第7話

シャワーを浴び終え、祥子はドライヤーで髪を乾かし始めた。熱風にあおられ、セミロングの髪の毛先が舞い踊る。祥子は、チョコレートのコマーシャルを思い出していた。清楚なイメージの美少女が、彼女に憧れているのであろう少年とチョコレートを分け合うそのコマーシャルで、少女の黒く長い髪はそよ風にもてあそばれていた。


 ドライヤーをもつ手を遠ざけ、祥子は心持ち小首を傾げてみた。熱風の勢いが少しは弱まり、春風のような優しさで毛先を揺らした。モデルみたいだと、祥子は鏡にうつった時分の姿にみとれていた。


 黒髪の艶は残しつつ、重くならないようにと軽めにカラーリングした髪は、蛍光灯のもとで艶めいている。肌はしっとりとしてはりがあり、いつまでも触っていたい感触だ。瞳にも唇にも潤いがあり、はちきれんばかりの若さとほのかな色香を発している。


 おもわず見惚れる自分の姿に、とある人物の姿を見出し、祥子はおもわず顔をしかめた。


 藤重さやか――美人と評判だった彼女に自分は似ているのだろうか。


 昼間、化粧室でリカは祥子が藤重さやかに似ていると言っていた。そう言われても、藤重さやかの顔を知らない祥子にはピンとこない。


「鏡ばっかりみてないで、何か作ってくれ。“運動”したから、腹減った」


 祥子の背後に立った二階堂は、かじる真似事で祥子の首筋を甘く噛んだ。ふつりと血が沸き立つのを抑えながら


「ねえ……私、藤重さんに似てる?」


 祥子は、鏡の中の二階堂にたずねた。


 営業部長の二階堂との関係は半年ほどになる。男と女の関係になったのは二階堂が営業所から本社の営業部に異動になったすぐ後で、二階堂の強引な誘いを祥子は拒み切れなかった。


 藤重という名前に、舌先で祥子の耳たぶを弄んでいた二階堂の動きが止まった。


「誰?」


「藤重さやか。元受付の人。私が入社してすぐに辞めた人らしいけど」


 二階堂は知り尽くしたはずの祥子の体を新たな気持ちで探るように眺めつくし


「似てない。祥子は祥子。それより、なあ……食事はやめにして“運動”しようや……」


 四十を少し過ぎたばかり、男盛りの二階堂の体は活力を取り戻していた。贅肉のない引き締まった体はしなやかだが、祥子を求めるときには獲物を狙う獣のように猛々しい。それでいて愛撫は繊細で、気配りが行き届いている。ときに技巧的だと感じるのは、二階堂の女性経験が豊富なせいだろう。


 おくての祥子は、二階堂が初めての男だった。二十四にもなって何も知らないというわけではなかったが、具体的な事柄はすべて二階堂から教え込まれた。祥子は、二階堂の愛撫にはただ身を任せ、二階堂の望みは黙って受け入れた。他の男を知らないから、二階堂との情事が「普通」であるのかどうか、祥子にはわからない。他の男を知りたいとは思わないほど、祥子は二階堂の体に慣らされてしまっていた。


 藤重さやかもまた、二階堂に同じように抱かれたのだろうか。二階堂の愛撫に身を委ねながら、祥子は砂を噛んだような不愉快な気持ちになった。


 さやかを知らないふりをしてみせた二階堂だが、「似てない」という返事はひるがえってよく知っているという意味だった。本当に知らない人間なら「わからない」という返事があるはずで、祥子はひそかにその返事を期待していた。


 二階堂は自分のうえにさやかの姿を重ねているのではないか。祥子が処女だったのをいいことに、さやかと同じ反応を示すように教えこんだのではないのか。


 髪型も髪の色も、メイクも、祥子は二階堂がそうしろと言うものに従った。洋服も、二階堂が好きだと言うものを着た。二階堂の好みだとばかり思っていたが、それらは藤重さやかの好みではなかったのか。


 二階堂との関係が始まった半年前は、丁度さやかが死んだ頃と重なる。死んだ恋人の面影を新しい愛人のうえに求めたというのか……。


 二階堂の激しくなっていく愛撫に身をよじらせながら、祥子は鏡にうつった自分の姿をみつめた。そこにうつっているものが、はたして自分の顔なのか、祥子にはもはやそうであると言い切る自信がもてなかった。


 二階堂に触れられている感覚がなければ、祥子は鏡の外に自分の肉体が存在していると確かめられなかったかもしれない。


 二階堂の猛る血の流れを受けとめながら、祥子は、鏡にうつった藤重さやかに似ているという女にむかって勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。鏡の像など、しょせんは虚像、祥子という人間なくしては存在しえないものだ。二階堂に愛されているのは祥子という肉体だ、違う熱をもった肉体がひとつに溶け合う恍惚感を、虚像が感じえるものか。


 祥子の優越感を悔しくおもったかのように、鏡のなかの女は顔を歪めた。顔の筋肉の動きとは異なる表情を浮かべた鏡の像を気味悪くおもいながら、祥子はのぼりつめていく快感に押し流され、ゆっくりと目を閉じていった。

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