4.悲劇と救世主


 夕刻。日が地平線の向こうへ沈みゆき、オレンジ色の光が森を照らす。その光は、帰路につくエリスの体も同色に染め、黒い影を前方に伸ばす。


「ちょっと、遅くなっちゃった……早く帰ろう」


 薬を届け、買い物をし、必要な物を考えたりしてあれこれ迷っていたら、予想以上に時間がかかってしまった。薬の入っていた鞄の中には、裏の畑で取れない果物やパンといった食料と、いくつかの日用品。日用品の中には、ハンスが以前から欲しがっていた本が入っていた。日頃の感謝の印と思って、密かに購入した物だ。


(おじいちゃん、喜んでくれるかな?)


 エリスの贈り物ならば、何でも喜ぶハンス。それがわかっていながらも、その顔が見たくて、エリスは足早に歩く。眩しさを感じる夕日も、あと少しで完全に山の中に沈むだろう。その前に、早く帰らないといけない。この辺りではオオカミがごく稀にだが餌を求めて現れることがある。過去に一度だけ、ハンスと一緒に歩いている時に一匹と出くわしたが、あの時はどうにか追い払うことができた。そのため、遅くなるとハンスを心配させてしまう。


 やがて、見慣れた我が家が見えてきた。少し小高い丘の上にある、小さな家。今頃、ハンスが首を長くして待っているだろう。


(……あれ?)


 ふと、家に近づいたところで足を止める。両開きの窓から漏れる、ランプの明かりがない。この時間になると、そろそろ明かりを灯すはずなのだが、それがないことにエリスは違和感を覚えた。


「おじいちゃん、寝てるのかな……?」


 最近、薬の調合が終わってからよく疲れたと言って寝ることが多いハンス。そう思い、少し感じていた違和感を払って玄関の扉を開ける。蝶番の軋む高い音を立てながら開いた扉の先は、夕暮れ時なおかげで薄暗いリビング。


「おじいちゃん、今戻りました」


 声を張り上げるエリス。だが、返事がない。眠っているのだろうかと、エリスは鞄を下ろして、短杖と一緒にテーブルに置いた。


「おじいちゃん? 寝てるんですか?」


 再び呼びかけ、エリスは寝室の部屋の前に立つ。やはり返事がない。おかしいと思いつつ、エリスは部屋の中を覗き込む。


「おじいちゃん?」


 エリスは、そっと部屋の中に入った。


 瞬間、微かな明かりで鈍く光る何かが突きつけられた。


「……え?」


 意味が、わからない。なぜハンスの扉を開けたら、冷たく光る何かが目の前にあるのか。


「後ろへ下がれ」


 そして、聞き覚えのない男性の声が聞こえるのか。エリスは混乱する。


 そんなエリスを嘲笑うかのように、ランプに明かりが灯って部屋が明るくなる。まず目に飛び込んできたのは、ハンスの部屋の中にいたのは、ハンスではなく、全く知らない人物。ブロンドの長髪をした、僧侶が着るような服を真っ黒に染めたような服を着込んだ、長身の男性。顔にかかる前髪の隙間からは、氷よりも冷たい青い目。その男から向けられているのは、柄に金の装飾が施され、鍔に赤い宝石が埋め込まれた豪華な剣の切っ先。ランプの明かりに照らされて光るそれは冷たく、下手に動けば確実にエリスを死に至らしめる殺意を持っている。


 そして耳に届くのは、無遠慮に踏み鳴らす複数の靴の音。先ほどエリスが入ってきた玄関、そして裏口から、目の前の男と同じような怪しい服を着込んだ男たちが入ってくる。


 その数は6人。目の前の男と唯一違う点は、顔の上半分を骸骨にも似た怪しい仮面で覆っており、素顔はわからないといった点だろうか。


「ひっ……!?」


 突然の出来事に、エリスはただ恐怖に上ずった声を上げるしかできない。目の前の男に命じられるまま、後ろへ下がらざるをえなかった。やがてテーブルに腰をぶつけ、これ以上下がれずにそこで止まる。


 何故、どうして、この人たちは一体……いろんな疑問がごちゃまぜとなり、どれから聞くべきかわからなくなる。無意識に足が震え、歯がかみ合わずに音をたてた。


「おっと、突然の訪問、失礼するよ」


 こんな状況とは似つかわしくない、穏やかな声。だが似つかわしくないということは、声の主はこの状況を作り出した人間であることに他ならない。声の主がいる方向、玄関へと、エリスは顔を向ける。


