は、祐樹だって大好きだ。


 なのに『夢を見るな』というのは、北本にとっても、祐樹にとっても酷だ。ゆえに、やんわりと言い直そうと、祐樹は言葉を探した。


 北本はそんな祐樹をきょとんとした目で見た。


「え? 先輩何言ってんスか」

「はぁ? どういうこっちゃ」


 心底わからないといった様子の北本に、祐樹は聞き返した。


 そして、北本は告げた。




「先輩、今異世界にいるじゃないっスか」




「……へ?」


 パチリ。目を開く音が鳴ったような気がした。


 視界に最初に飛び込んできたのは、馴染みのない木の天井。薄暗い部屋の中に差し込む光。その正体は、窓から入り込んでくる、朝の日差しだった。


 聴覚が捉えたのは、外から聞こえる朝を告げる小鳥の囀り。軽やかな鳴き声が、聴く者の心を癒す。


 上体を起こし、改めて見回す。6畳程の広さしかない部屋に、一人分程の小さなベッドが二つと木製箪笥が一つ、ベッドとベッドの間には引き出しつきの小さなエンドテーブル一つと、質素と言えば質素な部屋模様。


 そして祐樹が寝ているのは、二つあるうちの一つのベッドの上。小さいからか、それとも単に祐樹の図体がでかかったからか、足が若干はみ出ていたのはご愛敬。体にかけていたのは白くて薄いシーツ。スプリングといった物は無く、手で押した感触だと、干し草のような物が使われているようだった。あまり慣れない感触だったが、思いのほか寝心地は悪くなかった。


 祐樹は、自分の体を見てみる。寝間着がなく、現状肌着とズボンを着ているだけ。カッターシャツと愛用のコート、そしてスーツの上着は畳まれた状態で、エンドテーブルの上に、携帯等の備品と共に置かれていた。


 それらを見て、祐樹は頬を摩る。そこは、昨晩の死闘でついた傷があった場所。今はポケットに入っていた一枚だけあった絆創膏を貼ってある。


 そして頬に触れたまま数秒間そのままじっとして、記憶を呼び覚まして……ゆっくりと、頭を抱えた。


「こっちが現実かい……」


 ここは昨晩、あの男たちからどうにか救出した少女の家。行くあてもなく、途方にくれていたところ、少女の厚意で貸してくれた寝室。


 夢だと思っていたのが現実で、現実だと思っていたのが夢だったとは。できれば反対であって欲しかったところだが、眠りから完全に覚醒した今となっては、もはや疑う余地はない。


 まさか……まさか、あり得ないと思っていた出来事が自分の身に降りかかるなど、誰が予想しようか。ロマンがあった方がおもしろいとは思ってはいたが、こんな展開は正直自分には荷が重すぎた。


 とりあえず、ベッドから足を下ろす。足元には祐樹の黒い革靴が揃えて置かれていた。


「はぁ……まさか、こんな事になるとは……」


 頭を掻き、呟く。森の中で倒れていた時は、単純にここは日本のどこかだと思っていた。最悪、外国のどこかとも考えていたが。


 だが、結果は最悪を通り越した物。まさか自身が今いる場所が、地球のどこでもない、未知な世界だという事が、昨晩の夜空を見上げて判明した。


 それ以前に、ここが地球とは違うということを、説明……というより、気付かせてくれた存在がいたにはいたが……。


「……あの声も、今は聞こえんしなぁ」


 チラと、部屋の出口に目をやる。壁に立てかけられている、エメラルドの如く緑色の光沢を放つ大剣。改めて見てみても、シンプルながら惚れ惚れする造形だ。売れば高く値がつくだろう。それほどまでに芸術的だ。


 これが祐樹の愛用していた、警棒の変わり果てた姿であるという事に、誰も気付きはしない程に。


(っていうか見る影もないわな)


 以前使っていた警棒とは長さはもちろん、色合いから何から何まで違う。


 鈍色に輝く傷だらけのシャフト部分はエメラルドグリーンの殺傷力の高い直剣に、使い続けて若干すり減っていた黒い持ち手部分は真新しい金色の柄に。


 質量保存の法則など何もあった物じゃない。どこをどうしたら、懐に収まる程度の大きさだったあの警棒が、身長が180以上ある祐樹の肩程もあるこんな大きな剣に変わるというのだ。


