オープン・ザ・ドア 2/2
「
レジに立った彼女が千円札を受け取りながら名乗った。
「えっと、水無月さん? 僕は
突然の出来事に驚きながらもなんとか返す。
「
彼女、いや楓は、一瞬目を見開いたあと、少しだけ照れ笑いを浮かべながらお釣りを僕に手渡した。
珈琲二杯で税込み九〇七円。大小八枚の硬貨が手の中でカチャリと踊った。
「あ、ありがとう。僕も光葉でいいし、敬語じゃなくていいよ」
楓のほっそりとした指の感触に驚いて、慌てて硬貨をポケットにねじ込む。
「ふふっ。お礼をいうのはお店の人。いつもご来店、ありがとうございます」
楓はいつもの綺麗なお辞儀をした。
「あはは、そうだね。じゃあ、楓、美味しい珈琲をごちそうさま」
さり気なく名前で呼んでみた。
楓はこらえきれなかったのか、ぷっと小さく噴き出した。
その瞬間、心臓がびっくり箱のピエロみたいに勢いよく跳ねた。もしかして下の名前で呼ぶのは早すぎただろうか? 呼んでいいって言ったのに。罠だった? 心の中でピエロが大きな口をこれでもかと大きく歪ませて嘲笑っている。『お前、やっちまったな。キャハハハハ』うるさい黙れ。
「ふふふっ。わたしは珈琲を届けただけですよ。ごちそうさまは、あそこの熊さんに直接いってね?」
楓はくすくすと笑いながら厨房を指さす。髭面のマスターが難しい顔をしながらドリッパーにお湯を注いでいた。
頬がカッと熱くなった。
「と、とにかくごちそうさま!」
笑われたことと勘違いしたことへの恥ずかしさがごちゃ混ぜになって、僕は慌ててくるりと背中を向けた。
三歩進んで重い樫の木の扉に手をかけると、背中に「光葉?」と優し気な声がかけられた。扉を押す手がピクリと止まる。
「またお越しくださいませ」
振り返ると本物のメイドがいた。
僕は小さく息を吐いて気を落ち着けると、
「また明日」
と努めて冷静に言って扉を押し開いた。カラカラカランとドアベルが鳴る。
店を出て後ろ手に閉めてから、僕は背中を扉に預けてずるずるとしゃがみ込んで大きく息を吐いた。
オレンジ色に染まりきった空を見上げながら、夢じゃないだろうかと思った。扉の向こうでお辞儀をする彼女は、本当に実体があるのだろうか。今一度、扉を開いて確かめたいという衝動に駆られたが、そんな馬鹿な考えはすぐに消え去った。
頭上をゆっくり流れるオレンジ色の雲も、ずっと早鐘を打つ心臓の音も、道路を走る車が撒き散らす排気ガスの臭いも、カラカラに乾いた冬の空気の味も、ポケットにある硬貨の感触も、彼女との会話の内容も、どれもが馬鹿らしいくらい現実だった。
そんな淡い青春の一ページに浸っていると、いつの間にか若いカップルが
「す、すみませんっ。すぐ退きます」
慌てて鞄を掴み、すくっと立ち上がる。一瞬くらっと立ちくらみがした。
カップルが扉を開けて入っていくのを横目で見届けてから、ようやく僕は『クロワッサン』を後にした。
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