第6話

ランチの後、化粧室の個室に入ったものの、祥子は出るに出られなくなってしまった。祥子が個室に入るなり化粧室に押し寄せてきた3人が祥子の噂話を始めたからだった。


 声の違いから話しているのは3人と判別でき、そのうちの1人は同じ編集部のリカだった。主に話をしているのはリカで他の2人は二言三言付け加えるか、時々相槌を打つだけだった。


「祥子さんってさ、最近変わったと思わない?」


 リカは個室に祥子がいるとは思ってもいないらしい。編集部のフロアの化粧室には人がいたので、祥子は別のフロアの化粧室にかけこんだ。リカたちも同じ口だろう。別フロアの化粧室だから祥子はいないだろうと踏んでリカは祥子についての噂話をし始めたようだった。


 自分の名前を聞いて祥子は息を殺した。


「変わったってどう?」


「カラーリングで髪を明るくしたり、パーマかけたりさ。着るものも何か女の子っぽいワンピとかスカートとか。何っていうか、女らしくなったっていうの?」


「何それ。前は女らしくなかったって言ってるようなものじゃない」


 3人は声をたてて笑った。


「だって、そうじゃん? パンツスーツとかかちっとした格好が多くてさ。色も黒っぽい服が多かったし」


 そういうリカのスーツ姿をそういえば祥子はみたことがなかった。季節を問わず、いつでも寒そうな薄い生地のワンピースかブラウスにスカートをはいている。


「最近の祥子さんてさ、誰かに似てきたとおもわない?」


 リカが他のふたりを促したが、思い当たる人物がいないようでふたりは沈黙し続けた。しびれを切らしたリカはとうとう口を割った。


「さやかちゃん! 元受付の!」


「藤重さん?」


 同意しかねるといわんばかりに、ひとりが声を裏返した。


「似てないよ。藤重さんは女優っていってもいいくらいの美人だったけど、祥子さんは地味な人じゃない。何ていうか、いかにも文学少女っていう」


「そうだけど。だからさっき言ったように、最近雰囲気変わったの。その雰囲気がさやかちゃんに似てるんだって」


「そうかなあ」


 祥子を地味だと言った方はリカの意見に否定的だった。祥子を知っているような口ぶりだが、祥子の方では相手の声に聞き覚えがなかった。リカは部署を超えた付き合いが多いから、別の編集部か、人事や経理といった他部署の女子社員だろう。


「ひょっとしてさ、二階堂さんと不倫してたりして」


 リカはわざと声を落とした。


「うちの部長と? それはないと思うなあ。部長のタイプじゃないじゃん、祥子さんて」


 すかさず否定したその声の主はどうやら営業部の人間らしい。こちらの声には祥子は聞き覚えがあった。顔と名前は思い出せないが、何度か電話でのやりとりをしたことがある。低めの落ち着いた声の持ち主で、国営放送局のアナウンサーのように滑舌がよかった。


「二階堂部長のタイプって藤重さんみたいな、華やかで女の子らしいひとだもの」


 ただでさえ低い声がさらに低くなった。祥子は思わず個室の壁に身を乗り出していた。


「二階堂さんとさやかちゃんが不倫してたって話、本当だったんだ」


 うんという返事がかろうじて聞き取れた。


「二年前、二階堂さんが営業所に異動になったのって、さやかちゃんとの不倫が原因の左遷だったっていう噂、やっぱり本当だったんだ」


「藤重さんとの不倫は公然の秘密っていうか、みんな疑ってはいたけど何も言わなかった。でも、誰かが社長に密告したみたいなんだよね。ある時、社長が営業部に急に来てさ、当時の部長と二階堂さんとで話して、その後、二階堂部長の営業所への異動が決まったの。藤重さん、社長のお気に入りだったからね。社長としてはふたりを別れさせたかったってところなのかな。その藤重さんも急に会社辞めちゃったし」


「確か、田舎に帰ってお母さんの面倒をみるっていう理由だったんだよね。お母さん、体が不自由だとか言ってたような」


「田舎に帰るっていってたのに、こっちにいたんだってね。お葬式もこっちで簡単に済ませたっていうし。悦子さんが全部取り仕切ったらしいよ。亡くなってもう半年にもなるんだね。さやかちゃんの事故ってさ、本当に事故だったのかなあ……」


