第9話

店名の染め抜かれた暖簾をくぐり、悦子は引き戸を開けて店内へと踏み入っていった。その後を祥子が追う。カウンターの席には男女の客があった。親子ほど年の差があったが、親子ではないだろう。


 祥子たちは悦子が予約しておいた個室の座敷へと通された。掘り炬燵の堀に足を入れるなり、悦子はふうと息を漏らした。その顔は職場での上司という仮面を脱ぎ捨て、40すぎのひとりの女に戻っていた。


「ここの主人はね、もともとはフランス料理のシェフだったんだって。でも何だかしらないけど急に和食に目覚めたらしいのよ。フランス料理を和風にアレンジしてあって、ちょっと面白いんだ」


 悦子の言った意味は料理を口にして初めて理解できた。食材の味をそのままにという姿勢は和食のスタイルに違いない。しかし、味付けにどこに重みを感じるのはフランス料理の手法によるものなのかもしれない。それを箸で食べ、悦子はワインではなく日本酒をグラスで飲んでいた。


 おいしいから飲んでみてはどうかと日本酒を勧められた祥子だったが、悦子と飲んだ後に二階堂に会う約束になっていたので、遠慮していた。


 帰り際、祥子は悦子に飲みに行こうと誘われた。次号の発行準備にとりかかるまでまだ少し余裕のある時期だ。そんな時期でないと二階堂とゆっくり過ごせないのだが、上司の悦子の誘いを断るわけにはいかない。二階堂には合鍵を使って部屋にあがって待っていて欲しいと連絡し、祥子は気もそぞろに悦子の晩酌に付き合っていた。


「先週の水曜日にさ、銀座で祥子を見かけたよ」


「銀座ですか?」


 祥子はこの一週間の記憶をさかのぼってみた。しかし、一週間どころか、1か月ほど銀座には足を向けていない。


「夜遅い時間で、二階堂と一緒だった――」


 悦子はグラスに残っていた日本酒を一気に飲み干した。江戸切子の美しい細工のグラスだった。


「付き合ってるの?」


 祥子を見据える悦子の目が血走っていた。祥子は黙ったまま首を横に振った。悦子は嘘だろうと言わんばかりに祥子を見据え続けていたが、祥子はその強い視線に屈しなかった。先週の水曜日の夜、銀座で祥子と二階堂を見かけたというのは悦子の嘘だ。二階堂との関係を白状させようとして、悦子はかまをかけているのだ。


「二階堂部長は結婚しているんですよ」


 淹れてもらったばかりの日本茶の湯呑に添えていて温まっているはずの指先が冷たい。


「大人同士の割り切った関係なら、不倫だろうと何だろうといいんだけど――いや、よくないね」


 空のグラスを力強く握る悦子の手が白くなっていた。


「あいつの、二階堂の今の奥さんね、2人目なんだよ。今の奥さんと関係があった時、あいつは結婚してた。前の奥さんとは社内恋愛で同じ営業部の子だった。私と同期。浮気相手も同じ社内で、あいつ、経理の女の子に手をつけたんだよ。浮気がばれたのか何か知らないけど、あいつは離婚して再婚した。こういうのは当人同士の問題だから他人がとやかく言う問題じゃない。不倫も浮気も嫌だけどね。子どももいなかったし、誰かを傷つけるわけでもなし――そう思っていたんだけどね。傷ついて死んだ人間がいるんだよ……」


「藤重さやかさん……」


 祥子がその名を口にしたので、悦子は驚いていた。


「知ってた?」


「はい。噂で」


「その噂は本当だよ。さやかは二階堂と不倫の関係にあった……」


 悦子のもらしたため息は酒臭かった。


「みんな気づいていたんだ。知らぬは当人同士だけ。いくら気をつけているつもりでも、周りには分かるんだ。みんな知ってて何も言わなかった。二階堂の病気がまた始まったぐらいに思っていたんだ。でも、誰かが社長に密告した」


「誰だったんです?」


「わからない。たぶん、社内の女の子の誰かだろうと思うけど」


 女の嫉妬だろうと祥子は勘ぐった。二階堂と藤重さやかの関係を暴露し、ふたりが破局すれば二階堂が自分に振り向くとでも思った女がいたのだろう。あまりに浅はかな考えだが、その女に同情しないでもない祥子だった。


「社長は不倫なんてとんでもないっていって、二階堂を首にするって言いだした」


「不倫で解雇ですか」


「さやかが社長のお気に入りだったんで、社長の気持ちの半分は嫉妬もあったんだと思うよ。とにかく、首にだけはしないでくれって、私から社長に頼んだんだ」


「悦子さんが、ですか?」


「同期のよしみでね。あいつ、女にはだらしないけど、いいやつには違いなかったから。それに仕事も出来たしね。社長も冷静になって考えたら首にはできないって思ったんだろう」


「それで、営業所に異動に」


「向こうでも営業成績はトップクラスだったらしいから、部長に出世して帰ってきやがったけどね」


 祥子は初め、悦子は二階堂に気があるのではないかと疑っていた。しかし、悦子の口ぶりからは男女の感情などみじんもうかがえず、あるのは強い仲間意識だけだった。


「さやかは会社を辞めた。二階堂とは別れる、新しい人生を歩むっていうんで、私が保証人になって引っ越ししたけど、関係は続いていたんだね。あいつの、妻とは別れるという言葉を信じてしまったんだろうね……」


 二階堂の再婚は不倫のあげくだった。藤重さやかが二階堂の言葉を信じたことを祥子は責められなかった。祥子との関係で結婚の二文字は出てきたことがないが、もし二階堂が妻とは別れると言ったら、自分もその言葉を信じてその時を待つだろうと容易に想像できた。


「さやかに、二階堂とは別れろと何度も言ったけど、ダメだった。結局、さやかは自殺したんだよ……」


 かみしめて口紅のはげた下唇に、悦子の口惜しさが滲んでいた。


「事故だったと聞いていますけど」


「事故には違いないよ。電車にはねられたんだから。でも自分から線路に落ちていったのなら、それは自殺だろう?」


 悦子は美しい眉を人差し指でなぞった。まるで涙の出るのを止めるまじないのような所作だったが、そのまじないは効かなかった。


「二階堂とだけは関わるんじゃないよ。あいつが魅力的な男だっていうのはよくわかる。いい奴には違いないんだ。でも、こと女に関してはだらしない奴なんだ。私はね、もう誰にも傷ついたり、死んでもらいたくはないんだよ――」


 真珠のような悦子の瞳から大粒の涙がいくつも零れ落ち、テーブルを濡らした。

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