第14話

かちりと小気味よい音をたててドアの鍵が開いた。視覚を用いないようにすると他の感覚が補完するかのように発達するらしい。今なら蟻の足音でも聞き取れてしまいそうだ。


 誰かが部屋に入ってきた。頬で感じた熱源の方へ祥子は顔を向けた。祥子の部屋に入ってくることができるのは合鍵を持っている人間に限られる。


 二階堂だ――


 心弾ませてアイマスクを外すより先に、発達した嗅覚がなじみ深い香りをとらえていた。


「悦子さん……」


 アイマスクを外したばかりの目に開いたドアからさしこむ日の光が痛かった。


「どうしたんですか、悦子さん」


「どうしたんですかって、それはこっちの台詞だよ! 祥子、あんた、無断欠勤して一体どうしちゃったっていうのさ?! 何度も携帯鳴らしたのに出ないし、やっとメールが来たかとおもったら、『助けてください』って言うんだから、すっ飛んできたんだよ! それにしても、ひどいことになってるじゃないか」


 部屋中に散るガラスの破片をよけながら、悦子は祥子のもとへとかけよってきた。姿見から姿を消したはずの女は、窓ガラスや食器棚のガラス戸の中に姿を現した。女の姿を見かけるたび、祥子は物を投げてガラスを割った。窓は割れなかったが、食器棚のガラス戸は粉々に砕け散ってしまった。どこにいくにも女がついてくる。それならばと、祥子はアイマスクで自分の目を覆い、女の姿を視界から消すことにした。


「この部屋の鍵はどうしたんです?」


「鍵? 二階堂のやつからひったくって来たんだよ。あんたたち、やっぱり関係があったんだね」


 祥子は目を何度も瞬かせた。昨夜からアイマスクをし通しだったうえ、カーテンを閉め切った薄暗い部屋では悦子の輪郭をとらえるのがやっとだった。


「悦子さん。私、『助けて』なんていうメール、送ってません」


 祥子はぽつりと呟いた。


「何言ってるのさ。祥子からメールをもらったから現にこうして私がここに来たんじゃないか」


 悦子は携帯を取り出して見せた。メールは確かに祥子から送信されていた。


「それは私が送ったんじゃないんです」


 携帯の青白い画面をまぶしそうに見つめながら、祥子は口元に薄笑いを浮かべてみせた。


「私の携帯を使って、誰かがメールを送ったんです」


「誰かが、って誰よ? 祥子しかいないじゃないの」


「私といえば私かもしれない。でもそれは私じゃないんです」


 そういうと祥子は姿見を指さした。


「あいつです。全部、あいつの仕業なんだ――」


 ひび割れた姿見には、戸惑う悦子と祥子が映っていた。鏡に映った祥子もまた、追及するように祥子にむかって指を突き出していた。


「あいつって……」


「こいつです」


 困惑する悦子にむかって、祥子は何度も鏡を指さした。鏡の中の祥子を責めているつもりだが、鏡のむこうの祥子もまた、鏡の外の祥子にむかって何度も指をさしてきた。


「こいつが勝手にメールを送ったんだ。たぶん、私が鏡の前から離れていたちょっとした隙にだろうけど。こいつはそうやって二階堂さんともこっそり会っていたんだ。銀座で悦子さんが見た私は私じゃなくて、鏡の中のこいつなんです。私が鏡の前にいないのをいいことに抜けだしていたんだ。こいつはそうやって、ゴミをベランダから投げ捨てたり、隣の女のところに音楽がうるさいって怒鳴り込んでいったり、二階堂さんの奥さんに変なメールを送り付けたりしていたんだ」


「変なメール?」


「そうです。こいつは、私の携帯を使っていやらしいメールを送っていたんだ」


 祥子は床に散らばった写真や文書の中から、写真の印刷された紙を拾って悦子に渡した。印刷されたその写真を目にした悦子は言葉を失っていた。初めてその写真を目にした時の祥子と同じ反応だった。


 写真には裸の乳房や尻、女性器などが写っていた。


 それは二階堂の妻、彩あてに送られてきたメールのコピーで、内容は卑猥かつ下劣なもので、二階堂との関係を示唆しつつ、彩に別れを迫るものばかりだった。


 茶封筒の中からメールのコピーを発見した時、祥子は初め、彩の嫌がらせだと思った。自分の裸の写真を取って彩に送り付けた覚えなど全くない。しかし、もしやと携帯の送信履歴を確認して祥子は驚愕した。祥子の携帯から彩あてに確かにメールや写真が送付されていたのである。


「祥子じゃなかったら、誰がこんな写真を撮ってメールで送れるっていうのさ」


 悦子は疑いの眼差しを投げかけた。


「だからさっきから言っているように、こいつなんです」


 祥子は鏡を指さした。鏡の中の祥子も指さしかえした。互いに互いを責め合っている図に、悦子は首を振った。


「しっかりしな、祥子。それは鏡にうつった自分だよ。あんた、さっきから鏡の像が抜け出して悪さしているみたいなこと言ってるけど、そんなことあり得ないんだよ。あんた、本当は自分が悪いことしたってわかっているんだ。でも認めたくなくて、鏡の中の自分がやったことにしている。でも、そうやって鏡にむかって責めている相手は自分自身に他ならないんだから、心の底では悪いことをしたと反省しているんじゃないの」


 悦子の話の途中から、祥子は首を横に振り回し始めた。違うのだ、悦子は誤解している。無意識に自白しているのではない。祥子の妄想でも何でもなく、現実に鏡の像が祥子とは無関係に外の世界で動きまわっているのだ。


 やつらは普段は鏡の中で対象物の動きを詳細に真似ている。何が目的でそんなことをしているのかはわからない。わからないが、とにかく、対象物が鏡の前に立つと、彼らは姿を現し、対象物の動きをそっくりそのまま真似てみせるのだ。その物まねがあまりにも完璧なものだから、鏡を見ている人間は自分が映っていると思いこんでいる。だが、祥子は彼らの存在に気づいてしまった。鏡の像の動きが自分の動きからずれて見えたからだった。


 やつらは対象物が鏡の前にいない間は鏡の中から抜け出して好き勝手にしているのだろう。祥子の像は、祥子が鏡の前にいない間に、ゴミを窓から投げ捨てたり、隣人に怒鳴り込んでいったりしていたのだ。


 だが、祥子には、鏡の像が祥子とは別の存在なのだと証明のしようがない。


 何か証拠はないのか、悦子が納得せざるを得ないような確たる証拠は――

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