第11話
約束の時間より早く、祥子は待ち合わせ場所のファミレスに到着した。30分もあれば心の準備ができるだろう。
祥子を呼び出したのは二階堂の妻、二階堂彩だった。仕事の最中、会社の電話に連絡があり、話がしたいと言われた。何の話かは容易に想像できる。
携帯電話の送受信メールを削除するなど二階堂は用心してくれていたはずなのにどうして関係が妻に明らかになってしまったのかといぶかしく思ったが、何かほかに女の存在を示すような証拠を握られてしまったのかもしれない。何をしくじったのかと今更考えても仕方のないことだ。別れてくれと言われるのはわかっていたが、祥子は別れるつもりはない。二階堂の妻とはいずれは対決しなければならなかっただろうと、祥子は覚悟をきめた。
平日の昼間とあって客は主婦が多かった。指定されたファミレスは住宅街の駅近くにあったから近所の主婦だろう。子ども連れが目立っていた。きゃっきゃと声をあげて店内をかけめぐる子どもたちの姿をみると祥子の胸が痛んだ。彩は妊娠している。祥子の存在は生まれてくる子から父親を奪う憎きものでしかないのだ。
約束の時間きっかりに彩は姿を現した。祥子は彩の顔を知らなかったが、向こうは承知しているようで、店に入ってくるなり、まっすぐに祥子のもとへと向かってきた。
ふっくらと目立ち始めた腹に手をそえ、彩は祥子のむかいの席に腰をおろした。再婚だとは聞いて知っていたが、それにしても若い妻だった。三十はいっていないだろう。化粧をしていないのでより幼くみえた。
「二階堂が世話になっています」
嫌味のこもった彩の挨拶に、祥子はとりあえず頭を軽く下げておいた。
彩はアイスコーヒーを注文した。アイスコーヒーが届けられるまで5分となかったはずだが、沈黙が続く時間は長く感じられ、手持ち無沙汰な祥子はオレンジジュースを何度となく口にしていた。
注文したアイスコーヒーが届けられるなり、彩はグラスを脇によけた。
「妊娠しているから、カフェインは避けないと」
アイスコーヒー代は場所代ぐらいのつもりらしい。もともと、お茶の時間を楽しむつもりではないだろうし、祥子も茶飲み友だちでもない。
空いたテーブルの上に彩は茶封筒を投げ出した。
「二階堂とのことはすべて調べがついています。関係がないだなんてしらばっくれないでくださいね。証拠は全部ここにそろっていますから」
彩は封筒を開け、中身を取り出してみせた。封筒に入っていたのは引き伸ばされた写真たちだった。すべてに祥子と二階堂が映っている。祥子のマンションに出入りする二階堂の写真も数枚含まれていた。
「あなたに慰謝料を請求することもできるけど、しません。請求しない条件として、二階堂と別れてほしいの」
来たなと祥子は身構えた。
「もし別れないといったら?」
「慰謝料を請求します。それからあなたの上司に、あなたと二階堂の関係を言います。会社にわかったら、あなた、会社に居づらくなるでしょ?」
「二階堂さんだって――」
祥子が二階堂の名を口にしたとたん、彩の顔が険しくなった。名前を呼ぶなど汚らわしいと言わんばかりの剣幕に気圧されて祥子は口をつぐんでしまった。
「二階堂は男ですから。女とは違います。彼は会社にとって手放したくない有用な人材だけど、あなたはどうかしら? 彼は今の会社を辞めても引く手あまたでしょうけど、あなたは? この就職難のご時世に再就職は大変なのじゃない?」
薄い眉のせいで黒目がちの瞳がかえって顔の中で目立ってしまっていた。愛らしいはずのその瞳が蛇の目のように禍々しい。
彩は、藤重さやかにもこの調子で二階堂との別れを迫ったのだろうか。さやかは自殺したらしいが、彼女を精神的に追いつめていったのはひょっとして彩ではなかったのか。そう思うと、祥子は落ち着かなくなった。いつ彩に取って食われるかわかったものではない。その場を逃げ出してしまいたかったが、金縛りにあったように体が動かない。瞬きを忘れたような彩の執拗な視線が祥子をその場に縛り付けていた。
「もう十分楽しんだのじゃない? 二階堂にとってあなたとのことは遊びだったの。あなたもそうでしょ? でももう遊びの時間は終わり。私たちには子どもが生まれるんですから、あの人にも父親の自覚をもってもらわないと」
彩はこれ見よがしに膨らんだ腹をさすった。お腹の子どもは、二階堂が彩と関係をもったゆるぎない証だった。彩は妻なのだから関係があって当然なのだが、妻とは寝ていないと思い込んでいた祥子にしてみれば、彩の妊娠は二階堂の自分に対する裏切り行為でしかなかった。