 そして、慄く。他の男たちよりも豪華な飾りをつけた黒い服を着込む、禿げた小太りの男。その男が拘束しているのは、あろうことか、頭部から血を流して苦し気に呻くハンス。その表情は苦悶に満ちている。


「おじいちゃん!?」

「うぅ……エリス……」


 思わず声を上げるエリスに、ハンスは掠れた声で応える。血は流れているが、返事ができる程度には意識があるようだった。


「すまないね。このご老人は我々の要求に応えようとしなかったから、少しだけ痛めつけてしまったよ。いやはや、我が部下ながら血の気が多い」


 口ではそう言いつつ、ニヤニヤと下卑た笑みを崩さない男。その男に、ハンスは首を振って意識を覚醒させ、声を荒げた。


「お前たち……一体何の目的があって……!」

「それをアンタが知る必要はないぞ、ご老人。我々が聞くことに答えるだけでいい」


 男はハンスを正面に向かせ、襟首を掴んで顔をギリギリに引き寄せる。力が強すぎたためか、ハンスは痛みに再び呻く。男はそんなハンスを気遣うこともなく、口を開いた。


「では聞くぞ? ……『精霊の遺跡』はどこだ?」


 精霊の遺跡……聞きなれない言葉に、エリスは疑問符を浮かべる。だが、ハンスは対照的に、驚愕に、そして恐怖に顔を歪めた。


「な、なんのことだ……私にはさっぱりわからんぞ……!?」

「知らばっくれても無駄だ。いまだ封印が解かれていないこの国の精霊の力が眠る遺跡。巧妙に隠されたその遺跡から溢れ出る力、それを我々はついに見つけたのだからな」


 震える声のハンスに対し、男は詰め寄る。ハンスを締め上げんばかりに掴む力を強め、ハンスは息苦しそうにあえぐ。


「や、やめてください! おじいちゃんが何をしたっていうんですか!?」


 エリスが止めようとするも、すぐに剣を突きつけられる。だが、エリスが叫ぶと、男はハンスを掴む手の力を緩めた。


 そのじっとりとした視線は、エリスに向けられている。


「そうだな……アンタを拷問して口を割らせるのは簡単だが、我々も暇ではない。手っ取り早く教えてもらおう」

「な……何を」


 ハンスが言いかける。その前に、エリスに向けられた剣の切っ先が、エリスの喉元へより近く突きつけられる。


「……っ!?」


 声を上げかけたが、恐怖のあまり声が出ず、少しでも動けば喉に突き刺さる距離にある刃に怯え、目から涙が流れ落ちた。


「見せしめに、アンタの娘さんには痛い目に合ってもらおうか。なに、殺しはしないから安心しろ。アンタは喋るまで、娘さんの手足がおさらばするのを眺めておけば、それでいい」


 男の言葉に、ハンスは驚き、そして泡を食ったように掴みかかった。


「ま、待ってくれ! やめてくれ! エリスだけは、エリスだけは!」

「だから、アンタが喋ればそれで済むんだって言ってんだろう!!」


 男はハンスを払いのけ、突き飛ばす。倒れ込んだハンスは、痛みに呻き、立ち上がれなかった。


「おじい、ちゃん……!」

「さて、じゃまずはどこから切り取る? 耳か? それとも、そのキレイなお目めをえぐり取るか? あぁ、我々を怨むんじゃないぞ? 怨むなら、知ってることをさっさと話さない、君のおじいさんを怨めよ?」


 男がニタニタ笑い、剣を突きつける男に顎を向ける。それを見て何をするのか察知したのか、ブロンドの男は口の端を釣り上げ、剣を持つ手に力を込めた。そして、


「わかった!! 話す!! 話すから!! もうやめてくれ!!」


 ハンスが叫び、剣の動きが止まる。それを聞き、ブロンドの男は小太りの男に目で問う。


「そこまでにしておけ、カーター」

「……了解です、グレモア様」


 グレモアと呼ばれた小太りの男に命じられ、ブロンドの男改めカーターは、剣を下ろす。その表情は、どこか憎々し気というより、おもちゃを取り上げられた子供のようだった。


「おじいちゃん!」


 解放されたエリスは、飛びつくようにハンスの傍に駆け寄り、助け起こした。恐怖はまだ抜け切れていないが、ハンスに大きな怪我がないことを確認すると、少し安堵した。


「うぅ……エリス……エリス」


 だが、ハンスは悔し気に、悲し気にエリスの名を呼ぶ。滝のような涙を流すハンスの顔を、エリスは見たことがなかった。


(どうして……)


