~第二章~
(一)
日中は、まだ汗ばむほどの陽気だったが、太陽が西の地平線へと消えた後には、急に気温が下がって、肌寒かった。秋は、確実に夜からやって来るのだ。
天祥は、六〇一号室の窓を細めに開けて、ひんやりと冷たい外の空気を、心地良い程度に、室内に取り入れる。
脳細胞にスポンジ状に孔の開いた病変が見付かった最初の解剖から、時を置かず、最後に搬送されて来た軍人の患者が死亡した。案の定、患者の遺族は、最初、病理解剖に難色を示したが、栄儀の説得で、脳組織の採取だけは、何とか承諾を得ることができた。
半ば覚悟はしていたが、この患者の脳細胞にも、小さな孔が、無数に開いていた。先に解剖した四番目の患者と同様、典型的なクロイツフェルト・ヤコブ病の病変だった。二人の死亡患者の脳細胞に対して行った特定タンパク質の検出試験においても、異常プリオンタンパク質が検出されていた。
先に死亡した三例の患者も、解剖こそしていないものの、同じ病気に罹患していた可能性が高いと類推できた。
天和総合病院以外にも、全国方々の医療機関に、少なくは無い数の同じような症状の軍人が、運び込まれているはずだったが、軍人を苦しめるこの奇妙な病気のニュースは、新聞やテレビのニュースで、ついぞ取り上げられることはなかった。
天祥は、顕微鏡下における脳細胞の観察で得られた事実を、たった今、栄儀に伝え終えたところだった。
上手く説明の付かない組織の変性を目の当たりにした時の天祥と同じく、栄儀も、今、口に出すべき言葉を考えあぐねているようだった。
長い沈黙の後、栄儀は、医師としての意見を、天祥に求めた。
「お前は、どう考えておるのだ?」
天祥は、お手上げだと言わんばかりに、諸手を挙げて見せた。
「さっぱり分かりません。CJDには、幾つかのタイプが有るんですが……既往症から、異常プリオンに汚染された硬膜移植による医原性の可能性は、ほぼ皆無であると考えられます。それから、患者の遺伝子には、CJDの発症に関係があるとされる点変異や挿入変異は、認められませんでしたので、遺伝性CJDの可能性も除外して良いと思います。残る可能性は、変異性と孤発性ですが、変異性CJDに特徴的な異常プリオンタンパクからなるアミロイド斑は認められていません。以上より、消去法になりますけど、孤発性CJDの可能性が極めて高いと評価せざるを得ません」
孤発性クロイツフェルト・ヤコブ病と判断したところで、実際は、何の意味もなさない。原因不明の突発的なクロイツフェルト・ヤコブ病が『孤発性』として、カテゴライズされているに過ぎないからだ。
クロイツフェルト・ヤコブ病は、今なお、謎の多い疾患であり、発症のメカニズムすら、仮説の域を出ない。一番、有力なのは、正常なプリオンタンパク質とは異なる折りたたまれ方をした異常プリオンタンパク質の中枢神経への沈着が原因であるという仮説だ。異常プリオンタンパク質自身が増殖するのではなく、元々、中枢神経内に存在する正常プリオンタンパク質が、まるでオセロゲームのように、異常プリオンタンパク質に変換されていくと考えられている。
ただし、確実に分かっている事実もある。CJDは、ホルマリン固定や、通常の消毒処理を行なっても、失活しないという事実だ。
顕微鏡下の組織観察で、クロイツフェルト・ヤコブ病の疑いがあると判明した後、天祥はマニュアルに沿って、速やかに病理検査室内で使用した検査器具に、CJD専用の消毒処理を施すと同時に、ラテックスなどの細々とした消耗品は焼却処分した。
クロイツフェルト・ヤコブ病の疑いがある以上、通常の病理検査室ではなく、地下解剖室のすぐ隣に、分厚い壁一枚を隔てて、併設されているバイオ・セイフティ試験室での作業が必須だった。
天和総合病院のバイオ・セイフティ試験室は、ほぼ解剖室と同程度の面積を擁し、PCR装置を始めとするバイオ分析機器が、緻密に計算された最も使い易い配置で、適切に据え付けられていた。
中国共産党政府は、もう二十年近くも前のミレニアム・イヤー辺りから、バイオ産業の振興に力を入れており、海外のバイオ企業を中国内に誘致するため、外資系バイオ企業に対する資金調達や税制面での優遇措置を打ち出していた。
天和総合病院に、バイオ試験室を始め、あれやこれやのバイオ関連の分析設備が揃っているのは、この優遇措置の適用を受けるためだ。
かつて徳賢が、中国各地で総合型医療施設を設立する土地を物色していた頃、何徳賢というビッグ・ネームの投資を呼び込もうと、各地の地方政府が、明らかに徳賢のみに適用される特別な優遇政策を打ち出したのだが、徳賢は、唯一、徳賢を特別扱いせず、原理・原則(プリンシプル)を曲げなかった、実直で英明な指導者を頂く蘇州という土地に、巨大な医療研究機関を兼ねた天和総合病院をぶち立てた。今のところ、蘇州での事業は、すこぶる上手く行っている。
「……ご遺族には、どう説明すべきでしょうねえ?」
天祥は、さっきから、ずっと気になっていた問題を栄儀に投げかけてみた。
「事実を告げる他、無かろう。もっとも、クロイツフェルト・ヤコブ病でしたと言われて、ああ、そうですか、分かりました、と納得して貰えるとも思えんがな」
確かに栄儀の言う通りではあるのだが、天祥は、自分の胸元に、再び悪い予感が、フツフツと立ち上って来るのを感じていた。
「言っておきますけど、僕には、原因とか、感染経路の特定なんて、無理ですから! そこは、軍隊内部で解明すべき問題でしょう? ねえ? そうですよね?」
天祥は、自分自身の声音が弱弱しくなってゆくのを感じた。最後の方などは懇願に近い。
栄儀はと言えば、天祥の声など、まるで耳に入ってもいない風情だった。
「まあ、しかし、曖昧な事実だけなら、最初から伝えない方が良い。伝えるのなら、すべてを明白にしてから伝えるべきだろうな。それはそうとして、天祥、お前に会わせたい男がおってな。もう二十五年ほども前に、第三軍医大学を卒業した優秀な軍医で、つい二週間ほど前に、軍を除隊した男なんだが……」
(また嵌められた。俺が一心不乱に、細胞や遺伝子の検査をしている最中に、このクソじじいは、すでに次の一手を準備していやがった!)
天祥の栄儀に対する呼称は、今や、わがままじいさんから、クソじじいへと変貌を遂げていた。遂げて然るべきだった。たとえ父の親友であれ、中国人民の永遠の英雄(ヒーロー)であれ、クソじじいは、クソじじいだ。
天祥は、装甲車が病院を破壊しに来る前に、一目だけでも良いから、ブリジッド・ウーに会いたいと心から願った。
(二)
天祥は、ブリジッド・ウーではなく、五十年配の退役した軍医と対峙していた。実直そうな穏やかな目をした元軍医は、「司高峰(スー・ガオフォン)です」と名乗り、車椅子から何とか腰を浮かせて、強張った手を不器用に差し出した。
外来診療の患者として、元軍医の司高峰は、天和総合病院へとやって来たのだった。天祥は、この時初めて、司高峰が軍を除隊した理由を知った。
他の治療可能な疾患との識別を慎重に行なう必要はあるが、身体所見から、司高峰は筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っているように見えた。
「身体が……動く間は……軍医と……しての……本分を……全うしよう……と思って……来ましたが……もう……身体が……言う……ことを……聞いて……くれ……ません」
司高峰は、不明瞭に途切れてしまう自身の言葉が、もどかしそうだった。しかし、決してイライラしているわけではなく、半ば諦観にも似た穏やかな表情を浮かべていた。
「最初に身体に違和感を覚えられたのは、いつですか?」
天祥は、司高峰に尋ねた。
「二年ほど……前です。病名の診断が……付いたのは……それから……半年ほど……してから……です。ALSで……間違い……ないと……思い……ます」
司高峰は、天祥を気遣うように、微笑んだ。
「分かりました。ですが、もう一度、検査をさせて頂きたいと思います。気休めを申し上げるつもりはありませんし、ALSである可能性は高いと思いますが、医師として、私自分の目で、確認させて下さい。検査のために、しばらく入院して頂く必要があります」
天祥は、いつも通り、極力、事務的な口調で、患者に相対した。司高峰は、従順に頷く。
「姜さん、付き添いのご家族の方にも、入って頂いて下さい」
天祥は、司高峰から姜看護師に向き直って告げた。
移動に車椅子が必要なほどの重症患者であれば、普通は患者と一緒に、介助者も診察室に入って来るものだが、司高峰の付き添い人は、外の待ち合いに置いてある長椅子に、大人しく鎮座していた。
姜看護師に呼ばれて、おずおずと診察室に入って来たのは、四十絡みの善良そうな丸顔の女性だったが、茶色いセルフレームの眼鏡の奥の瞳は、驚くほど理知的だった。おそらく司高峰に、外で待つよう言い含められていたのだろう。
「失礼ですが、奥様でいらっしゃいますか?」
天祥は、手順に沿って、介助人と患者との関係を確認する。
「いえ、妹です。兄は結婚していませんので」
言われてみれば、顔立ちが、どことなく司高峰と似ている。
「それは、失礼しました。それでは、妹さんが、身元保証人ということで?」
「はい。司月琴(スー・ユェジン)と申します。事務的な手続きは、私が兄の代わりに行いますので。お世話をお掛け致しますが、どうぞ宜しくお願い致します」
喋り方ひとつにしても、簡にして要を得るといったふうで、インテリジェンスが感じられた。差し出された名刺の肩書きには『商務礼儀学院(ビジネス・マナー・スクール)院長』と記載されている。実直な兄とは異なり、かなりのやり手といったところか。
「いえいえ、こちらこそ。それでは、本日から入院ということで、ご了承下さい。当院は、二十四時間完全看護ですので、夜間の付き添いなどは、原則、不要です。が、病室は、六階の特別室をご用意させて頂きますので、いつでも面会は可能ですし、病室に宿泊して頂くことも可能です。」
「え? 特別室……ですか?」
月琴は意外そうな顔をした。
「ええ。特別室です。が、当院の都合で、特別室に入って頂きますので、特に追加的な費用が発生することもありません」
特別室と言えば、やはり一番気になるのが、費用だろうと目星を付けて、天祥は、費用に関わる説明を付け加えた。
「お気遣いありがとうございます。でも、兄は士官でしたので、軍から恩給が支給されることになっていますし、私にも、それなりの収入はありますので、入院費用について、ご心配を頂くには及びません。ただ……兄が納得するかどうか……」
月琴の言葉を聞いて、天祥は、猛烈に後悔した。例えるならば、得意げに勉強を教えてやろうか? と言い放った相手が、実はクラス一の秀才である事実を、後になって知らされた時のような、恥ずかしさを伴う後悔だった。
が、司高峰が、絶妙のタイミングで救い船を出してくれた。
「月琴、この病院の……特別室は……お前が……思っている……よりも……遥かに……上質だ。……しかし、上官の……ご命令だ。従わない……わけには……いかない」
