3.少女の憂鬱

 


「ん……」


 風が吹く。少し強めの風は、太陽の光で白銀に煌めく長い髪と、耳の前辺りに下げられた二本の三つ編みを靡かせ、視界を覆う。薬草の入った籠を落とさないように持ち替えて、風で揺れないように片手で髪を抑えた。足を覆うロングスカートも風で揺らめきかけるも、籠で抑えられていたためにそこまで靡きはしなかった。


 風が弱まり、穏やかな物へと変わる。森の中の開けた場所にある、色とりどりの花を咲かせる薬草の群生地に一人立つ白いブラウスと空色のロングスカートを身に纏った少女は、周囲の草木が揺れる音を耳にしつつ、深呼吸をする。


 鼻腔に入り込む、草と花の香り。ほのかに甘い香りのする空気を胸いっぱいに取り込むと、少女は晴れやかな空を仰いだ。


 太陽の光、風の囁き、草木の香り。それら全てを取り込むイメージで、体全体で感じ取った。


「……やっぱり、ここは好きだな」


 ポツリと、穏やかな声で呟く。少女にとって、ここは大事な収入源であると同時に、憩いの場所でもある。娯楽の少ない生活において、薬草を摘み取るだけでなく、気持ちを切り替えたり、穏やかな気持ちにするために訪れたりしている、少女にとっての秘密の場所。ここを知る人間は、少女を含め、少女と一緒に暮らす同居人以外誰も知らない。


 しばらく少女は一人立ち続ける。それは、傍から見れば一枚の絵画に描かれるかのような、美しくも幻想的な光景。


 そして同時に、この世界から切り離されたかのような、寂寥感(せきりょうかん)を感じさせる光景でもあった。


「……あ」


 サファイアブルーの瞳を閉じ、彫像のように動かなかった少女。しかし、何かを思い出したのかのように声を上げ、目を開けた。


「おじいちゃんに、早くお昼を作ってあげなきゃ」


 道草を食っている場合じゃないと思い、少女は籠を手に気持ち早歩きで、その場を後にする。目指すは、我が家。一緒に住まう親代わりの老人に、元気になる薬を作るために。



 少女こと、ピエリスティア。愛称エリスは、我が家へ向かって歩き出した。



 風と草原の国『ウィンディア』。自然溢れる豊なこの国の東側に位置している山脈の麓の森。自然豊かなこの森の中に、ひっそりと佇むように建つ一軒の木造の家。近くに広がる小さな畑と、裏手にある小屋以外、特徴という特徴がない家が、エリスの住む家である。


 群生地から歩いて10分。家に辿り着き、エリスは飾り気のない扉を開ける。入るとすぐにダイニングルームがあり、正方形の木製テーブルとイスが二つ、そしてかまど等が置かれた台所がある。右手側、正確には東側には寝室、正面には裏口の扉がある。


「ふぅ……」


 扉を閉めてから、テーブルに薬草の入った籠を置く。一心地着いた時、寝室から足音が聞こえてきた。


「おお、エリス。帰ってきたのかい」


 白い髭を蓄えた老人が、少し曲がった腰を支える為の木の杖をつきながら部屋から出てきて、いくつもの皺が刻まれた顔を優しさが込められた笑みでエリスを迎える。エリスもまた、小さく微笑んで応えた。


「あ、ハンスおじいちゃん。今戻ってきました」

「すまないね。本当ならワシが薬草を摘みに行かないといけないというのに」


 申し訳なさそうに言いつつ、ハンスと呼ばれた老人は椅子に座る。その際、テーブルに杖を立てかけた。


「いいんです。私だってお手伝いしたいし……何より、あそこは私も好きだから」


 言いつつ、エプロンを腰に付けてエリスは昼の準備をするために台所に立つ。


「それに、おじいちゃんは今は腰を痛めているんですから……あまり、無茶はしないでください」

「うぅん、それはそうだけどもねぇ」


 調理の手は休めず、エリスはチラとハンスを見やる。エリスの気遣いに苦笑しつつも、椅子に座ったまま後ろ腰を摩る。少し痛むのか、若干顔を顰めている。


 この間までは、家の外へも元気に出ては、森の中を散歩しに行っていた。しかし、先日散歩中に転んでしまい、今では家の中を歩き回るのも億劫な様子で、杖を家の中でも手放せないとのことだった。以前までは薬草摘みは、エリスとハンスの交代制で行っていたが、今ではエリスが薬草を摘みに行っている。