 男たちの狙いがわからない。ただ、はっきりわかるのは、自分たちの穏やかな日々は、彼らによって破壊されてしまったということだけ。その破壊者たる男たちのニヤニヤした侮蔑の顔を、エリスはただ怯えた目で見つめることしかできなかった。






 もうすぐ完全に日が落ちる。徐々に闇が深まっていくそんな中で森の中を歩くのは、危険極まりないのは誰だって知ってることである。


 だが、その中を歩く一団がいた。先頭を歩くのはカーター。その右手には、赤々と燃える松明が、辺りを照らして視界を確保している。そしてその後ろを続く、この一団のリーダー格、グレモア。背後には杖をつくハンスと、彼の肩を持つように支えて歩くエリス。二人が逃げないよう、剣を抜いて警戒している仮面の男たち。闇に落ちていく森の中だと、黒い服を着た集団は、さながら亡霊と見間違われてもおかしくない程に溶け込んでいる。


 そんな異様な集団が、歩くこと数十分。彼らの目の前には、木々が他の場所より密集し、枝から伸びる葉が壁のようになって行く手を阻んでいた。


「ここじゃ……」


 行って、ハンスはエリスに支えられたまま前に進み出る。男たちも、二人が妙な真似をしたらすぐに切りかかれるように警戒している。


(ここは……)


 エリスは、家を出て少し歩いてから気付く。この道は、確かハンスが散歩をするコースだったはずだと。小さい頃に一度だけ連れて行ってもらった、おぼろげな記憶。今まで微かな記憶でしかなかった光景が、鮮明に思い出せる。


 だがどうしてここに来たのか。エリスはわからなかった。ハンスがエリスから離れ、右手をかざす次の瞬間までは。


「え」


 小さく漏れ出た、驚愕の声。それしか言えなかった。


 ハンスの右手が淡い緑色の光を発すると、視界一杯に広がっていた葉の壁が、木の幹が、乾いた音をたてて蠢き、まるで生物の如く左右に分かれていく。男たちも驚愕と感嘆の入り混じった声を上げ、その様を見続ける。


「おお……これは……」


 葉の動きが止まり、そこには先ほどまでなかった空間が出来上がる。そして目の前に現れた存在を見て、グレモアは驚き、呟いた。


 木々に取り囲まれた空間。その中心にある、巨大な木。数えきれない年月を過ごしてきたであろうその巨大な木の根元に、異質な物が存在感を放っている。植物の根に守られているかのように、全長4m程もある巨大な白い石碑。石碑の中央には、鳥が翼を広げて飛び立つかのようなレリーフと、その中心に埋め込まれた緑色に光るエメラルドの宝石。もう大分暗いのに周囲が明るいのは、石碑の左右に立つ柱の上に置かれた、淡く白く光る不思議な石の存在のためだった。


「こんなところがあったなんて……」


 物心ついた時からこの森の中で暮らしてきたエリスだったが、こんな物が存在していたなど、今の今まで知らなかった。厳かな雰囲気漂う、石碑が埋め込まれた大木。この付近だけ、何か特別な、大きな力を感じるのは気のせいだろうか。


 この光景に魅入られていたエリスだったが、背後から強い力で押されてつんのめる。振り返れば、カーターが剣を片手に顎でしゃくって『進め』と暗に言っているのが見える。


 下手に口答えしたら殺される。その恐怖に、エリスはただ黙って従うしかできない。ハンスもエリスに支えられる形で、石碑へと歩み寄っていった。


「よもや、こんな事で封印を解く事になるとは……」


 ハンスの悲嘆に暮れた声も、周りの男たちは意に返さない。グレモアが石碑の前に立ち、ハンスを促す。


「さぁ、早速やってもらおうか」

「…………」


 忌々し気にグレモアを睨むハンス。そんなことをしても無駄だと悟り、ハンスは石碑の前に立ち、両腕を掲げた。すると、先ほど木が動いた時のように、ハンスの両手が緑色に輝きだす。その輝きと同時、レリーフに埋め込まれた宝石もまた同色の光を淡く放ち始めた。


