8.異界の月は照らす



 エリスはその光景を、忘れることはできないだろう。


 先ほどまで、自分たちを殺そうとしていた男。泣き、怯える自分を見て楽しんでいたはずの男。


 その男が今、殴られ、吹き飛ばされ、床に転がっている。起き上がる気配はない。他の男たちも同様、気絶したまま動かない。


 それを成し遂げたのは、見慣れぬ服を纏った男性。剣で切られようとも、燃やされかけても、一歩も引こうともしなかった。


 目的がわからない。味方なのか、それとも黒い男たちとは違った目的を持った敵なのか。後者ならば、エリスはまた絶望するしかないだろう。助けたのは、味方と思わせるためだとしたら……もう、どうしようもない。


 けれど、エリスはそうは思わなかった。思えなかったとも言う。


 何故ならば、


「ぁ……」


 呆然と見つめていると、視線に気づいた男性がこっちを見て浮かべた、その微笑みが――『もう大丈夫だ』と暗に言っている悪意のないその笑顔が、前者であるとエリスには確信できたから。



 だが、その光景を見て焦る人間が一人、いた。


(な、何だこれは……何だこれは!?)


 祭壇の上で高見の見物と洒落込んでいたグレモア。最初はハンスとエリスが殺されるのを見物していたら、突如乱入してきた謎の男にそれを邪魔され、しかもその男に部下を全員叩きのめされ、切り札であったカーターすらも倒してしまった。


 挙句の果てに……そう、グレモアが一番予想外だった事は、精霊の力を奪われた事だ。


 戦いの最中、カーターの持っていた精霊を封じ込めた石が割られ、力が漏れ出し、その力があの男に全て行き渡ってしまった。


 さらには、精霊の力が、武器という形となって現れた……これすなわち、精霊が持ち主を選んだということとなる。


 奪い返す術は、もうない。カーターも、部下も、全員やられてしまった。


 グレモアは、組織の中では高い地位にいる人間ではあるが、それは実力で得た地位ではなく、コネと、そして金で得た物だ。武器は持っていても、それを振るうような技術も、力もない。


 そんな自分が、自慢の部下たちを叩き潰した男に、どう立ち向かえばいいというのか。完全に手詰まりだ。


(冗談じゃない……冗談じゃないぞ!!)


 何のためにここまで来たというのか。あの力を手に入れ、今の地位をより高めるため、極秘でここまで来たというのに。


 しかも。しかもだ。極秘……というより、独断でここまで来た挙句、力を手に入れることもできなかった上に、その精霊の力に別の人間が選ばれたという事実を、おめおめと帰って報告してしまえば……。


(私は……私はぁ……!)


 地位の剥奪……最悪、処刑。


 最悪な未来を予想し、膝が震える。息が荒くなり、汗が噴き出す如く流れ落ちる。


 あと少しだった。あと少しだったのだ! あと少しで、明るい未来が自身を照らしていたはずなのだ! それを、あの男が閉ざした!


 許さない。許さない。許さない。どうにかして痛い目に合わせてやれるのか。必死に考え、周りに目を走らせる。


 ぎょろぎょろ動く、血走った目。しばらく探っていたグレモアは、やがて視線を止める。


 その先にいるのは、エリス。そして死にかけのハンス。


(そ、そうだ……あいつらを、あいつらを使えば……!)


 思えば、あの二人が悪い。あの男を呼び寄せたのも、精霊の力があの男に渡ってしまったのも、全部あの二人の仕業に違いない。何もせずに帰れない。ならばここでこの二人を奴の目の前で殺して、絶望させてやる……完全に進退窮まったグレモアの正気を失いかけている頭には、そんな考えしか浮かばなかった。


 短剣を引き抜き、鼻息荒くエリスとハンスを睨む。短剣の鞘走りの音を聞いたエリスがハッとし、グレモアへと振り向いた。驚愕するエリスだったが、もう遅い。


「お前らが……お前らが悪いんだ……お前らがぁ!!」


 短剣を振り上げ、エリスに突き立てんと祭壇を駆け下りようとした。


 寸前、炸裂音が空間を揺るがした。


「ひっ……!?」


 耳をつんざく程の大きな音。その音と同時、一歩踏み出そうとしたグレモアの鼻先を、空間を切り裂きながら何かが掠めて飛んでいった。思わず足を止めるグレモア。


 恐る恐る、音がした方を見る。石柱のすぐ傍で膝立ちとなり、手に持った穴から煙が昇っている黒く光る何かを向けたまま、グレモアを睨みつける男、祐樹。音の発生源は、あの黒い物体からのようだった。


