あの人の横顔と、手と、私の声

王子

あの人の横顔と、手と、私の声

 春でした。花見をしていた私の横であの人が立ち止まって、桜を見上げたのでした。

 その横顔は、それはそれは晴れやかで、希望とか期待とかそういうものを隠そうともしないで輝きを放っていました。温かな日の下、その目は桜色の景色を見ているようで、実はそのもっと先を見ていたのかもしれないのでした。

 ともあれ私は、その一点の曇りもない横顔が気に入って、「にゃあ」と鳴いたのです。

 あの人は、足元でちんまりと座っている私に今気付いたという様子で、しゃがんで私の頭を優しくでました。春の陽に暖められていた頭にあの人の手がのって、あまりの心地よさに目を閉じて、そのまま眠ってしまいそうでした。

 その日から、私とあの人の、ひとつ屋根の下の暮らしは始まったのです。


 夏になっても、あの人は大学という場所に毎日通っていて、楽しいことやら難しいことやらを持ち帰ってきていました。

 私はというと、あの人がいない間、布団に投げ出されたTシャツの上でのびをして寝ていたり、あの人が鍵をかけないでいてくれる窓を開けて、うだる暑さの中をあてもなく歩いたりしていました。

 道すがら雄猫と出会うと、鼻先を合わせてあいさつしましたが、お尻を追い回させはしませんでした。私の額も足も自慢の尻尾も、全てあの人のものなのです。

 二人でお祭りに行きました。小さなお祭りでした。

 あの人は嬉しそうな横顔で、五十円のらくがきせんべいをほおばっていました。青い砂糖でベタベタする手を気にもしないで。

 お風呂場でシャワーを浴びました。ぬるま湯が流れる私の背をあの人の指がいて、私は幸せに「にゃあ」と一声、のどを鳴らしたのでした。


 秋が連れて来た彼女を、私はあまり好きではありませんでした。

 私は抗議の声を上げました。「にゃあ」と。

 彼女が私の頭に触れようとしたから、ふいとそっぽを向いて、いつもはたたまれていない布団にぴょんと飛び乗ったのでした。

 あの人のだらしなく緩んだ横顔を見るのに嫌気がさして、窓の外を見ると、夕陽が燃えていました。うっすらと群青のかかるところもあって、こんな空の下をあの人と歩けたらどんなに幸せかと。今すぐにでも彼女を置いてけぼりにして、二人で外に飛び出してしまいたいと。

 もう一度上げた「にゃあ」は、あの人と彼女には届かなかったようで、ふて寝をするしかないのでした。

 いつの間にか、あの人は彼女と楽しそうに笑いながら、私のあごを指先でくすぐっていて、私はそんな片手間の愛にもほだされてしまうのでした。


 冬。冷たい雨の降る日でした。あの人は傘もささずに帰ってきました。顔を伏せていたので、表情はうかがえませんでした。床に雫が垂れるのを放ったまま、まっすぐお風呂場に向かいました。

 お風呂場と私をへだてる曇りガラスの扉の前で、黙ってあの人の息づかいを感じ取ろうとしました。足の裏が冷たくても、一人でぬくぬくと布団にもぐりこむなんて私にはできないのでした。

 どれほどの時間がたったか、シャワーの音が止んで、中からあの人の声が聞こえたのでした。

「なにも言ってくれないんだね」

 息を呑みました。私は言葉を持たないのです。

 あの人の苦しみを叫ぶことも、その理由がきっと彼女だってことも。

 満足も、不機嫌も、愛も。私の声に、言葉なんて、なにも。

 そんな私に、なにが言えたでしょう。


 まだ肌寒さの残る三月。

 あの人はもう起きていて、鼻歌を歌いながら目玉焼きを焼いていました。私のお皿にとりささみがのって、一緒にいただきますをしました。

 あの人の横顔は晴れやかでしたが、あの春の日の横顔とは少し違っていました。

 あの人は玄関に向かい、私はいつものようにお見送りをします。

「にゃあ」

 あの人は、足元でちんまりと座っている私に微笑ほほえみ、しゃがんで頭を優しく撫でました。

「いってきます」

 玄関のドアが閉まると、窓辺に駆け寄ってあの人の背中を眺めます。

 頭に残っているあの人の手の温かさを感じながら、畳まれていない布団でのびをしながら私は思うのです。

 また春が来て、あの人と見上げた桜が咲いて。真夏の雨の匂いと、秋夜のスズムシのさざめきと、忍び寄る冬の静けさと。あの人の横顔と、手と、私の声。みんな季節の流れに乗って少しずつ変わっていくのでしょう。

 それでも、私はあの人に「にゃあ」と鳴いて、あの人は私の小さくて愛おしい頭を撫でるのです。きっと何度も。

 それさえ変わらなければ、私はいいのです。私は、十分幸せなのです。

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