「……精霊よ。風の精霊、シルウェストレよ。我、封印の守護者の名の下に、その御身の姿を現したまえ。我が命が風と共にあらんことを……」


 まるで教会神父の説法のように、石碑に向けた語り掛けるハンス。その一言一言に共鳴するかのように、埋め込まれた宝石が明滅する。


 ハンスが言い終わるや否や、光が消える。すると、突如として地響きが起こり、周囲を揺らす。立つことも難しい、大きな揺れ。男たちは揺れに驚いてたたらを踏み、エリスもハンスと共にその場にしゃがみ込む。


 そして、地響きと共に目の前の石碑がゆっくりと、地面に沈んでいく。


「お、おじいちゃん……!?」

「大丈夫じゃ……」


 怯え、ハンスにしがみつくエリス。ハンスはそんなエリスに優しく言い、目の前で沈んでいく石碑を見つめる。


 やがて完全に石碑が姿を消す。現れたのは、大木の根元にぽっかりと開いた穴。暗くて中が見えず、異様な空気を発している。


「そうか……これが封印の遺跡か……道理で我々がいくら探しても見つからなかったわけだ」


 グレモアが言い、ハンスを見る。その目は、手を煩わせたことに対する苛立ちが露わとなっている。だがすぐにそれを消し、口の端を釣り上げて笑う。


「まぁいい。この先に我々が欲している力があるのだ。さっさと行くぞ」


 グレモアが先頭に立ち、穴へと入っていく。その後を、カーターに押し出されるような形で立ち上がったハンスとエリスが続き、他の男たちも進んでいく。


 穴に入ると、中はやはり真っ暗で、松明の光をもってしても先が見えない。だが、一歩足を踏み入れると、壁の両側から、外の柱と同様の淡い光が照らしだす。中は植物の中というのに石造りとなっており、緩やかな階段が下へ下へと続いている。


(なんなの、ここ……)


 幼い頃から知っているはずの森の中にある、見知らぬ遺跡。見たことない異質な建造物に、エリスは戸惑う。


 壁は所々崩れていて小さな瓦礫となっていたり、石の階段には埃が積もっていたりと、長年誰もここに訪れたことがないことが伺える。そんな中を、一同は進んでいく。


 やがて階段の終わりが見えてくる。グレモアがそれを確認すると、慎重に降りていた階段を、息を弾ませて興奮しながら一気に駆け下りていく。


「おおぉぉ……!」


 階段を降り切り、辿り着いた場所は、とても開けた空間。日本でいう体育館にも匹敵する程の広さの部屋と、高い天井。壁にはこれまた同じような光が燭台代わりとなって張り付いている。左右に三本ずつ立つ大きな柱があり、どれも古く、一本は根元から崩れそうな程に老朽化していた。


 だがそれよりも、グレモアが思わず感嘆の声を上げる物。それは、部屋の奥にある小さな祭壇。その祭壇の上に置かれている、石碑に彫られていたレリーフと似た、翼を広げたような台座に鎮座している、赤ん坊の顔ほどある水晶玉であった。


 だが、ただの水晶玉ではなく、透き通った水晶の中で光る、若草色の光。その光が、さながら竜巻の如く渦を巻き、まるで生きているかのような錯覚を覚える。


「ついに……ついに見つけたぞ……!」


 グレモアが一目散に駆け出し、水晶玉を覗き見るように屈む。エリスとハンスも、カーターたちも続く。広々とした空間をおどおどと見回すエリスに対し、ハンスはグレモアを睨みつつ咎めた。


「貴様ら、それをどうするつもりじゃ? それは、その力は、自らが選んだ者にしか力を貸さんぞ。お前たちには使うことはおろか、触れることすらできん」


 祭壇を上り、ハンスの怒りの眼差しを受けても尚、グレモアは平然としている。ハンスを嘲りを込めて見返し、笑った。


「ハハハ! 何、選ばれなくて結構。それに私は、触れもしないからな。ただ、使わせてもらう。それだけだ」


 言葉の意図がわからず、ハンスは戸惑う。そんなハンスを他所に、グレモアはカーターを呼びつけた。


「やれ」

「はっ」


 言って、カーターは松明を別の男へ預けると、水晶の前に立つ。そしておもむろに、胸ポケットから革の袋を取り出し、中の物を掌に出した。


 それは、六角形をした掌サイズの小さな石。自身の服と同様、黒ずんだ色をしている。


「き、貴様、それは……!?」


 それを見たハンスは、驚き、そして今までにない程に狼狽する。エリスは何が何だかわからず、ただ成り行きを見守るしかない。


 カーターはその石を摘まみ、水晶の前へかざす。すると、水晶の中で渦を巻いていた光が、まるで抵抗するかのように荒れ狂う。だが、光は徐々に水晶の外へ吸い出されるかのように……否、実際に黒い石に吸い込まれ、水晶からどんどん抜けていく。