「そう……。大哥(お兄ちゃん)が良いのなら、私には、何も言うことはないわ」
妹は、兄の顔を覗き込んで、柔らかく微笑んだ。
(三)
入院患者に一番人気の呂愛怜看護師が、司高峰元軍医を特別室に案内する大役を仰せつかったらしい。もちろん、仰せ付けた張本人は、六〇一号室の牢名主だ。司高峰も、入院病室の六〇二号室に、直行させては貰えまい。六〇一号という関所の前で、足止めを食らうのは、必至だった。
診察室に残された月琴に天祥が告げる。
「入院に関して、二、三、書類を書いて頂く必要があります。外の待ち合いの左側に、狭いんですが、個室がありますので、そこで、お待ち頂けますか?」
「ありがとうございます。何から何まで特別なご配慮を頂いて……。身に余ります」
司月琴は、一礼をして立ち上がったが、しばらく逡巡した後、意を決したように天祥に尋ねた。
「あの……どなたなんでしょう?」
質問の意味が分からず、天祥は、反射的に聞き返していた。
「はあ? 何がですか?」
「すみません、言葉足らずでした。兄の高峰に、こちらの特別室に入るよう命じた上官というのは、いったい、どなたなんですか? 普段なら、兄は、決して、特別な待遇を望むような人ではないので……」
「ああ。お知りになりたいのならば、申し上げますけど、大した人でもないですよ」
たとえ人民解放軍では、神と崇められていたとしても、今の天祥にとって、栄儀は、ただの迷惑なじいさんに過ぎないというのが、本音だった。
「いいえ、それは、有り得ないと思います」
月琴はキッパリと言い切ったが、再び言葉の意図を図りかねた天祥が、月琴に尋ねる。
「有り得ない? どういう意味ですか?」
月琴は、冷たく天祥を一瞥してから、おもむろに口を開いた。
「特別室に入るよう兄に命じた人物が、大した人物ではない、ということが、です。だって兄が、どんな状況下においても、絶対的な服従を誓う上官は、人民解放軍広しといえども、たったお一人だけなんですもの。もしも、その方であれば、雲の上の存在と言っても、過言では有りません。もう引退されておられますけれど」
「……なら、その方で正解です」
最近、栄儀にしてやられっ放しの天祥は、これ以上は無いほど、投げやりに応じた。
「やっぱり、そうですか。それなら、兄も本望でしょう」
天祥の不機嫌さとは裏腹に、丸顔に満面の笑みを浮かべた月琴は、足取りも軽く、診察室を出て行った。
(四)
総じて、中国人という人種は、時間が来れば、仕事を中断してでも、食事に出掛けていく。個人投資家や、オーナー社長のように、自分が働いた分が、如実に利益に反映される職業を生業にしている一握りの赤い資本家は別格だが、給料制で働く大多数の中国人は、規定の時間内しか働かない。時間外手当を出すと言えば、今度は、勤務時間内に出来る仕事も、ダラダラと引き延ばすので、始末に悪かった。
天和総合病院は、職業意識の高い、優秀な医療スタッフを、それ相応の待遇で雇用しているため、業務に支障が出る事態が頻発するわけではない。しかし、集団よりも個を優先させる中華民族のアイデンティティは、如何ともし難く、多くの場合、どちらかと言うと、個よりも集団の調和を重んじる日本で育った天祥が、貧乏くじを引かされた。
天祥は天和総合病院のオーナー一族の一員ではあったが、徳賢の方針で、天祥に対しても、その他大勢の病院スタッフと同じく、給料制が適用されていた。月々に支給される給料の額も、天祥のまるで研修医並みの重労働に比例するほどには、高額でもなかった。もっとも、天祥が住んでいるのは、徳賢が所有する高級マンションの一室だったし、娯楽と言っても、せいぜい月に一、二回、ブリジッド・ウーの店『ファラエノプシス』に酒を飲みに行く程度だったから、銀行口座の残高は、増加の一途を辿っていた。そのせいで、天祥は、預金通帳の残高を見て一人でニヤニヤほくそ笑むような男や、ひいては夜中に検査室で鹿の頭骨をさも幸せそうに洗う病理医にだけはならないよう、厳しく自分を律しなければならなかった。
遅い昼食を摂るため、病院内の食堂に向おうと、診察室を出たところで、天祥は司月琴と鉢合わせた。
「あれ? まだお帰りになられてなかったんですか?」
司高峰を診察してから、ざっと三時間以上が経過していた。
「いいえ、一度、帰って、また来たんです。兄の着替えとか、必要なものを持って。多分、検査入院だけでは、済まないと思いますし……」
近くに立つと、月琴は、意外なほど、背が高い。天祥と目線の高さが、ほとんど変わらなかった。一旦、天祥と合わせた視線を、月琴は、哀しげに逸らせた。そう遠くない将来、兄の身の上に降りかかる命運について、ある程度の覚悟はできているのだろう。
一瞬、顔に指した暗い影を振り払うように、月琴は、明るい声で続けた。
「先生、お昼ご飯、まだなんでしょう? ご一緒してもよろしいですか?」
おそらく、兄の今後についても、主治医の天祥に、話しておきたいこともあるのだろう。
「ええ、もちろん。病院の中の食堂ですから、ちょっと味気ないですけどね」
月琴は、ふふふと笑って、天祥の後に付き従った。
(五)
丸テーブルには、松鼠桂魚(スズキの甘酢あんかけ)をメインにする蘇州料理が、ところ狭しと並べられた。
「あらまあ、とっても豪華ですね。味気ないどころか、高級レストランみたい」
およそ病院の食堂らしからぬ、クリーム色とブラウンを貴重とした室内装飾は、確かに小洒落た街のレストランといった風情だった。日当たりも良い。
「それは良かった。気に入って頂けて何よりです。結構、味もイケるんですよ。どうぞ、味わってみてください」
たまには、ゆったりとした食事を楽しんでも、バチは当たるまい。
「さっき、兄の病室に行って来ました。兄の言う通り、私の想像を遥かに超えてました。ホテルの一室みたい。それも、五つ星クラスの。それから、兄をあの特別室に入るよう命令された上官の方にも、お目に掛かることができましたわ。心臓がお悪いと聞き及んでいましたけれど、お元気そうで、何よりでした」
幾分、月琴の表情が、うっとりとしているように見えるのは、気のせいだろうか。古来、中国で、天下を我が物とするのは、究極の「人たらし」ばかりと相場が決まっているようだが、どうやら、徐栄儀も、究極の人たらしの範疇に入っているらしい。
「あの人は、多少、心臓に問題を抱えている、という程度ですから。それほど心配する必要はありません。放っておいても、百歳くらいまでは、生きるんじゃないですか?」
天祥の言い草の、どの辺りが面白かったのかは、定かではないが、月琴は、ひとしきり笑った後で、天祥に質問を投げかけて来た。
「先生は、徐副主席とは、どういうご関係なんです? 随分、お親しいみたいですけど」
「父の古い友人なんです。僕自身は、日本で生まれ育った二世ですから、往年の徐副主席については、ほとんど知らないんですが、今、僕の目に前にいる徐叔々(シュおじさん)と僕は、かなり上手くやっているんじゃないかと自負してます。まあ、とてつもなく迷惑な時もありますけどね。僕は徐叔々と知り合って、まだ一年足らずですが、徐叔々を慕う中国の人たちの気持ちが、ようやく少し分かるようになって来たかな? というところですねえ。一線を退いてから一年も経つのに、今でも人気が有りますよね?」
特に隠し立てする理由も見当たらず、天祥は、ありのままを月琴に話して聞かせた。
「そうですねえ。確かに、今でも、人気が有りますね。周恩来総理と双璧かしら。だけど、私は、へそ曲がりなものですから、徐副主席の国民的な人気は、宣伝部の宣伝工作だと疑っていたんです。叩いても埃の出ない幹部なんているわけないじゃないって、そんなふうに思ってたんですけどね。でも、間違っていたみたい」
月琴は、半分笑って、半分泣いているような顔で続けた。
「兄は、子供の頃から、バカが付くほど、お人好しで、いっつも自分のことより、人のことばかり。面倒な問題ばっかり押し付けられて、それでも、コツコツと解決しちゃうもんだから、手柄は、全部、ズルい人に横取りされて。それでも、お兄ちゃん、ニコニコ笑って、良かったって言える人なんです。きっと頭のネジが、何本か外れているんだと思います。それに、お人好しの上に、妙に正義漢なところもあるから、軍医になってからも、上の人に、おもねることもできなくて、本当は、きっと誰よりも仕事をしているのに、業績評価は、いっつもビリでした。それでも、お兄ちゃんは、病気の治った人が、ありがとうって言ってくれさえしたら、幸せだって言ってました。私は、心の底からバカ正直に、まっすぐに生きているお兄ちゃんが、自慢でした。誰が何と言おうと、私の中では、お兄ちゃんが一番だって言ったら、お兄ちゃん、ありがとうって言ってくれて。それから、暫くして、お兄ちゃん、偉くなったんです。お兄ちゃんの上の人の中にも、お兄ちゃんのこと、ちゃんと見てくれてた人がいるんだって思ったら、私、嬉しくて……。ずっと後になって、お兄ちゃんのこと、ちゃんと見ていてくれた人が、徐副主席だって知りました。お兄ちゃん、徐副主席の下で、仕事が出来て、幸せだったって、今でも言ってます。死ぬまで自分の上官だって。……だから、ありがとうございます。この病院に呼んで下さって、本当にありがとうございます」
身体を、くの字に折り曲げるようにして、月琴は、天祥に感謝の言葉を告げ続けた。
日ごとに自由の利かなくなる身体に鞭打って、なお他の誰かを助けようと奔走した司高峰の不器用で、真っ直ぐな生き様が、天祥の胸に、じわじわと沁み込んで行く。
司高峰のような高邁な精神を持つ医者に、自分が、なれるかどうかは、分からない。ただ、少なくとも、面倒事から逃げを打つのは、もう止めよう。――天祥は、静かに、だが強く心を固めた。
(六)
検査の結果は、芳しいものではなかった。司高峰が患っているのは、やはりALSで間違い無さそうだ。延命には、人工呼吸器の装着が欠かせない。しかし、高峰は、人工呼吸器の装着を拒絶した。自発呼吸ができなくなったら、そのまま死なせて欲しいという意思表示だった。穏やかではあるが、断固とした強い意思が感じられた。
発語に困難を来たす兄のために、月琴が病室に持ち込んだモバイルコンピューター型のコミュニケーション・ツールは、なかなかの優れものだ。
ディスプレイの下部に置かれたアルファベットや漢字変換のアイコンを目で追えば、中央のウインドウに、高峰の言いたい言葉が、きちんと意味の通じる漢字に変換されて表示される。まだ操作に慣れていない分、時間は掛かるが、高峰自身も、妹の持ち込んだこのコミュニケーション・ツールを気に入っている様子だった。
「妹は、優しい子です。もしも私が人工呼吸器を装着してしまえば、決して外して欲しいとは言わないでしょう。この病気は、介護者に、患者以上の犠牲を強いてしまいます。妹には、私のためではなく、妹自身の人生を生きて欲しい。私は、すでに私の人生を充分に謳歌しました。何の後悔もありません」
高峰は、神々しさすら感じさせる柔和な表情で、天祥に告げた。
「しかし……。妹さんは、それで納得されますか?」