 そして、今度は掠めた物を確認するため、今度は反対方向へ顔を向ける。祐樹が持っている黒い物体から昇る煙と似たような細い煙が、石壁に空いた小さな穴からも昇っていた。


 あの黒い物体から『何か』が飛び出し、そして穴を作ったということを、グレモアは理解する。穴の大きさは、指先と同程度という小ささ。だが、ぽっかりとキレイに空いた穴が、その威力を物語っていた。


 そしてあの穴が、自身の頭を、後一歩踏み出していれば当たっていたであろう頭に命中していたかと思うと……。


「ひ、ひえぇぇぇぇぇぇぇぇ……」


 間一髪。命は助かったものの、恐怖によって情けない声を上げながらその場にへたり込むグレモア。股間をシミが広がっていき、アンモニア臭が漂いだす。


「……すまんな。さすがに見逃せんかったんや」


 そう言うのは、グレモアへ突き出すように黒い物体を向けている祐樹。


 その手に握られている物は、エリスたちにも見覚えがなく、全く馴染みのない物……拳銃。カーターとの戦いで手放したと思われていた銃だったが、石柱に落ちているのを見つけた祐樹が、錯乱するグレモアに向けて咄嗟に発砲した。


 撃つたびに報告書を提出しなければいけないという程に、厳しい日本の警察官が持つ銃。その銃が抜かれる時は、一般市民が危機に晒された時のみ。


 二人の非戦闘員の命を救うため、躊躇うことなく撃てはしたが、咄嗟にグレモア本人ではなく、彼のすぐ近くに向けて発砲したのは、警察官としての性か、祐樹の甘さか。やはり悪人とはいえど、拳銃を人体に向けて撃つのは抵抗があった。


「お前ら全員拘束させてもらうで。また暴れられても困るからのぉ」


 言って、祐樹は拳銃をホルスターに収め、代わりに手錠を出す。いまだ気絶しているカーターへ近づき、両手を腰の後ろへ回し、手錠を嵌めた。これで一番の危険因子は身動きが取れなくなり、排除されたことになる。


(さて、次はっと)


 他の男たちも拘束し、急いであの老人のケガを治療しなければいけない。そう思いつつ、振り返って他の男たちを手早く拘束するためにロープか何か無いか探そうとした。


「……ん?」


 突然、足元から冷たい何かを感じた。湿ったような、ねばついたような、妙な感覚。足元を見てみても、何もない。


 ただ、風が吹いている。周りを舞う埃が踊るように飛び、トレンチコートが僅かに靡いているのを見て、祐樹は疑問に思う。


(あれ、さっきまで風なんて吹いてなかったような……)


 戦っている間、確かに風は感じなかったはず。なのに何故突然……そう思った次の瞬間、


「って、うぉぉぉ!?」

「きゃぁ!?」


 突如として、そよ風程度だった風が強風となって巻き起こった。


 祐樹とエリスが同時に叫ぶ。いきなり突風に近い風が、祐樹の後ろ……入り口から噴き出してきている。


 今の今まで、風なんて吹き込んでこなかったはずなのに。疑問が尽きず、しかしどうすることもできない。だが、この風がただの風ではないことだけはわかる。


 かろうじて、腕で顔を覆いつつも開いた目から見えるのは、色付きの風……それも、どす黒い、オイルのような色をした風が、帯のような形となって周囲を踊り狂うように蠢く。それも、体に纏わりつくだけでベタつくような不快感を覚える、そんな風……今まで感じたことのない、異様な風だった。


「こ、今度は何じゃあ!?」


 その叫びも、突風が吹き荒れる空間に溶けて消える。風は、視界一杯を埋め尽くし、もはや何も見えない。そんな状況が数秒続いた後、


 祐樹は、感じた。まるで、品定めするかのような、じっとりとした視線を。


(え……)


 暗闇の中から見つめられているかのような視線。感じたことのない妙な感覚を覚えた直後、風が止んだ。


 視界は、再び元に戻る。石柱の上で光る丸い照明に照らされる部屋。五体満足で立つ祐樹と、顔を伏せて風から身を守っていたエリス、床を転がる大剣。


 唯一違うことと言えば、


「あ……あいつらは!?」


 男たちが全員、消えていることくらいだった。


 足元にいたはずのカーターも、そのカーターに殺された男も、他の気絶していた男たちも、座り込んでいたグレモアも。最初からそこにいなかったかのように、影も形も消えていた。気配すら感じられない。


