第12話
帰宅するなり、固定電話がけたたましく鳴った。時刻は夜の10時を過ぎていた。間違い電話だろうと、祥子は取り合わなかった。友人や母なら携帯電話にかけてくる。間違いではなく用のある人間なら留守電にでもメッセージを残すだろうと、祥子は風呂に水を張り始めた。まるで祥子が部屋にいるのを知っているかのように電話は鳴りやまず、留守電に切り替わってようやく部屋は静かになった。
発信音の後、沈黙があってメッセージを残す人の声が聞こえてきた。
「八田さぁん、おトイレかしら? 聞こえていたら電話を取ってちょうだい。大事な話があるのよ――」
自治会長の秋山信子だった。祥子は慌てて風呂の水を止め、受話器を取った。
「すいません、今、お風呂に入ろうとしていて」
「あらそうなの。ごめんなさいね、そんな時に電話して。でも、あなたいつも帰りが遅いから、こんな時間でも早く帰った時につかまえないとお話できないから」
秋山夫人は祥子に風呂を使わせる気はないようだ。祥子はあきらめて椅子に腰かけた。話は長くなりそうだった。
「お話って何でしょうか」
秋山夫人とは顔見知りだが、とりたてて親しくしているというわけではない。小柄な秋山夫人は白髪交じりの長い髪をいつも団子に結っている。俳句が趣味で、自費出版したという句集を祥子は付き合い程度に1冊購入したが読んでもいない。秋山夫人が親しくしているのは、祥子の隣人で同じ自治会仲間の風間婦人だ。自治会長じきじきに電話してくるとなると、話は簡単には済まず、話題はおそらくゴミ出しについてだろう。秋山夫人の裏には風間婦人がいる。祥子が帰るなり電話が鳴り、居留守を使っても電話が鳴り続けたのは祥子が部屋にいると知っている風間婦人が秋山夫人に連絡したからだろう。
「あのね、お宅の生活音がうるさいっていう苦情が来てるのよ」
だが、話はゴミ出しではなく、騒音についてだった。
「うちの音がですか?」
祥子のたてる音がうるさいと文句を言うのは風間婦人以外にいないが、そう言ってしまって、祥子は思い当たることがあった。
「それはうちじゃなくて、うちのお隣の人だとおもいます。夜中に音楽をかけるのでこっちも迷惑しているんです」
「ええ、まあ、405室の音楽については他の方からも苦情がきてましたけど。あなた、直接文句を言ったらしいじゃないの。何だかすごい剣幕だったとかで、あなたのことが怖いと言って405室の人、引っ越していかれましたよ」
隣人同士の付き合いがないので、隣の女が引っ越していった事実を祥子は初めて知った。どうりで最近は静かだったはずだ。
だが、隣の女を相手に文句を言った覚えはない。言いたいと思ったことは認めるが、言ってはいないはずだった。文句を言いにいったのなら覚えているはずだ。しかし、秋山夫人のいうその出来事を祥子はまったく覚えていない。
「そうね、何と言ったらいいかしらね」
秋山夫人は言い澱んだ。よほど言いにくいことを言わなくてはならないらしい。
「八田さん、お付き合いされている方がいるでしょう」
二階堂のことだった。昼間、彩から別れたいという二階堂の意思を知らされた今、「お付き合いされていた」方という過去形がふさわしい表現だったが。それでピンときた。“生活音”とは、二階堂と事に及んでいる時の物音を指していた。ベッドのある壁の向こうは風間婦人の部屋だ。壁に耳をあてれば喘ぎ声のひとつでも聞こえていたかもしれない。
「その件でしたら、もうご迷惑かけないとおもいます」
祥子は茶封筒を引き寄せて、写真を引き出した。二階堂の妻が撮らせた浮気の証拠写真。二階堂は写真をつきつけられ、彩に祥子とは別れると宣言してしまったのかもしれない。
「それとね、ゴミ出しの件」
やはりその話になるかと祥子は身構えた。
「ゴミ出しなら、きちんと朝起きてやってます」
と言いながら、祥子は不思議に思った。ここのところのゴミ出しの記憶がないのだ。朝起きてすぐに出しにいけるよう、夜のうちにゴミ袋を玄関先に出しているのだが、集積所まで持っていった記憶がまるでない。朝は半分寝ぼけているし、ゴミ出しのような習慣をいちいち覚えていはいないが、それにしては奇妙だった。しかし、部屋にゴミ袋のないところをみると、きちんと出してはいるようである。
「そう、そのゴミ出しの件なんだけれども……」
言いにくそうに秋山夫人は言葉を濁した。
「朝出しているっていうけれど、あなた、燃えるゴミも燃えないゴミも、ベランダから集積所にむかって放り投げているっていうじゃないの。それは出したとは言わないわね。一度、たまたま下を歩いていた人にゴミが当たりそうになったことがあるそうじゃないの」
受話器を手にしたまま、祥子は開いた口がふさがらなかった。4階のベランダから集積所にむかってゴミを放り投げてなどいない。そんなことを考えたこともないし、していればいくらなんでも覚えているはずだ。
「そんな非常識なこと、するわけありません!」
怒りで祥子の声が震えていた。
「どうして、ベランダからゴミを放り投げているのが私だって決め付けるんですか? 私の上の階か下の階、隣の人ってことも考えられますけど」
「それはね、見た人がいらっしゃるんです」
「誰ですか?」
「誰だっていいじゃありませんか。それより、大事なのはベランダからゴミを投げるのはやめていただきたいってことなの」
祥子は何も言い返せなくなってしまった。ゴミをベランダから投げるなどするはずがない。だが、ゴミを集積所まで運んでいった記憶はまるでない。もしかしたら寝ぼけてゴミをベランダから下の集積所めがけて投げ落としたかもしれない。それを風間婦人に見られていたり、もしやゴミが当たりそうになったが風間婦人だったとしたら……。最近のよそよそしい風間婦人の様子からも考えられなくもない。だが、いくら寝ぼけていてもゴミを投げるなど、自分はするだろうか。
自分に似た誰かが、ゴミを放りなげたとは考えられないだろうか。風間婦人は見間違えたのに違いない。夜目に若い女は同じように見えるだろう。きっとそうに違いない……。
ふと部屋の中に人の気配を感じた祥子は、反射的に背後をふりかえった。人がいるとおもったのは姿見にうつった自分の姿だった。椅子に座り、右手に受話器をもち、左手はテーブルの茶封筒の上に添えらえている。祥子は手元を見下ろした。茶封筒の上に置かれている手は右手だった。
自分に似た人間がそこには存在していた。左右が逆転していることを除けば、それは祥子自身に違いない。
祥子は受話器を投げ出し、茶封筒から写真を引き出した。手で引き出すのももどかしく、祥子は封筒を逆さまにしてふるい、中身を床の上にぶちまけた。その中に祥子は目当ての写真を探した。
銀座のレストランで食事をしている祥子と二階堂の写真だ。窓際の席にいるふたりを浮気調査員が写真に撮り、悦子にも目撃されている。だが、その日、祥子は東京を遠く離れた場所にいた。二階堂と食事をしている女が祥子であるはずがない。
祥子は写真にぐいと顔を近づけた。写真の祥子は左手にフォークを持っている。祥子は右利きだから写真が反転しているのだろうとばかり思っていた。だが、向い合せに座る二階堂の指輪は左手に光っていた。写真が反転しているのではない。
反転しているのは祥子のほうだった。
写真から顔をあげた時、祥子は鏡に映る自分の姿と目があった。もう一人の自分がそこにいた。写真を手に立ち上がった祥子に少し遅れて、鏡像の祥子も立ち上がった。
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