 数秒もすると、光は完全に石の中に取り込まれ、後に残ったのはただの水晶玉。先ほどまで輝きのなかった黒い石からは、淡い緑色の光が漏れ出ている。


「終わりました、グレモア様」


 石を袋にしまい、その袋を胸ポケットに入れるカーター。


「やった……やったぞ! ついに、精霊の力を、私自ら……!」


 歓喜に震え、高笑いを上げるグレモア。その様子を見て、ハンスはわなわなと震え出した。


「貴様ら……何をしたのかわかっているのか!? それは、それはこの世界の……!」

「フフフ、わかっている。わかっているとも。これがとても大事な物だということくらいはな」


 怒りに震えるハンス。グレモアは、ハンスを見て楽しんでいるかのように、歌うように応える。


「同時に、私の人生を彩る為の重要なアイテムであることだっていうのもなぁ。これで私は……さらなる力を……!」


 自身の未来のビジョンを夢見て、恍惚とした表情になるグレモア。周りの男も、カーター以外は、仮面の下から見える口の口角が上がっているのが見える。


 血が出る程、唇をかみしめるハンス。そのハンスの手を、エリスは力強く握りしめた。ハンスは、チラとエリスを見る。相変わらず怯えているが、ハンスから絶対離れようとしない意思を感じる。


 それは、自分の危機に瀕した際に身代わりにするという意味ではなく、危なくなっても自分がハンスの身代わりになるつもりでいる、という意思の顕れだった。


(……せめて……)


 そんな優しい子を、ハンスはこのような目に合わせて、自責の念に駆られる。そして、一人決意をした。


(せめて、この子は……!)

「エリスや」


 小声で、エリスに聞こえるギリギリの声量。その声が耳に届き、泣きそうになりながらもエリスはハンスを見て、小首をかしげた。


「逃げなさい」

「え……」


 小さく微笑むハンス。ハンスが言うことが理解できず一瞬呆然となるエリス。


 その瞬間、ハンスは猛然と飛び出す。


「ぬおおおおおおお!!」

「む?」


 ハンスの杖が、カーター目掛けて振り下ろされる。それは老人にしては、キレのある一撃であるかのように思えた。


 だがカーターはこれを呆気なく躱す。杖が空を切り、それでも尚ハンスはカーターたちを睨む。


「貴様らに、その力を渡してなるかぁぁぁぁぁ!!」


 鬼気迫る勢いで、ハンスが襲い掛かる。老人とは思えぬ気迫で、ハンスは略奪者たる男たちに襲い掛かった。


「だ、ダメ! おじいちゃん!!」


 ハンスを止めようと、エリスが手を伸ばした。



 同時、赤い飛沫が舞った。



「…………え」


 口から、間の抜けた声が漏れた。目の前では、時間がゆっくりと、スローモーションのように光景が流れていく。


 剣を横に薙ぎ、振り払った状態のカーター。その前には、杖を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているハンス。


 だが、杖は振り下ろされず、ゆっくりと手の力が抜けていく。杖は地に落ち、祭壇を硬い音をたてながら落ちていき、床の上を転がっていく。その杖に続くように、ハンスの体も、ゆっくりと体が横へ倒れていく。