 逃げられた? いや、あのダメージで全員一度に起き上がって逃げられるはずもない。ならば考えられるのは一つ。


「今の風に……攫われた?」


 信じられないことだが、あの風が止んだ瞬間、彼らは消えた。あのケガだ、風に紛れて逃げた、というより、風に攫われたと言った方が正解としか思えない。


(もう……もう、訳わからん)


 度重なる謎の現象。祐樹は理解がもう追い付かない。脳みそがオーバーヒートしそうだ。


「う……」

「お……おじいちゃん!」


 しかし、そんなことを考えている場合ではない。老人の、ハンスの呻き声と、エリスの泣きそうな声に祐樹は意識を切り替え、駆け寄った。


 傍に跪き、ハンスの容態を見る。胸元からばっさり切られ、血が流れ出ている。ハンスの体周辺に血の池ができており、その出血量を見て祐樹は気付く。


(あかん……これは致死量を超えとる)


 かなり年もいっている筈なのに、これだけの血が流れ出ていて、生きているのが不思議な程だ。それほどの生命力を、彼は持っていたのだろう。


 だが、それも時間の経過と共に弱っていっているのがはっきり見てわかる。息も絶え絶え、時々咳き込む口からも血が飛び出す。


 だからこそ、祐樹はわかる。わかってしまう。


(これは、もう……)


 口に出すことは憚られる。悔しさに、やるせなさに歯を食いしばるしかないにしても、最後まで諦めたくない祐樹は、救急を呼ぶために懐からスマートフォンを取り出す。


「う、ぐ……エリス……エリス……」

「おじいちゃん喋っちゃダメ! 血が、血が出ちゃう!」


 何かを話そうとするハンス。エリスが、泣きながらそれを止め、ハンスの手を握る。


 どうしようもない。治療する設備も、薬品も、道具も、何もない。エリスは、ただただ、呼びかけるしかできない。


「くっ、救急車……あかん、電波届かん! クソ、何が文明の利器や! こういうところでこそ役立つべき物やろがい!!」


 祐樹がスマートフォンをタップするが、電波が届かない以上、119番を押しても何の意味もない。悪態をつき、スマートフォンを叩く。


 祐樹の手持ちにも、ハンスを救うための道具は何一つない。頼みの綱である連絡手段の携帯電話も、使えなければただの置物だ。


「エリス……そこに……いるのか……?」

「おじいちゃん! しっかり、しっかりしてください、おじいちゃん!!」


 泣き叫ぶエリス。ハンスは、力を振り絞り、口を開いた。


「エリス……見えない……もう、見えないんだ……お前の姿も、何も……だから、せめて声だけでも……」

「いや……嫌です。そんな、そんなの……!」


 握るエリスの手を、ハンスは握り返す。命が風前の灯である今、視界がぼやけて見えるのだろう。けれどもその力は、死に瀕した老人とは思えない、力強い物だった。エリスは振りほどくことはせず、その手の甲を包むように、両手で握り返した。


「こんなことなら……もっと早くに、お前に……うぅ!」

「おじいちゃん!」


 苦し気なハンスに、エリスは泣き叫んだ。何もできない、無力な自分。泣くことしかできない自分を、エリスは責める。


 少し落ち着いたハンスは、視線をエリスから僅かに外す。


「もし……そこの方……この老いぼれの最後の願いを、聞いては……」


 『そこの方』……すなわち、祐樹へと声をかけるハンスに、祐樹は焦る。


「爺さん、あかん! それ以上話したら、アンタの体力が……!」


 もうハンスには体力がほとんど残っていないのは、傍から見ている祐樹にはわかる。残された時間を、初対面である自分よりも少しでも身内である少女に使って欲しい。そう願う祐樹だが、ハンスは構わずに続ける。


「あなたは……精霊様に、選ばれた方……ならば、あなたにこそ、お願いしとう、ございます……」

「……わかった。何でも言うてください」


 初対面にも関わらず、自分にこそ頼むというハンスの願い。


 精霊様、というのは、よくわからない。しかしそれでも、死に間際の人間のその願いを無碍にすることは、祐樹にはできなかった。


「どうか……そこにいる、私の宝を……エリスを、どうか……」

「……」


 言い切れていないが、何を言いたいのかははっきりわかった。


 祐樹は、一瞬その願いに応えるか迷う。しかし、無碍にはできないと先ほど誓った。


 ならば、応える。老人が少しでも、安心できるために。


「……ああ。任しとき」


 そう言うと、ハンスは幾分か安堵の表情を見せた。こんな得体の知れない男を、信じることに対する不安がないのか。終わりが近づき、混乱しているせいなのか。それとも、祐樹のことを本当に信じているからなのか。