 それに関しては、エリスは苦にしていない。寧ろ、自分をここまで育てくれた恩もあるハンスに、少しでも恩返しができるならばと、腰を痛めて生活に支障が出ている老人にできないことを率先して行っている。


 そう、ハンスの為に動くことは、何にも苦に感じていない。しかし、彼女にとっての心配は、別のところにあった。


「はい、おじいちゃん。昼食ができました」

「おお、ありがとう」


 そうこうしているうちに、昼食であるスープが出来上がり、器に注いでハンスの前にパンの乗った皿と一緒に置く。同じ物を自分が座る椅子の前に置いて、ハンスと向かい合う形で座った。


「ふむ、では……4の精霊を生みし大いなる神よ、あなたからの恵みに感謝を……」


 ハンスが手を組み、食前の祈りを捧げる。エリスも同じように手を組み、目を閉じる。毎日行われる世界共通の祈りを神に捧げ終えてから、二人はスプーンを手に取って食事を始める。


「うん、おいしい……エリスは本当に料理がうまくなったねぇ」

「そんな……おじいちゃんがいろいろ教えてくれたから……」

「いやいや、ワシでもここまでうまくはできないよ。誇りに思いなさい」


 ゆったりと、食事を進める。その間、一言、二言と、時たま会話を挟んでいく。静かな食卓ではあるが、エリスとハンスにとって、これが普通なことで、心地のいい時間だった。


「ところで、エリスや。少し聞きたいことがあるんじゃが……」

「はい? 何ですか?」


 ふと、食器を持つ手を止めたハンスに、エリスは聞き返す。ハンスは少し言いにくそうにしていたが、やがて意を決したかのように口を開く。


「その、最近のお前さんを見てると、何か思い悩んでいるように見えてな……何かあったのかと思って」

「…………」


 言われ、エリスは押し黙る。


 ハンスの言っていることは、恐らく今、エリスが最も危惧していることだろう。それが普段の顔に出ていたらしく、ハンスを心配させることになった。


 だが、このことをハンスに言うわけにはいかない。エリスは、笑顔をハンスに向けた。


「そんなこと、ないですよ。私はいつも通りです」

「むぅ……しかし……」


 そんなエリスを見ても言い淀むハンス。


「……本当に、大丈夫です。おじいちゃんは心配しないで」


 そんなハンスを見て、少し胸が痛くなりつつも、エリスは問題ないことをハンスに伝える。そんなエリスを見て、ハンスもこれ以上は言えないと悟ったのか、「そうか……」としか言えなかった。


「……あ、そうだ。おじいちゃんの薬を届けに行かないと」


 少し重くなってしまった空気を変えようと、努めて明るく言うエリス。立ち上がり、先に食べ終わった食器を台所に置いた。


「ああ、薬ならばもう出来上がっているよ。小屋に保管してあるから、持って行きなさい」

「はい。あ、食器は……」

「いい、いい。多少は動かないと体が鈍って仕方ないからの」


 言って、ハンスは笑う。


「それより、早く行きなさい。この辺りは危険な魔獣は出ないにしても、暗くなると足元が見えなくなって危ないからね」

「はい……じゃあ、行ってきます」


 ハンスに見送られつつ、エリスは裏口の扉を開ける。その際、扉の横の壁に吊り下げられるように設置されていた、先端に緑色の宝石が付けられた銀色の短杖、それから肩から下げるタイプの鞄を手に取った。


 裏口から出て、少し歩いたところにある離れの小屋の扉の鍵を開ける。中に入ると、部屋の奥まった場所には薬の調合するための道具やフラスコが乗っている机と、扉近くに置かれた棚に数多くの小瓶が収められていた。


 これは全て、薬剤師であるハンスがここ、作業小屋で作った薬である。最も、重大な病気やケガを治すためというものではなく、軽い腹痛用の薬や、あくまで疲労回復といった栄養ドリンクに近い物である。腰を痛めたハンス自身もまた、腰の痛みを和らげるための薬を調合して飲んでいたりする。


 これらをエリスは、家から徒歩で1時間かかる距離にある小さな村へ届けに行くことで、生計を建てていた。


 ただ、ハンスは森に住んでいる薬剤師ということで村人からは変人と見られているようで、一緒に暮らしているエリスにもどこか余所余所しい態度だった。けれども、ハンスの作る薬そのものは好評であり、それなりの収入は得られている。得たお金で、帰りに食材や日用品を買ってから、元来た道を帰るという生活を送っていた。


