遥のこと 新芽1
大きな入道雲が支配する空に向かって車が進んでいる気がした。母が『車が坂道を登らなくなるから』と切ったエアコンのせいで車内には熱風が吹き込んでいた。
「暑いね…」
思わずこぼした言葉に母は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「家についたらクーラーもあるしアイスもあるから少しだけ我慢してね」
そんな母の表情を見て横田の心も曇った。突き抜けるように青い空がなんだか滑稽に見えてくるようだった。
6歳の横田でも今の自分が置かれている状況が少しだけ分かっていた。それは毎晩のように起きていた両親の大喧嘩から。そして、急に母の実家でこれから生活をしていくと告げられた時の母の無理をした笑顔から。
横田はこれから生活をしていく町へ行った記憶がほとんど無かった。
車が進む道は右を見ても左を見ても山。そして空。こんな道を進んだ先に本当に町なんてあるのだろうか、と横田は妙に不安な気持ちになってきた。
山道を登り切り、しばらくするとポツポツと民家が姿をあらわした。
「…家がある」
街に住んでいた昨日までの自分では絶対に言わないであろう言葉を吐き、心が少し落ち着いた。
それも束の間、また周囲は山に囲まれた。看板には『一ノ市 3㎞』の表示があった。
緑のトンネルを抜けるとお寺に池が見え、その先に大きな集落が見えた。
「町が、…町がある。こんな山の上に」
横田はいつの間にか窓に食い入るようにその光景をじっと見ていた。古い日本家屋がその隙間を空けることなくなだらかな山の斜面に沿って広がっている。
「三成の行く小学校はあの池の向こうの山の上にあるよ」
外の景色を眺める息子の様子に少し安心したのか、母はそう優しく教えてくれた。
車はそんな古い町へ続く細い道へと入っていく。
「は、ね、商店。お店もある」
横田は開いているのかも分からないくらい暗い店の看板を見つけた。
「着いたよ、三成」
車は立派な松の木の下をくぐって立派な家の庭の中に入って止まった。
「…おばあちゃんに会うの緊張する」
そう言う息子の手を優しく握り、母は『大丈夫』とだけ言った。
*****
久しぶりに会う祖母は優しかった。長旅で疲れただろうと用意してくれていた冷たい麦茶を一気に飲み干した横田少年のその姿を見た祖母は何も言わず、柔らかく微笑む。
「あら、アイスを切らしているねえ。ちょっと買ってくるから待っててね」
優しい口調で話しかける祖母に横田はひょこんと椅子から立ち上がり告げた。
「僕、自分で買ってくるよ。ここに来る前にお店を見つけたしさ」
それは慣れない家に来た緊張感から、少しでも外に逃げ出したい気持ちが横田にあったから。
一緒に行くと言ってきた母の言葉を遮り、お金を握りしめると横田は家から飛び出した。はね商店は幼い横田の足でもすぐに着いた。
「…やっているのかな、このお店」
店の引き戸から覗く店内は薄暗く、そこに人がいる気配がなかった。
横田は息を飲み込み、力を込めてゆっくりと戸を開けた。
「ごめんください。…。ごめんくださーい」
横田の声は薄暗い店内に消えていき、返事はない。
やはり誰もいないのかと、もう一度だけ声をかけてみようとしたその時、店の奥から幼い女の子の声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
そして、すぐに横田の前に出てきたのは自分と同い年ほどのおかっぱ頭で目がくりくりとした少女だった。
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