 それが可能なのは、恐らく……信じられないし、実感なんてまだ無い。けれども、そうとしか考えられない。


「……魔法、なぁ」


 あの遺跡で戦った、カーターという男。あの男は、どこからともなく、爆炎と炎を弾丸のように撃ち出してきた。


 最初は、爆弾か何かかと思っていた。その後は、手品か、突飛な考えではあるが、超能力のような物かとも思っていた。


 だが、過去にファンタジー物を読み、そして夢の中で北本が言っていた言葉を借りるならば、考えられる力は一つ。


 魔法。この世界は、典型的な剣と魔法のファンタジー世界。


 そう考えれば、あの炎の攻撃も、そして祐樹の警棒が変化したのも頷ける……本当に信じられないが。実際に目にしている以上、信じるべきなのだが、やはりまだ脳が完全には受け入れていないようだった。あんなバズーカ砲みたいな攻撃を、何もない空間から撃ち出すなんて、すぐには信じられないのだ。


 それよりも、今は最も重要な事。この大剣を手に入れる直前、脳に響くような声が聞こえてきた。森の中で目覚めた直後は思い出せなかったが、昨晩急に思い出すことができた。


 あの声は間違いない。暗い空間を漂っていた祐樹をこの世界に誘った声の持ち主。子供特有の高い声をした少女のような声だった。


 警棒が大剣に変わった時に聞こえた声が消える直前、彼……この際、彼女という事にする。彼女は名乗っていた。


 確か……。


「しる、うぇ……あかん、中途半端にしか思い出せへん……」


 何せ英語というか横文字という物を覚えにくいことに定評がある祐樹。トムとかジェリーならわかるのだが、独特なニュアンスというか何というか、少し長い外国人名となると、一回聞いただけでは覚えにくかった。


 しかし、名前以外にもこうも言っていた。


 『また話そう、オオクマユウキ』と。


 つまりは、またいずれは話す機会が訪れるということになる。その時が来るのを待つしかない。


「……ってか、ワシって名乗ってなかったんやけどな」


 そこのところの疑問も答えてもらうのはついでとして、彼女があの暗い空間の中で言っていた事を問いただす必要がある。


 神に会いに行く。それが、祐樹が元の世界に帰るための唯一の方法。


 言葉のニュアンス的に、紙でもなければ髪でもなく、人類が畏れ敬う存在の神であることは確かだろう。何にせよ、帰る手がかりにしては壮大というか、意味不明というか。


(っていうか、神様とかに会えるんやったら敬虔なキリスト教徒とか失禁もんやろ……)


 異世界に続き、神に会うというこれまたありえないような話に、祐樹は眩暈がしそうになった。正直、鵜呑みにするのもどうかと思う程の荒唐無稽な話である。


 しかも、だ。一口に神と言っても、祐樹の世界で例えるなら、キリスト教やイスラム教、ちょっと違うかもしれないが仏教等々、多くの宗教、すなわち神が存在している。この世界の神はどうか知らないが、多神教だとすれば、例えどのような手段で会えるとしてもどの神に頼ればいいというのか。


 元の世界に帰るには、どうやら相当な労力が必要になりそうだ。祐樹は力なく頭を垂れた。


「……何にせよ、ここでボーッとしてるわけにはいかんはなぁ……」


 動かなければ、帰れない。だが神というのが何なのか、さっぱりわからない。


 わからなければ、調べればいい。調べるには、話を聞くことか、資料を探す等をして情報を集めなければいけない。


 ようは、足だ。現場捜査の基本も足。犯人を追いかける時も足。そして今回は、帰るための情報収集するための足。


 わからないからと、この先どうしようとうじうじ考えるのは性に合わない。ならば帰るためにはどうすればいいのか見つけるために足を動かした方がいいに決まっている。


「……よし」


 呟き、靴を履いて立ち上がる。そして窓の所へ行き、両開きの窓を開け、蝶番の音を軋ませながら開いた。


 目に飛び込んでくる、朝日の眩しい光。見れば、遠く見える青々とした山間の向こうから、明るい太陽が顔を覗かせていた。この点は、祐樹が元いた世界と何ら変わらない、美しい光景だ。さすがに太陽は二つもなかったようで、正直祐樹はホッとしていた。