おそらく今、自分は、高峰とは対照的な渋い表情をしているのだろう、と天祥は思う。
「私から妹に伝えます。最初は反対するでしょうが、最終的には、私の意思を尊重してくれるでしょう。妹は昔から、そうなんです」
高峰は天祥に向って、不器用に微笑んでから、言葉を継いだ。
「ところで、私の身体のことよりも、もっと重要なお話があります。徐副主席が、ご懸念されている軍内部の問題とも、直接的な関係が有るのではないかと。夜にでも、その件について、お話を……」
「分かりました。午後からの診療が終わり次第、また、ここに来ます」
天祥の返事を聞いた高峰は、満足そうに目を閉じた。
(七)
「ええっ!?」
まさに「え」に濁点が付けば、こんな発音になるのだろう、という音を天祥は、口から勢いよく漏らしていた。
「無理です、無理、無理、無理ですって!」
確かに、今日の昼過ぎ、天祥は、もう逃げを打つのは止めよう、と固く心に誓った。しかし、人生には、逃げなければならない瞬間もあるという事実を、今、天祥は痛感しているところだった。
高峰の病室にやって来てから数十分間の記憶が、天祥の脳裏によみがえる。
天祥は、約束通り、数十分前に、高峰の病室にやって来た。もちろん、徐栄儀も臨席していた。
「早速だが、最近、軍内部に出現している致死性の疾患について、司高峰上尉から報告してもらいたい」
栄儀が、重々しく口火を切った。
高峰は、体を起こそうとしたが、栄儀が、それを制止した。それでもなお高峰は不自由な上体を起こし、姿勢を正そうとする。
観念したように栄儀は立ち上がり、高峰を見下ろして、よく通る野太い声で、高峰に告げた。
「司上尉、仰臥位による報告を命ずる」
栄儀に命じられて、ようやく高峰はベッドに仰向けの姿勢を取るに至った。
軍人という人種は、いちいち物々しく、面倒臭い。もっとも、逆に言えば、この仰々しさが骨の髄まで染み付いてこそ、軍人なのかも知れない。
「元中国人民解放軍総后勤部第二軍医大学第二附属医院第一内科主任・司高峰上尉、ここにご報告申し上げます」
コミュニケーション・ツールの中央ウインドウの半分以上が、司高峰の軍隊での肩書きで埋まっている。ごく一般的な文民の天祥は、激しい違和感を覚えながら、戦争のない平和な国と時代に生まれた幸せを噛みしめていた。
「全体の状況を把握しているわけではありませんが、北京、瀋陽、南京、済南、広州、成都、蘭州の各軍区において、認知症様の症状を呈し、終局的には死に至る疾患の存在が認められているようです。私の所属先であった上海の第二軍医大で収集したデータによれば、江蘇軍区、浙江軍区など、上海周辺の軍区においても、万人単位で同疾患への罹患が認められています。私の見るところ、当疾患は、致死性であると同時に、急性の疾患でもあり、症状が出現した場合は、例外無く、症状の出現より一ないしは二週間、長くとも一ヶ月程度で、死に至っています」
ここ数日の間に、天祥が突き止めた事実は、高峰に伝えていない。高峰に予断を与えることを嫌った栄儀の配慮だった。
司高峰は、報告を続ける。妹からプレゼントされたコミュニケーション・ツールを使いこなすべく、午後の空き時間を操作の練習につぎ込んだのだろう。お昼の時点よりも、格段に文字の表示速度が速くなっている。
「当疾患に特徴的なのは、例外なく、患者の脳に著しい委縮が認められることです。特に大脳周辺のダメージが大きい」
「それで、病因は判明したのか?」
栄儀が鋭い視線を高峰に向けると、高峰は恥じ入るように視線を逸らせた。
「残念ながら、病理解剖の許可は下りませんでした」
「なぜだ?」
栄儀は、さっきよりも、さらに厳しい眼差しを高峰に向ける。
高峰は、栄儀の質問には、直接、答えず、苦しげに、大きくひとつ息を付いて、ツールを媒介に、ふたたび話し始めた。
「今から申し上げることは、私の憶測の域を出ません。それをご承知の上で、お聞き下さい」
コミュニケーション・ツールの画面に、次の文字が出現するまでには、やや間が有った。
「……この疾患は、軍内部の新型インフルエンザ・ワクチンの接種に起因して、出現したのではないかと考えます」
天祥は思わず、声を上げそうになったが、栄儀に睨みつけられて、何とか我慢した。
「総后勤部副部長の梁万全同志が、新型インフルエンザ・ワクチンの手配を総轄されました」
梁万全という名前を聞いた途端、栄儀は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「梁万全を后勤部に呼び戻したのか……」
(梁万全って誰ですか?)
天祥は、口の形だけで、栄儀に尋ねた。
「金の亡者よ。上の者の前では、猫をかぶっておるがな……。軍人ではなく、商売人になれば、大成するタイプだ。利益のためには、自国すらも、売り飛ばしかねん輩よ……」
栄儀は吐き捨てるように言うと、高峰に視線を戻した。
「つまり、万全の奴が、手配したワクチンは、いわく付きというわけか?」
高峰は、不自由な首で、不器用に頷く。
「新型インフルエンザ・ワクチンの接種対象者は、下士官、兵などの等級で、かつ概ね年齢が四〇歳以上でした。私の知る限り、例の認知症様の疾患に罹患した者たちは、例外なく、このワクチンの接種を受けています。現在、我が軍における四〇歳以上の下士官および兵の員数は約三十万人ですので、その内の八割がワクチンの接種を受けていると仮定すれば、約二十四万人に感染リスクがあることになります。ワクチン接種と関係があるという前提が正しいと仮定した上で、私が所持する上海周辺軍区における発病人数などのデータに基づけば、当該致死性症状の出現率は実に二十パーセント前後という異常に高い水準に上ります。これは、新型インフルエンザによる致死率の二十七倍にも相当する、極めて由々しき事態と言わざるを得ません。さらに興味深いのは、梁副部長を含め、士官クラスの軍人には、このワクチンとは、別のワクチンが、接種されているという事実です」
「ちょっといいですか? ……もしかして、梁万全さんは、そのワクチンに重篤な副作用があるかも知れないって、知っていたってことですか? 知っていて、放置していたと?」
天祥はどうにか口を挟むことに成功した。
高峰は「也許(おそらく)」と、喉元から声を絞り出した。
軍の幹部が一枚噛んでいるというのであれば、病因解明のための解剖の許可が下りない理由も理解できる。
「……梁万全ならば、やりかねんな。金で動く上に、一介の兵卒などは、自分と同じ人間ではないと思っているような節もある」
淡々とした口調とは裏腹に、栄儀は皮膚の色が変わるほど、強く拳を握りしめている。はらわたが煮えくり返っている証拠だろう。
「重篤な認知症様の疾患が出現し始めたのは、ワクチン接種から、二、三ヶ月が経ってからのことですが、ワクチンの接種直後にも、吐き気や倦怠感などを訴えた者が多くて、軍医の間では、私のように、ワクチンの副作用を疑う者も少なくありませんでした。WHOが、若く体力のある者については新型インフルエンザの重症化リスクが低いと発表したことも相俟って、 結局、体力のある四〇歳以下の若い下士官や兵たちに、この疑わしいインフルエンザ・ワクチンが接種されることはありませんでした」
高峰は、長い文章を打ち終えた疲労の中にも、報告の義務は果たしたという安堵の表情を浮かべて、顔を上げた。
「そういう事情ならば、遺体の解剖はもちろん、そのワクチンの分析も、させてもらってはいないようだな。ワクチンはまだ残っているのか?」
「上海の第一附属医院の医薬品倉庫にも在庫はあると思いますが……」
高峰の答えを聞くや否や、栄儀はくるりと天祥に向き直り、
「天祥、どうだ? 上海見物も悪くなかろう」
と、おもむろに言い放った。
天祥に対して、ふたたび栄儀(魔王)の任務(クエスト)が、発動された瞬間だった。
(八)
濁点付きの「え」で、抗議の意を示してみたところで、魔王がクエストを取り消してくれるわけではなかった。
徐栄儀と司高峰の元軍人二人が、現役時代のコネクションで、天祥が問題なく、ワクチンを受け取れるよう、準備を整えておくと請け合ってはくれた。問題は、どれだけこの二人を信用できるかだ。こう言っては身も蓋もないが、現役時代がどうであれ、現状、この二人は、一介のじいさんと病人でしかない。じいさんと病人と言えば、社会的弱者の代表格ではないか。いかにも心許ない。
加えて、ワクチン原因説には、同意できない部分も多かった。クロイツフェルト・ヤコブ病は、潜伏期間が極めて長い疾患なのだ。感染から発症までに、短くても数年、長い場合は、数十年を要するとされる。かりにワクチンから感染したのだとしても、二、三ヶ月という短期間で発症するとは考えにくい。
ワクチンを分析すべきだという方向に話が進んで行きそうなので、あまり認めたくはなかったが、そもそも、この疾患は、本当にクロイツフェルト・ヤコブ病なのだろうかという疑問も、天祥の心の中にくすぶっていた。組織観察では、クロイツフェルト・ヤコブ病に特有のスポンジ状に変性した脳細胞こそ確認されたものの、臨床症状の面では、発症から死に至るまでの期間が、わずか数週間とあまりにも短い。通常は、短くとも数ヶ月から二年程度と言われている。
天祥とて医学者のはしくれであるし、ワクチンを分析するにやぶさかではない。ただワクチンを軍医大付属病院まで取りに行くのが嫌なだけだ。
もっともいくらウダウダと思い悩んだところで、最終的に、栄儀に押し切られるのは、目に見えている。
大人しく栄儀と高峰からの次の指令を待つしかなさそうだった。
気付けば、もう何日も病院から外に出ていない。今日こそは、マダム・ブリジッドのクラブに出掛けよう。
天祥は、天和総合病院の荘厳な正門とは打って変わって質素な裏門をくぐり抜け、外界へと飛び出した。
(九)
マダム・ブリジッドの『ファラエノプシス』から、天祥のもとにインヴィテーションが届いたのは、天祥が蘇州にやって来て、一年半ほどが経った頃だった。およそ中国らしくない、荘厳なバロック調の装飾に彩られた封書には、蝋の封緘があしらわれていた。
中国という国では、個人情報保護法もまた、他の大多数の法律に違わず、形式的な法律に過ぎない。金になるなら、何でも売り買いするこの国では、個人情報など、ダダ漏れ、垂れ流しの状態で、天祥のもとには、毎日、何十通となく、夜の店からのダイレクトメールが届く。場合によっては、見ず知らずの店から、突然、電話が掛かって来ることもある。
夜の女性のみならず、女性全般に対して、少なからずコンプレックスを持っている天祥が、夜の店からのダイレクトメールを開封するのは、奇跡に近かった。
天祥が奇跡的に、クラブ『ファラエノプシス』からのインヴィテーションを開封したのは、主に二つの理由からだった。
ひとつめの理由は、『ファラエノプシス』からのインヴィテーションは、他の店からの極彩色や原色のけばけばしい外観のインヴィテーションとは異なり、シックで上品な雰囲気を醸し出していたから。ただし、この理由は、決定的な理由ではない。