二階堂との関係は遊びなどでは決してないと祥子は叫びたいが、のどが熱くなるばかりで言葉が出ない。祥子は真剣だったが、二階堂の口から結婚といった未来についての約束がなされたことは一度もなかった。
「あなた、まだ若いんだから、妻子持ちなんかとはさっさと別れて、結婚してくれそうな男と恋愛しなさいよ。遊んでばかりいるとあっという間に年とっちゃうわよ」
友人から言われたのなら親身な忠告と受け止められただろうが、二階堂の前妻から妻の座を奪った彩に言われると癪にさわった。
「私、二階堂さんとは別れません」
やっとのことで祥子は声を絞り出した。あまり長いこと黙っていたので、発声が少しおかしいことになっていた。彩が聞き逃したかもしれないと祥子は咳払いをし、
「別れませんから」と繰り返した。
「二階堂は別れると言ってるけど」
彩は勝ち誇ったような表情を浮かべていた。黒目がいよいよ顔の中心で目立っていた。
「私には、あなたとは別れると彼は言ったの。自分であなたに別れを言えたらいいんだけど、面倒くさがって。そういうわけだから、二階堂とはもう終わり。彼の携帯からあなたの番号は消しました。あなたも消してね。かけてきても着信拒否にしてあるから無駄よ。彼にはもう二度と連絡してこないで。それと私に変なメールを送ってくるのも、やめてちょうだいね」
言いたいだけいうと、彩は釣りはいらないといってアイスコーヒー代を置き、腹をいたわるようにして店を出ていった。
どれくらい正気を失っていたのだろう。グラスをさげようと店員がやってきた時、オレンジジュースはとけた氷のせいでオレンジ色の水にと変わっていた。祥子はオレンジ味の水を飲みほすなり、新たにアイスコーヒーを注文した。暖房が効きすぎているのか、喉が渇いて仕方なかった。
アイスコーヒーが届けられるなり、祥子はストローを吸い、一気に半分ほど飲み干してしまった。勢いよく冷たいものを飲んだものだから、胃がきゅっとしまったところで祥子はストローから口を放した。
見たばかりの夢を思い出すように、祥子は記憶をさかのぼっていった。
妊婦、アイスコーヒー、黒目、別れ話……。
そうだった、二階堂の妊娠した妻が別れ話をもってきたのだった。
夢ではない証拠に、テーブルの上には彼女が投げ捨てた硬貨と茶封筒があった。祥子は封筒からなかばはみ出していた写真を取り出した。彩が探偵だかに依頼して撮らせた二階堂と祥子の密会の様子の写真だ。二階堂が祥子のマンションを出入りする写真や、ふたりでレストランで食事をしている写真などがある。
祥子は二階堂の写真をもっていなかった。こんなものでも思い出の写真となるかと祥子は二階堂の顔を愛おしそうに指でなぞった。それはレストランで食事中のふたりを外から撮った写真だった。窓際の席に向い合せに座る二階堂と祥子とは笑顔で食事を楽しんでいる。いつどこで撮られたものか祥子には覚えがない。写真の日付をみると、その日はちょうど長野に出張していた日だった。二階堂の声だけでも聞きたいとホテルから何度も携帯を鳴らしたが電源が切れているといって連絡が取れなかったその日、悦子が銀座で祥子を見かけたといったその日だった。
祥子は写真を食い入るようにみつめた。写真の女は左手にフォークを持っている。どうやら左利きらしい。祥子は右利きだ。
血が頭に逆流していった。この写真に写っているのは自分ではない。自分によく似た誰か別の女だ。やはり二階堂には新しい女がいたのだ。二階堂が突然別れようという気になったのは新しい女のせいだ。
逆上して写真を破り捨てようとした祥子だったが、はたと女のしているアクセサリーに目がとまった。ニットのワンピースの開いた胸元にペンダントが光っている。それはガラス細工を趣味とする母が作ってくれたものだった。青鉄色を巻き込んた短冊のようなデザインのペンダントは祥子しか持っていない。写真の女は祥子に間違いなかった。祥子はほっと胸をなでおろした。裏切りは彩の妊娠だけで十分だった。
祥子の左手にフォークが握られているのは、写真を現像する段階で反転してしまったせいか何かだろう。写真を封筒にしまいこむと、祥子はファミレスを後にした。
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