 朝日が、祐樹と、周辺の木々を照らす。そんな中、祐樹は今後のことを考えていた。


(情報収集っつったら、やっぱ人がぎょーさんおるところやろ)


 幸い、どういう原理かはわからないが、あの大剣を手に入れた瞬間、言葉がわかるようになった。意思疎通そのものは問題ないはず。


 差し当たって当面の目標は、当分は暮らすこととなるこの世界の文明に関する情報収集。それから、元の世界へ帰還するための神が何なのか知るため、宗教に関する話を集める。


 そしてそれ以前として、路銀や食料も必要となる。十中八九、というよりも確実に日本円は使えないだろう。その辺りもどうするべきか、考えねばならない。


 先の見えない話だが、やるしかない。


「……でも、その前に……やな」


 頭を掻き、視線を家の中……正確には、空いているもう一つのベッドに目を向けた。


 この家の住人の少女が、本来眠るであろう場所。そこには少女の姿はなく、今も離れの小屋にいるのだと気づく。


「やっぱなぁ……一晩やそこらで落ち着きはせんか」


 ここは本来ならば、この家の住人である老人と、あの少女が使うべき寝室なのだ。異邦人である自分が使うべく部屋じゃないはず。


 だが、住人の一人である老人は、昨晩死んだ。その死体は、少女と共にとある場所へ……少女曰く、二人の思い出の場所に埋め、埋葬した。


 その時、少女と祐樹は終始無言だったのを覚えている。会って間もないというのもあるかもしれないが、何とも言えない、重苦しい空気。何かを話そうとするのも憚られるような雰囲気だった。


 無理もない。目の前で家族を、それも悪意を持って殺されたのだ。その衝撃は計り知れない。増してや、まだ子供というような年頃の少女が、それを受け入れるというのも酷な話だ。


 そんな心境であるはずの少女がようやく口を開いたのは、老人を埋葬した後。か細く、今にも消え入りそうな声で、祐樹に言った。


『行くあてがないのなら……せめてものお礼に……私たちの家の寝室を……使ってください。多分、おじいちゃんも……それを、望んでると思います……』


 最初は断ろうと思った。二人の思い出が詰まっているであろう家に、助けたとは言えど見ず知らずの人間を泊めてもいいものだろうかという疑問から来る遠慮だった。元々、慣れないながらも野宿をしようと考えていたところというのもあった。


 だが、絶望し、前髪から覗き見える泣き腫らした上に光が無い目をしながらそう言われてしまえば、祐樹も断りづらかった。何より、ここまで憔悴してしまった少女を見てしまうと、昨日今日知り合ったばかりの他人と言えども、放っておくのは祐樹の良心が咎める。何ができるかわからないが、できるだけ近くにいた方がいいかもしれない。


 仕方なく了承した祐樹だったが、少女はその後、家の離れである小屋へと閉じこもってしまった。一人になりたかったのか、あるいはこんなオッサンと一つ屋根の下で眠ることに拒否反応が出たのかはわからない。今の少女の心理状況を鑑みて、そっとしておくことを祐樹は選択した。懸念すべきは、離れにも寝床があるかどうかだが、わざわざ確認しにいくのも憚られた。


 過去に、事件の被害者遺族の人間には何人にも会ってきた。形は違えど、誰も彼もが、大切な人間を亡くし、絶望し、悲しみに暮れていた。その光景が、今も鮮烈に蘇る。


「……警察ってのも、難儀な職業やで……」


 結局、警察が動くのは事件が起こってからだ。その時にはもう、誰かが傷つき、誰かが死んでいる。事件を未然に防ぐことが警察の仕事でもあるはずなのに、それが出来ていないのが何よりも悔しかった。


 遺族の怒りの矛先が、警察に向くことだって珍しくない。感情を吐き出すべき場所がない以上、それを黙って受け止めざるを得ない。祐樹もまた、そんな遺族の感情をぶつけられてきた人間だった。