決定的だったのは、大学時代からの悪友・グレゴリー・ホイから掛かって来た一本の電話だった。
グレゴリーは香港人だった。中流以上の香港人の八割以上が、欧米に留学するのだが、グレゴリーの両親は香港人にしては珍しく親日家であり、親日家の両親に養育されたグレゴリーは、高校時代から日本に留学していた。日本の高校を卒業後、天祥と同じ大学の、法学と薬学という、まるで畑違いの二つの分野で、学位を取得している。
香港人特有の要領の良さも相俟って、グレゴリーの学業成績は優秀だった。その上、語学にも天分があったらしく、母語のカントニーズはもとより、マンダリン、日本語、英語、さらには、何となくモテそうだからという理由で、フランス語まで完璧にマスターしていた。卒業後は、香港に戻り、新進気鋭のジャーナリストとして注目を受け、それに見合う活躍もしているようだ。
電話の向こうのグレゴリーは、天祥に告げた。
「お前の住んでる蘇州の郊外にな、『ファラエノプシス』っていう、ちょっと面白いクラブがあってな。まあ、オレ様は、当然、すでに正式なメンバーなんだが、そのクラブのマダムが、また、良い女なんだよ、これがっ。極上だよ、極上! ブリジッドちゃんって言うんだけどね。で、ちょろっと、お前のことを話したら、ぜひ、紹介して頂きたいわ……なんて言うわけだよ。……っちゅうわけで、次に、俺が、そっちに行ったら、絶対、お前を『ファラエノプシス』へ連れて行く!」
天祥の知る限り、グレゴリーは史上最強のオレ様至上主義者でナルシストだが、キレイな女(ひと)には、すこぶる弱い。
「行かねえよ、そんなとこ。俺はお前と違って、女よりも仕事なの。夜の商売してる女なんかに興味はねえよ」
天祥は、うんざりしながら言った。グレゴリーの嗜好を押し付けられる謂われはない。天祥は、夜の女でも、昼の女でも、およそ女偏の付く人間は、ぜんぶ苦手なのだ。
「ああ、お前は、バカだねー。いい加減に、お前の姉ちゃんたちの呪縛から解放されろよ! お前の姉ちゃんらは、ある意味、シュワルツェネガーのターミネーターみたいなもんだろ? 何ならアマゾネス軍団と言い換えてもいい。まあとにかく極めつけに特殊な部類だっつうの。大部分の女ってのはな、優しくて、柔らかくて、良い匂いがする生き物なんだよ。……とにかく、騙されたと思って、マダム・ブリジッドに会ってみろよ。お前の救世主になるかも知れない女だよ、ブリジッドちゃんは」
グレゴリーは、心底、同情するような口調で、天祥を諭した。
天祥は、反論しようと口を開きかけたが、例によって例のごとく、グレゴリーは、自分の言いたい用件だけを告げると、一方的に電話を切ってしまった。
理由は分からないが、天祥の周りには、人の話を聞かない人種ばかりが集まって来るらしい。グレゴリー然り、徐栄儀然り、だ。
電話を切られて消化不良の天祥の頭の中では、『ファラエノプシス』という店の名前と、『マダム・ブリジッド』という女性の名前が、リフレインしていた。単に店の名前が珍しい名前だったからかも知れないし、あるいはグレゴリーの「お前の救世主になるかもしれない女だぞ」という言葉に、心ならずも、引っ掛かりを覚えたからかも知れない。
グレゴリーの自己中心的かつ一方的な電話から、いく日も経たない内に、『ファラエノプシス』からのインヴィテーションを受け取った天祥は、抑えきれない好奇心にかられて、重々しいまでに格調高い装飾が施された封書の封を切っていた。
(十)
ブリジッドに出会えたのは、天祥にとって僥倖という他なかった。恋愛感情と呼ぶには、余りにも淡い未熟な感情でしかなかったが、天祥が、少なからず心を許せる、唯一の女性という意味において、ブリジッドは、まさに天祥の救世主だった。しかし、その一方で、結果的にグレゴリーの言う通りになったと思うのは、腹の底から癪に障った。
グレゴリーの前では、ブリジッドなど眼中に無いという素振りをしてみるものの、やましい気持ちがあるせいか、何となくバレバレのような気もする。
とてつもなく居心地の悪い思いをしながらも、グレゴリーが蘇州にやって来るたびに、天祥も一緒に『ファラエノプシス』に出掛けるという生活を、しばらく続けていたのだが、天は天祥を見捨てなかった。
去年の秋、グレゴリーが電撃的に結婚をした。グレゴリーが結婚するなど、青天の霹靂以外の何ものでもなかったが、グレゴリーは、天祥たち旧友の大方の予想を裏切り、良き伴侶となる決意を固めているようだった。
既婚者となったグレゴリーが、本業以外で蘇州に来る機会はぐっと減り、天祥は、『ファラエノプシス』に一人で出向く大儀名聞を手に入れた。
『ファラエノプシス』は、高級会員制クラブらしく、連絡を入れると、リムジンが迎えにやって来る。どういうシステムになっているのか、よく分からないが、特に予約を入れる必要はなかった。
天祥は、『ファラエノプシス』のレセプションに連絡を入れるべく、胸のポケットから携帯電話を取り出した。と、ほぼ同時に、着信音が鳴り響く。
病院からの呼び出しかとも思ったが、液晶ディスプレイには、見たことのない電話番号が表示されている。病院からの呼び出しよりも、もっとずっと嫌な予感がした。出るか、出ないか、一瞬、躊躇したが、最終的には、受話ボタンを押した。
「よう、天祥ちゃん。お久しブリーフ。今、オレ、蘇州なんだけどさ」
背筋に悪寒が走る。果たして、病院からの呼び出しよりも、もっとタチが悪かった。
電話の向こうの相手は、天祥が通話終了ボタンを押そうとするのを気取ったように、慌てて付け加えた。
「ちょい待ち。オレさ、今、すげえ久しぶりに、ブリジッドちゃんの店に来てんのよ。お前もどうよ?」
アマゾネス軍団の次はお前かよ、グレゴリー。俺の邪魔ばかりしてんじゃねえ! お前は香港で新妻とガキでも作ってりゃ良いんだよ、グレゴリーッ!
いつもは温厚な天祥であっても、口汚く罵る場面はある、但し、心の中だけで。
(十一)
「分かった……行く」
心の内に煮えたぎる持って行き場のないマグマのような怒りとは裏腹に、いたって穏やかに返事をしてしまった自分が、死んでしまいたいほど情けなかった。
しかし、考えてみれば、グレゴリーは、今でも『ファラエノプシス』のメンバーなのだから、蘇州に来た時に、ブリジッドの店に行くのは当たり前だし、既婚者は、夜の店に立ち入るべからずという法律もない。
冷静になれば、自分自身の苛立ちが、いかに理不尽なものであるかが、よく分かる。思い通りにならずに、癇癪を起こした子供みたいだ。
今日の自分はどうかしている。色んなことが有りすぎて、疲れているのかも知れない。
天祥は、気を取り直して、『ファラエノプシス』のレセプションの番号をプッシュした。
(十二)
『ファラエノプシス』は、蘇州郊外にある太湖のほとりの森の中に、隠れ家然として佇んでいる。深い森は守護者のようにブリジッドの瀟洒な洋館を覆い隠していた。
森は、自然の姿を色濃く留めながらも、さりげない手入れが行き届いていた。ほんのりとライトアップされたプライベート・ロードは、ある種、幻想的ですらある。
音もなく、車寄せに滑り込んだリムジンのドアを開けてくれたのは、いつものように、古めかしいが、しっかりとした上質な作りの燕尾服を着込んだ初老のボーイ――執事と呼ぶ方が似つかわしかったが――だ。
『ファラエノプシス』にやって来るたびに、この場所にだけは、世間とは異なる時間の流れが存在するように感じられた。
ブリジッドの洋館と、洋館を取り巻く森の総称が『ファラエノプシス』なのだと、かつてブリジッドが教えてくれた。『ファラエノプシス』は、中国でも、西欧でもなく、『ファラエノプシス』という独立した世界だといえた。
さしずめ、天祥たちゲストは、この特殊な世界に鎮座する美しい公(コン)主(ジュ)(中国における皇帝の娘の意)に謁見を許された諸侯のようなものだ。
年甲斐もなく、そんな御伽(おとぎ)噺(ばなし)のような感慨に耽ってしまうほど、『ファラエノプシス』は、日常とかけ離れた雰囲気を醸し出していた。この森に迷い込んだゲストを、カタルシスに誘うかのように。
(十三)
ブリジッドのサロンに通されて、最初に天祥の目に飛び込んで来たのは、ブリジッドではなく、グレゴリーだった。
天祥としては、暑苦しい上に、ちょび髭を生やした、いんちき臭い香港人なんぞに、会いたくもなかった。が、グレゴリーは、顔全体に詐欺師のような満面の笑みを湛えて、天祥に向って、わざとらしく手を振った。
サロンの中に、ブリジッドの姿はなかった。
天祥は、仕方なく、グレゴリーの正面のソファに腰掛けた。硬すぎもせず、また柔らかすぎもしないクッションは、優しく、心地良く、天祥の体を包み込んだ。
「久しぶりだね、天祥ちゃん。元気だった?」
グレゴリーは、すでに立派に出来上がっているようで、体中から酒の匂いをプンプンさせながら、わざわざ自分の座っている席を立ってまで、天祥にすり寄って来ようとした。
「黙れ、酔っ払い。俺に近寄るな! 気色悪い!」
天祥は、体を捩って、グレゴリーから逃れる。
「ツレないねー、みんな。ブリジッドちゃんもさ、酔っ払いは嫌い、とか言っちゃってね、俺を放って、どっかに行っちゃったんだよお。失礼だよねえ。俺は、お客なのにねえ」
天祥は、自分がブリジッドでも同じようにしただろう、と心の中で思ったが、口には出さなかった。酔っ払いのグレゴリーが、あまりに鬱陶しかったからだ。
「それよりさ、なんで、お前、そんなに酔っ払ってんの?」
天祥は、自分で水割りを作りながら、努めて冷めた声で、グレゴリーに尋ねた。
グレゴリーは、酔っ払い特有の、回らない呂律で「よくぞ、聞いてくれましたっ!」と大声で答えたが、言葉を繋ぐ前に、ソファに倒れこんでしまった。
「おい! グレッグ、大丈夫か?」
普段からお世辞にも酒癖が良いとは言えなかったが、今日ほど悪い酔い方をしているグレゴリーを見るのは初めてだった。
「奥様にね、家出されちゃったんですって」
甘く芳醇な中にも、ぴりりとしたスパイシーな切れのある香りを漂わせながら、天祥の問い掛けに答えたのは、グレゴリーではなく、ブリジッドだった。ブリジッドは、いつものように古代の貴婦人が愛した白蘭の香りをまとって、天祥の前に現れた。
天祥が入って来た正面のドアを背にして、左手にある、もう一つの小さなドアから、サロンに戻って来たらしい。
「いらっしゃいませ。お出迎えもせずに、ごめんなさい」
気高くて美しい公主のブリジッドが、目の前に立ち、小首を傾げて、天祥への非礼を詫びている。
ブリジッドの姿を見た天祥は、グレゴリーの粗相も、病院でも面倒事も、一瞬にして、霧散したような気がした。
(十四)
ブリジッドの店にやって来てまで、医者の仕事をさせられるとは思わなかったが、グレゴリーを放っておくわけにも行かず、天祥は、渋々ながらも、一通りの診察を済ませた。ブリジッドに頼まれれば、嫌とは言えなかった。
幸いなことに、グレゴリーには、外部刺激に対する反応もあり、酩酊状態ではあるものの、急性アルコール中毒の疑いは消えた。一、二時間もすれば、強烈な喉の渇きで、目が覚めるだろう。