 それは、わからない。問おうとも思わない。


「ゴフッ! うぐっ」

「あ、あぁ、おじいちゃん、おじいちゃん!」


 何故なら、もう終わりが近い人間に寄り添うべきは、自分ではないのだから。


「エリス……ワシは、死ぬわけではない……」


 笑う。消えていく命の灯の、最後の力を振り絞った笑顔を、最愛の少女へ向けて。


「ワシは……ただ……精霊様、の……」


 その言葉は、最後まで紡がれることはなく。


 エリスを掴む手が。エリスが両手で包んでいたしわがれた手が。先ほどまで力強く握りしめていた手が。


 するりと。エリスの手から抜け落ちた。


「あ……」


 血の中に、水音をたてながら落ちた手。顔を見れば、瞼を閉じ、一目見れば眠っているとしか思えない程の、穏やかな顔。


 けれど、音がしない。息を吸う音が。息を吐く音が。命を、その人の体を動かすための命である胸の鼓動が。


「おじい、ちゃん……?」


 一切の音がしない、ハンスの体。全ての音が消えたハンスに、エリスは声をかける。


 ハンスの返事はなかった。


「いや……いやです、おじいちゃん……」


 かぶりを振り、ハンスを揺らす。力なく垂れ下がり、揺れる手。抵抗なく、なすがままのハンス。

 ハンスからの反応は、ない。


「私……私、まだおじいちゃんに返せてません」


 話しかけるエリス。それでも尚、ハンスは何も言わない。


「まだ……まだ、恩返しも、何もできてません」


 ハンスは、応えない。


「まだ、一緒に暮らしていたいんです」


 ハンスには、届かない。


「まだ、一緒にご飯を食べたり、一緒に眠りたいんです」


 ハンスには、聞こえない。


「まだ……まだ……」


 ハンスの魂はもう、


「まだ……一人ぼっちに、なりたくないんです……!」


 この世には、いない。


「あぁぁぁ……あぁぁぁぁぁ……!」


 目から溢れる、大粒の涙。頬を伝い、顎へと流れて落ちる。その涙は、静かに眠るハンスのしわくちゃの顔を、髭を……濡らしていく。


「あああああああああああ!! うあああああああああああ!!」


 静かな空間に木霊する、どこまでも、どこまでも深い悲しみに満ちた慟哭(どうこく)。物言わぬハンスを抱き、ただただエリスは泣く。


 胸の内の悲しみが全て涙へ変わって欲しいと言わんばかりに。大切な人がいなくなったことを否定して欲しいと言わんばかりに、泣き続ける。


 それに応えてくれる者は、誰もいなかった。






「あぁ、くっそ……やっぱあかんなぁ、ワシ」


 背後に聞こえる、少女の泣き叫ぶ声。かける言葉も見つからず、今は一人で泣いた方がいいと思った祐樹は一人、遺跡から外へ出て、タバコを取り出して咥えつつ頭を掻きむしる。


 時刻は、すっかり夜。遺跡に入った時間と、中にいた時間を合わせたら当たり前っちゃ当たり前ではあるが、太陽はもうすでにいずこかへ消え、石柱にある照明が無ければ、辺り一面真っ暗闇になっていただろう。肌を撫でる爽やかな夜風が、先ほどの黒い風と違って心地いい。


 心地いいのだが……今の祐樹の気持ちを癒してくれるとまでは、いかなかった。


「ままならんのぉ、ホント……」


 目の前で、人が死んだ。祐樹とは面識も全くない、赤の他人。


 だが、救えた。救えた命だった。少なくとも祐樹はそう思っている。


 もっと、やりようがあったかもしれない。もっと早く、男たちを倒し、治療できる場所を探していればよかったかもしれない。


 ああすればよかった、こうすればよかった、というのは、誰しもが思う。けれどそれも今は、過ぎてしまったことだ。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。


 死んだ人間は蘇らない。それは、当たり前のことで、とてもつらいことでもあった。


「……警察官になった時には、こういうことも覚悟の上やったはずやのになぁ……」


 人の生き死にを間近で見る仕事でもあるこの職業。わかってはいたものの、やはりいつまでたっても慣れることはない。


 いや、慣れてはいけないのかもしれない。慣れてしまえばそれは、人として大事な物を失くしてしまうような気がした。


「はぁ……ワシも、まだまだやなぁ」


 助けられなかったことを後悔し、未熟な自分を痛感する。ライターを取り出しつつ夜空を見上げ、そう思う祐樹を見守る、大きな月と、それに隠れるような小さな月。優しい月の光が、祐樹を照らすのだった。





 …………。





「……ん?」


 おかしい。自分は今、何を見ている?