「……いっそ、助けるのがもう少し早ければって責めてくれた方がええねんけどなぁ」


 そうすれば、彼女の心の重しも少しは楽になるだろう。そのためならば、何度ぶつけられても問題なんてなかった。


 それが、祐樹の自分勝手な自己満足であったとしても。これ以上、誰かが嘆き悲しむのを見るのはごめんだった。



 何故ならば、自身もまた『同じ立ち位置にいた人間』であったのだから。



「はぁ……あかん。朝っぱらからめっちゃブルーな気分や」


 ため息一つ。朝から憂鬱な気分のままでいるのは、精神的によくない。祐樹は気分を入れ替え、寝室から出る。


 薄暗い室内。木のテーブルの上に乗っているのは、大きな革の袋。中には幾つかの食べ物や雑貨のような道具が入っているようだった。その隣には、先端に緑色に輝く宝石が埋め込まれた、美しい銀の短杖が置かれている。


「あの子のやろか……?」


 この家の中で、唯一高価に見える杖。言ってはあれだが、この家では一際異彩を放っている。


 が、今は最も祐樹の視線を捉えて離さない物があった。


「…………」


 無言。その視線の先には、革の袋に詰め込まれたパンや果物といった、何てことのない、よくある食べ物。しかし、昨晩から歩きっぱなしだった上に、胃に収めた物もコンビニおにぎり一個。飴玉もあるにはあるが、腹の足しになんてなるはずもなく。


 そんな腹事情を抱えたまま、目の前に鎮座している食料。それが何だかやたらと輝いているように見える。


 無論、そんなのは明らかに目の錯覚。しかし、それを視認した瞬間、


 ぐぅ。


「……ジュル」


 腹が鳴ると同時に口の端から涎が出た。


「はっ! あかんあかん!」


 頭を振り、邪念を払う。いくら空腹とは言え、他人の家。しかも善意で泊めてくれたのに、そんな信頼を裏切るようなことはできない。


 第一、自分は警察官だ。日本の安全を守るはずの警察官が犯罪に走るなど、警察官失格どころか、人間失格だ。


 にも関わらず、視線は真っ直ぐ、テーブルの上に……。


「ぬぐぅ……」


 うめき声を上げ、祐樹はフラフラとテーブルに近づいていった。








 沈んでいた意識が浮上するかのように、エリスは目を開く。寝ぼけた眼に映る世界は、暗闇。一晩中明かりを灯していた光源である蝋燭が尽き、光が一切ない、しかし日が昇ったため、完全な闇ではなく、薄暗いという程度の小屋の中。そんな中で、エリスは体を起こした。


 いつもハンスが使っていた、作業机。椅子に座り、腕を組んで伏せていたまま眠りに落ちたらしく、体中が軋むように痛む。


(あれ……私……)


 何でここにいるのか、最初わからなかった。いつもの寝室で、ハンスとエリス、それぞれのベッドで眠りにつくというのに。そもそもここは、ハンスの作業所なのに、どうしてここで眠っていたのか。


