2.始まりの一歩
不思議な感覚だった。全身を包む浮遊感。まるで水の中を漂うかのような感覚を、祐樹を感じていた。
(なんや、これ……ワシ、どうなったんや?)
目を開く。辺り一面、真っ暗闇。一寸先も光が見えない。そして、無音。聞こえるのは、自分自身の息遣い。
何故、こんな場所に来てしまったのか思い出す。突然、視界が真っ白に染まったかと思うと、意識は途切れ、やがて気が付いた時には、今に至っていた。脈略なんて何もない、唐突な、それも瞬間移動でもしたかのような展開だった。
何故ここにいるのか? 何があったのか? まるで布団の中のような心地よさを感じながら考え、そして気が付いた。
(そうか……ガソリンが引火して……ワシは……)
そう考えると、今のこの状況。これはもう、紛れもない、と言うのもどうかと思うが、間違いようがない。
(死んだんか……こりゃ……)
爆発に巻き込まれて吹き飛ばされた。自分の体はバラバラを通り越して粉々となり、身元の判別もつかないような状況だろう。
しかし、体はちゃんとある。手も付いているし、足もある。聴覚も、視覚も生きている。
となると、今のこの状態は、魂だけということなのか。死後の世界なんて想像もつかないが、これが死ということなのだろうか。ならば随分と寂しい世界だ。
呆気ない。祐樹は思う。まだまだ後輩の育成も、人々を守るという役目も完全に果たせていないのだ。心残りなんて山ほどあるし、戻れるものなら戻りたい。
だが実際、自分は死んだ。死んだらもう、どうにもならない。それが命というもの。受け入れざるを得ない。
せめてもの救いは、赤ん坊と、北本を避難させることができたことか。これから成長していく赤ん坊に、未来ある若者。この二つを守れたのだ。それだけでも体を張った意味はある。
ならばもう、このまま漂っているしかない。それしかできないのであれば、そうするしかないだろう。閻魔大王というのが実在するのであれば、裁かれるのを待つしかない。
嘘はついたことは……無いとも言えない。でも舌は抜かれたくないなぁとも思う。めっちゃ痛そうだし。
(まぁ、しゃぁないか。天国行くか、地獄行くか。んなもんは神のみぞ知る……っと)
どの道死んだ人間が行く場所なんて、決められっこないのだ。ならば目を閉じて、ゆっくりとこの浮遊感に身を任せて……
『死んでないよ』
「……は?」
それは、突然だった。何も無い、耳が痛くなるほどの静寂が支配する真っ暗闇の空間に響く、祐樹以外の声。思わず祐樹は目を開き、周囲を見回した。
誰もいない。右も左も、辺り一面の闇。人の気配が全くしない、不思議な空間に祐樹が一人漂っているだけ。
気のせいか? 孤独のあまり、人恋しさから幻聴が聞こえ始めてしまったのだろうか? 祐樹は不安になる。
『死んでない』
……気のせいでは、なかった。確かに聞こえた。子供の、それも幼い女の子のような高い声だ。この空間において、場違いともいえるような幼い、しかし感情が籠っていないような無機質な声。
だが、声は聞こえど姿は見えず。祐樹は、声の主を探す。
「だ、誰や? どこにおるんや?」
祐樹の問いが、空間に響いて消えていく。姿無き声は、その問いに応えることなく、無為な時間が過ぎ去っていく。
「おーい! 誰なんや!? 姿見せぇい!!」
諦めず、再び声を張り上げる。その声も、空しく暗闇に消えていくだけ。
『こっちだよ』
かと思えば、今度は返答があった。と言っても、その返答も見当はずれな物でしかなかったが。
『こっち』
「……いや、こっち言われても。どっちに行けばええのんかさっぱりわからな……」
どこを向いても闇が広がるばかりの世界な上、全方位から声が聞こえているかもわからないのに、『こっち』と言われてもどうすればよいというのか。そのことについて言及しようとした祐樹だったが、その言葉は遮られることとなる。
「う、お、ああああああああ!?」