 目を擦り、もう一度見る。都会では終ぞお目にかかれない、夜空を煌めく満天の星。その中を浮かぶのは、手を翳すと指の隙間からはみ出す程の大きな月。そしてまるで寄り添うような位置に浮かぶ、掌サイズの小さな月。


 小さな月は、まぁいいとしよう。ギリギリ祐樹でも見たことあるような程度の大きさだ。


 問題は、二つ。まず一つは、巨大な月。こんな大きな月は、生まれてこの方、お目にかかったことなどない。ましてや、こんな巨大な月が見える場所なんて、それこそ風景をメインとした写真集や雑誌やら、果てはテレビでも放送されてもおかしくない。


 そして、二つ。これが一番の疑問点。


 何故だ。何故、月が二つもあるのか。何で当たり前のように、大きい月と小さい月が夜空の中を浮かんでいるのか。まるで月が落下してきているのかとも思ったが、そんな様子もなく、ただただゆったりと夜空を支配しているかのようにそこにいる。


「……は? な、何や、これ……」


 祐樹は口をあんぐりと開き、呆然と呟く。その拍子に、咥えていたタバコが地面に落ちる。先ほどまであった未熟な自分に対する後悔が吹き飛ぶような、それほどまでの衝撃だ。


 そう。祐樹がいた場所に。地球に、こんな光景が見られる場所は……無い。


「お、おかしい……さっきから、何かおかしい……!」


 顎に手を添え、考え込む。思えば、奇妙なことだらけだ。


 いきなり森の中にいたかと思えば、奇妙な遺跡に、そこにいた時代遅れな武器を携えた男たち。そのうちの一人には手品じみた攻撃により殺されかけ、極め付けは愛用の警棒が一瞬で大剣という物騒な武器へ変貌した。その際、今まで聞き取れなかった言葉がわかるようになり、おまえに気持ちの悪い黒い風に、その後に消えた男たち。


 何から何まで、超常現象としか思えない連続の不可解な出来事。そして今は、二つある月を見上げている。


「……ん? ちょっと待て、大剣?」


 ふと、祐樹の脳裏に思い浮かんだのは、警棒が大剣に変わる寸前。周囲の時が止まったかのような、不思議な空間で聞いたあの声。


 あの声を、祐樹は以前聞いたことがある。あれは、どこだったか。確か森の中で目覚めた時……。




『元の世界に帰りたいなら』




『神に、会いに行きなよ』




 そうだ。あの時、祐樹は暗い空間に一人漂い、謎の声に導かれて……というより、強制的に光の中に叩き込まれて。


 そして意識を失う寸前、確かに言っていた。


 “元の世界に帰りたいなら”と。


「元の、“世界”って……“世界”って……!」


 世界。その言葉が意味するのは、恐らく一つだけだ。


 それを認めたくはない。認めてしまえば、祐樹は想像を遥かに上回る、最悪の事態に巻き込まれてしまっていることを認めてしまうのと同様だから。


 だが認めざるを得ないだろう。目の前で起きた、明らかに手品でも何でもない、不可思議な現象の数々。そして頭上の二つある月。


 祐樹は、目の前の現実を頑なに受け入れようとしないような、頭の固い人種ではない。それが仇となり、祐樹はその現実を受け入れたくないまま、受け入れてしまった。


「わ、ワシは……」


 ここは日本でも、外国でも、ましてや地球のどこでもない。


 あのガソリンの爆発が原因で、祐樹は迷い込んでしまったのだ。


「ワシは、一体……!」




 祐樹が本来いるべき世界とは全く違う、別の世界……即ち、異世界という名の未知なる大地へ。




「どうしてこんなところにおるんじゃああああああああああぁぁぁぁぁぁ……」




 大久間祐樹42歳。異世界の大地にて、頭を抱えて巨大な月へ向かって咆哮する。



 月は、その声に応えず、ただ静かに柔らかい光を放ち、地上を照らすだけだった。

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