 視線を机に移すと、エリスが伏せていた箇所に黒ずみができていた。水がしみ込むとできるような黒ずみだ。


 ハンスが薬をこぼしてできた黒ずみかとも思ったが、触れてみるとまだ湿り気がある。眠りながら涎を垂らしてしまったのかと、エリスは一瞬焦ったが、ふと気付く。


 目が、何だか腫れぼったい。何故だろうか。目元をさすってみると、どうやら泣いた後らしい。


「え……」


 何で泣いていたのか。一瞬わからなかったエリスは混乱し……徐々に、記憶が霧が晴れていくかの如く蘇る。


 夕刻、家に帰ったら、黒ずくめの男たちがハンスを捕えていて。


 ハンスとエリスを連れたって、見たことのない大木まで連れていかれて。


 その中で不思議な水晶を見つけて。


 それから、ハンスが……ハンスが、男たちに躍りかかって。


 血が。


 血。


「っ!!」


 記憶の中のハンスから吹き出た血が、エリスの脳内を赤で埋め尽くした。


 椅子を蹴って立ち上がるもよろめき、棚にぶつかる。棚の中の薬瓶がぶつかり合う音をたてたが、奇跡的にも棚から転がり落ちることはなかった。


「はぁ……はぁ……!」


 そんなことに安堵することなく、エリスはずり落ちるように尻もちをつく。呼吸が乱れ、目が開かれる。


 一晩のうちに起きた恐怖。ハンスが切られ、エリス自身もまた殺されかけるという、あまりにも衝撃的な一連の出来事だった。


 だが、何よりも。何よりもエリスの心を激しく揺さぶり、絶望を与えたのは。


 誰よりも大切な、育ての親であるハンスの死。ハンスを看取り、埋葬したエリスは、脇目も振らずに離れの小屋に閉じこもり、そして机に突っ伏して、泣き続けた。


 それが、最後の記憶だった。今に至り、ハンスが死んだことを思い出してしまった。


「おじい……ちゃん……」


 ハンスの名を呼ぶエリス。応えてくれる人間は、もうすでにこの世にはいない。


 以前から感じていた不安が、現実となった。それを改めて思い知り、エリスの瞳からはまた涙が流れだす。


 一晩のうちに、多くの涙を流した。にも関わらず、止まらない。涙が、溢れて止まらない。


「おじいちゃん……」


 座り込んだまま、緩慢な動きで膝を抱え、その間に顔を埋める。薄暗い小屋の中。世界に一人だけ取り残されたかのような孤独を感じ、啜り泣く。


 胸の内にぽっかりと開いた穴が開いたかのような空虚感。今までは、この家で一緒に共に生きてきた肉親に等しい人物であったはずのハンス。そのハンスがいない今、エリスは正真正銘、天涯孤独となってしまった。


「これから……どうしたらいいの……?」


 エリスは、一人で生きていく術を知らない。無論、家事はできるし、裏に畑もあるから、食料には困らない。生活するための費用だって、まだある。


 だがそれもいずれ尽きる。畑の野菜も、毎日収穫できるわけではないし、生きていく上に必要な金の稼ぎ方も、エリスは知らない。狩りの方法だって、エリスはわからない。


 ハンスは薬剤師だ。薬の作り方は、ハンスから教わっていた。何度か自身が作ったことのある薬もある。だが売り物にするにはまだまだ未熟だった。


 勉強するしかない。ハンスの作業机に並んでいる、薬剤師のための数々の専門書。難しい用語がたくさん並べられているであろうその専門書を読んで勉強し、生活するための薬を作るしか、生活していくための方法がなかった。だがそれだって何年もかけて知識を蓄えなければならない。師であるハンスもこの世にはいない。今すぐは無理だ。


 エリスは実感する。自分は、ハンスに甘えていたという事実に。一人じゃ何もできない、ただの小娘だった。


「うぅ……」


 ハンスがいない悲しみ。先の見えない未来。頼るべき存在がいない現実に、エリスは圧し潰されそうだった。


 体全体が、虚脱感に苛まれていく。エリスはただ、胸の内から広がっていく虚ろな気持ちに身を任せ、膝を抱えたままの体勢で横へと倒れ込んだ。


 木の床を軋ませ、暗い室内に横たわる。ぼんやりとした視線の先には、幾つもの薬が置かれた棚。4段まであるその棚には、ハンスが作った薬が入れられた小瓶が幾つも並べられている。綺麗好きだったハンスによって、この小屋には埃一つ舞い上がることなく、そして棚に並べられた薬瓶にも埃が全く積もっていない。


 そんな清潔な瓶の中でも、一番下の棚の目立たない位置に置いてある小さな小瓶。その小瓶には、見覚えがあった。


(私の、最初に作った薬だ……)


 エリスの脳裏に浮かぶ、ハンスとの日々。エリスがまだ今より幼い頃、ハンスが薬を作っている所を、内容がよくわかっていないながらも、楽しそうに見ていた。目を輝かせるエリスを、ハンスは作業をする手を止めないまま笑っていたのを覚えている。自分も作ってみたい、とハンスにねだった時、まだ早いとやんわりと窘められた。


 いつか、ハンスのような薬剤師になる。幼いエリスは、そんな夢を思い描いていた。


 そして、月日が流れて成長し、ハンスから薬を作る許しをもらった。ハンスの指導の下、何度も何度も失敗を重ねて、ようやく作り上げたのは、簡単な切り傷に効く傷薬。その傷薬を、最初に使って欲しいという事でハンスにプレゼントした。飲み薬専門のハンスと違う外用薬を作った理由は、彼の荒れた手を何とかしたいという思いによる物で、彼がそれを使ったのは多くはなかったが、ハンスが喜んでくれてエリス自身も嬉しかったのを覚えている。