充分に黒服を着こなしているとは言えない、まだ若そうなボーイたちの手によって、グレゴリーは、サロンから運び出されて行った。
天祥は、ようやく少し落ち着いて、マダム・ブリジッドに向かい合った。
「折角、来て頂いたのに、バタバタしてしまって、本当にごめんなさい。だけど、天祥さんが来て下さって、助かりましたわ。お詫びの気持ちも込めて、少し良いお酒をお召し上がり下さいな」
ブリジッドは、黒光りするマホガニーのリカーキャビネットから、落とした照明の光に反射して、キラキラと光沢を放つバカラのデキャンタを取り出したかと思うと、踊るような独特の軽い足取りで、天祥の元へ戻って来た。
近くで見ると、ブリジッドの持って来たデキャンタには、色とりどりの宝石が散りばめられていた。
ラベルには「レミーマルタン―ルイ十三世 ダイヤモンド・スペクタキュラー」と気取った装飾文字で記されていた。酒の銘柄には、まったく詳しくない天祥であっても、ルイ十三世というコニャックの名前くらいは聞いた記憶がある。最高ランクのルイ十三世は、ボトル一本で、五百万円は下らないと聞いて、バカじゃねえの! と吐き捨てた覚えもある。
おそらく、この宝石付きの高級感溢れるデキャンタの感じから見ても、ブリジッドの出して来たのは、最高ランクのルイ十三世だ。
「とても香りが良いの。口当たりも優しいから、つい飲み過ぎちゃうかも知れないけど、たとえ酔いつぶれても、素敵な気分のままで眠れるわ。良いお酒って、そういうものじゃなくて?」
ブリジッドの声は、鈴を転がすような声と形容するのが、相応しい。いつまででも、黙って聞き入っていたい声だった。
ブリジッドは、半ば強引に天祥にグラスを押し付け、自らもグラスを持ち上げると、小さく、チン・チンと言って、天祥に微笑みかけた。
ブリジッドは、クセのない艶やかな黒髪を、頭の後ろで、シニョンにまとめあげている。元は男性が着用する馬(マー)掛(グア)と呼ばれる満州族起源の艶やかな民族衣装を身に着けた今日のブリジッドは、本物の公主のようだ。
中国の東北地方出身というだけあって、ブリジッドは、透き通るような白い肌をしていた。背丈は高からず、低からず。細身で、顔や頭は、天祥の握りこぶし程の大きさしかない。大きなアーモンド型の瞳は、いつも濡れたような光を湛えている。鼻も口も、耳も眉毛も、寸分違わず、最もバランスの良い部分に、最もバランスの取れた大きさで配置されていた。
神が創造した奇跡を具現化した存在なのではないかと、図らずも思ってしまうほど、ブリジッド・ウーは美しかった。
(十五)
「ねえ、天祥さん、何か悩んでいることでもあるのかしら?」
ブリジッドは、吸い込まれてしまいそうな澄んだ瞳で、天祥の顔をじっと見つめながら尋ねた。
「えっ? どうして?」
内心のドキドキを包み隠して、天祥は問い返す。
「……人の心を読むのは、得意なのよ。だけど、天祥さんは、とっても分かり易いから、つまらないわ。すぐに顔に出ちゃうのね。今日は、いかにも悩んでいますっていうお顔をしているもの」
ブリジッドは、コロコロと笑う。
好きな相手から「つまらない」と言われた天祥は、軽く心に傷を負ったものの、辛うじて「特に、悩みはないけどなあ」という言葉を口からひねり出した。どう頑張っても、自分でも、まったくの棒読みじゃないかと感じざるを得ない。こんな調子では「分かり易いから、つまらない」と言われたところで、反論のしようがなかった。
「知ってる? 世の中の悩みの八割以上は、誰かに話を聞いてもらうだけで、解決するって言われてるの。あなたの悩みは、この八割に入っている?」
ブリジッドは、鼻の頭が引っ付くほど、天祥の顔に自分の顔を近づけた。
「残念だけど、入ってないかも……」
と答えてしまった直後、天祥は、ブリジッドの仕掛けた接近戦に、敗北した事実を悟る。
ブリジッドは、満足そうに笑って言った。
「後の二割はね、誰かに協力を仰ぐべき悩みよ」
(十六)
「まあ、そんなことが?」
ブリジッドは、眉をひそめた。
(ああ、なんて口の軽い男なんだ、俺って奴は!)
天祥は、床を這いずり回って、硬いフロアに、頭をガンガンと打ち付けたい衝動に駆られていた。
気が付いた時には、人民解放軍内部で発生している謎の奇病から、徐栄儀からの無茶な指令に至るまで、これまでの顛末を、洗いざらいブリジッドに向って、吐き出していた。
「ごめん……。こんな話しちゃって。もしかしたら、ここにも、解放軍の装甲車が突っ込んで来るかも……」
天祥は、真剣に心配していたのだが、ブリジッドは、カラカラと笑い飛ばした。
「いくら人民解放軍と言ったって、日常的に、民間人の施設を破壊して回るほど、暇じゃないと思うわ」
ひとしきり笑った後、ブリジッドは、急に真面目な顔になって、天祥に尋ねた。
「ねえ、天祥さんの国籍は?」
ブリジッドからの意外な質問に戸惑いつつも、
「え? 今は、日本だけど?」
と、天祥は答える。
「それなら、大丈夫よ。人民解放軍は、原則的に、交戦状態の国以外の外国人には、手を出さないもの。あ、領土問題が絡んでいる時は、別だけど。釣魚島(尖閣諸島)は日本の領土だ! って叫んだら、拘束されちゃうかも知れないわねえ」
ブリジッドは、空になったグラスに、最高級のレミーマルタンを注ぎ、天祥に差し出しながら、続けた。
「まあ、それは冗談にしても、人民解放軍が、銃口を向けるのは、少数民族も含めて、中国に住む中国国籍を持っている人たちに対してなのよ。だって、人民解放軍は、国共内戦時に、共産党によって組織された軍隊なのよ。同じ国の人間同士が、殺し合いをするために、作られた軍隊なんだから……」
天祥が垣間見たブリジッドは、ぞっとするほど、冷たい表情をしていた。
(十七)
干からびた塩辛みたいな奇声を発しながら、グレゴリーが起きてきたのを潮に、天祥は、帰り支度を始めた。時刻は、夜中の二時を回ったところだった。
砂漠で道に迷い、奇跡的に救出された人間のように、グレゴリーは、水を飲み続けながら、天祥を引きとめようと、必死の努力を払っていた。
「ちょっと待ってよ、天祥ちゃん。夜は、これからだよ。最愛のハニーに、家出されたハート・ブレイクなボクちゃんを慰めてくれよぉ」
「お前ね、大体、おかしいだろ? 嫁に家出されたハート・ブレイクなボクちゃんが、なんで香港から蘇州までやって来て、しかも、なんでわざわざ、この店に来てるかってのが、そもそも俺には、よく分からないんだけど?」
「違ぇえよ。蘇州に来たのは、仕事だっつうの。嫁の家出とは、関係ねえっつうの。せっかく蘇州に来たんだからよ、ブリジッドちゃんの可愛いお顔を見に来るのは、当たり前だろ? 何つっても、俺、この店の、古くからのメンバーだしっ。お前よりも、付き合い、長いわけだし」
天祥は、些細なことで、鼻の穴を膨らませて、鬼の首を取ったように、威張るグレゴリーを真正のバカだと哀れむことにした。
「明日、仕事なんだよ、俺。もう帰らないと、明日の仕事がキツイの。明日の授業とか仕事のことを気にせずに、遊び歩けた二十代は、とうに過ぎ去ってんの! お前もね、自分の年っちゅうもんを自覚しろよ。ブリジッドだって、迷惑だろうがよ。大体、この店、二時で看板じゃねえかよ」
横で二人の会話を黙って聞いていたブリジッドが、深く頷いた。
「そうよ。グレッグ。とっても迷惑だわ。今日は、もうホテルにお帰りなさいな。ホテルに帰ったら、必ず、奥様に連絡するのよ。ボクが悪かったって言いなさい。天祥さんよりも、あなたを先に帰す手配を整えるわ。さっさと、リムジンに乗って、帰ってちょうだい」
グレゴリーは、母親にきつく咎められた子供のように、見る見るうちに萎れていったが、ブリジッドが、グレゴリーをぎゅっと抱きしめ、頬におやすみのキスした途端に、見事なまでの復活を遂げた。
グレゴリーをリムジンに押し込んで、見送った後、ブリジッドは、
「……多分、グレッグは、パパになるわ、何となく、そんな気がするの」
と、いたずらっぽく、天祥に微笑んだ。
(十八)
グレゴリーの妨害には遭ったものの、最近、身の周りで起こりつつある出来事を、ブリジッドに話せたことで、天祥の気持ちは、随分と軽くなった。もちろん、その一方で、自分は、ブリジッドに甘えっ放しの、大人になりきれていない、度量の小さい男なのかも知れないという悲哀も充分に感じていた。
ブリジッドに会うたびに、天祥の頭の中をブリジッドの占める割合が、ますます増大していく。
(これが恋というものでしょうか?)
(ええ、きっと、そうです)
頭の中ので、英文を和訳した時のような、ぎこちない自問自答を繰り返し、天祥は、泣きたい気分になる。
(恋とは、こんなに苦しいものなのですか?)
(そう、時に恋とは、胸が締め付けられる思いに苛まれるものなのです)
このふわふわとした、甘美な苦しみの中に埋もれて、一生を終えたいとすら思う。現実の世界なんかに戻りたくはなかった。
甘く切ない夢の世界から、容赦なく、天祥を現実世界へと引き戻したのは、大音量の目覚まし時計のアラームだった。
(十九)
「仕事なんて休んでしまえよ」という、心の中に巣食う黒い生物の声を何とか振り払い、這うように出勤した天祥の元に、解剖を承諾してくれた軍人の妻から電話が掛かって来たのは、午前十時を少し回った頃だった。
栄儀は、中途半端な情報だけなら、最初から伝えない方がましだと言っていた。しかし、クロイツフェルト・ヤコブ病が疑われるだけに、遺族には、慎重に遺体を取り扱って貰う必要もある。
やはり、解剖で得られた所見だけでも、かいつまんで説明しておくべきだろう。
電話口で、一通りの説明を終えた後、安全を期して、ご遺体は、病院から火葬場に直接搬送したいという申し出についても承諾を得た。
「感染経路の特定は、極めて困難ではありますが、もしも、今後、何か分かったら、必ずご連絡を差し上げます」
と言い添えて、天祥は電話を切った。
天祥は、今日もまた、特別室での『パワーランチ』に招待されている。今日のテーマは、まず間違いなく、上海行きの件だ。
(どんな秘策を立ててくれたのやら……)
半ば諦観にも近い気持ちで、天祥は、六〇一号室に向かった。
(二十)
今日のランチは、日本風に言えば、中華あんかけ焼きそばだった。中華を名乗ってはいるものの、この料理は、日本からの逆輸入だ。テーブルの上に『日式炒麵(日本風焼きそば)』と印刷されたレシピが乗っているから、間違いない。
天祥は、七十も半ばを過ぎて、レシピを見ながら、料理をする栄儀を、可愛いおじいちゃんだと、迂闊にも思いそうになって、慌ててその雑念を打ち消した。
食事を終えて、天祥は、栄儀に対して、姿勢を正した。天祥には、栄儀に質(ただ)しておきたいことが有ったからだ。ブリジッドの言葉が、天祥の頭から離れない。
「人民解放軍は、同じ国の人間同士が、殺し合いをするために、
作られた軍隊なんだから」とブリジッドは確かに言った。
ブリジッドの言うとおり、自国の国民に銃口を向けるような軍隊であるのなら、なぜ徐栄儀は、人民解放軍に入隊なんかしたのだろう?