「自殺だったんじゃないかっていう噂だけど……」


 祥子の知らない声がリカの疑問を受けて答えた。


「田舎に帰るって嘘ついてこっちに残って、二階堂さんとの関係続けてたっぽいじゃない。不倫に苦しんで自殺したって考えられないかなあ」


 藤重さやかが亡くなったという知らせが飛び込んできた日、すでにリカは、自殺の疑いをほのめかしていた。「例の件で」とは、二階堂との不倫を指していたのだろう。


「私さ……実は見ちゃったんだよね」


 営業部が重々しく口を開いた。


「その時は藤重さんだってわからなかったんだけど、あの日、事故を目撃しちゃったんだ」


 個室に隠れて聞き耳たてている祥子の心臓が一瞬にしてひやりと固まった。


「乗る電車がホームに入ってきて、危ないってわかってたけど、前の方の車両に乗りたかったからホームのはじを走って電車を追いかけたのね。遅刻ぎりぎりだったから。ずっと電車の先頭を見てたんだけど、そしたら突然ホームから人がこぼれて線路に落ちたんだ。それが藤重さんだったんだよね……。私、気分悪くなってその日は会社を休んだんだけど、後で藤重さんが亡くなった話を聞いて、あれは彼女だったんだって気づいて、気持ち悪くてもうあの路線の電車に乗れないから、引っ越ししたんだ」


 営業部がぽろりとこぼした路線名は祥子の通うものと同じだった。とたんに胃の底がただれたように熱くなった。祥子はこみ上げる吐き気を抑えようと口元に手をあてた。多発する事故の犠牲者についてはなるべく考えないようにしてきたが、見知らぬ他人とはいえ、そこで命を落とした人間の名前を聞いてしまった以上、平静ではいられなかった。


 毎朝毎晩、自分は藤重さやかの肉体の散った場所を踏みつけてきたのかと思うと、胃そのものを取り出してしまいたいほどの嫌悪感に襲われた。心なしか、電車が踏んだであろうブレーキの鋭い音まで聞こえるような気がする。その音にかき消されたのは藤重さやかの断末魔の叫びであっただろう。


 線路に散った肉片の腐臭すら嗅ぎ取ったような気がし、祥子は食べたばかりのものをすべて吐き出してしまった。すえた臭いが化粧室にたちまち充満し、リカたちはそそくさと化粧室を出ていってしまった。


 リカたちが化粧室を出るのを待ち、祥子は個室を飛び出した。洗面台へかけよると、蛇口をひねって口元をゆすいだ。肩で荒い息をしながらふと鏡をみると、そこには笑う女の姿があった。


 藤重さやか――とっさにそう思い、祥子は洗面台から素早く身を引いた。笑う女も祥子に合わせて鏡の奥へと身を引いた。


 祥子はおそるおそる鏡に近づいた。


 死んだ藤重さやかが鏡に映っているはずがない。映っているのは祥子自身だった。


 祥子が鏡に顔を近づけるにつれ、鏡の向こうの像も祥子にむかって顔を寄せてきた。口角のあがったその口元に水滴がついている。祥子の口元にも濡れた感覚があった。だが、口角があがっている感覚はない。


 自分は笑っているのか?


 笑っているつもりはないのだが、確かめようがない。確かめる手段であるはずの鏡には、笑っている自分が映っている。


 祥子は頬に口に両手をあてて表情をさぐった。笑っている筋肉の動きではなかった。しかし、鏡の中で両手を頬にあてている女は笑っている。


 映っているのは本当に自分なのだろか。


 祥子は背後を振り返った。だが誰かがいるはずはなかった。化粧室には祥子きりしかいない。


 蝶番のきしむ音がしたかとおもうと、化粧室に華やかな声がなだれこんできた。祥子の顔をみるなり、2人の女性たちは会釈をした。アルバイトの女の子たちである。祥子はすばやく口元のしぶきをぬぐい、会釈を返した。


 そっと鏡を覗きみると、笑う女は姿を消し、そこには祥子が映っているだけだった。

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