 小さな祭壇の段を、転がり落ちるハンス。やがて、その体を祭壇の下に大の字のように横たえた。


 その胸元には、真一文字にばっくりと開かれた大きな傷。服ごと切り裂かれ、流れ出る血がハンスの服を赤く染め上げていった。


「おじい……ちゃん?」


 目の前の光景が理解できず、エリスはハンスを呼ぶ。返事はない。相変わらず祭壇の下で転がっている。


「あ……あ……」


 次第に、理解していく。理解してしまう。理解してしまった。



 目の前で、ハンスは切られた。そして、倒れた。



 その事実が、エリスの心を絶望で塗りつぶしていく。そして、



「いやああああああああ!!」


 絹を裂くような絶叫が、エリスの口から飛び出す。祭壇を駆け下り、ハンスの傍で膝を着いた。


「おじいちゃん!! おじいちゃん!! しっかりして!!」


 血が付くのも構わず、ハンスの体を抱き起し、呼びかける。涙が止めどなく流れて視界がボヤけるのも構わず、ハンスの体を何度も揺らした。


「う……ガフッ」


 エリスの呼びかけに応じたのか、ハンスがうめき声を上げる。苦しそうな声と共に、口から血が吹き出る。返事をするのもままならず、咽るしかできなかった。


「バカが、無謀にも向かってくるからだ」


 鼻を鳴らし、立ち向かってきたハンスを嘲るグレモア。ハンスを切った張本人であるカーターは、何の感慨も湧いていないような表情で、剣に付いた血を布でぬぐい取る。


「まぁ、いい。どの道、力を手に入れた時点で用無しだったのだ。遅かれ早かれ、二人とも死んでもらっていたからな……おい」

「はっ」


 カーターとは違う、別の男を呼ぶグレモア。


「二人とも殺せ」


 指で首を掻っ切るようなジェスチャーをしつつ命じるグレモア。男は頭を下げると、祭壇をゆったりとした足取りで降りていく。


 目指す先は、血を流して満身創痍のハンス。そしてハンスを抱きかかえ、恐怖に目を見開くエリス。男はニヤつく口元を隠そうともせず、剣を引き抜いて二人ににじり寄る。


(どうしよう……殺されちゃう……!)


 迫る死の足音。エリスはどうすべきか、必死に頭を巡らせる。


 逃げる? 無理だ。相手が逃がすとは思えないし、恐怖に体が固まって動けない。それに重傷のハンスを抱えて逃げるには、エリスは非力すぎる。


 戦う? それも無理だ。いつも出掛ける際に持ち歩いている短杖がないし、あったとしても何もできずに終わるだろう。


 助けを呼ぶ? ダメだ。声が出ない。


「あ……た……たす、け……」


 しかし、今のエリスにはそれしかできない。例え言葉にならないとしても、助けを呼ばずにはいられない。


 震える体。かみ合わずに音を鳴らす歯。止めどなく流れる涙。脳裏によぎるのは、何故自分たちがこんな目に合うのかという疑問と、ハンスを助けられないという自責の念。


 助けは、来ない。誰とも知らない遺跡の中で、二人は死ぬ。ただ平穏を願っていただけなのに、呆気なく人生に幕を引く。


 その幕引きを司る男が、二人の目の前に立つ。剣を振り上げ、その凶刃が二人に振り下ろされようとした。それをただ、エリスは見つめることしかできない。


(誰か……助けて……!)


 届かぬ願いを、心で叫ぶ。その叫びを無視し、死神の鎌の如く剣が振り下ろされる。エリスは、ハンスに覆いかぶさって目を閉じ、やがて襲い来るであろう痛みを覚悟した。


(誰か……!)




 …………。




 …………?




 痛みが、来ない。目を開けると、目の前には苦し気に呻くハンスの顔。もしかして、自分は痛みを感じる間もなく殺されたのでは? 一瞬そう思うも、体にはまだ感覚がある。


 自分は、まだ死んでいない。そう気づいた時だった。


「な、何だ貴様は!?」


 先ほどの余裕とは違う、グレモアの焦りを含んだ声。振り返って見上げると、自分たちの命を奪うはずだった男の剣。その剣が、振り下ろされる直前で止められていた。


 目の前にいる、薄い茶色のコートを羽織った、大きな背中を持つ男性。黒い髪をした大柄の男性が、剣を持つ手を抑え込む形で止めていた。


「え……」


 突然の出来事に、エリスは戸惑う。処理が追い付かないエリスを置いて、事態は展開していく。


「ぐぁぁっ!?」


 コートの男性が、男が握る剣を持つ手を握りしめる。骨すら軋ませるその握力による痛みに男は叫び、剣を取り落とした。すかさず腕を男の背中に回し、コートの男性はグレモア達から距離を離す。そして男を拘束したまま、コートの男性は懐から黒い何かを取り出し、それを開いた。


 男性は叫ぶ。その言葉は、意味がわからず、内容は理解できない。だが、少なくともエリスは気付いた。




『警察や!! 全員武器を捨てろ!!』




 助けてという、心の声。


 それが今、届いたのだということを。




 運命が、動き出した。




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