突如として、ふわふわと浮いている状態だった祐樹の背中目掛けて風が吹き荒ぶ。それは嵐とも呼べる程強く、思わず海老反りとなる祐樹の体を、上へ上へと、凄まじい勢いで押し上げていく。
「おおおおおおおおおおお!?」
ただ風に押し上げられ、叫ぶしかできない祐樹。何分、ひょっとしたら数秒しか経っていないのかもわからない時間の中、暗闇しか写さなかった祐樹の視界が、光を捉えた。
その光は、最初は極めて小さな、点のような物だった。だが徐々にその光は大きくなっていき、やがてはその光は祐樹の体を飲み込まんと迫ってくる程の大きな物へと変わっていく。
「な、何なんや一体ぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
ついに祐樹の体を、光が覆う。暗い空間から、一気に明るい空間へと移った目が眩む。
祐樹の体を押し上げていた風が、止んでいく。体は落ちることなく、光の中へと投げ出された祐樹は、意識が徐々に眠気へと誘われていく感覚に襲われる。
まるで、光に溶けるかのように。もはや言葉も出ない。風による背中の痛みも、もう気にならない。
『元の世界に帰りたいなら』
意識が完全に眠りに落ちようとした……その寸前、祐樹は確かに聞いた。
『神に、会いに行きなよ』
無機質にも感じられる、しかし確かな懇願が込められた声を。
「ん……」
祐樹が目を覚ますと、眩しい光が目に飛び込み、思わず顔を顰める。聞こえてくるのは鳥の囀り、風が吹いて揺れてこすれ合う木々の葉の音。大の字で寝転んでいたようで、背中から柔らかい感触がする。手を動かして正体を探ると、どうも草の上で寝転がっているようだった。鼻からは草独特の青臭い臭いが届く。
ようやく目が慣れ、最初に視界に入ったのは、揺れる葉から差し込む木漏れ日。心地よい風に吹かれ、光が踊るように動く。
日差しの温もりと、風の涼しさ。それらを肌で感じ、再び意識が微睡に捕らわれようとしている。抵抗する気も起きず、再び睡魔に身を任せて、意識を闇の中へと……。
「って寝てどうすんねん!?」
睡魔を殴り飛ばすイメージで意識を覚醒させ、上半身をはね起こして叫ぶ。
「いっ!?」
突然起きたからか、背中が妙に痛い。思わず顔を顰めて、背中を丸めて腰の辺りを摩った。
少しして、痛みが引いた。落ち着いたところで、祐樹は改めて周りを見回した。
「んな……っ」
そして絶句した。
見渡す限りの木。そのどれもが背が高く、幹が太い物ばかり。見上げれば、深緑の木の葉が屋根のように生い茂っており、その隙間から木漏れ日となった日差しが祐樹を照らす。寝ていた場所は、数ある木のうちの一本の根元だった。
手を支えにし、地面を覆う若々しい柔らかい草の感触を感じつつ、祐樹は立ち上がった。そして思わず呆然と呟く。
「ど……どこやねん。ここ」
確か自分は、車の爆発から逃げ遅れて……その後、意識が無くなった。
自分は死んだのかと思った。しかし、爆発があった後に何かがあったような……誰かと何かを話したような気がする。だが、
「お……思い出せん。爆発事故の後に、何があったんやったっけ……?」
眉間を指で抑え、ヌヌヌと呻きつつも思い出そうとするが、記憶に靄がかかっているかのように、何も思い出せない。何があってここに来たのか、誰かと会話をしたような気がする……そう、気がするだけだ。どんな会話をしたのか、そもそも誰だったのかすらわからない。今唯一分かることと言えば、こうして呼吸し、地に足を着いている、つまり、生きているということだけだ。理由はわからないが幸いとして、五体満足どころか服も焦げ跡一つない。
「……せ、せや! 携帯……連絡を……!」
持ち物の中に携帯電話が入っているのを思い出し、ポケットからスマートフォンを取り出す。今までガラケーを使い続けてきたが、その便利さから上司に勧められて契約したものの、機械が苦手な祐樹にとっては、いまだ電話とメールくらいしか使いこなせていない文明の利器。時に若い刑事の話についていけない煩わしさを感じさせる道具ではあるが、こういう時にこそ役に立つ道具だ。
