第11話

 俺は実家に帰る予定はなかった。留学していることになっているだけに、ゴールデンウィークだからといってこのタイミングで戻るのは不自然になってしまう。俺が実家に帰るとすれば、夏休みになってからになるだろう。


 連絡はメール経由でまめに行なっているし、何かあればすぐに帰れる距離だ。そこまで足繁く顔を出す必要もないだろう。


 俺は母一人、子一人という環境で育った。物心がついたころから父親はおらず、何者であるのかも聞いたことはない。母は女手一つで俺を育ててくれた。コンビニでバイトを始めたのも、小遣いくらいは自分でどうにかしたい、少しでも学費の足しになればと思ったからだ。母の背中をずっと見てきたからこその発想だった。


 そんな家庭の事情もあり、私立であるこの聖カサブランカ女学院の高い学費を美樹が負担することも条件に含まれていたのには正直ありがたく思ったくらいである。経歴に挙げることはさすがにできないだろうが、勉強ができる環境があるのは助かる。このメリットもあるおかげで、学校に慣れてきた今、そこまで嫌がる必要もないと思えてきたのに――。


「――冠城は、実家に帰らないのか?」


 部屋で二人きり。ぎくしゃくして前のように話すことができないのだが、俺はふだんどおりに勉強を始めていた美樹に声を掛けた。


(そういえば、美樹の家族について、一度も話題にしたことがなかったな)


 自分の話もあまりしなかったが、美樹の家族の話や小さな頃の話なども聞き覚えがない。学院に通う理由は何度もはぐらかされてきたが、何か答えてくれるだろうか。


「帰らないよ。帰れる場所もないし」


「あ、帰らないのか――え?」


 俺が聞き返すように見つめると、背を向けていた美樹はゆっくりとこちらに振り向いた。


「私には血の繋がった家族はいないんだ。だから、この任務がなくなると行き場に困る」


 非常に淡白な口調で、仮面のような感情の読めない顔で続けられた台詞。


(気にしていたのか)


 美樹のそんな反応を見て戸惑った俺は、動揺が表れたままでも会話を続けることにした。


「そ、そうなのか。――いや、あの、まさかそんな事情があったとは知らなかったからさ、悪い」


「謝ることないよ? 事実は事実だから」


 肩を竦めると、美樹は再び背を向けてしまう。


(うぅ……。気まずい……)


 この三日間はずっとこんな調子だ。平日は授業もあるから気が紛れたが、これから始まる連休はどう過ごせばよいというのか。


(こんな感じが続くなら、実家に帰りたい……)


 先が思いやられる。


 項垂れていると、今度は美樹から話しかけてきた。


「――先生に呼ばれていたけど、何を言われたの?」


 机に向かったままの問い。気遣っているのでもなく、興味があるふうでもなく、どこか事務的な口調。


 答えにくい問いだったが、俺は素直に話すことにした。


「仲良くしろって言われた。気まずい関係が続くなら、部屋を分けることも検討するってさ」


「……他は?」


 動揺するんじゃないかと期待していたのだが、促す美樹の声は冷ややかで落ち着いている。先生から聞かされたときの俺の反応とは大違いだ。


「注意されたのはそれだけ」


「そう……。他には何か言ってなかった?」


「例えば?」


「ううん。ないならそれで良い」


 首が振られて、美樹の長いポニーテールが揺れる。


 それを見て、俺は思い出したことを独り言っぽく喋りだす。


「――今さらなんだけどさ、先生方は俺たちが男だってこと、知ってるんだな。考えてみれば当然なんだけどさ」


「ん?」


 ぴくりと美樹の肩が動く。


「だけど、なんで俺たちが許可されているのかは知らんって言ってた。特に問われたりはしなかったがな。俺に聞かれても、答えようがないし」


「……うん。そうだね」


 どこかほっとしたように聞こえる台詞。


「――俺はなんでここにいるんかな……」


 問うつもりはない。ただの独り言だったはずなのに、俺の呟きはさらに続く。


「冠城がいつもどおりに振る舞えなくなったのは俺にも原因があるわけだし、それで冠城がここを追い出されることになったら困ることになるんだよな。――俺にできることがないなら、俺、ここにいちゃいけないんじゃ……」


