シナモンメイプルはどんな味?

椎名 中小

12月17日(月) - 15 days to the last day-

オープン・ザ・ドア 1/2

 放課後。


 僕、楠光葉くすのきみつばはいつものように喫茶店『クロワッサン』に立ち寄り、テーブル席に座って小説を読んでいる。


 アンティークで統一された趣のある小さな喫茶店の名物は、店名と同じクロワッサン。一口かじれば濃厚で甘いバターの味が口の中に広がる。


 ここは隠れた街の人気スポットだ。


 マスターは一見寡黙で職人気質だと思われがちな見た目をしているが、話してみると実に気さくで陽気だ。常連客の中にはマスターとの会話を楽しむことを目的としてやってくる人も多い。僕もそのうちの一人だ。


 マスターが豆から厳選して仕入れた珈琲も人気が高いが、僕はまだ甘くしなくては飲めない。最近ようやく角砂糖ひとつ分もあれば美味しく飲めるようになってきた。高校一年生の冬から約一年間、本を片手に通い詰めた成果だ。そろそろブラックでもいいかな、と実はそわそわしていたりする。


 窓の外に視線を向けると、乾いた冬空にオレンジ色が混じり始めていた。柔らかな色彩を眺めると、活字を読んで緊張したまぶたの筋肉がじんわりと和らぐ。最近は昼の時間がだいぶ短くなったな、とふと思う。


 街並みはクリスマスの飾り付けが佳境かきょうに入っていて、一年の終わりまでのカウントダウンを始めていた。哀れ街中まちじゅうの黒子たちは、あと十日も経たないうちにせっかく着飾った街並みを大慌てで着替えさせるのだろう。そして学校は申し訳程度の冬休みに入り、僕たちはのんびりと年越しを迎える。モラトリアムの特権だ。


「おまたせしました――」


 ぼんやりしていると突然に優しい声色が耳をくすぐった。まだ少しばかりこわばった視線を上げると、メイド服をぴっちりと着こなした年頃は僕と同じくらいの少女が、トレイの上に上品なコーヒーカップを乗せて立っていた。


 驚いたりはしない。珈琲を注文をしたのだから彼女が持ってくるのは当たり前のことだ。小さな喫茶店のホールに立っているのは彼女しかいない。


「ありがとう……ございます」


 絞り出すように言いながら僕は視線を小説にすっと戻した。


「ごゆっくり、どうぞ」


 彼女はそんな僕の失礼な態度にひるむことなく、淀みない定型句を紡いだ。いつもの丁寧なお辞儀が目の端でぼやけて見える。


 コツリ――。


 少し厚めに足元を覆う白革のパンプスが、板張りの床を控えめに鳴らす。一歩退いたその足音を合図にして、甘い香りが珈琲のアロマにふわりと一瞬だけ混じってふっと消えた。


「ふぅ――」


 僕は大きく一息ついてから彼女の後ろ姿を目で追った。


 彼女がこの店で働き出したのは二週間ほど前から。彼女は持ち前の人懐っこい性格と可憐な容姿で、たちまち常連客の間で人気者になった。お客さんが少ない時間帯にはカウンターにマスターと並んで立ち、一緒にお客さんと談笑することも多い。


 僕はと言えば、彼女に初めて話しかけられたときに上手く言葉を返せなかったことで気遅れしてしまって、それからはこうしてテーブル席に座り彼女から距離を取っている。


 僕が彼女を見つめることが出来るのは後ろ姿だけ。毎日通っているのでずいぶんと見慣れてしまった。そんな見慣れたはずの後ろ姿に、僕は既視感きしかんを覚えた。


 既視感きしかん――。


 フランス語でデジャヴュ。


 この現象は強烈な印象と淡い珈琲の香りだけを残して、後ろ髪引かれることなく去ってしまう。アロマに呆けて思考の手綱を手放したが最後、何を思い描こうとしても角砂糖のように闇に溶けていく。熱さを冷ましながらすすると甘くほろ苦い郷愁きょうしゅうの味がする。


 目の前の光景と夢で見た光景とを、脳が重なり合わせたときに起こる現象だ、と何かで読んだことがある。まさにそれは現実で起きる夢との邂逅かいこうであり、別世界への扉が開かれる瞬間でもある。


 さっき覚えた既視感は、きっと夢で見た後ろ姿と重ねたからだ――と気が付いた。僕は何度も夢に見るほど、彼女の後ろ姿に熱い視線を送り続けている。

 

 次こそ――。そう、次こそ。思い切って扉の向こう側へ飛び込もう。


 決意を新たに、僕は小説を傍らに置いてシュガーポットの蓋を開けた。形の良い角砂糖をひとつだけ珈琲に落としスプーンでかき混ぜてから、ぐいっと一気にあおる。まだまだ熱くて苦い。その勢いのままベルを掴んで乱暴に揺らした。


 飲むペースが早いとかこの際そういうのはどうでも良い。この決意がボロボロと崩れる前に彼女に来てほしい。彼女がやってきたらお替りの注文をして、「美味しすぎて一気に飲んじゃったよ。あはは」なんて適当な言葉を吐けばいい。なんだ簡単なことじゃないか。カフェオレとカフェモカの違いを説明する方が遥かに難しい。 