急ぎ、携帯を操作し、通話しようとした……が、それもすぐに愕然とする結果となる。
「け……圏、外……」
画面右上の電波のマークある場所。そこに陣取る“圏外”の絶望の二文字。考えてみたら、ここは自然豊かな場所。電波の一本も立たないのも納得だ。
しかし、納得できたからと言って状況が変わるわけではない。早速八方塞がりとなってしまった。
「……どないせえっちゅーねん」
途方に暮れ、携帯をしまって再び座り込む。都会のど真ん中から、いきなり大自然のど真ん中へ放り込まれ、混乱しない人間はそうそういない。祐樹もまたそんな人間であり、こんな森の中をどう動いたらいいのか、その道のプロでもないのにわかるはずもない。
しばらく、どうしようもなくなったせいで木の根元でボーッとする祐樹。そんな彼の周りでは、小鳥の囀りと風で揺れる枝葉が奏でる平和の音色。
(あぁ、平和やなぁ……クッソ平和)
内心で現実逃避すると同時に悪態をつく。こんな状況でなければ、昼食でも持ち込んでピクニックと洒落込みたいところだった。
ああ、一体自分が何をしたというのか。あれか。課長の胃のダメージ与えまくっているのが悪かったのか。だが仕方ないのだ。事件があっちから向かって来るって何回も説明しているのだが、課長が納得してくれないのだから。
でも、だからと言って、これは無い。事件の方から寄ってくるとは言うが、こんな意味不明な展開、過去の事件を大きく上回る異常事態だ。本当にごめん被りたい。マジで。
数分間、祐樹は目を閉じる。この混乱する頭を落ち着かせ、冷静さを取り戻すためだ。
「……よし」
やがて小さく呟く。爆発による被害や、署の人間の安否も気になるところではあるが、今は自分に置かれたこの訳のわからない状況を打破するのが先決だ。差し当たっては、電波の届く場所へ行って連絡を取り、迎えに来てもらうか、最悪はこちらから署へ帰らなければならない。
やる事は決まった。ここで現実逃避したところで、時間は解決してはくれない。元々、順応するのが早いことで署内では有名な(というより刑事として順応が早いことは重要であるというのは本人の談)祐樹は、気持ちを切り替えて行動に移す。
「っと、持ち物確認を……」
念のためにと持ち物をチェックし始める。
懐から取り出したるは、先ほどの携帯電話、いくらか入っている財布、封開けたばかりのタバコと100円ライター、筆記用具、袋入りの飴玉、潰れて形が歪になった昼飯の余りであるコンビニおにぎり一個、犯人確保に使われる手錠、そして警察官の必需品の警察手帳。左腕に巻いているのは安物の腕時計。
腰のホルスターからは、6連装リボルバー拳銃。弾倉を確認すると、全弾装填済みだ。
そして長年愛用してきた、二段階の伸縮性特殊警棒。親指でスイッチを押すと、黒い柄から銀色の細い金属棒が伸びる。使い込んでいるために年季が入っているが、使い勝手さは折り紙付きだ。
これと、拳銃。どちらも武器ではあるが、これらを使うような機会が来るということは、自身に危険が迫った時だけ。そんな危険が訪れないことを祈るしかない。
警棒を柄に戻し、持ち物チェックが終わる。全体的に見ると、サバイバルをするというと貧弱としか言いようがない装備。しかし、こんな事態になることを予想していなかったがゆえに、これでどうにか乗り切るしかない。
「……正直、右も左もわからんけども……」
歩かなければ、進まない。
立ち上がり、尻についた草を払う。上を見上げれば、先ほどと変わらない、柔らかい日差しが木漏れ日となって祐樹を照らす。その心地よさを感じながら、祐樹は一つ大きく頷いた。
「うむ、んじゃひとまず歩くとしますかい!」
両頬を叩き、乾いた音をたてて気合を入れる。
そして歩き出す。草を踏みしめ、当てもなく、しかし前をしっかりと向きながら。
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