「徐叔々(徐おじさん)、一つ、聞いても良いですか?」
聞くのは、今しかないような気がした。今を逃せば、きっと永遠に何も聞けなくなってしまう。
「叔々は……どうして軍人になったんですか?」
ほんの一瞬ではあったが、徐栄儀の表情が、強張ったように見えた。
栄儀は、黙りこくって、茶壷(ティーポット)に熱いお湯を注ぎ入れた。龍井茶のコクのある香ばしい香りが周囲に広がる。
たった今、点てたばかりの龍井茶を汲んだ茶碗を天祥の前に差し出し、栄儀は、天祥の正面に腰を下した。
顔を上げた栄儀が、わずかに目を見開いたかと思うと、不意に背後から、聞き慣れた声が、天祥の耳に飛び込んで来た。
「栄儀が軍人になったのは、私との約束を守るためだ」
(二十一)
天祥は、おもむろに後ろを振り返り、悲鳴に近い声を上げた。
「爸(お父さん)!」
徳賢が――天祥の父が、六〇一号室のドアの前に立っていた。
「天祥! お前は、仕事もせんと、こんなところで、何をしとるか! この馬鹿者がっ!」
取りも直さず、徳賢は、天祥を叱り付ける。
徳賢の剣幕に対峙したのは、天祥ではなく、栄儀だった。
「罵られるべきは、お前の方ぞ、徳賢! 猫のように、足音を忍ばせ、人の部屋に侵入するは、宦官の所業! 恥を知れ!」
お互いに激しく罵りあいながらも、徳賢と栄儀は、肩を抱き合って、再会を喜んでいるようだ。
「爸、いつ、こちらに?」
天祥は、どぎまぎしながらも、父親に尋ねた。
「今、だ」
徳賢は、天祥に向き直る。
「連絡を入れてくれれば……」
迎えの車を手配したのに、という天祥の言葉は、徳賢のがなり声で、掻き消されてしまった。
「連絡だと? この病院のオーナーである私が、なぜペーペーの雇われ医者のお前に連絡などを入れねばならん? 私が来たい時に来て、何が悪い? 誰にも文句を言われる筋合いはないわっ!」
相変わらず、手厳しい愛情表現ではあるが、天祥は、父の威勢の良い声を聞く度に、父はまだまだ元気なのだと、ほっとした気分になる。
「分かりました。すみません、でも、仕事をサボっていたわけではないんです。今はお昼休みですし、徐叔々に、昼食をご馳走になっていたところなんです」
「まあ、良い。ところで、さっきの話の続きだ」
「へぇ?」
唐突に、「さっきの話の続きだ」と言われても、急には頭を切り替えられない。ましてや、突然の暴風雨のように、徳賢が闖入して来た直後だ。
「このウツケ! 私との約束を守るために、栄儀が軍人になったという話だ!」
「ああ……そうでした」
天祥は、暴風雨によって霧散していた記憶の断片を慌ててかき集めた。
「しかし、なぜお前は、栄儀が軍人になった理由を知りたいと思ったのだ? 興味本位か?」
徳賢は、わざと意地の悪い聞き方をする。
「いえ、決してそういうわけではありません。徐叔々は、ご自身のどのような体験に由来して人民解放軍に入隊されたのか、それを知りたいと思ったんです。人民解放軍は、これまでも中国共産党に楯突く自国民に対して、容赦無く銃口を向けて来たと言う人が大勢います。けれど僕には、徐叔々が同じ国の人民に対して銃口を向けて来られたとは、とても思えないので……」
天祥は、感情的になるわけでもなく、冷静に、自分の考えを徳賢に伝えた。
「ふむ。ならば、直接、栄儀の口から、経緯を聞くが良い」
徳賢は、栄儀に向かって、小さく頷き、
「天祥を中国に寄越したのは、間違いではなかったのかも知れんな」
と、密やかな声で、栄儀に告げた。
「私は、これから、事務長と打ち合わせがある。それが終わったら、またここにやって来るとしよう」
徳賢は、栄儀と天祥の顔を交互に見やり、大股で六〇一号室から歩み去った。
(二十二)
「まったく、お前の親父は、相変わらずよ」
栄儀が、呆れたような顔で、天祥の顔を見た。
「確かに……。でもきっと、類は友を呼ぶんでしょうねえ」
天祥は、したり顔で、鉄観音を啜る。
「黙れ、小童」
と、栄儀が笑う。
「徐叔々。お話して頂けますか? 軍人になった理由を」
天祥の言葉に、栄儀は、一瞬、遠い過去を見るような目をして、こっくりと頷き、緩やかに話し始めた。
「お前も知ってのとおり、お前の父親と私は、今の広東省中山市辺り一帯に広がっていた農村の出身よ。
全部で百戸ほどの小さい集落だったが、集落全体が、助け合って、仲良く暮らしておったわ。
子供の頃は、当たり前だと思っておったが、成長して大人になってから、集落の地主一族が、人格者揃いだったのだということを、思い知った。
共産党が、中国を解放する前から、地主の李一族は、共産制を実践しておったわ。集落の者全員に平等に農地を分け与えてな……収穫も公平に分担するシステムを集落の中で作り上げておった。
おおかたの地主や資産家は、共産党を蛇蝎のごとく忌み嫌っておったが、李一族だけは、革命の成功を願っていたように思う。
飢饉の時は集落の中から、誰一人、餓死者を出さぬように奔走してな、子供が死ぬことのないようにと、集落に医者を連れて来て、住まわせたのも、李一族よ。
李一族は、子沢山でな、私も徳賢も、李家の子供たちと仲が良かった。中でも若夫婦の子供で、年の近い、老大(長男坊)、老二(次男坊)、老三(三男坊)とは、いつも悪さばっかりしておった」
栄儀は、身分証明書が入っているケースの中から、一枚の色褪せた写真を取り出して、天祥に渡した。
子供が五人、直立不動で、まっすぐに前を見据えている。七十年前と言えば、おそらく写真自体が珍しい時代だ。睨み付けているように見えるのは、緊張していたからだろう。
真ん中に写る背の高い男の子が、徐栄儀だというのは、すぐに分かった。齢七十を超えた今でも、栄儀は、少年の頃の面影をほんのりと留めている。
栄儀の右となりに映っているのが、おそらく徳賢だろう。ミスター・スポックのように、とがった耳が特徴的だった。
「真ん中が、徐叔々で……その右側が我爸(僕の父)ですね。それ以外の三人が……李家の三兄弟ですか?」
「そうだ。年子でな、私が八つか、九つで、老大は、六つか七つだった」
栄儀の目には、懐かしさと、悲しみが入り混じったかのような複雑な光が宿っている。
尋ねるべきではない。栄儀の表情を見れば、聞くまでもなく、答えは分かり切っていたが、天祥は、栄儀に尋ねずにはいられなかった。
「……老大や老二は? 今、どこに?」
「死んだよ。みんな、死んでしまった。……兵隊たちに殺されたよ、人民解放軍のな」
観念するように吐き出された栄儀の言葉を聞いた時、天祥は、鋭い痛みの矢が己の心の中に突き刺さるのを感じた。
(二十二)
「国共内戦が終わって、人民解放軍の兵士たちが、私たちの集落にもやって来た。後になって、その時、李一族は、兵隊たちの労をねぎらおうと、もてなしの支度をしていたと聞いた。だが、兵隊たちは、李一族のもてなしを受けることなく……李一族を皆殺しにした。私には、今でも李一族が、殺されねばならなかった理由は分からん。兵隊たちは、無産階級の敵、地主を打倒せよ! と、大声で喚き散らしていたそうだが、今に至るも、私は、李一族ほど、立派な共産主義者を見たことがない。李一族を根絶やしにした後、兵達たちは、李家の居所に火まで放ってな……。小さい子供たちは、骨まで燃え尽きてしまったと、大人たちが言うのを聞いた」
栄儀は、ふーっと大きく息を吐いて、椅子の背もたれに、体を預けた。
天祥は、栄儀に掛けるべき言葉を捜したが、見付からなかった。
「……殺された者は、李家の者だけではなかった……」
栄儀は、言い難そうに口ごもったが、天祥には、確信にも似た予感があった。
徳賢は、一度たりとも、天祥の祖父母の話を、天祥に語って聞かせたことはない。天祥の祖父母――徳賢の両親でもある――が不幸な亡くなり方をしていたのであれば、天祥にも、父の頑なさが理解できるような気がした。
「父の両親ですね……。僕の爺爺(おじいさん)と奶(おばあ)奶(さん)でしょう?」
天祥は、自分の声が震えているのを感じた。
栄儀は、苦しそうに頷いた。
「李家の子供たちを守ろうとしてな……。忘れるな、天祥。お前の祖父母は、高潔な尊敬すべき人たちだった。だが、徳賢と徳賢の年の離れた兄たちは、住み慣れた土地を離れなければならなくなった。自分の身を守るためには、祖国を離れるしかなかった。――なあ、天祥、お前には、正しい行いをした者が、命を奪われ、正しい行いをした者の家族が、住みなれた土地を追われる苦しみや、哀しみが、理解できるか? 自分の両親を手に掛けた兵隊を許すことができるか?」
栄儀のあまりにも辛い問い掛けに、天祥は、無言で、頭を振った。
「だが、徳賢は、悔しさも、辛さも、悲しみも、ぜんぶ、自分の胸の中に押し込んで、兵隊たちを許すと言った。わずか七つか八つの子供がだ。まだ爸爸(お父さん)や媽媽(お母さん)の温もりが、恋しくて堪らない年頃の徳賢がだ。『きっと、爸爸(お父さん)と媽媽(お母さん)は、僕たちのこの国が、兵隊たちが人を殺さない国になることを願っていると思うんだ。僕は、爸爸と媽媽の願いを叶えたいけれど、もうここを出て行かなければならない。だから、栄儀、ここに残るお前にお願いがある。僕らの国を、兵隊たちが、人を殺さない国にして欲しい。この国から出て行く僕には、もうできないけれど、この国に残るお前にならできるだろう? お前は、僕よりも、ずっと頭も良いし、度胸もある。約束して欲しいんだ』――天祥、お前の父は、そう言い残して、祖国を去った。私は、お前の父との約束を果たすために、軍人になった。私など、強大な軍隊の中では、余りにも微力だったが、自分なりに懸命に力を尽くしたつもりだ。たった一つだが、私がお前の父親に胸を張れることがある。私が軍事委の副主席を務めていた十年余りの間に、人民解放軍が、漢民族はもとより、ウイグル、チベットなどの少数民族に、武器を向けたことは一度たりともない」
疲れ果てたように、椅子に体を沈めながらも、栄儀が自慢げに親指を立てた姿を見て、天祥は救われた気分になった。
(二十三)
先刻の言葉通り、徳賢は、六〇一号室に、再び顔を見せたが、栄儀と天祥の間で交わされた話の内容に触れようとはしなかった。
徳賢と二言、三言、言葉を交わした後、栄儀は、司高峰に用があると言って、六〇一号室を出て行った。天祥と父を二人にさせてやろうという、栄儀なりの気遣いなのだろう。
黒檀のテーブルを挟んで、向かい合う父と息子の内、先に口を開いたのは、父だった。
「……なあ、天祥。お前は、この徳賢の子供時代が、不幸だったと思うか?」
父の問い掛けに、天祥は、しばらく考えてから、頭を振った。
「正直なところ、媽媽(お母さん)や爸爸(お父さん)が、誰かに殺されたら、自分がどんな気持ちになるか、僕には想像も付かない。爸爸の子供の頃が、どんな時代だったのかも、僕には、よく分からないけど、でも、爸爸は、不幸ではなかったと思う」
徳賢は、右側の眉毛をピクリと押し上げ、天祥の顔を凝視している。話の先を促す顔だ。
「必ず約束を果たしてくれるって、心から信頼できる友達がいた爸爸は、多分、すごく幸せだったんだと思う。僕が爸爸の年になった時、僕にも、爸爸にとっての徐叔々みたいな友達がいてくれれば、少なくとも、僕は、すごく幸せだと思う」