 そんな僕の気持ちとは裏腹に、ベルはチリンと頼りない音を鳴らした。


 呼び鈴を聞きつけて、上質なメイド服に身を包んだ彼女がこちらへゆっくりと向かってくる。姿勢よく歩く様は本物のメイドみたいだ、といつになく冷静に思った。


 いくら店内が温かいとはいえ十二月なのに半袖で素肌の上にカフスが付いていたり、純白のパニエでふんわりと膨らませたスカートが短めだったり、と正統派なメイド服からはずいぶんとかけ離れている。きっと髭面で熊のような図体をしたマスターの趣味だろう。ニーソックスの上部にフリルがあしらわれているのもポイントが高い。ヘッドドレスの意匠も凝っていて細部にも余念がない。


 僕がもう少し大人だったら、マスターと一緒に美味い酒を酌み交わす間柄になったに違いない。そんな馬鹿げたことを考える程度には僕は落ち着いていた。


「お呼びになりましたか?」


 彼女は僕が座る席に辿り着くなり、トレイを抱えたまま可愛らしく小首を傾げて僕を見つめた。肩口の辺りで切り揃えられたつやのある黒髪がふわりと揺れた。

 

 そして、たったそれだけのことで。僕の少しばかり調子に乗った思考が冷や水をぶっ掛けられたかのように一瞬でホワイトアウトした。


「おかわりを……お願いします」


 言い終わらないうちに視線はどんどん下がって、やがて傍らに置いた小説の表紙に落ち着いた。


 この小説の舞台も喫茶店だったなと思い出す。父さんの書棚から適当に拝借した古ぼけた本で、主人公はウェイトレスと熱い一夏を過ごし、恋に落ちる。今更ながらこのチョイスは無かったな、と自分の間の悪さに辟易へきえきした。


「ブレンドですね。少々お待ちください」


 いつものように彼女は丁寧なお辞儀をしてから厨房へ戻るのだろう。僕の心の内を知らぬままに。


 なのに、どうして僕はいつものように振る舞えないのか。いつもの僕は良く口が回る方だ。でも、どうしてか彼女に掛ける魔法の言葉だけは見つからない。


 あとは、いつものように立ち去る彼女の後ろ姿を眺めるだけだ――。


 なかば諦めた心持ちでうなだれていると、ふとコツリという聞き慣れた音がいつまでも鳴らないことに気が付いた。


 おそるおそる視線を上げると、大きく見開かれたくりりとした両目がテーブルの上に熱い視線を注いでいた。


「ど、どうかした?」


 我ながら酷い声だと思った。


 珈琲を飲んだばかりなのに、喉がカラカラに乾いている。珈琲が喉の水分を一緒に流し込んでしまったかのようだ。


 餌を求める鯉のようにパクパクと情けなく口を開けている僕を見て、彼女は「ふふっ」と笑うと、


「わたし、その本すっごく好きなんです」


 テーブルの上を指さしてそうつぶやいた。


「なんだかこの光景に見覚えが――。なんていうんだっけ? こういうの。デブジャ?」


 彼女はそんなトンチンカンな独り言を言いながら形の良い眉を寄せて腕を組み、「うーん」とうなっている。


 初めて見る可愛らしい仕草に僕は思わず頬が緩んだ。


「デジャヴュ、だよ」


 喉が開いて自然と声が出た。


「そうそれ、デジャヴュ! あーすっきりした。――あ。ごめんなさい」


 彼女はぱぁっと輝く笑顔を見せると、話しかけた相手がいつもそっけない態度を取る人物だと思い出したのか、急に縮こまりぺこぺこと頭を下げた。


 いつもは見せない彼女のうろたえる姿を見て、彼女のその姿は自分のせいなのだと僕は小さくため息を吐いた。そのおかげか張り詰めた緊張が一気に緩んだ気がした。


「気にしないでいいよ。それより、この小説を好きなんだって?」


 本を引き寄せながら問いかける。いつもの調子が戻って来た。


「そうなんです! ここのお店って、小説に出てくる喫茶店に雰囲気が似ていると思いません? 静かな店内に薄っすらと昔のロックが流れていて、髭もじゃの熊さんみたいなマスターがとびきり美味しい珈琲を淹れてくれるんです。衣装は――ちょっと恥ずかしいですけど」


 彼女は水を得た魚のように一気にまくしたてて頬を少し赤らめた。


 彼女が僕にここまで話してくれるなんて――。僕の胸はドキリと高鳴った。


「確かに似てるね」


「でしょう? ――わたし、一目惚れしちゃって。だからここで働かせてもらってるんです」


 彼女は幸せそうな表情で遠い目をしている。どうやら仕事中だということは頭からすっぽりと抜けてしまったらしい。二つ隣のテーブル席でチリンと呼び鈴が鳴ったことも気づいていない。


「呼ばれてるよ?」


 降って湧いた幸運を名残惜しく感じつつも、僕は音の出どころを指さして助け船を出した。


 僕にとってはその呼び鈴こそが助け船だった。冷たい海に飛び込んだみたいに、さっきから心臓が正拳突きを止めない。


 彼女ははっとした顔をして、


「あ。ごめんなさい。えっと、その、ありがとうございます」


 先程までのテンションが嘘だったかのようにしおらしくなり、呼び鈴の元へ足早で向かった。そして、女性客と二、三言会話を交わしてからそのまま厨房へ戻っていった。


 僕が突然の出来事にしばらく呆けていると、彼女はいつものように珈琲を持ってきて、いつもと違ってひらひらと手を振ってから去って行った。


 僕は心なしか歩幅の大きい彼女の後ろ姿を眺めながら、ゆっくりと珈琲をすすった。


 角砂糖を入れ忘れた珈琲はとても苦かったけれど、とても芳醇ほうじゅんな味がした。

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