第8話
「物がずれて見えるんです」
悩んだ挙句、祥子はそう医者に告げた。
鏡にうつった像が実際の自分の動きに遅れる現象は「ずれる」としか言いようがない。だが、自分が抱えている問題をうまく言い表せないでいる不満が残った。「ずれる」とは別の言葉がふさわしい気がするが、他の言葉が思い浮かばない。
初めのうち疲れ目のせいだと思っていた「ずれる」現象は、最近になって頻発するようになった。電車の窓、ショーウィンドウ……鏡でなくても祥子の像が現れる場所で、ふとした動作がずれてみえる。時間にするとわずか1、2秒の出来事だ。疲れ目という単純な問題ではなく、もしかしたら目に重大な異常があるのかもしれない。一度、医者に診てもらったほうがいいだろうと祥子は眼科の門を叩いた。
「物がずれてみえると」
中年の男の医者は祥子の言葉を復唱し、カルテに書き付けていた。
「八田さん、普段はメガネですか?」
医者の視線が祥子の黒縁のメガネをとらえていた。医者もメガネをかけている。
「いいえ、普段はコンタクトです」
眼科だから目の検査をするだろうとコンタクトは外してきていた。
「物がずれて見えるのは、裸眼の時ですか、それともコンタクトをしている時?」
「裸眼でも、コンタクトをしていても、ずれて見える時があります」
「なるほど」
医者はカルテを書き込む手を止め、
「乱視と言われたことは?」
と尋ねた。
「乱視だと物の輪郭がぼやけて、その物がずれて二重にも三重にもあるように見えるんです。乱視のほかにも、複視といって、やはり物がずれて二重に見える症状もあります」
「複視というのは? 乱視とはどう違うんですか?」
乱視は知っていたが、複視という言葉は祥子は初耳だった。
「複視の複は、複数の複です。文字通り、物が複数、つまり二重にも三重にも見える状態を言います。乱視も複視もどちらも物がずれて見える状態なのですが、乱視は片方の目だけでもずれて見えますが、複視の場合は片方の目だけで見ると物が1つに見えるのです。片目だけでもずれて見えますか?」
「はい」
片目をつぶってみたことはないが、いつでも見える時にはずれて見えるのだから片目だろうと両目だろうと関係ないだろう。そもそも、「物がずれて見える」とは言ったが、乱視や複視のずれて見える見え方とは違う。医者の言葉によれば、乱視などでは物が二重にみえるようだが、祥子が見ているずれとは、物そのものではなく動きのずれを指している。ほかに言葉が思いつかずに「ずれる」という表現を用いたが、医者にはうまく伝わっていないようだった。
「あの、うまく言えないんですけど……」
祥子は口ごもった。
「物が二重に見えるのではなくて、鏡にうつった像と、実際の自分の動きとがずれて見えるんです。たとえば、私が鏡の前で右手をあげてみせると、鏡の像の動きが1秒か2秒ぐらい遅れて見えるんです。まるで鏡の中に誰か別人がいて、私の真似をしているけど動きについてこれないでいるといった風に――」
と言ってしまって、祥子が背筋が寒くなった。鏡の中に誰かがいるとは何だ? そんなことのあるはずがない。だが、そう考えるとしっくりくる動きのずれ方なのだ……。
医者は、祥子の言い分をどう理解したらいいものやらと首を傾げていた。
「すいません。ほかに言い様がなくて。でも、本当に、誰かが真似しきれないで動きがずれる、そんな感じなんです」
汗が祥子のセーターの下のブラウスの背中を滑り落ちていった。
鏡の像が実際の自分の動きとずれるのを見てもらえば一番わかってもらいやすいのだが、鏡と実在の自分とを同時に見てもらうことは不可能だ。像を見ることに集中すれば実体の動きを見逃してしまうし、逆もまた同じ結果だ。祥子は苛ついた。
「いいえ、おっしゃってる意味はよくわかります」
医者にそう言われ、祥子はほっと胸をなでおろした。乱視、複視以外に、ずれてみえる目の異常を訴える患者が祥子以外にもいるのだろう。目に異常があるらしいにせよ、どうにかなりそうだと先の見通しが明るくなる気がした。
「とにかく、まずは視力検査をしてみましょう」
メガネをかけた状態と裸眼の状態とで視力検査表の文字を読み取り、視力を測定する。メガネで1.5、裸眼では0.1と、知っている数字に変化はなかった。念のためと言われて行った乱視の検査では、放射状に伸びた線の濃淡や太さの違いが見えるかどうかを問われたが、すべての線が均一に同質のものに見えたため、乱視の疑いは否定された。
検査を終えると、医者はカルテに結果を書き込んでいた。その間の時間がやけに長く感じられた。祥子は一刻も早く結果を知り、異常があるというのなら治療を開始してしまいたかった。
医者はペンを走らせていた手をとめ、祥子に向き直った。ようやく判決が下されるのかと祥子は緊張から膝の上にそろえた両手で拳を握った。
「結論からいうと、八田さんは乱視でも複視でもありません」
「何か別の異常でも?」
膝の上の拳がますます固くなった。
「それは別に検査をしないとわからないでしょうが」
とっさに祥子は脳の異常を疑った。目と脳とは位置が近い。素人判断ではあるが、目に問題なければ脳の方に問題があるような気がした。
「体の異常ではないと思います。鏡の像の動きが実体とずれて見える症状というのは聞いたことありませんから。おそらく、心の問題でしょう。最近、仕事やプライベートで強いストレスを感じるような出来事がありましたか? どなたか親しい方を亡くされたとか」
「いいえ、そういったことは……。仕事は忙しくしていますが」
体に異常はないと聞いてほっとしたのもつかの間、心の問題だとなるとやっかいだと祥子は困惑していた。ウィルスとは違い、ストレスは取り除きようがない。医者には言わなかったが、二階堂との後ろめたい関係は祥子にとってはストレスに違いなかった。
黙りこんでしまった祥子に、医者は自分の判断は正しかったと自信をもったようだった。
「鏡の像の動きがずれてみえるのは一種の幻覚でしょう。幽霊の正体みたり枯れ尾花。心はいろいろなものを私たちに見せるのです。枯れた花でも、心がそう思えば幽霊にだって見える。自分の見ているものがその場に存在しているものとは限らないのです。ちょっと怖い話ですね。とにかく、心に異常があると、普通の人には見えないものが見えてしまうものなのです」
確かに怖い話だと、祥子は聞きながら思った。医者は、祥子の見ているものを幻覚だと一蹴したが、彼は祥子の見たものを見てはいないのだ。見てもいないのに、なぜ祥子の方を異常だと判断できるのか。ずれて見える方が正常で、見えない医者側が異常だということはないのか。鏡の像が虚像だとみな知っている。だが、あれらは本当に虚像なのだろうか。別人であったり、または自分とは別の存在だということはないのか。
「一度、心療内科で診てもらってください」
医者はそう言ってカルテの挟まったフォルダを閉じた。
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