 だんっ。


「冗談言わないでよっ!」


 美樹が急に立ち上がった。背を向けたまま、両手を机に叩きつけて。


「冠城……?」


「葵、全然わかってないっ!」


「それはお前が何も教えてくれなかったからだろっ!」


「っ……!」


 大声を出されて、俺も思っていたことを叫ぶ。美樹が言葉を詰まらせたのをいいことに、俺はさらにぶちまけた。


「なんで言えないんだ? 協力しろとかなんとか言ってここに連れてきたくせに、なんなんだよっ! 俺を慰みものにするつもりで呼んだなら、そうすりゃいいじゃねぇかっ! どうなんだよ、答えてみろよっ!」


 俺は美樹の後ろに行くと、強引に振り向かせた。美樹の色白の顔が蒼白くなっているのが目に入る。


「葵……」


 肩に手を置いて目を合わさせる。


「なんでも話せよっ! 俺に隠し事するなっ! 友だちだろっ?!」


 そう言う俺の手を払うと、すっと顔が近付いて、唇が触れた。


 ばっ。


 俺は離れると軽く口元を拭う。桜色のリップが手の甲に伸びた。


「バカッ! キスでごまかすなっ!」


「!」


 そこで彼ははっとした顔をして、自身の唇に手をそっと当てた。


「ご、ゴメン……なんか、その……本当にゴメン……ファーストキス、奪っちゃった……」


「冠城?」


 ぽろぽろと、美樹の大きな瞳から涙が零れて落ちた。


「どうしよう……約束、破っちゃった……」


 頭を抱えて、美樹はその場にしゃがみこんでしまった。なんだか様子がおかしい。


「約束って、なんのことなんだ……?」


 俺もしゃがみこみ、顔を覗く。彼の瞳からはどんどんと涙が湧いている。こんなに動揺して自分を見失っている姿は今まで見たことがない。この前のあれだっておかしいと思えたが、今日の方がもっと異様に映った。


「冠城、落ち着けって」


「葵のバカッ……まさかこんなに好きになるだなんて、愛しちゃっているだなんて思ってなかったんだよ……どうしよう……任務から外されちゃうよ……」


「なんでだよ? そんなことで任務から外されるものなのか? それにキスくらい、事故じゃないか。俺は気にしてないぞ?」


 驚きはした。咄嗟に唇を拭った。だけど、不思議なことに嫌な気持ちにはならなかった。


(なんでだ……?)


 美樹の姿が女のコだからだろうか。自分好みの少女の姿だからだろうか。


(――いや、違う。俺は)


 自分が辿り着いた答えが正しいのか確認したい――その気持ちが行動となって現れた。


 彼の顔を上げさせると、俺は美樹の小さな唇に自身の唇を強く押し当てた。


「んんっ……」


 身悶えする美樹を押さえ、俺は彼の身体から力が抜けるまでずっと口付けをした。


「あ、葵……」


 美樹がじっと見上げてくる。離れて顔を見ると、泣いたせいなのか彼の頬は真っ赤に染まっていた。


「俺に無理矢理されたってことなら、任務を続行できるか?」


「…………」


「冠城? 友だちには話せなくても、恋人なら話すことができるんじゃないか?」


 確信と結論。俺はやっと理解した。これなら、偽りなく宣言できる。


 彼の揺れる瞳を見下ろしながら、今の気持ちを素直に言葉に置き換えた。


「俺は、お前が好きだ。カブラギヨシキという一人の人間が好きだ。――だから正直に話せ。全部受け入れて見せる」


 告げた瞬間、美樹は俺の胸に飛び込んできた。押し倒された俺はしっかりと彼を抱き止め、謝罪と告白に静かに耳を傾けたのだった。

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