「えっと、これとこれ……と」


 受注されていた薬の種類を確認し、棚から小瓶を取り出して鞄に入れていく。割れないように慎重に入れてから、小屋から出て扉を閉め、鍵をかける。


 家には入らず、そのまま村へ続く道へと進む。振り返れば、ハンスが玄関横の窓から見送りのために顔を出し、にこやかに手を振っていた。


 エリスは、それに対して同じように笑顔で手を振り返し、そして歩き出す。道なりを真っ直ぐ進めば、村に辿り着く。すでに数えきれない程の回数を通ってきた、歩きなれた道。今更迷うことなどありえない。


「さて、早く届けて帰らなくっちゃ……」


 鞄を持ち、かつ瓶を割らないように注意を払いながら歩く。のどかな道を囲むように広がる、青々とした木々。天気のいい日にこの道を歩くのもまた、エリスは大好きだった。


 だが、そんな気持ちも、今抱えている不安によって霞む。昼食の時に言われた、ハンスの言葉。悩んでいることをハンスに見透かされ、僅かに動揺した時のことを思い出す。


(おじいちゃんは、大丈夫だって言っているけれど……)


 年々、ハンスの体が衰えてきていることを、エリスは知っている。本人は健康そのものであることを示し、エリスに心配かけまいとしている。だが、ハンスはケガのことを除いても、その体にはガタがきているのは火を見るより明らかだった。


 腰だけではなく、最近は食欲も落ちてきている。日課だった散歩も頻度が落ちているし、薬の調合も間違えてやり直したこともあった。常に細心の注意を払って調合をすることを心がけているハンスが間違えるというのは、エリスからすればあり得ないことだった。それが近頃になって当たり前のようになってきている。


 エリスは、少しでもハンスの助けになりたかった。だから、ハンスの日課の散歩に同行しようとしたこともあったが、それをハンスは拒んだ。一人でも大丈夫だと、そう言って。


(……でも、断った時のおじいちゃん、何だか様子が変だったな……)


 強がっているというよりは、エリスを遠ざけているかのようなハンスの態度であったことを、エリスは思い出す。エリスの同行をやんわりと断り、今でもハンスは一人で散歩に出ている。こっそり後からついて行こうとも考えていたが、ハンスにバレて嫌われたくなくて、エリスはそれをやめた。


 過去に一度だけ、エリスが小さい頃にハンスに手を引かれて散歩に連れて行ってもらった記憶がある。ただ、その散歩の内容も曖昧で、道の途中にどんな花があったとか、動物に会ったといった記憶がなかった。


「おじいちゃん……」


 立ち止まり、後ろを振り返る。視線の先には、遠くなって小さく見える我が家。そこにいるハンスを思って、エリスは不安げな表情を浮かべる。


 ハンスの体は、もちろん心配である。エリスにとって、唯一の育ての親。両親はおらず、赤ん坊の頃にハンスの家の前に置き去りにされていたというエリスを、ハンスは今日まで大事に育ててくれてきた、大事な人間である。


 自分の両親のことを知りたいと思ったことは、過去に何度もあった。けれど、ハンスはエリスの両親がどこにいるのかまでは知らないと言うし、家には両親のことを知るための手がかりはない。わかっているのは、ハンス曰く、とても心の優しい両親であったということぐらいだ。


 自分がどこから来て、誰の子供なのか、エリスはわからない。だが、エリスは今が幸せならば、わからなくてもいいと思っている。


 だが、思う。ハンスの近頃の不調を見て、エリスの不安は日に日に大きくなっていく。


「もし……一人ぼっちになったら……」


 その不安は、孤独。もし、ハンスがいなくなってしまったら、エリスは正真正銘、この世界で一人だけとなってしまう。


 生まれてからずっと、この家に住んできたエリスにとって、ハンスはかけがえのない存在。そのハンスがいなくなるということが想像できず、そして考えただけで胸が苦しくなる。


 そしてそれはいつか訪れる。人間の命は無限ではないことを、エリスはわかっている。


 わかってはいても、その日が訪れたら……。


「私……どうしたらいいんだろう」


 口にし、すぐにハッとして頭を振った。邪念を払うように。


「……また、考えちゃった……」


 こんなことを考えるから、ハンスに心配をかけさせてしまう。もう余計なことは考えるのはよそう。今は、ハンスが一日でも早く、腰を治すために頑張らないといけない。


 エリスは決意を新たに、村への道を歩く。収入を得て、買い物をして、家に帰って夕食の準備をして……そうした日常を送るために。



 いつもと変わらない日常を送れると、信じて。

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