第5話
その朝、編集部には客があった。
祥子が編集部に入っていくと、悦子のデスクの前に見慣れぬスーツの背中がたちはだかっていた。客の男は悦子と親し気に話をしていた。右手をパンツのポケットに入れ、話にあわせて宙を舞う左手の薬指には指輪が光っていた。
顔は見えなかったが、見なくとも祥子には話し声だけで男の正体がすぐにわかった。
聞き慣れた声の主は二階堂隆だった。
祥子の会社では、編集部のある本社のほかに営業所という拠点を全国各地にもっていた。各地の書店を訪問して自社の出版物の売り場を確保するのが主な仕事で、二階堂はある地方都市の営業所に勤務していて、祥子は彼とは何度か電話でやりとりをしたことがある。
「あ、祥子。こちら、本日付でご昇進の二階堂営業部長」
二階堂の広い背中から悦子が顔をのぞかせた。紹介された二階堂は腰をひねって祥子にむきあった。
「八田祥子です。よろしくお願いします」
祥子は頭を深々と下げた。電話でのやりとりを通して親しくなっていたとはいえ、顔を見るのは初めてなのできちんと挨拶をした。
「何だか変な気分だなあ。電話では話してきたから八田さんをまったく知らないわけじゃないんだが、顔をみて話すのは初めてだから、初対面の人に会うような緊張感もあるよ」
電話線にのらない二階堂の声にはノイズがなく、生身の声がもつしめっぽさがより増していた。
「今日から本社勤務になりました、二階堂隆です。よろしくお願いします」
祥子に倣うかのように、二階堂も丁寧にお辞儀をしてみせた。そうやってふざけてみせるところも、電話でのやりとりとまるで変わらない。背を真っ直ぐに戻した二階堂と祥子とは顔を見合わせて笑った。
「せっかく同じ本社勤務になったことだし、今度、飲みにでも行こうか」
社交辞令だとわかっていても、祥子はふつりと血の沸き立つのを禁じ得なかった。それは二階堂の声のせいだった。湿り気を帯びた二階堂の低い声に、祥子は男を感じずにはいられない。
人の声が全身の血を震い立たせるほどの性的魅力をもつものなのだと祥子は二階堂の声を聞いて初めて知った。
顔をみないうちに祥子は二階堂に惹かれた。
二階堂の声を聞きたいと、メールで済む用事でも営業所に電話をかけた。書店をまわっている二階堂だからなかなかつかまらない。営業所の女子社員が気をきかせて二階堂の携帯電話の番号を教えてくれた。逡巡した挙句、祥子は自分の携帯から二階堂にかけた。結局、携帯でのやりとりでもすれ違い、その時のメッセージは祥子の留守電に残っている。祥子はそのメッセージを保存し、何度も聞き返していた。
「こら、既婚者がナンパしてんじゃないよ!」
悦子がすかさず手元の書類で二階堂の手をはたいてみせた。二階堂は大げさに痛がってみせた。
「ナンパじゃないって、飲みニケーション。悦子も、ハーモニーの編集部の子たちとうちの営業の子たちとでさあ」
「あんたさあ、それを世間で何ていうか知ってる?」
「教えてもらおうか」
「合コンっていうんだよ! 悪い虫はさっさと巣に帰りな」
「はいはい。退散しますよ」
悦子に追い払われるようにして、二階堂は他の編集部への挨拶にむかっていった。
「編集長、二階堂部長と随分親しいんですね」
祥子は名残惜しそうに二階堂の背中を見送った。
「私ら同期なのよ。あいつも本社の営業部勤務だったけど、2年前に営業所に異動になってさ。出世して帰ってきたっていうんで、真っ先に私のところに挨拶にきたんだと」
「編集長に挨拶しないと怖いからじゃないですかぁー」
すかさず、リカが茶々を入れた。
「取って食いやしないっていうの。それにしても、あいつが営業部長か」
悦子は目を細めて二階堂のたくましい背中をみつめていた。
同期ともなると、新人の頃の苦楽をともにしてきた仲間という意識が強いのだろう。二階堂をみつめる悦子の目はまるで母のようでもあった。もともと本社勤めだったのが営業所に異動になったというからには左遷の憂き目にあったのだろうが、本社に返り咲いたということで悦子としても感慨深いものがあるのだろう。
悦子と同期入社ということは、少なくとも40を超えているだろうが、二階堂は年よりは若くみえる。声の艶と張りから想像していた通り、引き締まった体をしていた。人懐っこい笑顔は電話での軽口そのままで、嫌味がない。これからは毎日のように二階堂と顔をあわせるかもしれないのだと思うと、祥子の体が熱くなった。
*
帰宅するなり、祥子の携帯が鳴った。二階堂からだった。メールには、今度飲みに行きましょうとだけあった。ふたりきりでとは書かれていなかったが、編集部のみんなでとも書かれていなかった。
体中の血がざわついた。だが、祥子は思いとどまった。二階堂の左手薬指の結婚指輪の煌めきが警告を発していた。苦しむとわかっている関係なのだから、どんな小さな始まりでも摘み取っておかなければならない。祥子はしばらく携帯の画面と睨み合いを続けた後、思い切って電源を切り、バッグの中に放り入れた。
その時だった。
誰かがバッグの中の携帯を拾い上げたようなような気がして祥子はバッグを覗き込んだ。携帯はきちんとそこにあった。
携帯との睨み合いからバッグに放り込むまでの一連の動作を、祥子は姿見の前で行っていたのだが、鏡の前を離れた時に鏡に映り込んだ自分の影がバッグを覗いているように見えたらしい。鏡に映った姿が自分と違う動きをするはずがない。また疲れ目かと、祥子は例のこめかみをもむマッサージを何度か繰り返した。
ここのところ、祥子は部屋でゆっくりと休めないでいた。それというのも、せっかく早く帰宅しても隣の女が夜中近くになって音楽を大音量で流すからであって、一度苦情を申し立てようと思いつつ、言いそびれてしまっていた。今夜こそはゆっくりと眠らせてもらいたいものだと、祥子は姿見の向こうの壁を睨みつけた。
また音楽を鳴らされたらかなわないと、祥子はイヤホンを耳にあて、音楽を聞きながら寝ることにした。だが、そんな用意は今夜に限っては不要に終わった。その夜、隣の女は気味悪いほど静かで、以降、夜中の音楽はぴたりと止んだのだった。
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