第10話
二階堂がシャワーを浴びている隙に、祥子は彼の携帯電話を盗み見た。
悦子は、先週の水曜日の深夜に二階堂と祥子を銀座で見かけたと言った。しかし、祥子はここしばらく銀座には行っていない。それどころか、先週の水曜日は長野に出張していた。悦子はすっかり忘れていたが、祥子は話の途中で思い出していた。悦子が見かけた祥子というのは、祥子に似た別の女性に違いない。夜遅い時間だったというから悦子は見間違えたのだろう。
二階堂に新しい女が出来たかどうかを確かめるべく、祥子は彼の携帯電話を握りしめた。
ロックはかかっていなかった。受信メールをチェックする。祥子からのメールはすべて消去されていた。祥子に送ったメールもすべて削除しているだろう。浮気の証拠はきれいに消されていた。ロックをかけないでいるのも、やましいことは何もないと主張してみせる二階堂のテクニックなのかもしれない。その用心深さに関係を続けていくことができる安心感を得つつ、祥子は少し寂しいような気がしないでもなかった。存在しないとされる関係、それが祥子と二階堂の関係なのだ。
この分ではたとえ新しい女からのメールがあったとしても消されているだろう。そうは思いながら、祥子は何とはなしにそのまま受信箱に入ったメールを読んでいった。仕事がらみの内容や男の友人からのものばかりである。その中に、唯一、女の名前で送られているメールがあった。さては新しい女からのものかと、祥子はそのメールに絞って読んでいった。
メールの内容は、何時に帰ってくるのか、帰りにスーパーで牛乳を買ってきてくれだのという所帯じみたものだった。残してあるところをみると、妻からのメールなのだろう。
二階堂は家庭の話を一切しなかった。浮気相手に妻の話をする男は少ないだろうが、不満や愚痴を漏らしてもいいはずなのに、まるで独身であるかのように一切、その手の話は出なかった。祥子の方でも、気にはなりつつも二階堂の家庭については何も聞かなかった。
だが、妻とのメールのやり取りを見ているうち、それまで興味のなかった家庭人としての二階堂の姿が気になり始めた。妻に言われるままに牛乳を買って帰る良き夫の二階堂。それは祥子の知らない二階堂だった。その妻とはどんな人間だろう。
祥子はメールをさかのぼって読んでいった。どうやら妻は体が弱いらしく、その体調を気遣ったメールが多い。二階堂からのメールには、買い物をかわりにするだとか、夕食は外で食べてくるといったものが多い。外食の連絡のうちのいくつかは、祥子と会っている日だった。
だが、妻は体が弱いのではなかった。
とあるメールの一文に、祥子は目を奪われた。そこには「できたかも」とだけあった。何がという主語は略されている。言った当人にはわかっているものが「できた」らしい。そのメールに対する二階堂の返事は笑顔の顔文字だった。
その後のメールには、病院がどうの、予定日がどうのと続くのだと、先に目を通してしまっていた祥子には分かっていた。
妻は妊娠していた。
とたんに吐き気を催し、祥子はトイレにかけこんだ。吐いて吐き続け、胃の底を裏返したほどに吐いても、胸のむかつきが収まらない。
祥子と関係を持ちながら、二階堂は妻とも寝て妊娠させていた。そして自分の子どもを宿している妻をほったらかしにしておいて、こうして祥子の部屋を訪れて関係を持ち続けている。
二階堂に触れられた肌がそこから爛れていくような気がする。祥子は目に涙をためながら、洗面所で口をゆすいだ。
ようやく吐き気の収まったところで顔をあげると、恐ろしい形相の女と目があった。おもわずぎょっとしたのもつかの間、それは鏡に映った祥子自身だった。
こんなに目がつりあがっていただろうかというほど両目が険しく、白目は血走っている。
一体この女は何者なのかと、祥子は他人をみるような心地で鏡を見つめた。とても自分の姿が映っているとは思えない。女も不思議そうな顔で祥子を見返していた。
蛇口をきつくしめる音がして、シャワーが止まった。祥子は慌てて洗面所を出、ベッドへと戻ろうとした。
その時だった。
部屋の中を横切ってベッドへと向かおうとする人影が見えた。とたんに祥子はその場を動けなくなった。床に釘で打ち付けられたように足が前へと踏み出せない。人の気配が背中にあった。
恐る恐る祥子は腰だけひねって背後を振り返った。
壁に女の顔がある。と思ったのは、姿見にうつった自分の姿だった。
「どうした、こんなところで」
腰にバスタオルをまいただけの二階堂がバスルームから出てきて、祥子の首筋に唇をあてた。
「コンタクト、外そうとおもって」
素早く身をひるがえし、祥子は洗面所へとかけこんだ。顔を伏せてコンタクトを外す。そのまま鏡を見ないようにして洗面所を出た。何か別のものが映っているような気がして祥子は鏡を見ることができなかった。
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