徳賢は、無骨な手付きで、天祥の髪の毛をかき回すように、くしゃくしゃと撫でた。こんなふうに、不器用ながらも力強く、父に頭を撫でられたのは、何十年振りだろう。天祥は不意に泣きたいような思いにかられる。
「私の知らぬ間に、お前も、生意気な口を利くようになりおった」
徳賢は、目を細めた。
「お前の言うとおりだ、天祥。栄儀がいたからこそ、子供心にも父は安心して祖国を後にすることができた。思えば、私は栄儀に、とてつもなく重い十字架を背負わせてしまったものよ。子供の頃、栄儀は、医者になるという夢を持っておってな。栄儀の両親は、栄儀が物心付く前に、病気で亡くなって、栄儀は祖父母に育てられたのよ。李家が呼んだ大夫(医者)の診療所に、しょっちゅう顔を出しては、簡単な手伝いもしていた。私や李家の老大が、栄儀に付いて行くこともあったが、真面目に大夫の手伝いをするのは栄儀だけでな。私らの目当ては、もっぱら、大夫の妹で、今で言う看護師のような仕事をしていた阿艶姐(艶姉ちゃん)だった。とにかくキレイな人だったよ。思い起こせば、あれが、私の初恋だったのかも知れんな……。阿艶姐が近くを通ると、白蘭の甘い香りがしたのを、今でも、はっきりと覚えている。今も昔も、美しい女性からは、芳しい香りが、漂い出すのかも知れんな」
夢見るような遠い目をして、知らず知らずの内に、初恋の思い出を、己が息子に語って聞かせてしまったという事実に気付いた徳賢は、さすがにいささかバツが悪そうに、ひとつ咳払いをして、話の軌道を修正しに掛かった。
一方の天祥は、白蘭の香りのする美しい女性、ブリジッド・ウーに思いを馳せつつ、美しい女性からは、芳しい香りが漂い出すのかも知れないという父の言葉に、内心で深く頷いていた。
「まあ、その……そういうわけでだ、栄儀が私との約束を果たすために、諦めなければならなかった夢を、今、私と、お前が、実現しつつある。せめてもの罪滅ぼしだ。栄儀のためにも、お前には、もっともっと良い医者になってもらいたいと思う。ただ、この先、お前が、医者以外に、人生を賭けてでも、実現したいと思える何かを見付けたとしたら、無理に医者を続ける必要はない。父に遠慮は要らん。お前の人生だ、お前の生きたいように生きれば良い」
徳賢が天祥を思う気持ちを理解すればするほどに、天祥は、自分自身が情けなくなる。
大学に進学する時も、どうしても医者になりたくて医学部に進学したわけではない。医者になった今も、十年後はおろか、数年後の医者としてのビジョンすら、思い浮かばない。この先、確固たる目的意識を持って、医者としてやって行く自信もない。かと言って、医者を辞めてしまう度胸もない。
「焦ることはない。今は、目の前にあることを、ひとつひとつ、丁寧にこなしていけば良い。私も栄儀も、そうやって生きて来た」
天祥の心の内を見透かしたように、徳賢が天祥を諭した。天祥が、小さな声で「はい」と答えるのを聞き届けて、徳賢は続けた。
「さて……お前や栄儀と食事でもしたいのは山々なんだが、私は、今晩のフライトで、シンガポールに発たねばならん。そろそろ出掛ける頃合だ」
「シンガポール、ですか?」
何家は、確かシンガポールには、ビジネスの拠点を持っていなかったはずだ。
「去年、シンガポールに拠点を置く新興バイオ医薬品企業に投資して欲しいと頼まれてな。周知の通り、シンガポールは、海外の企業誘致に積極的だし、税制での優遇もあるから、私の側にも、充分なメリットはあった。それに、頼まれたのは、恩を売っておいて損はない相手だった。他業種からの新規参入で、医療・医薬品業界での何家のネーム・バリューと信用が欲しいと言われたよ」
見る見る内に、徳賢の顔が、父親の表情から商売人の表情へと変貌を遂げる。
「明日、シンガポールで、そのバイオ医薬品企業の株主総会と開業一周年のレセプションパーティがある。行かんわけにもいくまいよ」
徳賢が言い終わるのを待っていたかのように、事務長が、車の用意が整ったことを伝えにやって来た。
徳賢は、軽い身のこなしで、ひょいと立ち上がり、背中越しに、天祥に手を振って、六〇一号室にやって来た時と同じ慌しさで出て行った。
(二十四)
いくら徳賢が精力的であるとは言え、事業絡みのすべての会合に、自らが出席できるわけもない。よほど重要な会合以外は、名代を送り込んでいるという実情から推し量れば、今回のシンガポールでの会合は、徳賢の中で、最重点事業に位置付けられていると考えて、まず間違いは無い。
徳賢のいう『恩を売っておいて損はない相手』も、名前を聞けば、きっと誰もが知っているような大物なのだろう。
天祥に商才が無いと思っているのか、もしくは、天祥に商売の苦労をさせたくないという親心からか、徳賢が自ら手掛ける事業について、天祥に詳しく話して聞かせる機会は稀だ。
爸爸のビジネスの相談役は、もっぱら、会社をひとつ潰したくらいでは、顔色ひとつ変えない肝っ玉の据わった媽媽と、爸爸の商才を一番色濃く受け継いでいる一番上の姐々(姉さん)だった。
もう七十年も前に爸爸が日本に渡った理由を、今まで知らなかったのは自分だけで、姐々たちは、もうずっと前から知っていたのかも知れないと、天祥は思い至る。
ようやく天祥にも、父の生い立ちを冷静に受け止められる度量が付いたと、徳賢が判断したのだろう。そして、多分、父の判断は正しかった。取り乱しもせず、父の幼少時の出来事を聞き届けられた自分に、天祥は軽い驚きすら感じていた。
今なら、三年前、日本の大学病院で臨床の仕事をしていた天祥に向かって、蘇州の病院に赴任しろと、徳賢が、いつになく強引に命じた意味がよく分かる。
徳賢は、天祥が祖国の姿を見て、祖国の人々と触れあい、何家のルーツが中華民族であるという事実を自覚することを望んだのだ。
たとえ国籍は日本国籍であっても、たとえ生まれ育った国が日本であっても、たとえ日本語を自由に操るとしても、何家の血脈は、今なお、中華民族に通じているという矜持を、天祥にも持ち続けて欲しいと徳賢は願っている。
天祥自身はと言えば、当然、幼い頃から、自分が純粋な日本人とは、異なる存在であるという自覚は有った。しかし、反面で、自分は中国人であると、胸を張って言い切る自信も無かった。自身のアイデンティティという問題については、目をつぶり、極力、考えないようにして、今までやり過ごして来た。
ごくごくわずかずつではあるが、天祥の意識が変わり始めたのは、蘇州に来て、徐栄儀を始め、病院のスタッフなどと、関わり合いを持つようになってからだ。
中華民族のとしての自覚とか、ましてや中華民族としての矜持など、今の天祥には、まだまだ縁遠いものに感じられたが、少なくとも、何天祥という一人の人間としての立ち位置に考えを巡らせるようにはなったと思う。
何天祥は、自分が何徳賢の息子であるという事実を、今日ほど、誇らしく思った日はなかった。
(二十五)
「この身分証を持って、上海に行け」
栄儀は、こともなげに言い放った。
一昔前なら、嵐の通り過ぎた後には、爽やかな青空が広がったものだが、ここ何年かの異常気象で、梅雨前線などを引き連れた嵐が多発し、嵐が過ぎ去った後にも、なお嵐に負けぬ大雨の続く場合がままある。
今、天祥を取り巻く状況が、正に嵐の後の嵐という状況だった。嵐のような父の来訪ではあったが、父に対する尊敬の念が、より一層深まり、天祥が清清しい秋晴れのような気分になったのも束の間、栄儀という梅雨前線の再登場で、また雲行きが怪しくなって来た。
「身分証って、これ、偽物でしょ?」
かなり精巧に作られているようには見えるが、偽物は偽物だ。
「お前は、北京の総后勤部から来た呂志遠という名の若手幹部の設定だ」
(何だよ、設定って!)
天祥は、叫びたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。人の話は、とりあえず最後まで聞くのが礼儀というものだ。
「総后勤部副部長の常勝利(チャン・ションリー)から、全国の軍医院にあるインフルエンザ・ワクチンをすべて回収して来るように命じられたと言え」
栄儀によれば、常勝利は、梁万全の最大のライバルであるという。
「いやいやいやいや、徐叔々。バレるでしょ? そんなの。北京に確認されれば、ジ・エンドじゃないですか! 余りにも怪しすぎますって」
天祥は、堪らずに口を挟んだ。
「バレるものか。軍医大附属医院の一介の倉庫番ごときが、総后勤部の副部長に、直接確認などできるはずもない。はい、分かりましたと差し出すに決まっておる」
あくまで栄儀は、楽観的だ。
「なら、叔々が、自分で行けば良いじゃないですか」
我ながら、至極、真っ当な意見のような気がした。
「私とて忸怩たる思いよ。自分で動けば、お前なんぞの百倍の働きをする自信はある。だが、私が動くと、大事になる。それは火を見るよりも明らかだ。なぜなら、私は、一年ほど前まで、事実上、この国の最高幹部だった人間だからだ。しかも、不世出のカリスマとまで、呼ばれておった男だぞ」
栄儀が、どこまで本気で言っているのか、よく分からないが、徐栄儀共産党及び国家中央軍事委員会前副主席が、上海の軍医院に出張って行って、インフルエンザ・ワクチンを寄越せと言えば、大騒ぎになるのは確かだろう。
「事務長には、私の方から、何天祥医師の休暇届を出しておいた。決行は明日だ。明日の朝は、病院に出勤する必要はない」
「あ、それは、どうも、ご丁寧に……」
何かを言い返す元気も出ない。
その後も、栄儀は、ぐったりとする天祥に向かって、上海に着いてからの細々とした指示を出し続けた。
「朝八時に、お前の自宅に迎えの車を遣る。幸運を祈っておるぞ」
最後に、栄儀は、ことのほか楽しそうに、天祥にエールを送った。
(二十六)
朝八時きっかりに、天祥のマンション前に、迎えに来たのは、何の変哲もない黒いセダンだったが、一般の車とは、ナンバープレートが違っていた。
一般人の自家用車のナンバープレートは青色だが、迎えに来た黒いセダンのナンバープレートは白かった。白いナンバープレートに書かれている文字は、『京V 〇〇〇三八』だ。
顔も四角ければ、体型も四角い、いがぐり頭の、がたいの良い運転手に、白いナンバープレートの意味を聞くと、軍用のナンバープレートだと言う。『京V』は、共産党中央軍事委員会の略号だそうだ。
「このナンバープレートは、本物なんですかねぇ?」
昨日、栄儀に渡された偽の身分証を掌の中で玩び(もてあそ)ながら、天祥が、ふと頭に浮かんだ素朴な疑問を呈すると、運転手からは、さりげなく本質を突いた答えが返って来た。
「例えば、私が、白いナンバープレートを、自分で作って使っているとします。自分で勝手に作ったナンバープレートですから、もちろん偽造です。が、私が勝手に作ったナンバープレートを、軍事委副主席の陳強国将軍が、本物だと言えば、その時点で、私の偽造したナンバープレートは、本物になります。それが、この国のシステムです」
車に乗り込んでからは、天祥も運転手も、押し黙ったままだった。運転手が、軍に関係のある人物なのか、まったく関係のない人物なのかも、謎のままだ。
高速道路に乗れば、蘇州から、上海の黄浦区にある第二軍医大学第二付属医院――通称・長征医院――までは、一時間半もあれば、到着してしまう。