 『エリスの傷薬』と、エリスの手書きがラベルに書かれた小瓶。その小瓶が、ハンスとの思い出を蘇らせ、エリスの眼に再び涙が……。


「……あれ?」


 ふと、小瓶の後ろに違和感を感じる。薄暗くて全容はわからないが、何か、白い物が見えた。


 倒れた体を起こし、エリスは棚へ近づく。屈み込み、小瓶の後ろの何かに触れてみた。かさかさとした手触りをした、薄い何かがある。


「……紙?」


 取り出してみると、それはエリスにも馴染みのある羊皮紙だった。だが、ただの羊皮紙ではなく、赤い蝋で封をされた便箋のようだった。僅かに膨らみがあり、中には紙以外にも何かが入っているように思える。


 手紙自体、珍しくはない。ハンス宛てにこれまでも幾つかの手紙が送られてきたことがあり、それをエリスも手が離せないハンスに代わってよく受け取っていた。


 ところが、この手紙はエリスは見たことがなかった。しかも、手紙からこれまで受け取ってきたどの手紙とも違う、異質な物を感じる。中央から割れている蝋に押されている印を繋ぎ合わせてみると、鳥が翼を広げているかのような物になった。手紙を蝋で封をする時、封蝋印で差出人の家系、または組織のシンボルとなる印が押されるのだが、この印には見覚えが無かった。裏返して見ても、差出人は書かれていない。


(あれ……でもこれって……)


 ふと、気付く。身に覚えがない、と思っていたのだが、この印をどこかで見た。それも、つい最近だ。どこで見たのか、エリスは思い出そうとした。


 それはすぐに思い出した。そう、あれはエリスがハンスと共に、あの男たちに連れられていった、巨木の根元にあった石碑に彫られていたレリーフ。あれと瓜二つだった。


「なんで……?」


 どうして、あそこにあった印がここに? 疑惑が、エリスを行動に移させる。


 机に座り、机の上に置かれていたランプに、机の引き出しの中にあったマッチを使って明かりを灯す。手元が明るくなったところで、エリスはすでに封を切られている封筒を開き、中身を取り出す。二つ折りに入れられていた手紙。そしてもう一つ、封筒が僅かに膨らんでいた正体を、エリスは摘まみ上げた。


「これ……指輪?」


 ランプの明かりに照らされ、踊るような煌めきを放つそれは、銀色のリングの台座に付けられた、小さなエメラルドの宝石の指輪。サイズはちょうど、エリスの人差し指に入る程。


 一見すると、何の変哲もないただの宝石が付いた指輪。しかしながら、その宝石が放つ輝きは美しく、それでいてどこか神秘的な力のようなものを感じた。


「何でこんな物を……」


 どうしてハンスがこの印がされた手紙を持っていたのか? 何故エリスに気付かれないように、まるで隠すように置かれていたのか。


 普段のエリスなら、封筒を開けようなどとは思わなかっただろう。ここまでエリスを動かしたのは、何故この印がされた封筒をエリスに隠していたのかという疑惑、そしてもしかすると、あのレリーフと同じ印が押されたこの手紙には、ハンスが死ぬこととなった理由について書かれているかもしれないという期待。


 やましいことをすることができない性格のエリスが、ハンスの所有物であるはずの手紙を開いたのは、胸のうちを渦巻く感情に突き動かされたに他ならなかった。


 折りたたまれていた手紙を、エリスは開く。そして読もうとした時、ふとエリスは思う。


 この手紙を読めば、戻れなくなる気がする。


 どこから、というのはわからない。しかし、手紙を読み終えた時、エリスはこれまでの生活を捨てなければいけないという、奇妙な予感を感じた。


 読んじゃいけない。ハンスが、そう叫んでいるような気もする。何故この手紙をエリスに隠していたのか、もしかしたらこの予感が原因なのかもしれない。


 でも、それでも。


「……私は……」


 目を閉じ、大きく息を吸い、吐く。この予感は何かわからない。でも、エリスは止まろうとはもはや思わなかった。


 意を決してエリスの瞳には、決意の光が宿る。そして、手紙の一番上の段落に書かれていた文章を読んだ。



『親愛なる“風の守り人”ハンス殿へ』



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