ベージュ色の外壁に、近未来的な建築意匠が印象的な長征医院は、現在の中国の国力を誇示するかのような超巨大病院だった。
天祥は、もう目と鼻の先に迫っている長征医院を見上げる。もう腹を括るしか無さそうだ。
(二十七)
天祥は、栄儀の指示通り、病院の裏手にある通用口へと向かう。
通用口の傍らにある守衛室では、二十四時間体制で、守衛が、人の出入りを監視している。
守衛は、天祥の姿を認めると、見慣れない奴だと言わんばかりの、訝しげな表情で、天祥を引き止めた。
天祥は、昨日の夜、栄儀から渡された偽の身分証を提示する。
今日のファッションは、我ながら、かなりイケていると思う。シンプルながらも、高級感の透けて見える黒いスーツは、イギリス王室御用達のブランド、ギーブスアンドホークスのオーダーメイドだし、燻し銀のような光沢を放つヘンリー・マックスウェルのビジネスブーツまで決め込んでいるのだから。ティピカルな若手高級官僚を演じている役者のような風情だ。
格好だけは一人前だが、スーツの胸の部分が波打つくらい心臓をドキドキさせている天祥が、役者として大成する見込みは、限りなく薄い。
「北京の総后勤部からですか? こちらでは、連絡を受けておりませんが?」
守衛は、偽身分証を、ためつすがめつしながら言った。
「……今回の来訪目的が、その……かなりデリケートな問題を孕んでおりましてね……できる限り、内密にと……指示されておりますので……」
体中の穴という穴から、一斉に汗が噴き出す。
天祥の内心の焦りを知ってか、知らずか、守衛は、さらに恐ろしいことを言い出した。
「分かりました。別に疑うわけではありませんが、規定ですので、北京に照会させて頂きます」
のっけから、大ピンチだ。大体、あのクソじじいの計画は、最初から、詰めが甘過ぎた。バレたら、拘束されてしまうのだろうか。拷問のような責めを受けるのだろうか。
アドレナリンが噴出するのと、急激に血の気が引くのとを、同時に感じながら、天祥は、立っているのが、やっとだった。
傍らで受話器を手にする守衛の声が、ずいぶんと遠くから、聞こえる気がした。
「……ええ。総后勤部衛生部薬品管理局の秘書の方で、呂志遠同志です。……はい、分かりました」
時計を見れば、ものの三分も経っていないが、天祥にとっては、自分が白髪の老人と化してしまうほどの長い時間に感じられた。
「呂同志。失礼致しました。北京の確認が取れましたので、こちらに記帳を」
さっきまでの怪訝な表情とは打って代わった愛想の良い微笑みを浮かべながら、守衛は、天祥に、来院の記録簿を差し出した。
呂志遠など架空の人物のはずなのに、確認が取れたとは、一体、どういうことなのだろう。さっぱり意味は分からないながらも、どうやら、第一関門は、突破したようだ。
「先ほども申し上げたように、あまり大事にしたくない用件ですので、直接、薬品倉庫の管理者と話をさせて頂きたいんです。ご面倒をお掛けして恐縮ですが、薬品倉庫の管理者を、呼び出して頂けませんか?」
これも栄儀との打ち合わせ通りだ。
守衛は、分かりましたと、快く引き受けてくれた。
(二十八)
守衛からの呼び出しを受けて、天祥の前にやって来たのは、髪の毛の薄い、ずんぐりむっくりの男で、ズボンのベルト通しの部分に、鍵束をじゃらじゃらとぶら下げていた。
顔の輪郭が下ぶくれの上に、出っ歯という、見ようによっては、個性的で愛嬌のある顔立ちをしていたが、黒縁眼鏡の奥に埋もれる小さな目からは、皆目、表情が読み取れない。
ただ血色の良い、艶やかな顔色からは、この男が、見た目よりも、ずいぶんと若いであろう事実が伺えた。おそらく天祥と同年代か、もしくは一つ、二つ年上といったところだろう。
薬品倉庫の鍵を持つ黒縁眼鏡の男は、張宏飛(ジァン・ホンフェイ)と名乗り、無表情なまま、天祥を仰ぎ見た。
長征医院の薬品倉庫を管理するこの黒縁眼鏡に、ワクチン入手計画への加担を要請して、もしも断られた場合、計画自体が、頓挫してしまうのを危惧して、結局、栄儀も司高峰も、事前の根回しを放棄していた。天祥は、張宏飛の前では、中央からやって来た男に、なり切るしかなかった。
「わざわざ北京から、ご苦労様です。それで、今日は、どんなご用件で?」
「まず薬品倉庫に案内して頂きたいんですが……。回収して、成分分析したい薬品が何点かありまして……」
天祥は、声を潜めて、張の耳元で囁いた。
「何か問題でも?」
薬品倉庫は病院の地下に有るらしく、守衛室から、程近い階段を下りながら、張宏飛は抑揚に乏しい小声で聞き返して来たが、
「さあ。私は、ただの使い走りですから。具体的な事情は、よく分かりません」
と、天祥は、当たり障りの無い言い方で、誤魔化した。
張は、無言で薬品倉庫の扉を開けた。消毒液のツーンとした臭いが鼻を突く。
「回収したいのは、どの薬剤だ?」
明らかに張の口調が、きつくなった。抑えていた怒りの感情が、声に漏れ出したという様子だった。
「……インフルエンザ・ワクチンです」
天祥は、努めて冷静な声で、張に告げた。
「どうして、今まで放っておいたんだ?」
張は怒っている。天祥にも、張宏飛の怒りが、はっきりと理解できた。
「現場は、とうに気付いてた。あのワクチンには、とんでもない副作用が有るってことに。あんたらが、もっと早く、回収を命令すべきだったんだ!」
「すみません、報告を受けたのが、ごく最近になってからでしたので」
まさか倉庫番に、怒りをぶつけられるとは、思ってもいなかった。しかし、この長征医院が、つい最近まで、司高峰が勤務していた病院である事実に思いを至らせれば、決して、有り得ない展開ではない。
「あ、いや……こちらこそ、申し訳ありません。あなたのせいではないのに……。実際は、副作用があることに気付きながらも、上の顔色を伺って、ワクチンの使用を継続した現場が、一番、責任を感じるべきなんです」
張は、はっとして、見当違いの相手に向かって、怒りを爆発させてしまったのを恥じ入るように、小さな声で言った。
「あなたのような方の存在は、軍の財産であると思います。軍は、トップダウンの組織ですから、上層部に対して意見することは難しいと思いますが、きっと、現場のあなた方は、あなた方なりに、被害を最小限に抑える努力をして下さったと信じています」
天祥の口から発せられた言葉ではあったが、最早、天祥の言葉ではなかった。栄儀の生霊に体を乗っ取られた気分だ。本当に栄儀が憑依しているのなら、ワクチンを手に入れてしまうまでは憑依していて欲しいような、やはりさっさと体内から出て行って欲しいような、複雑な気分だった。
「いえ……私にできたのは、ワクチンの在庫を隠すことくらいで……。在庫が無ければ、接種のしようもありませんから」
張宏飛は、薬品倉庫の奥まった場所に設置されている古びた薬品棚の鍵を開けた。
中には、ワクチンのアンプルが、何本も保管されていたが、よく見ると、仕入れ元が異なる二種類のワクチンが保管されているようだ。
「問題のあるワクチンは、一種類だけかと思っていましたが?」
怪訝に思った天祥が、張に尋ねた。
「ああ、そのプラスチックの黄色い蓋のアンプルが、問題のワクチンです。アルミ蓋のワクチンは、別途、上層部用に調達されたものです。上層部用のアルミ蓋のワクチンには、今のところ、とりたてて問題は無さそうですが、念のため、設備の整った中央の試験室で分析をして頂ければ……」
張は、淡々と語ってはいるが、司高峰と同じように、軍の上層部に、疑念を抱いていてもおかしくない。天祥扮するこの若い秘書官が、疑念の対象である梁万全の派閥とは、一線を画したポジションにいると、それとなく伝えておく必要があるだろう。
「分かりました。アルミ蓋の方のワクチンも、持って帰ることにしましょう。言うまでもないのですが、私がワクチンを回収に来たことは、どうかご内密に。中央にも、ワクチンの回収に、良い顔をしない方々がおられますので……」
呼吸をするように、口から出任せが、スラスラと出るようになった。激しい動悸も、いつの間にか治まっている。人間の適応能力の高さに驚くばかりだ。
「ありがとうございます。中央が動いて下さって、ホッとしています。早急に原因を解明して、再発防止の措置を講じて頂けるよう、お願いします」
頭を垂れる張宏飛を見て、天祥の良心が、チクリと痛んだ。この善良な倉庫番のためにも、ワクチンの分析を急がなければならない。
(二九)
「良くやった、天祥!」
天祥が、まだ何も言わぬ内から、栄儀は諸手を広げて、六〇一号室に、天祥を迎え入れた。
夕刻の六〇一号室には、東坡肉(トンポーロー)の馥郁たる香りが立ち込めていた。
「ただいま、戻りました」
天祥は、無事に帰って来られた幸せを噛みしめながらも、急激に空腹感を覚えていた。
「いや、しかし、天祥、馬子にも衣装とは、よく言ったものだな。今日のお前は、惚れ惚れするような男子漢(良い男)だ」
栄儀が、褒めているのか、貶しているのか、分からない言い方をする。
「いや、僕は、大抵の場合、男子漢です。鏡に映った自分の姿を見て、自分が女性なら、きっと好きになってしまうだろうと思うほどですから」
柄にも無い軽口を叩ける幸せも噛みしめた。
「今日は、ゆっくり休め。明日から、また忙しくなる」
栄儀は、上機嫌で、龍井茶を啜りつつ、天祥に向かって「吃吧、陳熱吃(温かい内に食べなさい)」と東坡肉を勧める。
勧められるままに、天祥は、かっちりと絞めたネクタイを緩めて、口一杯に、飴色をした中国式豚の角煮をほおばった。肉の芯まで味がしみこみ、深く芳醇な香りが、天祥の嗅覚と味蕾を刺激する。
「美味い! いくらでも、食べられそうですよ。空腹という最良の調味料を差し引いても、叔々の料理は、絶品ですね」
決してお世辞ではない。栄儀の作る料理は、その辺のレストランで食べる料理よりも、よほど美味しかった。
栄儀は、好々爺の面持ちで、天祥を見ている。
「あ、そうそう。今日、ひとつだけ、不思議なことが。偽身分証の呂志遠さんが、本当に、上海に来ていることになってましたよ。守衛さんが、北京まで電話して、確認してましたけど……。どういうことなんですかねぇ? 本当に、呂志遠さんって、中央に在職している人なんですか?」
「知りたいか?」
栄儀が、三日月のような目をして笑いながら、天祥に、種明かしを始めた。
「守衛は、北京なんぞに電話をしておらん。もちろん、守衛自身は、北京に電話をしたと思っているが……。実際は、守衛のかけた電話は、今日、お前を上海まで送っていった運転手の携帯電話に繋がるようになっていた。そうなるように細工をしたのも、あの運転手さ」
「ええ? 本当ですか? そんなことができるんですか? あの運転手さん、何者なんです?」
驚いた天祥は、つまみあげた東坡肉を落としそうになりながら、栄儀に矢継ぎ早に質問を浴びせかける。
「さあて何者かのう。総参謀部第三部(人民解放軍の主にシギント任務を管轄する情報機関)には、情報通信を意のままに操る特殊訓練を受けた軍人が、ごまんとおるようだが……はてさて」
栄儀は、涼しい顔をして、また一口、茶を啜った。
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